遥かなる光の旅人

しょこら

文字の大きさ
11 / 22
第四章

1.運命の輪

しおりを挟む
 何かざわついた空気が伝わって来る。
 眉をひそめ、辺りを探るが、見えるのは暗闇のみ。一寸先は何も見えない状態である。
 エリスは手探り状態で歩いているのだが、イアンの足取りは何の不安もなく、確かなものだ。
 イアンは笑いながらそれを指摘する。
「姉ちゃんの目はさすがに青いだけあって、やっぱりこの闇の中じゃあ、あんまり見えないんだな」
 青い目は光の民のもの。
 つないだ手の先のイアンの瞳が、暗闇の中で唯一の光のように金色に輝いている。
 闇の民の目は、こんな暗闇の中でも物が判別出来るらしい。リューイの遠見とは全く別物だろうが、見えないはずのものを見る力という点では同じかも知れない。
「そうね、悔しいわ」
 光の民がこんな力の強い闇の中に入ったら、たちまち力を奪われて動けなくなってしまう。衰弱して消滅してしまう。こうして動けている自分は半分闇の民なのだということをエリスは実感した。
 だからこそ、いま、目が使えないのは本当に悔しい。
 暗闇の中の、リヴァの憔悴した横顔が浮かんでは消える。考えないようにしていても、どうしても思い出してしまう。あの映像は、しっかり頭の中に刻まれてしまった。
「姉ちゃん」
 イアンの声に引き戻され、エリスは急いで頭を振る。いつまでも引きずっていてはダメだ。動けなくなる。
「ごめん。大丈夫、行きましょう」
「うん、何だか変な気配があるんだ。ざわざわする」
 暗くてよく見えないが、イアンの声が不安そうに震えていた。耳を澄ましてみると、確かにざわざわとした気配を感じる。人の悲鳴が聞こえたような気がして、エリスは立ち止まった。
「イアン、人の声が聞こえたわ。この先に何があるの? 市長の家はまだ?」
「この先だけど……」
 イアンにも悲鳴は聞こえていたようだ。
 何かが起きている。
 体が緊張して強張る。
 何か大きなものが板を壊したような音がした。つんざくような悲鳴が聞こえたのは、その直後だった。
 チカッと小さく火花が弾けた。
 エリスにはそれしか見えなくても、イアンの目には今何が起こっているのか、はっきり見えているはずだった。
「屋敷が襲われてる! 闇鬼だ」
「闇鬼って、そんな、まさか!」
 エリスは自分の耳を疑った。
 闇鬼と言えば、がりがりに痩せて体は小さく子供並で、知能も同程度。暗闇にまぎれていたずらをする子鬼である。肉食ではあるが、めったに人を襲うことはないはずだ。
「来た! 姉ちゃん、伏せて!」
 手をつないだままで、反射的に、エリスはその場に屈み込んだ。甲高い叫び声と共に、空を裂く音が耳を掠る。
 顔を上げて、闇鬼が飛んだ方向を凝らし見ると、薄くぼんやりと子どものような輪郭が見える。イアンとそう変わらない。イアンの方が、ほんの少し肉付きがいい程度か。
 奇怪な笑い声を発して、闇鬼がこちらを見ている。無意識に、光玉を闇鬼に向けて放っていた。
「姉ちゃん!」
 ギャッと悲鳴を上げて、闇鬼が一瞬にして消滅する。隣でイアンが、感嘆の声を上げた。
「すげぇ、一撃で消しちゃった」
 エリス自身、こんなに効果があるとは思わなかった。無意識とは言え、力の加減も何もなかった。仲間が消されたことを知って、他の闇鬼たちがエリスに向かって、襲い掛かって来た。標的をエリスにしたようだ。
 間髪入れず襲い掛かって来る闇鬼を、エリスは光玉を投げ付けて応戦した。
 どれも一撃の内に消滅してしまっている。
 闇鬼たちの目に、脅えが見えて来た。
 さすがに、立て続けに光玉を打った為か、息が上がる。いつの間にか、イアンの手を離してしまっていたことに気付いた。
「イアン!」
 辺りを見回して、イアンの姿を探すと、ほんの少し離れた先にイアンの姿が見て取れた。ほっと安堵して、笑顔を向けようとしたとき、イアンが顔を強張らせ、鋭く叫んだ。
「姉ちゃん、危ない!」
 咄嗟に後ろを振り返り、光玉を手の平に造ろうとしたができなかった。
 めまいに襲われ、力を失った光玉は、シュンッと音を立てて消えてしまう。
 闇鬼の長い鈎爪が、エリスの両目に向かって伸びる。
 エリスの背後から、空を裂く鋭い音を立てて、闇色の矢が闇鬼の眉間に突き刺さった。
 闇鬼は断末魔の絶叫を上げ、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
「ああ、イアン、ありがとう。大丈夫」
 血相を変えて走り込んで来るイアンに、エリスは息を整えながら、立ち上がる。
 何故かイアンは怪訝な顔で、エリスを見ている。
「姉ちゃん、もしかして、おいらの姿が見えてんのか?」
 言われるまで気が付かなかったが、今まで何も見えていなかったはずなのに、イアンの姿がはっきりと分かる。そう言えば、闇鬼の姿もいつの間にか見えていた。
「姉ちゃんの目、金色にチカチカ光ってる」
「何ですって?」
 青い目であることには変わりは無いのだが、その中に、星のように金色に光っている部分があるのだと、イアンは説明した。
「青金石みたいだな」
 どういうことなのか、エリスにはさっぱり分からない。こんなことは今までなかったはずだ。
 闇の中で、目が利くようになったことと、何か関係があるのだろうか。
 まさか、自分の中の光の部分が、闇に変わりつつあるのか。
 それか闇に変わるのではなく、光がただ無くなっていくのかもしれない。
 もう一度、光玉を造ってみた。
 闇鬼たちはもう、襲って来る気配はない。遠巻きにこちらを眺めているだけだ。
 手の中に現れた光玉は、小さくはかなげですぐにも闇に消されてしまった。
「やっぱりそうなんだわ。光が、私の中の光が、消えて行く……」
 エリスはその事実に恐怖した。
 いっそどちらか片方が無くなってくれれば良いのにと常々思っていた。
 それなのに、怖くなった。自分が自分でなくなっていくような感覚。そこに当たり前にあったものが、失われていく恐怖。ハッとしてエリスは顔を上げた。
「でも、あいつらがあんなに凶暴になるなんて」
「おかしい、なんて言ってる暇はなさそうよ、イアン」
 今までなりを潜めていた闇鬼たちが、再び襲い掛かって来た。
 咄嗟に飛びすさり、身をかわす。背後で、イアンの軽快な息遣い。エリスの目が利くようになったことで、安心しているらしい。エリスの中に生じた驚愕も不安も、イアンは知らない。もっていたはずの物が、突然自らの手を擦り抜けて無くなってしまう不安を。
 何度試してみても、もう光玉は造れなかった。光のかけらすらやっとの状態になってしまっている。
 闇矢で闇鬼を倒していたイアンは、エリスが先ほどから光玉を使わず、逃げ回っているのに気が付いて、怒鳴った。
「姉ちゃん、何やってんだよ!光玉は?」
「使えないのよ!」
 気が付かなかったが、既に泣き声だった。イアンがぎょっとして、振り返ったのが分かる。
「光が、使えないの!」
 いつの間にか足は止まったまま、エリスは立ち尽くしていた。
 奇声を発して、闇鬼がエリスに向かって飛び掛かった。
 長い鈎爪が鈍い光を発して、エリスに突き刺さろうとしていた。
「姉ちゃん、危ない!」
 イアンの叫びは、悲鳴によって掻き消された。
 エリスは、焼け付くような右腕の痛みに呻いた。



 ふいにルーリックが顔を上げた。
 緊張に顔を強張らせている。
「エリスが危ない!」
 ナナがたずねるより早く、ルーリックはそう叫んで立ち上がった。
 すぐにも飛び出そうとする青年を、ナナは慌てて引き留める。
「お待ち。あんたが行ったところで、どうこう出来る訳がなかろうが」
「僕なら大丈夫です。このくらいの闇」
 もどかしげにナナの手を振り払い、ルーリックは語気強く言い放った。
「闇鬼が人を襲っている。バランスが狂ったんだ」
 ナナは言葉を失った。
 目の前にいるのは、優しげな顔をしたルーリックではなかった。全身に光を纏い、遠くを見つめる目は、深く厳しい。美しく澄んだ輝きが家中に広がり満たしていく。
 こんなにも力強く美しい光を、ナナは初めて見た。眩いばかりの光が、ルーリックから放たれ、輪光が幾重にも重なる。光使いのナナでさえ、余りの眩しさに目を細めた。
 声を発することも忘れて、ルーリックが闇の中を駆けていく様を見送る。
 あれは、ティアルーヴァではない。
 ティアルーヴァにあれほどの力は無い。
 ナナは余りの衝撃に、呻き声を上げた。
 燐光が部屋中を満たしている。
 残光だというのに、力に溢れている。現役を退いたナナでさえ、今なら空間跳躍でも簡単に出来そうだ。
 先程のルーリックの姿を思い浮かべ、身震いする。青年と良く似た人物を、ナナは知っていた。
 初代女王、光の子の片割れ。セレスティーナだ。
「……ティアリス」
 ナナは床に座り込み、呆然とつぶやいた。


 重い沈黙が、双方の間に横たわっているようだった。
 先ほどから、ネリアムは何もしゃべらない。無言のまま、通信用の水晶玉に映ったリョウラを見つめ返しているだけだった。
 カイユがエルナーダに選ばれる、この言葉の意味をリョウラはすぐに理解した。
 古き聖なる大地の復活。
 失われたはずの故郷を望む声があることを、リョウラは知っている。
 アスファーダを生まれ故郷として愛しているのは当然だ。
 しかし、リョウラとて、今この世に光の大地レイルーンが姿を現すとなれば、平静ではいられない。美しい光に満ちた緑の森。白く輝く大神殿に、穏やかに渡る風。心の奥底に眠る、聖域のように愛してやまない大地の面影は、光の民なら皆な誰もが持っているものである。
 そこに生きた記憶は無くとも、何代もの時を経ていても、憧憬となって確かに多くの人々の心に残っているのだ。
 更に、残された予言が聖地復活を語っている。
 世界のバランスが崩れたとき、聖地が復活する。
 混沌の地の乙女によって、女神の子は導かれ、現れる。
 望む大地の名を唱え、古の大地を復活させるのだと。
 それはなんという誘惑だろうか。
「聖なる大地の復活を望む声は、光の塔にもあります」
 リョウラの言葉に、ネリアムは重々しく頷く。それは当然のことだ。
「我々は神々にこの大地を与えられた。この混沌とした大地を、光も闇も平等に与えられ、共存していく道を選べと」
「では何故、あの予言は残されているのです? それも、女神の子であるティアリス自身の名で」
 ネリアム老は疲れたように首を振った。
「神々は姿を隠されている。我々には何も分かるまいよ」
 世界のバランスが崩れるということは、アスファーダが無くなることを意味する。
 それによって、聖なる大地が復活するというならば、無理にでもバランスを崩そうとする者が現れてもおかしくない。それゆえに、予言は伏せられ、王宮とティアルーヴァの上層部にしか、伝えられていなかった。
「おそらく、闇の民の中に、根強く残っているものがあるのだろう。建国の際の争乱もそうだが……」
「光と闇は対等のはずなのに、女神の子が王の座についたという、あれですか?」
「光の民に押さえ付けられたという感覚があるのだろうな」
 ずっと争っていた二つの民を纏めようというのだ。上に立つには王の器が要求される。
 闇の民の王がそのとき亡くなっていなければ、また歴史は変わっていたのだろう。
 だが女神の子らの導きによりアスファーダは今まで続いている。
「最高会議はどのように判断しますか?」
 リョウラは聞くのが怖い質問をあえて口にした。
 アスファーダを守るために今まで同様、共存を選ぶのか。
 それとも。
 揺れるのか。
 光使いはレイルーンを。
 闇使いはエルナーダを。
 それぞれが恋焦がれ、追い求める。
「予言の乙女はどちらを選ぶかのう」
 ネリアムの言葉が遠く響く。
 エリスはどちらを選ぶだろう。
 予言に記された乙女は。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。

小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。 「マリアが熱を出したらしい」 駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。 「また裏切られた……」 いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。 「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」 離婚する気持ちが固まっていく。

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。 味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。 ――けれど、彼らは知らなかった。 彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。 すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、 復讐ではなく「関わらない」という選択。 だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...