お江戸物語 藤恋歌

らんふぁ

文字の大きさ
53 / 65

五十三話

しおりを挟む
「太夫?」


「お別れを……」涙がこぼれる。


恩人だものな……納得した藤兵衛は頷いた。「……分かった。鳥山様、家中の方に二人を引き渡しておきますので」


藤兵衛と伊之助が出て行き、部屋の中は太夫と右京だけになった。


彼は太夫を逞しい両腕に抱きしめる。

「……太夫!」


彼女は夢にまで見た腕の中で、啜り泣いた。


薄い着物を通して伝わる、しなやかな肢体……


立ち上る甘やかな香り……


襟足から覗く白い滑らかな肌……


右京は己がカッと熱くなるのを感じた。


このまま、時が止まってしまえば……


だが、それは叶わぬ事……


右京は自分の気持ちを押さえ込むと、太夫のおとがいに手をかけ、涙に濡れた顔を上げさせた。


指で優しく涙を拭き取ってやる。


「……太夫、泣くでない。良い女が台無しぞ」右京は、少しおどけて……微笑んだ。


「……鳥山様」


お別れなのですね……


「鳥山、いえ、右京様、お願いでありんす。わちきの事など、お忘れなんして……早よう……良き奥…方様を……」


そうだ。もう独身は許されまい。


跡継ぎを残す義務がある。


右京は好きな女でなければ、抱かぬと言ってくれたが、あの時とは状況が違うのだ。


彼を己の誓いから解放してやらなければ……


だが、『奥方様を』と言葉にしただけで、この胸が張り裂けてしまいそう……。


もう充分……これ以上は罰が当たると思いながら、何と浅ましい……。


右京は目を見開く。「……俺に奥方だと?」


「あい、右京様はお殿様……可愛い奥方様と立派な若様が必要でありんす。ですから……わちきの事など忘れなんして……」


……嘘つき



嘘つきの白雪太夫。



今まで沢山の嘘をついた……


心にも無い沢山の嘘を……


それは、今まで“主さん”についた沢山の嘘。



心にも無い太夫の嘘、吉原の嘘……


きっと、これは嘘つきの罰なのね……


口にする嘘がこんなに辛いなんて…… 


こんなに切ないなんて……


「…早よう……奥方様を……」


ああ、胸がキリキリと痛むわ……


右京は言葉も無く腕の中の女を見下ろした。



彼女は気づいていない。


その眸が言葉より雄弁に心の内を語る事に……。


自分の為に、もっとも辛い言葉を口にしている事を彼は悟った。


ならば……。


「…そなたもな、良い身請け話があれば受けて幸せになれ。……俺の事など忘れての」


そう言った彼の腕が……微かに震えた。


太夫は悟った。


自分の為に言っているのだと……



彼女は右京に向かって「……あい」と返事し、微笑んだ。



もう、お互いの為にしてやれる事は、自分から解放してやる事だけ……。


右京は太夫をぐっと引き寄せ、唇を重ねる。


……その刹那的な時に込めた想い……


もぎ離すようにすると「……さらばだ。白雪太夫」


太夫は背中を向けた右京に「…おさらばえ……右京様……!」と声をかけた。


もう振り返らず、彼は階下に降りて行く。


背中を追いかけるような、押し殺した啜り泣きを聞きながら……




見世の者が一斉に平伏し、頭を下げる。


刀を右京に返しながら、藤兵衛が報告した。


家中の者達は、大門の外で外記と山城屋を駕籠に押し込め、待機しているとの話だった。


それから板場の男は奉行所に引き渡すと。


頷いた右京。


「世話をかけたの、鈴代屋殿……それに、せっかく、明日 某をもてなそうとしてくれたのに、約束を守れずすまなんだ。おまけに我が藩の重役と出入りの商人が調子に乗り、白雪太夫や吉野にえらい迷惑をかけてしもうた」


右京の重ね重ねの丁寧な詫びに、藤兵衛の方が慌ててしまう。「とんでもございませぬ。こちらこそ鳥山様には、ずっとお世話になりっぱなしで……それなのに、ろくろくお礼も出来ず……。失礼ながら貴方様とは、もう一度酒を酌み交わしたいと心から思いました」


彼は名残惜しそうな笑みを浮かべた「……某も」


別れを惜しみ、藤兵衛は深々と頭を下げた。「どうか、何時までもご壮健で」


「鈴代屋殿も……さらばでござる」


見世の者が見送る中、右京は吉原を後にした。




さらば……


さらば……



白雪……



幸せを掴めよ……


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...