子犬は泣かない

佐治尚実

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 地下鉄のホームに日曜の夜の気怠さが漂うところ、茜佑せんすけ真白ましろの新しいスマホに自分の番号を打ち込んでいた。

 ――茜佑の好きな色ってなに。

 真白がこれといった重大な質問でもなさそうな口ぶりで聞いてくる。真白の声はかび臭い風に飛ばされて、遠くに感じた。それに、近くで野球のナイター帰りらしき二人組の声が騒がしく重なる。
 それでも、真白の発した単語で色だけは聞き取れた。

「なんだよそれ、どういう意味だ、やんのか」

 椅子に座り直した茜佑はわざとらしく威圧して見せる。昔から名前をからかわれてきた反射だ。真白だけは信頼しているから、お前だけは俺の地雷を最後まで踏まないよなと怯えた。

「茜佑は名前を指摘されるのを嫌いだったよね……ごめん」

 前の駅で線路に物が落ちたとアナウンスが入り、電車の遅延が確定した。

「俺がそういう話を大っ嫌いなの、お前が一番知っているだろうが」

 つい憎まれ口を叩いてしまう。

「うん」
「次は気をつけろ」

 と、茜佑は発破をかけるも、隣に座る真白の青白い手がちらつく。

 真白は返事をせず、壁の葬式の広告を真っすぐに見ている。同じ年の男にしては常識もあるし、笑いのツボも合う。いつも黒のワイシャツにチノパンで、一度も染めさせていない重たく黒い髪の格好から素朴という言葉が実によく似合う男だ。それも時折、意識を他所に飛ばす癖がある。茜佑はつい不必要に言葉を重ねては、こちらに注意を引き寄せてしまう。

「おい、聞いてんのか」

 茜佑は苛立ちが湧き上がるのを覚え、口の中ののど飴を奥歯で噛み砕く。ざらつく飴の表面が滑らかになるまで舌で撫でる。その甘さで胸が締め付けるように痛んだ。

「……どうだろう、さっきレストランから出たときに見た夕日が、きれいな茜色だったから、僕はやっぱり茜佑が好きなんだなって思っただけ」

 ようやく喋ったかと思えばこれだ。

 真白は普段から人目を憚らず茜佑への好意を表す。地味な容姿のくせして、ここぞと言うときは堂々としている。茜佑はそういうところに惚れた気がする。
 しかし、自我が邪魔して、「俺もだよ」と返せなかった。部屋では思う存分甘えられるのに、外では手すら繋げないでいる。

 今もそうだ。人前で肩を触れさせただけで下半身に熱が走る。年がら年中、真白に欲情している身だからこそ、部屋以外では真白に触れないよう心がけていた。屋外で真っ裸になる奴を見たら誰だってぎょっとするに決まっている。茜佑が公然わいせつ罪で捕まらないよう気を張っているだけだ。それに、真白の前でそれなりに気取りたい思いがあった。

「はあ? 恥ずかしいだろうが、そういうのは部屋だけにしろよ」

 うれしさの裏返しで攻撃しても表情が緩んでしまう。上体を前かがみにしたら、真白が声を上げて笑い出した。

「な、なんだよ」

 茜佑は顔を斜め横にずらして真白を見やる。

 名前の通り、真白は白い肌に赤い唇を大きく開いて笑みを浮かべている。その肌の透明感は、茜佑が仕事以外に日に当てないからであって、真白は元々日に焼けやすい体質だった。

「部屋で話そうとしても、茜佑が口を塞いじゃうだろう」

 茜佑もつられて笑いそうになるが、無様にも下半身が反応して我に返る。

「ば、馬鹿かっ」

 なんとか虚勢を張ろうとするも、声が裏返った。

「茜佑ってこんなにかっこいいのに、同じくらいかわいいよね」

 野球の話をしていた二人組がこちらを見た気がする。
 そうなると茜佑はもう顔を上げられない。心なしか首から上が熱くなる。真白と同居しているマンションでは「お前のほうこそかわいいのに」とすぐに押し倒せるのに、憎たらしい。

「でもね、人のことを馬鹿って言うのは、」

 この調子でいくと話が長くなりそうなので、茜佑は強引に遮った。

「そういう正論はな、時と場合によるんだ」
「茜佑がこうやって僕のために時間を作ってくれたのに、ごめんね」
「くそっかわいいな」

 茜佑は毒づいた。もう隠しようがない。

 野球帽を目深に被った二人組が、「ごちそうさまです」と呟き、隣の乗り口に移動していく。

「名前のことで君を傷つけたいわけじゃないんだ」

 不意に真白がこちらを見た。黒い瞳が自分だけを見ている。茜佑はもうそれだけで十分ではないかと小さく笑い返した。

「分かってればいいんだよ」
「僕はずっと茜佑くんだったし」

 真白がくしゃっとはにかんだ。
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