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六十三話
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右京は首や肩をクリクリと回した。「……ああ、清々するわ。全く一人になる暇もないのだ。食事一つにしても毒味毒味でうるそうて叶わん。その間に味噌汁や飯は冷めてしまうし……焼きたての魚や熱々の蕎麦が懐かしい」
「そう思いまして、本日はカツオのお造り、茹でたての空豆に筍飯……他にも旬の食材を吟味しております。サザエのつぼ焼きもございますので、それこそ焼きたてをお召し上がり下さいませ」
聞いただけで食欲をそそる。
目を輝かせた右京は、破顔一笑。「おお、さすが長崎屋殿」
初物のカツオはかなり値が張るのだが、大商人、長崎屋には屁でもない。
春を食べるような筍飯……上に乗せられた木の芽も清々しい。
茹でた空豆も甘く、タラの芽の天ぷらは、独特の香りがほわっと口の中に広がった。
焼きたてのサザエにジュッと醤油がかけられ、香ばしい匂いが部屋中に漂った。
やや苦みがあるワタが何とも言えない風味を醸し出す。
こうるさい毒味役がいないので、尚更美味く感じる。
右京はご馳走を心から堪能し、実に満足だった。
食後の茶を喫している彼に長崎屋が声をかけた。「……対馬守様、そろそろ肝心の藤の花を。……離れにございます」
右京は眉を上げた。「……本当に藤があったのか?」
てっきり藤の花を口実にして、気晴らしに屋敷を出やすくする為だと思っていたからである。
長崎屋は背筋を伸ばしニッと笑った。「手前は、偽りは申しません。商人に大事なのは信用でございますよ」
こちらです、と案内された一室。
既に大きく開かれた障子。
そこから馥郁とした香りが漂っていた。
薄紫の花房がびっしりと垂れる藤棚が見える。
その眺めに右京は感嘆した。「……これは見事だな。長崎屋殿が自慢するだけある」
「やはり藤が好きだと言った家の者が去年、こちらに植え変えたので、根が付くか心配していたのですが、幸い見事に今年花を咲かせました」
長崎屋が部屋の隅に平伏していた女に声をかける「なあ、丹精した甲斐があったな」
「……はい」
「!」右京はハッとした。
その声はまさか…?…
「……苦しゅうない、面をあげよ」
おお、涙を湛えたその顔は……!
「……白雪太夫!」
「はい。太夫ございます」
右京は商人を振り返った。「……長崎屋殿が身請けされていたのか…?」
長崎屋は完爾と微笑む。「……いいえ。ご心配なきよう。身請けしたのは、太夫でございます。自分で自分を落籍致しました。誰憚る事もない自由の身にございます」
白雪太夫が涙ぐんだ。「……長崎屋様が、見世に掛けおうて下さったのでございます」
「話とは藤兵衛さんに、ちょっと考えて欲しい事があるんだがね」
「何をです?」
「対馬守様に、この見世がどれだけの恩義を被っているかって事さ。いいかい?まず朝霧太夫と当時は雪菜だったが....…血迷った若侍に斬られそうになった時、助けて頂いたね?」
藤兵衛は頷いた。
「だろう?あの時二人が死んでたら、どれだけの損害だったと思う?朝霧の身請け代も入らず、今の白雪太夫も居ない」
それは全くその通りなので、鈴代屋は頷くしかない。「……確かに」
更に長崎屋は言う。「次にだ、私と一緒に外に出た白雪太夫を又、山犬浪人から助けて頂いたね?太夫だけじゃない、春菜達三人の花魁もだ。下手すりゃ、斬られたり、かっ攫われて、場末の女郎宿に売り払われてしまう所だよ。おまけに、あの傍若無人の家老の狼藉だね。あのままだと太夫は玩具にされた挙げ句、脅し取るように身請けされていたかも知れない。吉野も無事に済んだし。計算すると、対馬守様によって被らずに済んだ損害は総額幾らになるものかね?」
「……何が言いたいんです?」
「対馬守様のお気持ちを汲んで差し上げられないかって事さ。藤兵衛さんも三度、この私も暗殺者からと山城屋を町奉行所に下げ渡して下さった事で三度あの方に救われたしね」
「……」
「それなのに、恩返しもしないで素知らぬ顔は後生が悪いじゃないか。そこでだ。藤兵衛さん、私が今、対馬守様の藩の物産を扱っているのは知ってるだろう?」
藤兵衛にはまだ話が見えない。「その事と太夫とどんな関係があるんです?」
長崎屋は鈴代屋にニッと笑いかけた。「太夫は目利きだ。その意見を参考に対馬守様の藩の売り上げが伸びたら、その儲け分から太夫の身請け代に回してやろうと思う。太夫自身で自分の身請け代を稼ぐんだ。どうかね?」
藤兵衛はポンと膝を打った。「なる程……!」
「だからね、藤兵衛さんに頼みたいのは、その身請け代を少し勉強してやって欲しいって事だよ。 お前さんの立場じゃ、それが精一杯だろう?後、下手な身請け話は断っておくれ」
藤兵衛は晴れ晴れとした笑顔になった。「さすがに長崎屋さんだ。これなら、みんなが喜ぶ話ですよ。太夫は他の男の世話にならずに自分の才覚で自由になれるし、長崎屋さんは儲かるし、私には身請け代が入って来る。何よりこの事を知ったら、対馬守様が喜んで下さるでしょう」
「……それで自由になったのか……」
「……はい」
「吉原を出てこの1年あまり、太夫は、こちらで扱う対馬守様の藩の物産の売り上げにずっと貢献して参りました」
右京は説明する彼を見て「……何故今まで黙っていたのだ?」と尋ねた。
何度となく上屋敷に出入りしながら……
「そう思いまして、本日はカツオのお造り、茹でたての空豆に筍飯……他にも旬の食材を吟味しております。サザエのつぼ焼きもございますので、それこそ焼きたてをお召し上がり下さいませ」
聞いただけで食欲をそそる。
目を輝かせた右京は、破顔一笑。「おお、さすが長崎屋殿」
初物のカツオはかなり値が張るのだが、大商人、長崎屋には屁でもない。
春を食べるような筍飯……上に乗せられた木の芽も清々しい。
茹でた空豆も甘く、タラの芽の天ぷらは、独特の香りがほわっと口の中に広がった。
焼きたてのサザエにジュッと醤油がかけられ、香ばしい匂いが部屋中に漂った。
やや苦みがあるワタが何とも言えない風味を醸し出す。
こうるさい毒味役がいないので、尚更美味く感じる。
右京はご馳走を心から堪能し、実に満足だった。
食後の茶を喫している彼に長崎屋が声をかけた。「……対馬守様、そろそろ肝心の藤の花を。……離れにございます」
右京は眉を上げた。「……本当に藤があったのか?」
てっきり藤の花を口実にして、気晴らしに屋敷を出やすくする為だと思っていたからである。
長崎屋は背筋を伸ばしニッと笑った。「手前は、偽りは申しません。商人に大事なのは信用でございますよ」
こちらです、と案内された一室。
既に大きく開かれた障子。
そこから馥郁とした香りが漂っていた。
薄紫の花房がびっしりと垂れる藤棚が見える。
その眺めに右京は感嘆した。「……これは見事だな。長崎屋殿が自慢するだけある」
「やはり藤が好きだと言った家の者が去年、こちらに植え変えたので、根が付くか心配していたのですが、幸い見事に今年花を咲かせました」
長崎屋が部屋の隅に平伏していた女に声をかける「なあ、丹精した甲斐があったな」
「……はい」
「!」右京はハッとした。
その声はまさか…?…
「……苦しゅうない、面をあげよ」
おお、涙を湛えたその顔は……!
「……白雪太夫!」
「はい。太夫ございます」
右京は商人を振り返った。「……長崎屋殿が身請けされていたのか…?」
長崎屋は完爾と微笑む。「……いいえ。ご心配なきよう。身請けしたのは、太夫でございます。自分で自分を落籍致しました。誰憚る事もない自由の身にございます」
白雪太夫が涙ぐんだ。「……長崎屋様が、見世に掛けおうて下さったのでございます」
「話とは藤兵衛さんに、ちょっと考えて欲しい事があるんだがね」
「何をです?」
「対馬守様に、この見世がどれだけの恩義を被っているかって事さ。いいかい?まず朝霧太夫と当時は雪菜だったが....…血迷った若侍に斬られそうになった時、助けて頂いたね?」
藤兵衛は頷いた。
「だろう?あの時二人が死んでたら、どれだけの損害だったと思う?朝霧の身請け代も入らず、今の白雪太夫も居ない」
それは全くその通りなので、鈴代屋は頷くしかない。「……確かに」
更に長崎屋は言う。「次にだ、私と一緒に外に出た白雪太夫を又、山犬浪人から助けて頂いたね?太夫だけじゃない、春菜達三人の花魁もだ。下手すりゃ、斬られたり、かっ攫われて、場末の女郎宿に売り払われてしまう所だよ。おまけに、あの傍若無人の家老の狼藉だね。あのままだと太夫は玩具にされた挙げ句、脅し取るように身請けされていたかも知れない。吉野も無事に済んだし。計算すると、対馬守様によって被らずに済んだ損害は総額幾らになるものかね?」
「……何が言いたいんです?」
「対馬守様のお気持ちを汲んで差し上げられないかって事さ。藤兵衛さんも三度、この私も暗殺者からと山城屋を町奉行所に下げ渡して下さった事で三度あの方に救われたしね」
「……」
「それなのに、恩返しもしないで素知らぬ顔は後生が悪いじゃないか。そこでだ。藤兵衛さん、私が今、対馬守様の藩の物産を扱っているのは知ってるだろう?」
藤兵衛にはまだ話が見えない。「その事と太夫とどんな関係があるんです?」
長崎屋は鈴代屋にニッと笑いかけた。「太夫は目利きだ。その意見を参考に対馬守様の藩の売り上げが伸びたら、その儲け分から太夫の身請け代に回してやろうと思う。太夫自身で自分の身請け代を稼ぐんだ。どうかね?」
藤兵衛はポンと膝を打った。「なる程……!」
「だからね、藤兵衛さんに頼みたいのは、その身請け代を少し勉強してやって欲しいって事だよ。 お前さんの立場じゃ、それが精一杯だろう?後、下手な身請け話は断っておくれ」
藤兵衛は晴れ晴れとした笑顔になった。「さすがに長崎屋さんだ。これなら、みんなが喜ぶ話ですよ。太夫は他の男の世話にならずに自分の才覚で自由になれるし、長崎屋さんは儲かるし、私には身請け代が入って来る。何よりこの事を知ったら、対馬守様が喜んで下さるでしょう」
「……それで自由になったのか……」
「……はい」
「吉原を出てこの1年あまり、太夫は、こちらで扱う対馬守様の藩の物産の売り上げにずっと貢献して参りました」
右京は説明する彼を見て「……何故今まで黙っていたのだ?」と尋ねた。
何度となく上屋敷に出入りしながら……
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