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入社日その朝の世界

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――4月。都内某所。

 目覚まし時計の音に起こされる。お気に入りの時計はカタツムリの形をしていて、ぶんちゃかぶんちゃか賑やかな曲を流す。手を伸ばしてその背中に乗るテントウムシを押して演奏を止めると途端に静かになった部屋と肌触りの良い布団から二度寝の誘いがやってくる。誘惑にくじけそうになるが、今日が初出社であることを思い出しがばりと起きた。


「おはようございます」
部屋から出てきた科戸さんに朝の挨拶をすると、仕事終わりなのかバスローブ姿でお風呂上りのいいにおいをさせながら「おはヨ」ときらきらした光の入るリビングに降りて来た。
「科戸さん、朝ごはん今日はどうしますか? パンもお米もどちらも対応できますよ」
「ナルちゃん……いいお嫁さんになるわー」
「いえ、僕はお婿さんになりたいんですけど」
「どっちでもいいわー」
「よくないです」
「いいの」
「はい」
断言する科戸さんに抵抗するのはやめて、僕はリクエスト通りコンチネンタル・ブレックファストの用意を始めた。僕も今日は、米&納豆&鮭、卵焼きの鉄壁の和朝食ではなく、オーダーの来たメニューに自分のスクランブルエッグを加えて、アメリカン・ブレックファストにすることにした。科戸さんは欠伸を手で隠しながらテーブルにつくと新聞を広げて読み始めた。その前にクオリティシーズンのヌワラエリアのポットと砂時計を置く。
「科戸さんいいんですか? ホットミールなしで」
二人分のカップとソーサーを並べながら尋ねる。
「いいのよ。朝からそんなに食べられないわ。お子様と違って」
お子様?
「気にしないで」
新聞から顔をのぞかせにこりと笑顔を向けられた僕はキッチンに戻って卵の用意を始めた。不思議と科戸さんは砂の最後の一粒が落ちると同時に新聞を机に置きポットから紅茶を注いでカップを口元に寄せた。

いいなあ。なんか、そういう何気ない力ってかっこいい……。

僕はいつも極めて一般市民的思いでその姿を眺めていた。なぜだか僕の周りには、僕の力の皆無さに反比例して時空を超えてもあまりあるほど壮大な力を持ち合わせた方たちがいらっしゃる。情報省の “なんでもやります課” のデスクにいる時はそこまで感じない果ての無い隔たり……。あ。初出社前に、なんだかいじけた気持ちでいっぱいになりそう。
「ナルちゃん、本当によく仕込まれてるわね。紅茶の温度も香りも完璧よ」
卑屈を嫌う科戸さんの声にはっと我に返る。
「それはもう、ちょ……」
刹那、僕は先日の惨劇を思い出した。学習したのだ。
「チョ?」
僕の斜め下に避けた視線を科戸さんの目が追いかけてくる。
「ちょーうどよい頃合でよかったです」
逃げるのをやめた僕が科戸さんの目を見てまっすぐ答えると、良く出来ましたといわんばかりの笑顔が返って来たので僕も笑ってみた。二人の静かな笑いが、柔らかい光で満たされ心地よい風の入るリビングに響いた。もう、なんだこれ。


 二人で平和な朝食を終えて後片付けをした僕は部屋に戻って着替え、鞄とトレンチコートを持ってリビングのソファでTVを見始めた科戸さんに声をかけた。
「科戸さん、僕、そろそろ出ますね」
「お待ち」
「はい」
「寝癖。伸びた分が直ってないわヨ」
「! 直してきます!」
そうだった。少し前に通っていた学校もどき(訓練校)が終わってから今日まで、女性の身体になる必要がなかったから、うっかりしてた。頭髪、伸びるんだった。慌てて洗面所に飛び込もうとした僕を科戸さんが止めた。
「おいで。直してあげる」
「ありがとうございます」
科戸さんは僕をソファのヘリに座らせた。

「しかし地味よねぇ。このスーツ。もっといいの持ってるじゃない」
「最初は地味目な方がいいかと。でもこれ就活にも使えましたし新入社員って感じもしますし、変に目立っても面倒そうで困ります」
「まあそうね。いきなりブランドスーツ身に付けて行くような会社でもなさそうだし」
「いきなりもなにも、そんな高級スーツ着てる人、一人も見ませんでしたよ」
「お姫サマ、いるんじゃないの?」
「いらっしゃるとは思いますが……いえ、いらっしゃらないと困るんですけど……面接のときにはそれらしい方にはお会いしませんでした」
「……なるほどねェ……でもナルちゃん、女の子の服なれたものね」
「そうでしょうか? ネクタイがないので胸元がスースーするのが気になりますが」
「情報省のユニフォームからしたら何だってスースーするんじゃないの? スカートなんだし」
「あ、それは慣れました。このストッキングと言うやつがなかなか手強かったですけど」
僕は足を持ち上げて見せてみた。最近は伝線させることもあまりない。伝線しづらいものを選んで買ってるんだけど。最初はひどかった。ストッキングで経費を使い切ったらどうしようかと本気で悩んだ。びっくりしたのは、ストッキングを履いたまま虫除けスプレーをかけたら、その部分が一瞬で禿げたときだ。なんであんなことになったのか今でも不可解。今年の夏は気を付けよう。

「変なところで順応力高いのね。って言うか足おろしなさい、女子」
「すみません」といいつつも、ストッキングのつま先が微妙にずれているのが気になって手を伸ばした。
「アラ? その時計……」
伸ばした手の袖口から見えた時計を言っているらしい。

「これは就職祝い?に、ちょ……」
「チョ?」
「……ちょっといいでしょ?」
科戸さんの眉毛が器用に片方持ち上がる。

「そう言えばピアスなんていつあけたの?」
寝癖を直したついでに髪を結うことにしたらしい科戸さんは持ち上げた髪の隙間から見える小さな赤い石を言っているらしい。
「これは緊急時用とのことで任務中は身に付けるようにとちょ……」
「チョ?」
「……ちょっと痛かったです」
「そう」
「はい」
穏やかに、平和に、頭髪を無事に守って出社するため、僕は可能な限りの清々しい笑顔を作ってみた。
「はい。出来た」
「有難うございます」
「リボンでもつけようかしら。可愛いの、あるのヨ~」
「謹んでお断り申し上げます。それでは行って参ります」
いざ出陣――これはこの世界に来てはまった大河ドラマで覚えた言葉だ――と、鞄を手にした僕を、科戸さんが再び制止した。
「待ちなさい」
「?」
「これ」
「なんでしょう、これ」
「見ればわかるでしょ。眼鏡よ」
確かにどこからどうみても黒縁の眼鏡がそこにある。それはわかる。
「僕は視力は悪くありませんが。20.0ぐらいは見えると思うんですけど」
「それがまずいって言ってんのよ。ほんの数ヶ月前に、訓練中の慎ましい親睦会(?)か何かに出掛けて行って、うっかり人類度外視の裸眼視力で物見て電波受信してるって言われてなかったかしら? 天然へっぽこちゃんはこれだから……」
天然へっぽこ?

「これかけてれば1.2ぐらいになるわ。透視力だの地獄耳だの変な噂たてられたら困るでショ。電波受信中ぐらいなら天然ちゃんか宇宙人でなんとかなるかもしれないけど」
「宇宙人はまずいです! いきなりバレてますよ!」
あわあわした僕に科戸さんは溜息をついて「言葉のアヤって覚えてちょーだい」と言い「それに」と続けた。
「それに?」
「変態胸どっきゅん萌え死にしちまえには、ちびっこぺったんめがねっこ、でしょ? そういう相場なの。決まってるの」
え? 相場? どのような? 変態って?

?を頭上に乱発させている僕を、科戸さんは「いいの。いいの。天然ちゃんは気にしないで。それよりもう出ないと遅刻するわよ」と玄関まで背中を押し最後に「頑張ってね」と笑顔で外へと送り出した。

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