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おそうじの日
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――3月末日。都内某所。
年季の入ったビルのワンフロア。数十年前は真っ白だったであろう壁は、今は懐かしいフロア内の自席で平気で煙草が吸えた頃のヤニと埃で黄色になっている。掃除にたいして気を使わない社風というのもうかがえ、数年前の大地震で出来た大きな亀裂もそのままになっていた。
2002年に公布された健康増進法により、分煙ムードに飛びついた社長の一声で出来た喫煙ルームから出てきた鬼切は、何が健康だ。煙草を我慢するほうがよっぽど健康に悪い。とは思っていても、絶対に口には出さずただなんとなく不機嫌そうに部下の梅先と紫野を会議室とは名ばかりの簡素な隔離された一室に呼び出した。並んで座る二人を前にして、鬼切がペラっと個人情報満載の新人資料を机に放ると、どれどれと紫野がのぞきこむ。
「なき、クラゲ?」
「バカかおまえは。そんな名前のやつどこにいる。鳴海月 だ」
「バカではないです。どっちにしてもキラキラネームじゃないですか」
クラゲのどこがキラキラネームなのかは別にして、鬼切の口の悪さは華麗に(本人的に)スルーした紫野は、上司を見習ってパイプ椅子の背に大きくもたれた。
「最近、“月” を “るな” って呼ぶくらいじゃキラキラでもないんじゃないか? ピカチューもカイオーガもいるしキキララもキティもいるだろ」
梅先は、丁寧に新人資料に目を通しながら、面倒ごとが大嫌いなとてもお客様にはみせられないふんぞり返った姿の上司と、その上司に対抗でもしているのか、こちらもまたふんぞり返った後輩をちらと見ながら応えた。
「サンリオ強いっすね。サンエックスのリラックマとかすみっコは劣勢なんですかね」
「紫野はリラックマとかとんかつが名前になると思ってるわけ? と言うか、俺はお前がサンリオとサンエックスの違いがわかることにちょっとショックを受けている」
「それぐらいわかりますよ。常識ですよ。ねぇ鬼切さん」
「知るか」
「ですよねー」
何をどうマウントをとりたかったのか紫野のジャブは、鬼切には全くかすりもせず、そもそも自分の興味があること以外は一切遮断する能力の持ち主鬼切に挑んだところで勝てるはずがないと、梅先はいつもこのやりとりを眺めていた。ジャブを撃ち込まれたことすら興味のない(気付いていない)鬼切は、さっさと話を先に進めた。
「今年、うちのグループの新人はこの鳴海だけだから、お前らで面倒みてやれ。中途だって言うから基本的な社会人教育はできてるだろう。今日中に新人の机周りとか掃除したり端末用意したりしとけよ」
「そういやこの前社長が年度末だからフロアの掃除しとけって言ってたの、今日のことでしたっけ?」
紫野の話に梅先がそうそうと頷く。
「紫野、俺の机周り任せたから」
「え? また? 鬼切さん、どうするんすか?」
「俺はもう出かける。向こうから電話する」
「きったねぇなあ」
「なんか言ったか?」
「いえ。なにも」
「そうか。じゃ、解散」
鬼切はさっさと立ち上がると肩で風を切りながら会議室を後にした。ガラス越しのパーテーションの向こうで、宣言通り、すでに外出準備を済ませてあったらしい鬼切は上着と鞄を持って振り返ることなくフロアを出て行った。
「きったねぇよなあ。掃除やら面倒ごとのたびに客先行っちゃうとか。また俺、鬼切さんの机掃除するんすか?」
「ご指名だからな。しかたがない」
梅先はやはりうんうんと頷く。
「だけどさ、紫野、ようやくの後輩じゃないか。面倒みてあげなよ。なんか見てるこっちにまで緊張が伝わるようなド緊張証明写真だけど、かわいいじゃん」
放置されたままの新人資料を梅先が紫野に手渡す。
「可愛いっすかね? 梅先さん優しいから誰でもかわいくなっちゃうでしょ。俺、顔より性格可愛くないとダメっす。それに、これはぺっちゃんこですよ、クラゲちゃん」
「どこみてんだお前は。それに、その発言、確実にセクハラだから。パワハラ上司に感化されるのも気を付けとけよ。鬼切さんデフォルトだと思ってると通報されるぞ。お前」
「鬼切さんはなんでアレでいいんでしょうね?」
「そりゃお前、パワハラのクレームをあの肩で風切るパワーオーラで押さえつけてるからだよ。お前、マジであの人とやり合う気なの? ターミネーターに出てくるT-Xと戦うようなもんだぞ?」
「そうっすよねぇ。マジ、T-Xみたいだもんなあ。俺、無理。むりでーす」
「じゃあ机、掃除するしかないな」
「うへえ」
「俺は自席の整理が終わったら新人のほうやるよ。ウチのグループ、社内に残ってるの俺らしかいないんだから、二人で手分けして他の人たちの席も掃除しなきゃいけないぞ」
「今日はお掃除の日かあ。ジャージで来ればよかった」
梅先は、お前はジャージで山手線のって出社する気なんだな、と思いつつ、机につっぷして呻く後輩に追い討ちをかけた。
「紫野、お前、掃除だけして終われると思うなよ。掃除があろうがなかろうが、鬼切さんからの電話は鳴るぞ。1時間でコード直して送って来いとか平気で言うのはいつものことだろ」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……掃除、だりい……」
梅先はポンポンとダミ声を上げる後輩の背中を叩いた。鬼切からの電話、ご指名はいつだって直下の仕事をしているこの紫野あてで、梅先はなんとなく哀れに思い、そして心底、自分が別の案件に就いていることに感謝していた。有難う。別案件。そして思う。この紫野が言うなきくらげは、果たして自分と同じ仕事に入るのか、はたまたT-Xと呻く男の仕事か。
『グッドラックだよ、くらげちゃん……』
梅先は、この鬼切が放って寄越した個人情報をどうしようかと考えつつ、いつまでもつぶれた蛙のような男を引きずって会議室をあとにした。
年季の入ったビルのワンフロア。数十年前は真っ白だったであろう壁は、今は懐かしいフロア内の自席で平気で煙草が吸えた頃のヤニと埃で黄色になっている。掃除にたいして気を使わない社風というのもうかがえ、数年前の大地震で出来た大きな亀裂もそのままになっていた。
2002年に公布された健康増進法により、分煙ムードに飛びついた社長の一声で出来た喫煙ルームから出てきた鬼切は、何が健康だ。煙草を我慢するほうがよっぽど健康に悪い。とは思っていても、絶対に口には出さずただなんとなく不機嫌そうに部下の梅先と紫野を会議室とは名ばかりの簡素な隔離された一室に呼び出した。並んで座る二人を前にして、鬼切がペラっと個人情報満載の新人資料を机に放ると、どれどれと紫野がのぞきこむ。
「なき、クラゲ?」
「バカかおまえは。そんな名前のやつどこにいる。鳴海月 だ」
「バカではないです。どっちにしてもキラキラネームじゃないですか」
クラゲのどこがキラキラネームなのかは別にして、鬼切の口の悪さは華麗に(本人的に)スルーした紫野は、上司を見習ってパイプ椅子の背に大きくもたれた。
「最近、“月” を “るな” って呼ぶくらいじゃキラキラでもないんじゃないか? ピカチューもカイオーガもいるしキキララもキティもいるだろ」
梅先は、丁寧に新人資料に目を通しながら、面倒ごとが大嫌いなとてもお客様にはみせられないふんぞり返った姿の上司と、その上司に対抗でもしているのか、こちらもまたふんぞり返った後輩をちらと見ながら応えた。
「サンリオ強いっすね。サンエックスのリラックマとかすみっコは劣勢なんですかね」
「紫野はリラックマとかとんかつが名前になると思ってるわけ? と言うか、俺はお前がサンリオとサンエックスの違いがわかることにちょっとショックを受けている」
「それぐらいわかりますよ。常識ですよ。ねぇ鬼切さん」
「知るか」
「ですよねー」
何をどうマウントをとりたかったのか紫野のジャブは、鬼切には全くかすりもせず、そもそも自分の興味があること以外は一切遮断する能力の持ち主鬼切に挑んだところで勝てるはずがないと、梅先はいつもこのやりとりを眺めていた。ジャブを撃ち込まれたことすら興味のない(気付いていない)鬼切は、さっさと話を先に進めた。
「今年、うちのグループの新人はこの鳴海だけだから、お前らで面倒みてやれ。中途だって言うから基本的な社会人教育はできてるだろう。今日中に新人の机周りとか掃除したり端末用意したりしとけよ」
「そういやこの前社長が年度末だからフロアの掃除しとけって言ってたの、今日のことでしたっけ?」
紫野の話に梅先がそうそうと頷く。
「紫野、俺の机周り任せたから」
「え? また? 鬼切さん、どうするんすか?」
「俺はもう出かける。向こうから電話する」
「きったねぇなあ」
「なんか言ったか?」
「いえ。なにも」
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鬼切はさっさと立ち上がると肩で風を切りながら会議室を後にした。ガラス越しのパーテーションの向こうで、宣言通り、すでに外出準備を済ませてあったらしい鬼切は上着と鞄を持って振り返ることなくフロアを出て行った。
「きったねぇよなあ。掃除やら面倒ごとのたびに客先行っちゃうとか。また俺、鬼切さんの机掃除するんすか?」
「ご指名だからな。しかたがない」
梅先はやはりうんうんと頷く。
「だけどさ、紫野、ようやくの後輩じゃないか。面倒みてあげなよ。なんか見てるこっちにまで緊張が伝わるようなド緊張証明写真だけど、かわいいじゃん」
放置されたままの新人資料を梅先が紫野に手渡す。
「可愛いっすかね? 梅先さん優しいから誰でもかわいくなっちゃうでしょ。俺、顔より性格可愛くないとダメっす。それに、これはぺっちゃんこですよ、クラゲちゃん」
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「鬼切さんはなんでアレでいいんでしょうね?」
「そりゃお前、パワハラのクレームをあの肩で風切るパワーオーラで押さえつけてるからだよ。お前、マジであの人とやり合う気なの? ターミネーターに出てくるT-Xと戦うようなもんだぞ?」
「そうっすよねぇ。マジ、T-Xみたいだもんなあ。俺、無理。むりでーす」
「じゃあ机、掃除するしかないな」
「うへえ」
「俺は自席の整理が終わったら新人のほうやるよ。ウチのグループ、社内に残ってるの俺らしかいないんだから、二人で手分けして他の人たちの席も掃除しなきゃいけないぞ」
「今日はお掃除の日かあ。ジャージで来ればよかった」
梅先は、お前はジャージで山手線のって出社する気なんだな、と思いつつ、机につっぷして呻く後輩に追い討ちをかけた。
「紫野、お前、掃除だけして終われると思うなよ。掃除があろうがなかろうが、鬼切さんからの電話は鳴るぞ。1時間でコード直して送って来いとか平気で言うのはいつものことだろ」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……掃除、だりい……」
梅先はポンポンとダミ声を上げる後輩の背中を叩いた。鬼切からの電話、ご指名はいつだって直下の仕事をしているこの紫野あてで、梅先はなんとなく哀れに思い、そして心底、自分が別の案件に就いていることに感謝していた。有難う。別案件。そして思う。この紫野が言うなきくらげは、果たして自分と同じ仕事に入るのか、はたまたT-Xと呻く男の仕事か。
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