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帽子屋

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帰宅後の世界 #1

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 帰りの電車の中で、鞄に入れっぱなしにしていたスマホを取り出すと科戸さんからLINEがいくつも来ていた。今日はもう家にいるらしい。帰りにスーパーで買い物もしなくていいから、可能な限り人間には近付かず、車内ではなるべく女性専用車両に乗るか、女性の多いところにいなさい。それもコーナーにへばりついていること。そして何があっても振り向かないで。と、最初のメッセージはこのラッシュ時間の緑の電車では最高難易度のミッションに思われたし、最後のメッセージはよくわからないけど、科戸さんオリジナルのスタンプ付きで意味深に送られてきていたので僕はそれに<今、電車です><わかりました。どこにも寄らずに帰ります><駅に着いたらまた連絡します>とレスを返しておいた。



「ただいま帰りました」
「おかえり」
 マンションのドアを開けると、いつもだったらこの時間には仕事でいないはずの科戸さんが玄関で待ち構えていた。
「科戸さん。今日は早いですね。何かあったんですか?」
 パンプスを揃えて脱いで上がった僕は、両足のストッキングに電線がないことを確認してほっと小さく息を吐いてから科戸さんに尋ねてみた。
「……あったわ」
 何かとてつもなく嫌なことを思い出すように、科戸さんは剣呑な表情を浮かべた。
「え? 大丈夫なんですか?」
「まあ、なんとかね。それよりナルちゃん。先にシャワー浴びてきちゃいなさいよ。早くご飯にしまショ」
 僕が驚いて尋ねると、くるりと背を向けた科戸さんは両手を持ち上げ掌を天井に向けてリビングへと歩き出した。
「ええええ?! ご飯が?!」
 有り得ない。僕がこの世界に来てから、僕が帰って来る前にご飯が出来ていたことは一度だってなかった。何があったんだろう? 余程のことが起きたに違いない!
「なあに? なんでそんなに驚くの」
「ええと、だってご飯があるって……」
「あるのよー、ご、は、ん。だから、買い物もいらないってLINEしたでショ」
 一度立ち止まって振り向き、僕を見た科戸さんはにっこり笑うとひらひらした部屋着を翻してリビングへと行ってしまった。その揺れた空気に乗ってふわりとほんの僅か僕の鼻腔に飛び込んできたのは、ガオケレナの花の香りや科戸さんが愛用している礼受―石鹸ではなく、万物燃焼の残り香のようだった。

 シャワーから出て、外出用の女子の身体から、普段の姿に戻った僕は科戸さんが言うところのハイセンスなジャージを身に着けて食卓に赴き、そのテーブルの上に並べられた絢爛とした食事に素直に声を上げた。
「うわあ! すっごい豪華じゃないですか! どうしたんですか、これ!」
「迷惑料と慰謝料をふんだくってやったのよ。それから謝罪の精神を涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)もって言うか、そもそも持ち合わせているはずもないから、心からの出まかせ口上じゃなく形で示させたの」
 迷惑料? 慰謝料? 謝罪? なんの? 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)ってヨクトでしょ。10のマイナス24乗、この世界ではだいぶ小さいってことでしたよね。
 何かお仕事で迷惑を掛けられたのかな? そういえばどことなく科戸さんが憔悴しているように見えなくもない。それから自慢の髪のウェーブにほんのわずか縮れた部分が見える。本人は気付いていないようだけど……。そんなことってあるだろうか? 科戸さんみたいな力のある人の髪の毛を縮れさせて、しかも気付かせないなんて。

 食卓に並べられた豪華な食事は、この世界に来て初めて食べる豪華な食事だった。科戸さんが「アンタ、いくらお子さまって言っても、そのちっさな体のどこにそんなに入るのよ。まさか胃袋が向こうの次元とを繋いでるとかないワヨネ?」と、驚くほど僕はお腹一杯食べた。ちなみに「しょんなわけないひゃないでひゅか。ぼひゅ、よいなひでひゅよ……↘↘↘(そんなわけないじゃないですか。ぼく、ヨリナシですよ……↘↘↘)」と、口に詰め込んだまま返答してしまったので「行儀悪い。そして満漢全席この世の至福って顔して食事しながら唐突に凹まない。卑屈にならない」と叱られた。
 科戸さんは早々に「まぁまぁいけるワ。あいつどんだけ隠してるのよ……」と半分ぶつぶつと呟きながら、古びてところどころ茶色や黒カビの染みが出来たラベルにRomanée-Conti 1945 と書かれたずいぶんと大きなワインのボトルを傾け始めた。勿論、手酌ではなくて、その大きなボトルは静かに宙に浮き上がり、科戸さんのペースに絶妙に合わせてワインをグラスへと注いでいく。それは熟練のソムリエかバトラーかと思わせるものだった。僕はちらりと窓を見た。窓は閉まっているから風を招きいれているわけじゃなし、それともこの世界に充満している混合気体、大気を使役してるのかな。科戸さんは「食事のときに、わざわざ自分が意識して物体を動かしたりなんだりするのはイヤ」とまで言っていたから、何かに給仕させてるんだろうな。僕には姿は見えないけど……。誰かいるのかな、そこに。
 科戸さんだけじゃなく、科戸さんに仕える上級の使用人や部下の人達が故意に姿を消していたら到底僕には見ることはできない。僕はぼんやりとそんなことを思って、ごくりと飲み下した。そして、まぁいっか。これ、すごい美味しい! と、食べることを再開した。
 料理はどれもあまりに美味しくて。この世界の食べ物とは思えないような味で、僕は向こうの世界での生活を思い出していた。この世界に来て数ヶ月。僕たちにとってはほんの僅かな時間なのに、それでもちょっとホームシックになりそうな味だった。特に、今日と言たった一日は、とんでもなく色々な目にあった気がしたので、それを思い返すとホームシックは料理に尚更塩味を、しょっぱい味の隠し味になった気がした。
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