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「あ、待ってください」
バルコニーへ誘おうとするゼノスの手を、カゲロウは反射的に引き留めた。
ここで外に出てしまっては、獲物である伯爵を見失う。カゲロウの脳内にある「作戦盤」が、最大音量で警鐘を鳴らしていた。
(……どうも、行動が読めん。やはり私の偽装を疑い、人気のない場所へ連れ込んで吐かせるつもりか? しかし、彼もあの伯爵の動向を監視するためにここに来たはずだ。それなのにこれでは……いや、奴は私を前にすると、怒りで正気を失うことがよくあるからな……なんなんだ? どういうつもりだ団長さん)
忍として生きてきた彼女にとって、予測不能な事態は「死」に直結する。かつてないほど自分の予測が外れる事態に、カゲロウの背筋に冷や汗が流れた。
これもまた、彼が自分に対して仕掛けている高度な意趣返しなのだろうか。
「どうしましたか?」
立ち止まったゼノスの表情にも、微かな不安がよぎる。拒絶されたのか、それとも何か無礼を働いただろうか――そんな彼のナイーブな心中など露知らず、カゲロウは必死に「この場に留まる理由」を捻り出した。
「ちょうど曲が変わりそうなので……その、一曲いかがかと」
そう、ダンスだ。
フロアの中央では、ちょうど目的の伯爵がターゲットの女性を誘い、踊り始めようとしていた。
(主様め、私とは全然違うタイプの女性じゃないか!)
伯爵が選んだのは、花のように可憐で、守ってやりたくなるような少女だった。
(私のどこが好みだというんだ、あの伯爵は)
と、カゲロウは内心毒づく。
「……! もちろんです。喜んで」
まさか女性の方から誘ってもらえるとは思っていなかったゼノスは、その端正な顔をぱあっと輝かせた。彼はカゲロウの手を壊れ物を扱うように取り、フロアの中央へと鮮やかにエスコートする。
(しまった。ダンスなんて踊れない……!)
天井裏から優雅に舞う貴族たちを眺めていた時間は長いが、自分がその輪に加わるなど想定外だった。
曲が始まり、ゼノスの手がカゲロウの腰に添えられる。カゲロウの全身に、かつてない緊張が走った。
一方のゼノスは、高鳴る鼓動を抑えるのに必死だ。
(彼女は俺を『団長』と呼んだ。私の正体を知っていて、その上で誘ってくれたのか。……これは脈ありと言うやつでは!?)
「貴女の名前を、伺ってもよろしいですか?」
曲に合わせて流れるようにステップを踏みながら、ゼノスが問いかける。
「えっ? あっ、はい。私は……ええと……」
「……ダンスは苦手ですか? 足元ばかり見ず、僕の顔を見てください」
カゲロウはステップを合わせるのに必死で、うつむいて彼と自分の足先ばかりを凝視していた。忍特有の体幹の良さで転びはしないものの、動きが硬い。
「足を踏んでもいいんですよ。僕に身を任せてください」
「うわっ!」
次の瞬間、ゼノスは軽やかにカゲロウの身体を持ち上げた。
重力を感じさせない流麗なリード。本当に身体を預けているだけで、まるで自分が一流の舞踏家になったかのような錯覚に陥る。
「ねぇ? 名前は?」
耳元で囁かれる甘い声。カゲロウは主から与えられた「ユリ根」由来(と思っている)の名前を口にした。
「……リリア、です」
「リリア。百合のような貴女によく似合う、いい名前だ」
ゼノスはフフッと、少年のような無垢さと大人の色気が混ざり合った笑みを浮かべた。その破壊力抜群の笑顔に、カゲロウは思わず任務を忘れ、数秒間呆然と見惚れてしまった。
ゼノスは、見つめ合うリリアに「何か話をしなければ」と焦った。だが、訓練と戦場に明け暮れてきた彼には、女性と世間話をした経験など皆無だ。
そこで彼は、いつか誰かから聞いた「女性は悪口が一番盛り上がる」という間違った知識を、藁にも縋る思いで採用した。
「――リリア。貴女のように賢明な女性なら、僕のこの……情けない悩みも、笑わずに聞いてくれるでしょうか」
「悩み、ですか?」
カゲロウは我に返り、彼を注視した。やはり、情報を引き出すための「揺さぶり」が始まったのだと身構える。
「ええ。実は最近、ある一人の『忍び』に手を焼いていましてね。……非常に無礼で、傲慢で、僕の策をことごとく踏みにじる。先日もそいつのせいで、プライドをズタズタにされたばかりなのです」
カゲロウの頬が、わずかに引き攣った。それは紛れもなく、自分のことだった。
「その忍びに、何かお礼を言うべきだと部下にも詰められて……。ですが、あのような卑怯な輩に、白銀の誇りを売るわけにはいかない。貴女なら、どう思われますか?」
ゼノスは、愛おしそうに「リリア」の手を握り込み、真剣な瞳で問いかける。
まさか悪口を本人にぶちまけているとは露ほども思っていない騎士団長の真っ直ぐな瞳に、カゲロウは生まれて初めて「申し訳なさ」という感情を抱き始めていた。
(これは、もう間違いな。彼は私に気づいていて嫌味を言っているに違いない)
しかし、ゼノスはただ「必死に絞り出した話題」がこれしかなかっただけなのだ。
「……それは。その忍びも、決して貴方を愚弄したかったわけではないかもしれませんよ」
せめてこの機に彼の誤解を解こうと、弁明を口にする。
「ほう、どうしてそう思われるのです?」
「それは……貴方のことが、眩しかったから。ではないでしょうか」
カゲロウの口から漏れたのは、偽りのない本音だった。
その言葉に、ゼノスは雷に打たれたように足を止めた。フロアの真ん中で、二人の時間が止まる。
「……眩しい?」
「あ、いや、今の言葉は忘れてください! 私はただ、想像で……」
(余計なことまで言ってしまった!)
慌てて取り繕おうとしたカゲロウだったが、ゼノスは彼女の手をさらに強く引き、逃がさないようにバルコニーの影へと連れ去った。
「あ、駄目ですゼノス様……っ」
(また無意識に彼の地雷を踏んで怒らせただろうか。伯爵から目を離したくないのに……どうか、仕事の時は落ち着いてくれ!)
「リリア。今の言葉……もっと詳しく聞かせてもらえませんか。貴女は僕を眩しいと思っているんですか? それは良い意味で?」
ゼノスの瞳は、もう正義のために剣を振るう「騎士」のものではなくなっていた。
カゲロウの目の端で、伯爵が女性の肩を抱いてどこかへ連れ去ろうとするのが見える。しかし、目の前の男の熱量に圧され、動くことができない。
(まずい……この状況、私の計算には全くなかったぞ……!)
最強の忍びが、初めて「戦場」での敗北を予感した瞬間だった。
バルコニーへ誘おうとするゼノスの手を、カゲロウは反射的に引き留めた。
ここで外に出てしまっては、獲物である伯爵を見失う。カゲロウの脳内にある「作戦盤」が、最大音量で警鐘を鳴らしていた。
(……どうも、行動が読めん。やはり私の偽装を疑い、人気のない場所へ連れ込んで吐かせるつもりか? しかし、彼もあの伯爵の動向を監視するためにここに来たはずだ。それなのにこれでは……いや、奴は私を前にすると、怒りで正気を失うことがよくあるからな……なんなんだ? どういうつもりだ団長さん)
忍として生きてきた彼女にとって、予測不能な事態は「死」に直結する。かつてないほど自分の予測が外れる事態に、カゲロウの背筋に冷や汗が流れた。
これもまた、彼が自分に対して仕掛けている高度な意趣返しなのだろうか。
「どうしましたか?」
立ち止まったゼノスの表情にも、微かな不安がよぎる。拒絶されたのか、それとも何か無礼を働いただろうか――そんな彼のナイーブな心中など露知らず、カゲロウは必死に「この場に留まる理由」を捻り出した。
「ちょうど曲が変わりそうなので……その、一曲いかがかと」
そう、ダンスだ。
フロアの中央では、ちょうど目的の伯爵がターゲットの女性を誘い、踊り始めようとしていた。
(主様め、私とは全然違うタイプの女性じゃないか!)
伯爵が選んだのは、花のように可憐で、守ってやりたくなるような少女だった。
(私のどこが好みだというんだ、あの伯爵は)
と、カゲロウは内心毒づく。
「……! もちろんです。喜んで」
まさか女性の方から誘ってもらえるとは思っていなかったゼノスは、その端正な顔をぱあっと輝かせた。彼はカゲロウの手を壊れ物を扱うように取り、フロアの中央へと鮮やかにエスコートする。
(しまった。ダンスなんて踊れない……!)
天井裏から優雅に舞う貴族たちを眺めていた時間は長いが、自分がその輪に加わるなど想定外だった。
曲が始まり、ゼノスの手がカゲロウの腰に添えられる。カゲロウの全身に、かつてない緊張が走った。
一方のゼノスは、高鳴る鼓動を抑えるのに必死だ。
(彼女は俺を『団長』と呼んだ。私の正体を知っていて、その上で誘ってくれたのか。……これは脈ありと言うやつでは!?)
「貴女の名前を、伺ってもよろしいですか?」
曲に合わせて流れるようにステップを踏みながら、ゼノスが問いかける。
「えっ? あっ、はい。私は……ええと……」
「……ダンスは苦手ですか? 足元ばかり見ず、僕の顔を見てください」
カゲロウはステップを合わせるのに必死で、うつむいて彼と自分の足先ばかりを凝視していた。忍特有の体幹の良さで転びはしないものの、動きが硬い。
「足を踏んでもいいんですよ。僕に身を任せてください」
「うわっ!」
次の瞬間、ゼノスは軽やかにカゲロウの身体を持ち上げた。
重力を感じさせない流麗なリード。本当に身体を預けているだけで、まるで自分が一流の舞踏家になったかのような錯覚に陥る。
「ねぇ? 名前は?」
耳元で囁かれる甘い声。カゲロウは主から与えられた「ユリ根」由来(と思っている)の名前を口にした。
「……リリア、です」
「リリア。百合のような貴女によく似合う、いい名前だ」
ゼノスはフフッと、少年のような無垢さと大人の色気が混ざり合った笑みを浮かべた。その破壊力抜群の笑顔に、カゲロウは思わず任務を忘れ、数秒間呆然と見惚れてしまった。
ゼノスは、見つめ合うリリアに「何か話をしなければ」と焦った。だが、訓練と戦場に明け暮れてきた彼には、女性と世間話をした経験など皆無だ。
そこで彼は、いつか誰かから聞いた「女性は悪口が一番盛り上がる」という間違った知識を、藁にも縋る思いで採用した。
「――リリア。貴女のように賢明な女性なら、僕のこの……情けない悩みも、笑わずに聞いてくれるでしょうか」
「悩み、ですか?」
カゲロウは我に返り、彼を注視した。やはり、情報を引き出すための「揺さぶり」が始まったのだと身構える。
「ええ。実は最近、ある一人の『忍び』に手を焼いていましてね。……非常に無礼で、傲慢で、僕の策をことごとく踏みにじる。先日もそいつのせいで、プライドをズタズタにされたばかりなのです」
カゲロウの頬が、わずかに引き攣った。それは紛れもなく、自分のことだった。
「その忍びに、何かお礼を言うべきだと部下にも詰められて……。ですが、あのような卑怯な輩に、白銀の誇りを売るわけにはいかない。貴女なら、どう思われますか?」
ゼノスは、愛おしそうに「リリア」の手を握り込み、真剣な瞳で問いかける。
まさか悪口を本人にぶちまけているとは露ほども思っていない騎士団長の真っ直ぐな瞳に、カゲロウは生まれて初めて「申し訳なさ」という感情を抱き始めていた。
(これは、もう間違いな。彼は私に気づいていて嫌味を言っているに違いない)
しかし、ゼノスはただ「必死に絞り出した話題」がこれしかなかっただけなのだ。
「……それは。その忍びも、決して貴方を愚弄したかったわけではないかもしれませんよ」
せめてこの機に彼の誤解を解こうと、弁明を口にする。
「ほう、どうしてそう思われるのです?」
「それは……貴方のことが、眩しかったから。ではないでしょうか」
カゲロウの口から漏れたのは、偽りのない本音だった。
その言葉に、ゼノスは雷に打たれたように足を止めた。フロアの真ん中で、二人の時間が止まる。
「……眩しい?」
「あ、いや、今の言葉は忘れてください! 私はただ、想像で……」
(余計なことまで言ってしまった!)
慌てて取り繕おうとしたカゲロウだったが、ゼノスは彼女の手をさらに強く引き、逃がさないようにバルコニーの影へと連れ去った。
「あ、駄目ですゼノス様……っ」
(また無意識に彼の地雷を踏んで怒らせただろうか。伯爵から目を離したくないのに……どうか、仕事の時は落ち着いてくれ!)
「リリア。今の言葉……もっと詳しく聞かせてもらえませんか。貴女は僕を眩しいと思っているんですか? それは良い意味で?」
ゼノスの瞳は、もう正義のために剣を振るう「騎士」のものではなくなっていた。
カゲロウの目の端で、伯爵が女性の肩を抱いてどこかへ連れ去ろうとするのが見える。しかし、目の前の男の熱量に圧され、動くことができない。
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