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逃亡した世界
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もしかしたら忘却の魔法をかけられた二人をよそに、僕は廊下に出て行ったアレが、ボスだというアレが、調査対象かも知れないという受け入れ難い、出来ることなら断固拒否させて頂きたい現実のアレが、いったい今何をしているのか、どうなったのか、これからどうなるかと気が気ではなかった僕の耳に、ピシリという音が聴こえた。
どうやらその音はオタク談を本人抜きで一件落着した二人の間に走ったらしい。間と言うか、奇妙な音を出したのは、茶山さんからの情報からすると、常に浮ついた男性、紫野さんの方だったけど。そしてその音の正体、紫野さんにヒビを入れたのは、すっと冷めた梅先さんの「ところで紫野。新人教育資料の件、どうした?」真顔の一言だった。
あ。浮ついた方、外殻にヒビ入ってますよ。それ、早く塞がないとまたなんか出てきちゃいますよ。ほんとこの紫野さんと言う方、色々特技があるんですね。でも全然うらやましくない。
その特段うらやましくもない特技がある紫野さんに梅先さんは静かに、どこか微笑みさえ浮かべているような顔で続けた。
「まさかお前、外回りに出されたぐらいで鬼切さんがその件忘れてるなんて、グラブ・ジャムンを頬張りながらシロップを1リットル一気のみするようなそんな甘い考えに酔ってないよね?」
グラブ・ジャムン? なんでしょう、それ? あ!
紫野さんのヒビはまた音を立てて悪化した。
紫野さんはひび割れた箇所から暗黒物質でも垂れ流しそうな絶望感を伴って、ふらふらと俯き震える手で自席パソコンのマウスを左右に動かした。ディスプレイの電源が供給されロックもかかっていない画面を照らし出した。そこには、大きくメモ帳が開かれて何行かの文字が書かれていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新人が今日やること
パソコンのセットアップ
ネットワーク接続
アカウント登録
メール設定とテストする
ソフト探す
ソフト入れる
コーヒー教え
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「紫野……まさか、これが……?」
梅先さんの声に、コクリと紫野さんは頷いた。青ざめた顔は下を向き、その表情を見ることは出来ない。そして梅先さんもまた、紫野さんと同じく絶望したような顔色になった。この勢いで二人して地下深くから地縛霊でも呼び出しそうな勢いだ。変なモノとか呼ばないで下さいね。お願いですから。面倒ごとは困りますっ!
「切迫した状況に追い詰められた危機感と恐怖は感じられるけど、これを新人教育資料と言い張るには相当の……」
新人がやること? つまり僕がやること? 資料? どれが? ……これが?!
最後の行にいたっては、もう小学生の、しかも低学年のお手伝い一覧みたいだ。そもそもコーヒー教えってなんだろう? コーヒーの教え? バリスタ講義でもあるんだろうか。
「紫野。悪いことは言わない。もうあと数分もすれば戻って来るであろう鬼切さんは、一先ず俺が時間を稼ぐから、お前はどこか隠れる場所を見つけてまともな新人教育資料を作るか、他の選択肢、データが消えた等の言い訳を考えるか、地球の裏側にでも逃亡するか、を選択して実行に移せ。いいか。俺たちは納期が近いんだ。わかるな」
「梅先さん……」
涙でもこらえてそうな紫野さんの胸に梅先さんは上着を押し付ける。
「バカだな。言ったろ、納期が近いんだ。今、お前に死なれると困るってだけだよ。紫野……健闘を祈る」
「梅先さん……」
もう一度、梅先さんの名前を呼んだ紫野さんは、渡された上着を持ちこくりと頷いたが早いか脱兎の如く逃亡した。きらりと見えたのは涙だったんだろうか。それともさすがに寒さに気付いた鼻水だったんだろうか。いずれにしても、僕は、全く状況が飲み込めないまま、呆然とその後姿を見送った。
どうやらその音はオタク談を本人抜きで一件落着した二人の間に走ったらしい。間と言うか、奇妙な音を出したのは、茶山さんからの情報からすると、常に浮ついた男性、紫野さんの方だったけど。そしてその音の正体、紫野さんにヒビを入れたのは、すっと冷めた梅先さんの「ところで紫野。新人教育資料の件、どうした?」真顔の一言だった。
あ。浮ついた方、外殻にヒビ入ってますよ。それ、早く塞がないとまたなんか出てきちゃいますよ。ほんとこの紫野さんと言う方、色々特技があるんですね。でも全然うらやましくない。
その特段うらやましくもない特技がある紫野さんに梅先さんは静かに、どこか微笑みさえ浮かべているような顔で続けた。
「まさかお前、外回りに出されたぐらいで鬼切さんがその件忘れてるなんて、グラブ・ジャムンを頬張りながらシロップを1リットル一気のみするようなそんな甘い考えに酔ってないよね?」
グラブ・ジャムン? なんでしょう、それ? あ!
紫野さんのヒビはまた音を立てて悪化した。
紫野さんはひび割れた箇所から暗黒物質でも垂れ流しそうな絶望感を伴って、ふらふらと俯き震える手で自席パソコンのマウスを左右に動かした。ディスプレイの電源が供給されロックもかかっていない画面を照らし出した。そこには、大きくメモ帳が開かれて何行かの文字が書かれていた。
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「紫野……まさか、これが……?」
梅先さんの声に、コクリと紫野さんは頷いた。青ざめた顔は下を向き、その表情を見ることは出来ない。そして梅先さんもまた、紫野さんと同じく絶望したような顔色になった。この勢いで二人して地下深くから地縛霊でも呼び出しそうな勢いだ。変なモノとか呼ばないで下さいね。お願いですから。面倒ごとは困りますっ!
「切迫した状況に追い詰められた危機感と恐怖は感じられるけど、これを新人教育資料と言い張るには相当の……」
新人がやること? つまり僕がやること? 資料? どれが? ……これが?!
最後の行にいたっては、もう小学生の、しかも低学年のお手伝い一覧みたいだ。そもそもコーヒー教えってなんだろう? コーヒーの教え? バリスタ講義でもあるんだろうか。
「紫野。悪いことは言わない。もうあと数分もすれば戻って来るであろう鬼切さんは、一先ず俺が時間を稼ぐから、お前はどこか隠れる場所を見つけてまともな新人教育資料を作るか、他の選択肢、データが消えた等の言い訳を考えるか、地球の裏側にでも逃亡するか、を選択して実行に移せ。いいか。俺たちは納期が近いんだ。わかるな」
「梅先さん……」
涙でもこらえてそうな紫野さんの胸に梅先さんは上着を押し付ける。
「バカだな。言ったろ、納期が近いんだ。今、お前に死なれると困るってだけだよ。紫野……健闘を祈る」
「梅先さん……」
もう一度、梅先さんの名前を呼んだ紫野さんは、渡された上着を持ちこくりと頷いたが早いか脱兎の如く逃亡した。きらりと見えたのは涙だったんだろうか。それともさすがに寒さに気付いた鼻水だったんだろうか。いずれにしても、僕は、全く状況が飲み込めないまま、呆然とその後姿を見送った。
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