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第3話 皇宮からの来訪者
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第一皇妃の一周忌がやって来た。
街では、朝から帝国の騎士や兵士たちが民に金貨を分け与え、飢えた者たちには食料を与えた。人々は皇帝に感謝し、皇妃の冥福を祈った。
シオンはいつものように依頼を済ませて、街を一回りした。普段は娼館のお姉さま方から迷惑な客の愚痴を聞かされたり、貧民街の道端で起こる喧嘩の仲裁をしたり、怪我や病人を診たりとそれなりに忙しかった。
しかし、今日は街中に金貨や食料を配る騎士や兵士たちの姿があるおかげなのか、目立ったトラブルは見受けられなかった。
今日は早く帰ってゆっくり休もうかと考えていると、貧民街にあるシオンの家の前に馬車が停まっているのが目に入った。
身分を隠しているようだが、この辺りでは滅多にお目に掛かれないような立派な馬車である。これまでに評判を聞きつけて、お忍びでやってくる貴族がいたりしたが、これほどまでに身分の良さを隠しきれていない客は、シオンの知るかぎり初めてだった。
シオンは恐る恐る家に近づいた。
馬車のすぐそばに騎士が立っている。背が高く、筋骨隆々とした黒い短髪の騎士だった。
「こちらにお住いの方ですか?」
シオンに気づいた騎士が訊いてくる。厳つい見た目とは違い、口調は丁寧で穏やかだった。
「そう、ですけど……」
シオンは訝し気に眉をひそめた。
これまでに、この場所を訪れた身分の高い者たちは、いつも見下すような態度を取ってきた。しかし、目の前の騎士はシオンに礼節を弁えた姿勢を見せる。そのことに驚き、そして警戒した。
シオンの返答を聞くと、騎士は窓から馬車の中にいる人物に何かを告げた。騎士の背が高いこともあり、何を言っているのか聞き取ることができなかった。
馬車の扉が開く。中から一人の男性が姿を現した。
金髪の、秀麗な男性だった。背は騎士ほどではないが高いほうで、すらりとしている。しなやかな動きで馬車から降りてくる様からは、無駄な筋肉がついていないことが判った。
まるで御伽噺に出てくる王子様のようだ、とシオンは思った。
身分を隠そうとしているのか騎士と同じ服に身を包んでいるが、それでも気品の高さが感じられた。
秀麗な男は、じっとシオンを見つめる。
碧眼だった。それも、シオンと同じ、空と海が混じり合う碧眼の目。
──あなたの目は、本当にお父さんそっくりね。
ふと、いつかの母親の言葉が思い出された。
たった一度、父について母が語った言葉である。
シオンは父親を知らない。生まれたときから家にはいなかった。母親は女手ひとつで彼女を育てた。貧民街では片親は珍しくないし、同じような境遇の子どもは多かった。
母親とはいつも一緒だったから、寂しくなかった。だから、自分の父親がどんな人なのか考えることもなかった。
だが、この瞬間、シオンはある考えが頭を過ぎった。
──もしかして、この人が……あたしのお父さん?
見つめ合うその時間は、とても長く感じられた。実際には、たった数秒の出来事であったが、シオンには母親と共に過ごした時間と同じ、否、それ以上にも感じられた。
「……名前は?」
シオンを見つめながら、その人は訊いた。
「……シオンです」
「それは愛称だろう。本名は何と言う」
確かに、シオンというのは愛称である。普段はそれを名乗っているのだが、どうして本名でないと知っているのだろうか。
そう思いながらも、彼女は口を開いた。
「オラシオン、です」
途端に、ひどい喉の渇きを感じた。気がつくと両手を握りしめていたし、心臓も激しく打ち鳴らされていた。じわりと背中に汗が浮くのも感じる。
「あ、あの……あなたは?」
不躾ながら、シオンは訊ねた。
身なりや乗ってきた馬車、そばで控えている騎士などから、ある程度のことを推理することはできただろう。しかし、今のシオンにはそんな余裕はどこにもなかった。
なにより、目の前にいるこの人の口から聞きたかった。
「私は、リチャード。リチャード・ラ・プラジネッタ・レムリア」
それを聞いて、シオンは気が遠くなりそうだった。
この国で、その名を知らぬものはいないだろう。
その人は、この国の皇帝だった。
〇
リチャード・ラ・プラジネッタ・レムリア。
前皇帝時代から続く戦を治め、諸外国を統一した英雄。政治的改革にも取り組み、国民から絶大な支持を集める皇帝である。
そんな偉大な人物が今、シオンの目の前にいた。
「どうぞ……」
震える手でお茶を差し出す。家に置いてある茶葉の中でも一番良いものを選んだが、おそらく彼が普段口にしているものとは比べ物にならないだろう。食器も良いものを選んだつもりだが、皇帝が手にすると急におままごとの小道具のように見えてくる。
シオンは向かいの席に着くと、恐る恐る様子を伺う。狭い居間は、長身の大人が二人入ってきただけでも圧迫感を感じる。ガタついたテーブルに、質素な椅子。そこに洗練された気品と聡明さを兼ね備えた皇帝の姿があるという光景に、なんだか違和感を覚えた。
傍らに控えている護衛騎士──グレン・アグリシェント卿にも目を向ける。姿勢よく起立して、微動だにしない。がたいも、体幹も良い。鍛えられていることが一目で判る。時折、シオンに視線をやっているようだが、彼女がそれに気づくと、なんでもないかのように素早く目を逸らした。
「オラシオン」
突然名前を呼ばれて、シオンはびくっと身体を震わせた。
「お前は自分の出自について、グラデシア……母親から聞いたことはあるか?」
グラデシアはシオンの母親の名である。
シオンは首を横に振った。
「あの、母とはどういう関係だったんですか?」
少々、他人行儀だっただろうか。
しかし、二人はまだ赤の他人。お忍びでやって来た皇帝と、貧民街で暮らすしがない呪術師の少女なのだ。彼から血のつながりについて何か言われたわけでもない。
少しくらい不作法でも許されるのではないかと、心の中で言い訳しながら、シオンは上目がちに皇帝に目を向ける。
「そうだな。どこから話すべきか」
リチャードは首をかしげた。そんなちょっとした仕草でも絵になるのだから凄いな、とシオンは素直に称賛する。
「お前の母親が、宮廷魔術師だったことは知っているのか?」
「きゅ……」
──宮廷魔術師だって? 呪術師の枠に収まらない人だとは思っていたけど、まさか宮使いだったなんて。
驚きのあまり声が出ないシオンの様子から、リチャードは彼女が知らなかったということを察したらしい。
「グラデシアは宮廷魔術師として、その手腕を振るっていた。私とも長い付き合いだった」
皇帝の傍で仕えていて、そのうちにお手付きになったということだろうか。
政略結婚は多いが、浮ついた話を聞かないこともあって、皇帝は女性にあまり興味がないという噂があった。しかし案外そうではないのかもしれない、とシオンは想像するが、それよりも気になることがあった。
「どうして、母は宮廷魔術師を辞めたんですか?」
宮廷魔術師は、神秘を扱う者にとって憧れの職、魔術師としての最高の地位と言っても過言ではない。そんな宮廷魔術師だった母が、どうして貧民街に──。
「辞めたのではない。……彼女は突然、姿を消したのだ」
リチャードは表情を曇らせる。
「十五年前、彼女はとある嫌疑をかけられていた。私はシアがやったとは思っていなかったし、今でもその気持ちは変わっていない。しかし、彼女は人知れず皇宮から姿を消した。自分にかけられた疑いを晴らすこともせずにいなくなるなんて、信じられなかった。だが、それが我が子を守るための行動だったのだと知ったのは、それから数年経ってからのことだった」
──我が子。
母は自分を身籠っていたために、それまでの地位や名誉を棄てたのだろうか。シオンの頭にはそんな考えが浮かんだ。
いつも笑顔で、誰にでも親切な母さん。悪いことをするとちゃんと叱ってくれて、判らないことはどうしたらいいか教えてくれた母さん。女手ひとつで育ててくれた自慢の母さん。
しかし、シオンはそれ以前のことを知らない。
母親になる前の彼女のことが、シオンには判らなかった。
「……嫌疑って何ですか?」
シオンは膝の上に置いた両手を、ぎゅっと握りしめた。
どうして母は、そうしなければならなかったのか。そのわけを知りたかった。
「お前は、後宮の呪いについて知っているか?」
皇帝の口からその言葉が出ると、騎士は動揺を隠しきれず僅かに身じろぎした。
後宮の呪い。
それについては、つい最近、聞いたばかりであった。なんてタイミングの良いことか。
「前皇帝時代の妃たちのいざこざが原因の呪いではないか、と聞いています」
「世間ではな。しかし、実際はそうではない」
リチャードは悩ましげに溜め息を吐いた。
「グラデシアは……妃たちに呪いをかけた犯人だと疑われていたんだ」
それを聞いて、シオンは理解した。どうして母が皇宮を去らなければならなかったのか。
まず、彼女が疑われたのは、神秘を扱うことができるから。そして、皇帝の近くにいた数少ない女性だからである。妃の座を手にするためにやったのではないかと思われたのだろう。それだけなら、自らの潔白を証明すれば済んだはずである。
しかし、そのとき彼女は身籠っていた。その事実を知る者は、当時はいなかった。だが、それが露見した場合、彼女への疑惑は深まったことだろう。
権力を欲した魔術師が、妃たちに呪いをかけ、自らの子を次の皇帝に据えようとしているのではないか──と。
皇族に呪いをかけるなど重罪である。一度捕らえられてしまえば、お腹の子も殺されてしまう。だから、グラデシアは何も言わず姿を消したのだ。
だとしても、疑問は残る。
「母がそんなことをするとは思えないけど、もしそうだとして、どうして妃たちを狙ったのでしょうか?」
シオンの言葉に、リチャードは目を細めて口の端を持ち上げた。まるで、彼女の言うことが判っていたかのようだった。
「流石だ」
「……試したんですか?」
シオンは口を尖らせた。彼からは悪意を感じないが、真意を隠されるのは気分の良いものではない。
「皇族の魔力を継ぐ者の、その素質を確かめなければいけなくてな」
悪びれる様子もなく、リチャードは紅茶を啜った。
「魔力?」
「皇族の魔力は特殊で、それを継ぐ者の瞳は通常の碧眼とは異なる」
シオンは思わず目元に手をやる。
空と海を混ぜ合わせた紺碧の瞳。それが皇族の魔力を継ぐ証だった。
「お前は正真正銘、私の娘。レムリアの皇女だ」
リチャードは言い放った。
──覚悟はしてたけど、いざ言われると、落ち着かないな。
シオンは頬を掻く。
しかし、彼はなぜ、今になって父親だと名乗り出たのだろうか。
そもそも、どうやってシオンを見つけ出したのか。
先ほどから判らないことばかりである。シオンはどこから訊いたらいいのか困ってしまった。
「本当はグラデシアが死んだときに迎えにきたかったのだが、そのときはまだ彼女の疑いが晴れていなかった」
「今は晴れたということですか?」
「完全ではないがな」
皇帝の言葉から察するに、彼はグラデシアが姿を消した数年後にはシオンの存在を知り、またグラデシアが亡くなったことも承知している。シオンの知らないところで見られていたのかもしれない。
「グラデシアが死んだ次の年に、第一皇妃が死んだ。表向きには病死ということになっているが、実際は毒を盛られたことによる中毒死だった」
「暗殺ってことですか?」
「そして、それは他の妃たちの死因と同じだった」
言いたいことは判るな、と言わんばかりに皇帝がシオンを見る。
「呪いの正体は何者かによる暗殺であり、母が死んだあとにも同じことが起きたことで容疑者から外された、と……?」
「そういうことだ」
理解が早くて助かる、とリチャードは再び微笑んだ。少年のような快活さを彷彿と笑い方に、シオンはわずかに親近感を覚えた。
「そんな話を、あたしなんかにしてもいいんですか?」
「お前にとっても関係のない話ではないだろう」
妃たちの死については部外秘のはずである。いくらシオンが血の繋がった娘だとしても、気軽に話して良い内容ではないだろう。
しかし当たり前のように言ってのける皇帝。それを見て、シオンの頭には一つの考えが浮かんでいた。そして、おそらく目の前の男も同じことを考えているだろうという予感があった。
「私は、お前を皇族として正式に迎え入れたいと考えている」
──やっぱり。
予感的中。
皇帝の娘であることが明らかになった以上、このままの暮らしが続けられるかと言えば、否である。そして、それは貧民街での暮らしを捨てなければならないということだった。安全とは言い切れないが、貧民街には友や仲間がいて、母親から引き継いだ仕事もある。
しかし、いないと思っていた父親の存在は、シオンにとって無視できるものではなかった。
「悩んでいるようだな」
黙り込んでしまったシオンを見て、リチャードは口を開いた。
「聞いた話では、一人でも十分にやっていけているようだが、私としてもこのまま娘を放っておくわけにもいかない。──だから、こういうのはどうだ?」
リチャードは再び目を細めながら笑った。
「後宮の呪いを解いてみる気はないか?」
リチャードの言葉に、シオンは目を丸くする。彼は愉しげに目を細め、口の端を持ち上げている。
「妃たちの殺害方法は判っているが、お前が言ったように妃たちを狙う理由がはっきりとしない以上、犯人にたどり着くことは難しいだろう。そこで、この一帯で最も腕の立つ呪術師に事態の収拾を依頼するというのは、どうだろうか?」
皇帝は頬杖をついた。
すると、後ろに控えていた騎士が一歩前に出る。
「陛下。僭越ながら、そのような提案をなさるのは如何なものかと……」
彼の複雑そうな表情から、思わず口を挟んでしまったというのが見てとれる。
「決めるのはオラシオンだ」
皇帝は騎士をにらみつけた。申し訳ありません、と騎士は後ろに戻った。
シオンも、この父親は実の娘に向かってなんてことを言うのだろう、とは思った。しかし、皇帝からの依頼に惹かれるのも事実だった。
「つまり、後宮の呪いの真相を明らかにする代わりに、陛下の娘としてこれからの衣食住を保証してくれると?」
「望むなら、然るべき待遇も与えよう」
──今なら、この国で一番凄い人が、あたしの言うことを何でも聞いてくれそうだ。
シオンは笑い出してしまいそうになって、口元を押さえた。
「……じゃあ、この家を残しておいてもらえますか?」
この家は、シオンの母が築き上げたすべてだった。
手放すことはできない。
しかし、ここを離れてしまえば、家は人手に渡るか、空き家のまま廃れていくだろう。それだけは、どうしても許すことができそうにない。
「判った。定期的に人を送って管理させよう」
リチャードの提案は、シオンの手腕が試される仕事だった。
後宮で起きた一連の出来事に犯人がいるのなら、母親を嵌めて皇宮から追い出したのも同じ人物だと考えられる。興味をそそられる仕事であり、かつ母親の汚名を返上することができる。
それに、もしかしたら、母親の死の真相を知ることができるかもしれない──。
「その依頼、お引き受けしましょう」
シオンは、真っ直ぐにリチャードを見た。
空と海を混ぜ合わせた紺碧が交差する。
「これから忙しくなりそうだ」
リチャードは紅茶を飲み干すと、席を立った。
翌日から、シオンは慌ただしかった。
荷物をまとめ、世話になった人たちに挨拶をして回り、薬や治療を必要としている人たちには、信用できる知り合いの薬屋や同業者を紹介した。
贔屓にしてもらっていた娼館のオーナーたちはあまり良い顔をしなかったが、マーティは別れを惜しみながらも、シオンの新たな門出を喜んでくれた。
数日後、皇宮からの迎えがやってきた。
街では、朝から帝国の騎士や兵士たちが民に金貨を分け与え、飢えた者たちには食料を与えた。人々は皇帝に感謝し、皇妃の冥福を祈った。
シオンはいつものように依頼を済ませて、街を一回りした。普段は娼館のお姉さま方から迷惑な客の愚痴を聞かされたり、貧民街の道端で起こる喧嘩の仲裁をしたり、怪我や病人を診たりとそれなりに忙しかった。
しかし、今日は街中に金貨や食料を配る騎士や兵士たちの姿があるおかげなのか、目立ったトラブルは見受けられなかった。
今日は早く帰ってゆっくり休もうかと考えていると、貧民街にあるシオンの家の前に馬車が停まっているのが目に入った。
身分を隠しているようだが、この辺りでは滅多にお目に掛かれないような立派な馬車である。これまでに評判を聞きつけて、お忍びでやってくる貴族がいたりしたが、これほどまでに身分の良さを隠しきれていない客は、シオンの知るかぎり初めてだった。
シオンは恐る恐る家に近づいた。
馬車のすぐそばに騎士が立っている。背が高く、筋骨隆々とした黒い短髪の騎士だった。
「こちらにお住いの方ですか?」
シオンに気づいた騎士が訊いてくる。厳つい見た目とは違い、口調は丁寧で穏やかだった。
「そう、ですけど……」
シオンは訝し気に眉をひそめた。
これまでに、この場所を訪れた身分の高い者たちは、いつも見下すような態度を取ってきた。しかし、目の前の騎士はシオンに礼節を弁えた姿勢を見せる。そのことに驚き、そして警戒した。
シオンの返答を聞くと、騎士は窓から馬車の中にいる人物に何かを告げた。騎士の背が高いこともあり、何を言っているのか聞き取ることができなかった。
馬車の扉が開く。中から一人の男性が姿を現した。
金髪の、秀麗な男性だった。背は騎士ほどではないが高いほうで、すらりとしている。しなやかな動きで馬車から降りてくる様からは、無駄な筋肉がついていないことが判った。
まるで御伽噺に出てくる王子様のようだ、とシオンは思った。
身分を隠そうとしているのか騎士と同じ服に身を包んでいるが、それでも気品の高さが感じられた。
秀麗な男は、じっとシオンを見つめる。
碧眼だった。それも、シオンと同じ、空と海が混じり合う碧眼の目。
──あなたの目は、本当にお父さんそっくりね。
ふと、いつかの母親の言葉が思い出された。
たった一度、父について母が語った言葉である。
シオンは父親を知らない。生まれたときから家にはいなかった。母親は女手ひとつで彼女を育てた。貧民街では片親は珍しくないし、同じような境遇の子どもは多かった。
母親とはいつも一緒だったから、寂しくなかった。だから、自分の父親がどんな人なのか考えることもなかった。
だが、この瞬間、シオンはある考えが頭を過ぎった。
──もしかして、この人が……あたしのお父さん?
見つめ合うその時間は、とても長く感じられた。実際には、たった数秒の出来事であったが、シオンには母親と共に過ごした時間と同じ、否、それ以上にも感じられた。
「……名前は?」
シオンを見つめながら、その人は訊いた。
「……シオンです」
「それは愛称だろう。本名は何と言う」
確かに、シオンというのは愛称である。普段はそれを名乗っているのだが、どうして本名でないと知っているのだろうか。
そう思いながらも、彼女は口を開いた。
「オラシオン、です」
途端に、ひどい喉の渇きを感じた。気がつくと両手を握りしめていたし、心臓も激しく打ち鳴らされていた。じわりと背中に汗が浮くのも感じる。
「あ、あの……あなたは?」
不躾ながら、シオンは訊ねた。
身なりや乗ってきた馬車、そばで控えている騎士などから、ある程度のことを推理することはできただろう。しかし、今のシオンにはそんな余裕はどこにもなかった。
なにより、目の前にいるこの人の口から聞きたかった。
「私は、リチャード。リチャード・ラ・プラジネッタ・レムリア」
それを聞いて、シオンは気が遠くなりそうだった。
この国で、その名を知らぬものはいないだろう。
その人は、この国の皇帝だった。
〇
リチャード・ラ・プラジネッタ・レムリア。
前皇帝時代から続く戦を治め、諸外国を統一した英雄。政治的改革にも取り組み、国民から絶大な支持を集める皇帝である。
そんな偉大な人物が今、シオンの目の前にいた。
「どうぞ……」
震える手でお茶を差し出す。家に置いてある茶葉の中でも一番良いものを選んだが、おそらく彼が普段口にしているものとは比べ物にならないだろう。食器も良いものを選んだつもりだが、皇帝が手にすると急におままごとの小道具のように見えてくる。
シオンは向かいの席に着くと、恐る恐る様子を伺う。狭い居間は、長身の大人が二人入ってきただけでも圧迫感を感じる。ガタついたテーブルに、質素な椅子。そこに洗練された気品と聡明さを兼ね備えた皇帝の姿があるという光景に、なんだか違和感を覚えた。
傍らに控えている護衛騎士──グレン・アグリシェント卿にも目を向ける。姿勢よく起立して、微動だにしない。がたいも、体幹も良い。鍛えられていることが一目で判る。時折、シオンに視線をやっているようだが、彼女がそれに気づくと、なんでもないかのように素早く目を逸らした。
「オラシオン」
突然名前を呼ばれて、シオンはびくっと身体を震わせた。
「お前は自分の出自について、グラデシア……母親から聞いたことはあるか?」
グラデシアはシオンの母親の名である。
シオンは首を横に振った。
「あの、母とはどういう関係だったんですか?」
少々、他人行儀だっただろうか。
しかし、二人はまだ赤の他人。お忍びでやって来た皇帝と、貧民街で暮らすしがない呪術師の少女なのだ。彼から血のつながりについて何か言われたわけでもない。
少しくらい不作法でも許されるのではないかと、心の中で言い訳しながら、シオンは上目がちに皇帝に目を向ける。
「そうだな。どこから話すべきか」
リチャードは首をかしげた。そんなちょっとした仕草でも絵になるのだから凄いな、とシオンは素直に称賛する。
「お前の母親が、宮廷魔術師だったことは知っているのか?」
「きゅ……」
──宮廷魔術師だって? 呪術師の枠に収まらない人だとは思っていたけど、まさか宮使いだったなんて。
驚きのあまり声が出ないシオンの様子から、リチャードは彼女が知らなかったということを察したらしい。
「グラデシアは宮廷魔術師として、その手腕を振るっていた。私とも長い付き合いだった」
皇帝の傍で仕えていて、そのうちにお手付きになったということだろうか。
政略結婚は多いが、浮ついた話を聞かないこともあって、皇帝は女性にあまり興味がないという噂があった。しかし案外そうではないのかもしれない、とシオンは想像するが、それよりも気になることがあった。
「どうして、母は宮廷魔術師を辞めたんですか?」
宮廷魔術師は、神秘を扱う者にとって憧れの職、魔術師としての最高の地位と言っても過言ではない。そんな宮廷魔術師だった母が、どうして貧民街に──。
「辞めたのではない。……彼女は突然、姿を消したのだ」
リチャードは表情を曇らせる。
「十五年前、彼女はとある嫌疑をかけられていた。私はシアがやったとは思っていなかったし、今でもその気持ちは変わっていない。しかし、彼女は人知れず皇宮から姿を消した。自分にかけられた疑いを晴らすこともせずにいなくなるなんて、信じられなかった。だが、それが我が子を守るための行動だったのだと知ったのは、それから数年経ってからのことだった」
──我が子。
母は自分を身籠っていたために、それまでの地位や名誉を棄てたのだろうか。シオンの頭にはそんな考えが浮かんだ。
いつも笑顔で、誰にでも親切な母さん。悪いことをするとちゃんと叱ってくれて、判らないことはどうしたらいいか教えてくれた母さん。女手ひとつで育ててくれた自慢の母さん。
しかし、シオンはそれ以前のことを知らない。
母親になる前の彼女のことが、シオンには判らなかった。
「……嫌疑って何ですか?」
シオンは膝の上に置いた両手を、ぎゅっと握りしめた。
どうして母は、そうしなければならなかったのか。そのわけを知りたかった。
「お前は、後宮の呪いについて知っているか?」
皇帝の口からその言葉が出ると、騎士は動揺を隠しきれず僅かに身じろぎした。
後宮の呪い。
それについては、つい最近、聞いたばかりであった。なんてタイミングの良いことか。
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「世間ではな。しかし、実際はそうではない」
リチャードは悩ましげに溜め息を吐いた。
「グラデシアは……妃たちに呪いをかけた犯人だと疑われていたんだ」
それを聞いて、シオンは理解した。どうして母が皇宮を去らなければならなかったのか。
まず、彼女が疑われたのは、神秘を扱うことができるから。そして、皇帝の近くにいた数少ない女性だからである。妃の座を手にするためにやったのではないかと思われたのだろう。それだけなら、自らの潔白を証明すれば済んだはずである。
しかし、そのとき彼女は身籠っていた。その事実を知る者は、当時はいなかった。だが、それが露見した場合、彼女への疑惑は深まったことだろう。
権力を欲した魔術師が、妃たちに呪いをかけ、自らの子を次の皇帝に据えようとしているのではないか──と。
皇族に呪いをかけるなど重罪である。一度捕らえられてしまえば、お腹の子も殺されてしまう。だから、グラデシアは何も言わず姿を消したのだ。
だとしても、疑問は残る。
「母がそんなことをするとは思えないけど、もしそうだとして、どうして妃たちを狙ったのでしょうか?」
シオンの言葉に、リチャードは目を細めて口の端を持ち上げた。まるで、彼女の言うことが判っていたかのようだった。
「流石だ」
「……試したんですか?」
シオンは口を尖らせた。彼からは悪意を感じないが、真意を隠されるのは気分の良いものではない。
「皇族の魔力を継ぐ者の、その素質を確かめなければいけなくてな」
悪びれる様子もなく、リチャードは紅茶を啜った。
「魔力?」
「皇族の魔力は特殊で、それを継ぐ者の瞳は通常の碧眼とは異なる」
シオンは思わず目元に手をやる。
空と海を混ぜ合わせた紺碧の瞳。それが皇族の魔力を継ぐ証だった。
「お前は正真正銘、私の娘。レムリアの皇女だ」
リチャードは言い放った。
──覚悟はしてたけど、いざ言われると、落ち着かないな。
シオンは頬を掻く。
しかし、彼はなぜ、今になって父親だと名乗り出たのだろうか。
そもそも、どうやってシオンを見つけ出したのか。
先ほどから判らないことばかりである。シオンはどこから訊いたらいいのか困ってしまった。
「本当はグラデシアが死んだときに迎えにきたかったのだが、そのときはまだ彼女の疑いが晴れていなかった」
「今は晴れたということですか?」
「完全ではないがな」
皇帝の言葉から察するに、彼はグラデシアが姿を消した数年後にはシオンの存在を知り、またグラデシアが亡くなったことも承知している。シオンの知らないところで見られていたのかもしれない。
「グラデシアが死んだ次の年に、第一皇妃が死んだ。表向きには病死ということになっているが、実際は毒を盛られたことによる中毒死だった」
「暗殺ってことですか?」
「そして、それは他の妃たちの死因と同じだった」
言いたいことは判るな、と言わんばかりに皇帝がシオンを見る。
「呪いの正体は何者かによる暗殺であり、母が死んだあとにも同じことが起きたことで容疑者から外された、と……?」
「そういうことだ」
理解が早くて助かる、とリチャードは再び微笑んだ。少年のような快活さを彷彿と笑い方に、シオンはわずかに親近感を覚えた。
「そんな話を、あたしなんかにしてもいいんですか?」
「お前にとっても関係のない話ではないだろう」
妃たちの死については部外秘のはずである。いくらシオンが血の繋がった娘だとしても、気軽に話して良い内容ではないだろう。
しかし当たり前のように言ってのける皇帝。それを見て、シオンの頭には一つの考えが浮かんでいた。そして、おそらく目の前の男も同じことを考えているだろうという予感があった。
「私は、お前を皇族として正式に迎え入れたいと考えている」
──やっぱり。
予感的中。
皇帝の娘であることが明らかになった以上、このままの暮らしが続けられるかと言えば、否である。そして、それは貧民街での暮らしを捨てなければならないということだった。安全とは言い切れないが、貧民街には友や仲間がいて、母親から引き継いだ仕事もある。
しかし、いないと思っていた父親の存在は、シオンにとって無視できるものではなかった。
「悩んでいるようだな」
黙り込んでしまったシオンを見て、リチャードは口を開いた。
「聞いた話では、一人でも十分にやっていけているようだが、私としてもこのまま娘を放っておくわけにもいかない。──だから、こういうのはどうだ?」
リチャードは再び目を細めながら笑った。
「後宮の呪いを解いてみる気はないか?」
リチャードの言葉に、シオンは目を丸くする。彼は愉しげに目を細め、口の端を持ち上げている。
「妃たちの殺害方法は判っているが、お前が言ったように妃たちを狙う理由がはっきりとしない以上、犯人にたどり着くことは難しいだろう。そこで、この一帯で最も腕の立つ呪術師に事態の収拾を依頼するというのは、どうだろうか?」
皇帝は頬杖をついた。
すると、後ろに控えていた騎士が一歩前に出る。
「陛下。僭越ながら、そのような提案をなさるのは如何なものかと……」
彼の複雑そうな表情から、思わず口を挟んでしまったというのが見てとれる。
「決めるのはオラシオンだ」
皇帝は騎士をにらみつけた。申し訳ありません、と騎士は後ろに戻った。
シオンも、この父親は実の娘に向かってなんてことを言うのだろう、とは思った。しかし、皇帝からの依頼に惹かれるのも事実だった。
「つまり、後宮の呪いの真相を明らかにする代わりに、陛下の娘としてこれからの衣食住を保証してくれると?」
「望むなら、然るべき待遇も与えよう」
──今なら、この国で一番凄い人が、あたしの言うことを何でも聞いてくれそうだ。
シオンは笑い出してしまいそうになって、口元を押さえた。
「……じゃあ、この家を残しておいてもらえますか?」
この家は、シオンの母が築き上げたすべてだった。
手放すことはできない。
しかし、ここを離れてしまえば、家は人手に渡るか、空き家のまま廃れていくだろう。それだけは、どうしても許すことができそうにない。
「判った。定期的に人を送って管理させよう」
リチャードの提案は、シオンの手腕が試される仕事だった。
後宮で起きた一連の出来事に犯人がいるのなら、母親を嵌めて皇宮から追い出したのも同じ人物だと考えられる。興味をそそられる仕事であり、かつ母親の汚名を返上することができる。
それに、もしかしたら、母親の死の真相を知ることができるかもしれない──。
「その依頼、お引き受けしましょう」
シオンは、真っ直ぐにリチャードを見た。
空と海を混ぜ合わせた紺碧が交差する。
「これから忙しくなりそうだ」
リチャードは紅茶を飲み干すと、席を立った。
翌日から、シオンは慌ただしかった。
荷物をまとめ、世話になった人たちに挨拶をして回り、薬や治療を必要としている人たちには、信用できる知り合いの薬屋や同業者を紹介した。
贔屓にしてもらっていた娼館のオーナーたちはあまり良い顔をしなかったが、マーティは別れを惜しみながらも、シオンの新たな門出を喜んでくれた。
数日後、皇宮からの迎えがやってきた。
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という傲慢な理由で婚約破棄を言い渡す。
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そう断じられ、王宮から追い出された彼女を待っていたのは、
さらに危険な第二王子の婚約話と、国家を揺るがす陰謀だった。
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第二王子は野心のために手段を選ばない。
そして隣国と帝国の影が、静かに国を包囲していく。
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政治の最前線に立つことを選ぶ。
だがそれは、権力を欲したからではない。
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自分がいなくても回るようにするため。
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ざまぁの先で選んだのは、復讐でも栄光でもない、
静かな勝利だった。
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