お江戸物語 藤恋歌

らんふぁ

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十話

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「……太夫、お前様に何かありましたかな?」


いつも彼女の錦絵を描いている絵師、春川柳泉翁が、筆を止めて尋ねた。


彼は六十がらみの飄々とした風貌の老人である。


男の生臭さが無く、口も固いので、気軽に悩み事を打ち明ける遊女も多い。


「……何かとは何でありんす?」


柳泉翁はしみじみと彼女を眺め、一人頷いた。

「……変わられた。確かにその美しい顔には微笑みが浮かんでおるが、儂の絵姿の瞳には、隠しきれぬ苦悩と哀しみが満ち満ちております。太夫がこんな顔を見せるとは……さては、恋ですかな?」


「……!」


秘めていた想いをズバリと言い当てられた白雪太夫。


だが彼女は誇り高い太夫だけに易々と己の内を明かすのは良しとしない。

「……恋とは、また……あちきはいつも恋してありんすよ……主さんがあちきを求めていなさる間中…」そう答えた。


「フフ…“主さん”とは誠に便利な言葉ですな。例え本当に心を寄せていようと、なかろうと、優しげにそう呼ばれれば、本心は男には分からない」


だが流石名人と謳われる絵師だけあって、彼は遊女のその内面まで写し取って見せた。


さすがに鋭い。


「あれ、まあ。今日の柳泉先生は、何やら意地悪な……」ホホホと優雅に笑う。


しかし柳泉はごまかされなかった。

「太夫は最近とみに愁いを帯び、ますます美しくなられたが、儂にはそれが、太夫が心に鎧を覆った姿だと……実際、筆を取って見て分かり申した……。そうしなければ、心が耐えきれず、吉原一の白雪太夫として生きては行けぬ……そんな苦しい恋をなさっている……違いますかな?」


ハッと彼女の目が大きく見開かれる。


ピシッ…....!


老人の言葉のごとく、鎧で覆った心にヒビが入った



……それは氷の鎧。


どんな情熱にも動かされまい、溶かされまい....…心を冷たく保たねばどうして生きて行けるだろう?


だが今、器の縁ギリギリまで溜めた水が盛り上がり、後ー滴で溢れ出すように、絵師の一言で抑えに抑えて来た想いが限界に達した。


……ポロッと真珠のような涙がこぼれ落ち、なめらかな頬を伝わる。


一旦出たらポロポロと止まらない涙……。


「……ああ、そうです。太夫、存分にお泣きなさい。お前様は強いおなごだが、そう張り詰めては身体に障りますぞ」堰を切ったように泣き出した白雪に、絵師は優しく声をかける。


「さてさて、太夫の心を捉えた御仁は、一体どんな方なのか……客のお一人ですかな?」


白雪は首を振った。「……その方とは花魁道中で、ただ見つめ合うだけでありんす」


「それはまた....…」


「わちきが知っているのは、その方のお名前のみ……」


「…驚きました…なら、情どころか言葉すらも交わしてはいないと仰る?」柳泉は半ば呆れたように尋ねた。


「あい。かつて一度だけ……どこで暮らし、何をしているか……わちきは……わちきは……!」そう言うと再び泣き伏した。 


「その御仁は?今も花魁道中に見えるのですかな?」


「いいえ……!いいえ……!もうずっといらっしゃらない……!あの方がどうされているか……このあちきには確かめるすべがありんせん……!」



恋しい男に会えない事が太夫を変えたのか……。



ここまで太夫に想われるとは....…さてさて、その御仁、ほんに果報者と言うべきか……。




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