63 / 65
六十三話
しおりを挟む
右京は首や肩をクリクリと回した。「……ああ、清々するわ。全く一人になる暇もないのだ。食事一つにしても毒味毒味でうるそうて叶わん。その間に味噌汁や飯は冷めてしまうし……焼きたての魚や熱々の蕎麦が懐かしい」
「そう思いまして、本日はカツオのお造り、茹でたての空豆に筍飯……他にも旬の食材を吟味しております。サザエのつぼ焼きもございますので、それこそ焼きたてをお召し上がり下さいませ」
聞いただけで食欲をそそる。
目を輝かせた右京は、破顔一笑。「おお、さすが長崎屋殿」
初物のカツオはかなり値が張るのだが、大商人、長崎屋には屁でもない。
春を食べるような筍飯……上に乗せられた木の芽も清々しい。
茹でた空豆も甘く、タラの芽の天ぷらは、独特の香りがほわっと口の中に広がった。
焼きたてのサザエにジュッと醤油がかけられ、香ばしい匂いが部屋中に漂った。
やや苦みがあるワタが何とも言えない風味を醸し出す。
こうるさい毒味役がいないので、尚更美味く感じる。
右京はご馳走を心から堪能し、実に満足だった。
食後の茶を喫している彼に長崎屋が声をかけた。「……対馬守様、そろそろ肝心の藤の花を。……離れにございます」
右京は眉を上げた。「……本当に藤があったのか?」
てっきり藤の花を口実にして、気晴らしに屋敷を出やすくする為だと思っていたからである。
長崎屋は背筋を伸ばしニッと笑った。「手前は、偽りは申しません。商人に大事なのは信用でございますよ」
こちらです、と案内された一室。
既に大きく開かれた障子。
そこから馥郁とした香りが漂っていた。
薄紫の花房がびっしりと垂れる藤棚が見える。
その眺めに右京は感嘆した。「……これは見事だな。長崎屋殿が自慢するだけある」
「やはり藤が好きだと言った家の者が去年、こちらに植え変えたので、根が付くか心配していたのですが、幸い見事に今年花を咲かせました」
長崎屋が部屋の隅に平伏していた女に声をかける「なあ、丹精した甲斐があったな」
「……はい」
「!」右京はハッとした。
その声はまさか…?…
「……苦しゅうない、面をあげよ」
おお、涙を湛えたその顔は……!
「……白雪太夫!」
「はい。太夫ございます」
右京は商人を振り返った。「……長崎屋殿が身請けされていたのか…?」
長崎屋は完爾と微笑む。「……いいえ。ご心配なきよう。身請けしたのは、太夫でございます。自分で自分を落籍致しました。誰憚る事もない自由の身にございます」
白雪太夫が涙ぐんだ。「……長崎屋様が、見世に掛けおうて下さったのでございます」
「話とは藤兵衛さんに、ちょっと考えて欲しい事があるんだがね」
「何をです?」
「対馬守様に、この見世がどれだけの恩義を被っているかって事さ。いいかい?まず朝霧太夫と当時は雪菜だったが....…血迷った若侍に斬られそうになった時、助けて頂いたね?」
藤兵衛は頷いた。
「だろう?あの時二人が死んでたら、どれだけの損害だったと思う?朝霧の身請け代も入らず、今の白雪太夫も居ない」
それは全くその通りなので、鈴代屋は頷くしかない。「……確かに」
更に長崎屋は言う。「次にだ、私と一緒に外に出た白雪太夫を又、山犬浪人から助けて頂いたね?太夫だけじゃない、春菜達三人の花魁もだ。下手すりゃ、斬られたり、かっ攫われて、場末の女郎宿に売り払われてしまう所だよ。おまけに、あの傍若無人の家老の狼藉だね。あのままだと太夫は玩具にされた挙げ句、脅し取るように身請けされていたかも知れない。吉野も無事に済んだし。計算すると、対馬守様によって被らずに済んだ損害は総額幾らになるものかね?」
「……何が言いたいんです?」
「対馬守様のお気持ちを汲んで差し上げられないかって事さ。藤兵衛さんも三度、この私も暗殺者からと山城屋を町奉行所に下げ渡して下さった事で三度あの方に救われたしね」
「……」
「それなのに、恩返しもしないで素知らぬ顔は後生が悪いじゃないか。そこでだ。藤兵衛さん、私が今、対馬守様の藩の物産を扱っているのは知ってるだろう?」
藤兵衛にはまだ話が見えない。「その事と太夫とどんな関係があるんです?」
長崎屋は鈴代屋にニッと笑いかけた。「太夫は目利きだ。その意見を参考に対馬守様の藩の売り上げが伸びたら、その儲け分から太夫の身請け代に回してやろうと思う。太夫自身で自分の身請け代を稼ぐんだ。どうかね?」
藤兵衛はポンと膝を打った。「なる程……!」
「だからね、藤兵衛さんに頼みたいのは、その身請け代を少し勉強してやって欲しいって事だよ。 お前さんの立場じゃ、それが精一杯だろう?後、下手な身請け話は断っておくれ」
藤兵衛は晴れ晴れとした笑顔になった。「さすがに長崎屋さんだ。これなら、みんなが喜ぶ話ですよ。太夫は他の男の世話にならずに自分の才覚で自由になれるし、長崎屋さんは儲かるし、私には身請け代が入って来る。何よりこの事を知ったら、対馬守様が喜んで下さるでしょう」
「……それで自由になったのか……」
「……はい」
「吉原を出てこの1年あまり、太夫は、こちらで扱う対馬守様の藩の物産の売り上げにずっと貢献して参りました」
右京は説明する彼を見て「……何故今まで黙っていたのだ?」と尋ねた。
何度となく上屋敷に出入りしながら……
「そう思いまして、本日はカツオのお造り、茹でたての空豆に筍飯……他にも旬の食材を吟味しております。サザエのつぼ焼きもございますので、それこそ焼きたてをお召し上がり下さいませ」
聞いただけで食欲をそそる。
目を輝かせた右京は、破顔一笑。「おお、さすが長崎屋殿」
初物のカツオはかなり値が張るのだが、大商人、長崎屋には屁でもない。
春を食べるような筍飯……上に乗せられた木の芽も清々しい。
茹でた空豆も甘く、タラの芽の天ぷらは、独特の香りがほわっと口の中に広がった。
焼きたてのサザエにジュッと醤油がかけられ、香ばしい匂いが部屋中に漂った。
やや苦みがあるワタが何とも言えない風味を醸し出す。
こうるさい毒味役がいないので、尚更美味く感じる。
右京はご馳走を心から堪能し、実に満足だった。
食後の茶を喫している彼に長崎屋が声をかけた。「……対馬守様、そろそろ肝心の藤の花を。……離れにございます」
右京は眉を上げた。「……本当に藤があったのか?」
てっきり藤の花を口実にして、気晴らしに屋敷を出やすくする為だと思っていたからである。
長崎屋は背筋を伸ばしニッと笑った。「手前は、偽りは申しません。商人に大事なのは信用でございますよ」
こちらです、と案内された一室。
既に大きく開かれた障子。
そこから馥郁とした香りが漂っていた。
薄紫の花房がびっしりと垂れる藤棚が見える。
その眺めに右京は感嘆した。「……これは見事だな。長崎屋殿が自慢するだけある」
「やはり藤が好きだと言った家の者が去年、こちらに植え変えたので、根が付くか心配していたのですが、幸い見事に今年花を咲かせました」
長崎屋が部屋の隅に平伏していた女に声をかける「なあ、丹精した甲斐があったな」
「……はい」
「!」右京はハッとした。
その声はまさか…?…
「……苦しゅうない、面をあげよ」
おお、涙を湛えたその顔は……!
「……白雪太夫!」
「はい。太夫ございます」
右京は商人を振り返った。「……長崎屋殿が身請けされていたのか…?」
長崎屋は完爾と微笑む。「……いいえ。ご心配なきよう。身請けしたのは、太夫でございます。自分で自分を落籍致しました。誰憚る事もない自由の身にございます」
白雪太夫が涙ぐんだ。「……長崎屋様が、見世に掛けおうて下さったのでございます」
「話とは藤兵衛さんに、ちょっと考えて欲しい事があるんだがね」
「何をです?」
「対馬守様に、この見世がどれだけの恩義を被っているかって事さ。いいかい?まず朝霧太夫と当時は雪菜だったが....…血迷った若侍に斬られそうになった時、助けて頂いたね?」
藤兵衛は頷いた。
「だろう?あの時二人が死んでたら、どれだけの損害だったと思う?朝霧の身請け代も入らず、今の白雪太夫も居ない」
それは全くその通りなので、鈴代屋は頷くしかない。「……確かに」
更に長崎屋は言う。「次にだ、私と一緒に外に出た白雪太夫を又、山犬浪人から助けて頂いたね?太夫だけじゃない、春菜達三人の花魁もだ。下手すりゃ、斬られたり、かっ攫われて、場末の女郎宿に売り払われてしまう所だよ。おまけに、あの傍若無人の家老の狼藉だね。あのままだと太夫は玩具にされた挙げ句、脅し取るように身請けされていたかも知れない。吉野も無事に済んだし。計算すると、対馬守様によって被らずに済んだ損害は総額幾らになるものかね?」
「……何が言いたいんです?」
「対馬守様のお気持ちを汲んで差し上げられないかって事さ。藤兵衛さんも三度、この私も暗殺者からと山城屋を町奉行所に下げ渡して下さった事で三度あの方に救われたしね」
「……」
「それなのに、恩返しもしないで素知らぬ顔は後生が悪いじゃないか。そこでだ。藤兵衛さん、私が今、対馬守様の藩の物産を扱っているのは知ってるだろう?」
藤兵衛にはまだ話が見えない。「その事と太夫とどんな関係があるんです?」
長崎屋は鈴代屋にニッと笑いかけた。「太夫は目利きだ。その意見を参考に対馬守様の藩の売り上げが伸びたら、その儲け分から太夫の身請け代に回してやろうと思う。太夫自身で自分の身請け代を稼ぐんだ。どうかね?」
藤兵衛はポンと膝を打った。「なる程……!」
「だからね、藤兵衛さんに頼みたいのは、その身請け代を少し勉強してやって欲しいって事だよ。 お前さんの立場じゃ、それが精一杯だろう?後、下手な身請け話は断っておくれ」
藤兵衛は晴れ晴れとした笑顔になった。「さすがに長崎屋さんだ。これなら、みんなが喜ぶ話ですよ。太夫は他の男の世話にならずに自分の才覚で自由になれるし、長崎屋さんは儲かるし、私には身請け代が入って来る。何よりこの事を知ったら、対馬守様が喜んで下さるでしょう」
「……それで自由になったのか……」
「……はい」
「吉原を出てこの1年あまり、太夫は、こちらで扱う対馬守様の藩の物産の売り上げにずっと貢献して参りました」
右京は説明する彼を見て「……何故今まで黙っていたのだ?」と尋ねた。
何度となく上屋敷に出入りしながら……
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる