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2日目の世界
しおりを挟む――翌日。
4月2日、金曜日。会社へ出社した僕は、いつまた黒い獣が降臨するかとびくびくしていたが、結局鬼切さんはお客様先に直行直帰ということで、その日会うことはなく、昨日、梅先さんと涙の別れを遂げた紫野さんの姿を見ることもなかった。
入社式、と呼ばれるものがあるにはあったが、鬼切さんはお客様先だし、社長は海外旅行(南米に出かけているとかいないとか)、社長代理は用途不明の出張(総務の清涼さんのここだけ話によれば、社長代理は度々出張に出かけるが、それは出張費で別れた妻子に会いに行ってると本人だけが周囲に気付かれていないと思っている暗黙了解らしい。「この時期ですからね。入学式ですよ」と、清涼さんは名前の通り涼しげに言ってのけた)、総務部長は病気療養でお休み(本人は階段で足を踏み外したと言っているらしいが、「どうせ昨日のテニスで若い女の子前に、エア・ケイもどきを披露して捻挫したんですよ。実際、もどきにもなってませんけどね」と、清涼さんの辛口な面を僕はよくよく知った)、つまり役職のある人間はほぼ不在、と言うことで、隣のグループ、同期の古津さんのグループの長である三戸さんだけが、僕ら二人の前に立ち、簡単な挨拶と自己紹介、そして社長と社長代理と総務部長と鬼切さんの名前を呼び上げ、その後、超がつくほどざっくりとした会社の概略をなんとなく喋って終わった。この会社らしいといえばらしい入社式は正味15分で終了した。
お昼は茶山さんの女子会に呼ばれ、ここで僕は唯一と言っていい本来の任務を遂行すべく情報取得に努めたが、茶山さんから聞けたのは、突っ込みどころと凹みどころが過積載のこの会社の薄ら暗い話ばかりで、姫の情報は一向につかめなかった。
僕は “電話が取れる” と言うこの一点だけで僕に於いての新人教育は終了してしまったらしく「コーディングは手が空いたら説明するから、先ずは詳細設計書作ってもらおうかな。作り方は……前の人が作ったやつ、参考にしてもらえればいいから」と、随分な無茶丸投げを受け取ることになってしまった。受け取ったはいいが、それにしても……。
「梅先さん、あの、この詳細設計書ですが、どれもフォーマットが揃ってないようなのですが……」
「あー……皆んな適当なんだよね。納品物なんだけど、あんまり重要視されてないって言うかさ。よくあることなんだけど。それに、そもそもフォーマットってないんだ。口伝だから」
口伝? それって最終奥義的な?
「く、口伝と言われますと……」
「うん。今も見てもらえればわかると思うんだけど、誰も指示出したりフォーマット整えたり話し合ったりする時間や余裕がないんだよね」
高速のキータッチで、梅先さんはディスプレイから目を離さずに喋り続ける。
ええ。とても良くわかります。余裕の無い感じ。
でも、それっていつものことなんですか?
「そうすると、皆んな、自己判断でなんとかしちゃうし、納品日ギリギリだと、とりあえずプログラムが動いて、テストがそれなりに終わってて、納品物がそろってればオッケーって言うか、そうでもしないと間に合わないって言う状況なんだよね」
「ははぁ」
「だからね。申し訳ないんだけど、僕も今手が離せないので、そこは鳴海さんに頑張ってほしい。詳細設計書は、要件定義書と基本設計書から内容を抜粋してなんとなく形になっていればいいから。お願い、出来るかな」
ピタリと指を止めて僕を見た梅先さんからは、恨むなら休みの連絡すら寄越さない紫野を恨んでくれ。言外にそんな言葉さえ聞こえてきそうなほど鬼気迫った表情で、気圧された僕が「が、がんばります」と答えると「一緒に生き抜こう」と、戦場の片隅にいるいち兵士のような台詞を吐くとまた画面へと戻っていった。僕はなんだかスケールはだいぶ小さいけれど、本当に戦場に突然放り込まれたような気分になった。
そうして僕のブラックなシステム会社での初作業が始まったわけだけど、これが本当の戦場になるだなんて……。
そして紫野さんの姿は週末を過ぎて翌週となっても、4月が終わり、なにがゴールデンなのかよくわからない黄金週間と呼ばれる謎の連休を過ぎても、現れるどころかまさかの音信不通、消息すらつかめなくなるなんて、この時の僕にも、僕の新人指導(教育は終了したので指導という名目になったらしい)と締切間近の案件と、「締切に間に合わないって言うから人手、借りてきてやったぞ」と、八武さんを連れてきた鬼切さんのはた迷惑な動員のせいで、亡霊のようになった梅先さんにも知る由はなかった。と、思う。少なくとも紫野さんの行方を案ずるような余裕は全く感じられなかった。勿論、僕にも余裕なんてものは微塵も存在しなかった。
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