短編集「なくしもの」

あおみなみ

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バスターミナル

前編 ハーモニカ

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◆コレジャナイ◆

 “どうしてこうなった”
 そう言わざるを得ないものが、青山えみ(35歳)の目の前に突き出された。
 ここは駅前のバスターミナルの窓口である。
 1990年代後半某年、3月の最後の日曜日の夕方で、強くも弱くもない、そこそこの雨が降っていた。

「アンタ、さっきの電話で「巾着」って言ってたよね?」
「確かに言いましたが、こういうことじゃなくて…」

▽▽

 話は1時間前にさかのぼる。
 えみは、もうすぐ小学校に入学予定の娘あすかと2人、駅前の繁華街で買い物をして、3時頃のバスに乗って帰宅した。

 あすかは家に入るに当たり、「鍵、ワタシが開ける~」と張り切っていた。
 
えみは速記士である。
 とある事務所から不定期で仕事を受けていたので、現場に出る場合、自分が不在の家にあすかが帰宅することも増えるだろう。
 今までは幼稚園の延長保育を利用したり、実家の手を借りたりしていたが、基本的に在宅で仕事をしているので、小学校では学童保育は利用できないと言われた。
 しかし、お姉さんぶりたい年頃のあすかが「ひとりでおるすばん」に積極的だったので、最近は鍵っ子の予行演習のつもりで、こんなふうに鍵を開けることが多くなった。

「あ…れ?」
「どうしたの?」
「袋がない!」
「え?」
「鍵が入ってたやつがないの」

 あすかはいつも小さなリュックを背負っていたが、その中に赤と緑の巾着袋を入れていた。
 もともとは同じ配色カラーリングのレインコートを収納していたものだが、そのレインコートが小さくなってしまったので処分し、袋だけ、小物をまとめるのに使っていたのだ。中にはいつも、鍵と迷子カード的なものと、えみの名刺が入っていた。

「持って出たんだよね?」
「と思う…」
「お出かけ先で外に出した?」
「わかんない…」
「わかんないって…」

 いくらしっかり者で鳴らしていても、この辺が6歳児の限界かもしれない。いつになくイライラしている母親の様子も関係しているかもしれないが、記憶はあいまいになり、説明はしどろもどろになってしまう。

「あ、バス。バスの中で出したかもしんない」
「かもしれない…確かじゃないの?」
「わかんないけど…」

 そこでえみは、いったん自分の鍵を使って家に入り、職業別電話帳タウンページでバス会社の電話番号を調べた。
 つながった先は駅前バスターミナルの窓口だったが、無遠慮な話し方の、多分そう若くない女性が出たので事情を説明すると、「あー、そういうの届いてるよ。取りにきな」と言われた。
 そこで再びバスに乗って行ってみた結果、冒頭のような会話をするに至る。

▽▽

 えみの説明は、「赤と緑の袋で、巾着になっている。ひもの部分は緑色で、中には鍵と名刺と定期入れみたいなのものが入っている」だった。
 対して、「そういうの届いてる」と言われて行ってみた現物は、「紫色の、和装小物のような巾着袋(中は見ていない)」

 要するに、巾着の部分しか合っていなかったのだ。

 無理やり解釈すれば、緑を青と表現する年配者は珍しくないし、大ざっぱにくくれば、紫も青寄りの色かもしれない。
 えみはどこか自責的なところがあったので、自分の説明が悪かったと思ってしまったのだが――それにしても赤はどこ行った!混ざっちゃったか!という話だ。

「とにかくこれは、私の言っていたものとは違うみたいです」
「ああ、そうかい。届け物はこれだけだよ」
 こう言われては、長居は無用である。
 後ろに並んでいる人たちにも迷惑がかかってしまうので、退散するしかあるまい。

「お邪魔しました…」
 そう言って、後ろの人に軽く会釈し、その場を離れた。



◆◆音色◆◆

「ママ、ごめんなさい…」
「…いいよ、もう…」

 あすかが委縮しているのが分かるし、これ以上責める気はないが、人の顔色をうかがいがちな(面倒なところがえみに似たね、と、楽天家の夫によく笑われる)あすかは、母親が全然「いいよ、もう」などと思っていないことを感じ取る。
 そしてそれを、えみも感じ取るから、なかなか場の空気が軽くならない。

 えみが子供の頃からあまり様子の変わっていない、古い駅のバスターミナル。
 巨大な四阿あずまやみたいに、屋根のついた島状のものが駅前広場の真ん中にあって、幾つかのバス乗り場が点在しているので、島の周りをバスが走るイメージである。
 信号もゼブラゾーンもないため、タクシーやバスを避けながらダッシュしなければならない。
 何年か後には、隣県の県庁所在地のように立派なペデストリアンデッキができ、その下がバスロータリーになるというが、想像もできない。

 地方都市、などと言われるが、地方いなかは地方だ。
 バスはそうそうしょっちゅうは来ない。
 えみとあすかも、あと20分は雨が降るのを眺めながら、ろくに口も利かずにベンチに座っているだろう。

▽▽

 そのとき、ハーモニカの音色が突如2人の耳に飛び込んできた。
 見ると、二つ隣のバス乗り場のバス待ちベンチの背もたれに、小柄でふっくらした女性(多分老婆)が寄りかかり、小器用に演奏していた。
 ベンチに座っている人たちからは至近距離なので、結構な音量だろうが、えみたちにはちょうどいいボリュームだった。

 東ヨーロッパの絵本に出てきそうな色合いの服を着て、全体的にもこっとしている。何だかかわいらしいなと思ったら、えみは思わず笑っていた。
 そして、それを見たあすかの周りの空気も少し緩んだ。

 ハーモニカの演奏も素晴らしい。日本の童謡、外国の民謡、最近の日本のポップス、映画音楽などなど、えみが知っている曲ばかりだ。1フレーズだけメドレー状態につないで演奏しているのだが、何が飛び出すか分からないところがまた、聞いていてワクワクする。

「今の小学校では、ハーモニカはないのかな」
 小学校のオリエンテーションのとき買ったものの中に、鍵盤ハーモニカはあったがハーモニカはなかったなと、えみは思い出していた。
 大きさからすると、えみが小学生のときに使っていたような単音ではなく、複音ハーモニカらしい。

「ハーモニカ?」
「あのおばあさんが吹いているみたいなやつだよ。息を吸ったり吐いたりしながら音を出すの」
「へえ、カンタンそう」
「音自体は簡単に出るけど、あんなに吹きこなすのは難しいよ」
「そうなの?あす…ワタシもやってみたいな」

 あすかはそれまで自分を「あすかは」と言っていたが、小学生になるに当たり、一人称「わたし」を練習中だった。
「そんなに高くないはずだから、今度楽器屋さん見てみようか?」
「うん、欲しい!」

 ハーモニカおばさん(仮)が、『埴生の宿』を演奏しているとき、えみたちが待っていた乗り場にバスが入ってきた。

▽▽

 えみのイライラの最も大きな原因は、あすかがくし物をしたことではない。
 家の住所の書いてあるもの+鍵という最悪の組み合わせのものをなくしてしまったことだった。
 また、えみはフリーの立場ではあったが、一番お世話になっている事務所の名前で作ってもらった名刺もある。
 もしも拾った人間が悪用することがあれば、自分たちだけでなく、事務所にも迷惑がかかってしまうかもしれない。

 が、どれもこれも、「まだ起きていないこと」への懸念から来るいらだちにほからならない。
 今は「あー、もおっ」と怒るより、「そうなったときどうするか」を考えた方が建設的だなと、ハーモニカの音色を聞いているうちに、だんだんと冷静になっていった。

「ママ、ごめんね」
 あすかがバスの中でまた言ったが、先ほどほどびくついていない。
「うん、これから気をつけてくれればいいよ」

 念のために家の鍵は交換した方がいいかなと考えながらも、だいぶ穏やかな気持ちだった。



◆◆◆夕餉◆◆◆

 台所で夕飯の支度をしていると、あすかがきまり悪そうに、「ママ…あのね…」と言いながら近づいてきた。
「なあに?」
「あの袋――お部屋にあった」
「え?」
「リュックに入れるの、忘れてたみたい」

 あすかは「ママがいないとき、自分で鍵を開ける」ことしか考えていなかったので、開錠の練習はよくしていたが、施錠したことはない。
 だから出かけるときに、自分が鍵を持っていないことに気づかなかったようだ。

「よかったね」
「うん、よかった!」
「で・も。これからも落とし物や忘れ物には気を付けてよね、おねえちゃんなんだから」
 えみがあすかの丸いおでこをピンッと軽くはじいたら、少しだけ小麦粉がついてしまった。
「いてっ」
「はいっ。これからは揚げ物するから危ないよ。お部屋に戻ってなさい」
「はあい」

 あすかはえみのそばで取り留めのない話をするのが大好きだったが、油を使うときだけは「離れてね」と注意されるので、素直にそれに従った。

 今晩のメインディッシュは、夫もあすかも大好きなチキンカツである。

[前編 了]
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