涙に交わる短編集

李苑隆之

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結晶

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授業の終わりを知らせるチャイムが鳴る。

「ま、だから、神聖ローマ帝国は教皇との強い関係がありました、けれど!この時代、1076年ですね、当時皇帝であったハインリヒ4世は聖職叙任権を争って教皇から破門にされたと、で、この事件がカノッサの屈辱と言うんですね、はい。じゃあ、チャイムも鳴ったし、授業も終わり。また、復習しといてね」

そう言って私は支えにしていた指し棒を壁に吊り、プロジェクターを仕舞う。次の授業はHRだから、このままここにいていいはずだ。そう考えながらも、開いていた手作りのプリントをかばんにしまった。

「先生」
ふと、一番前の席に座る女生徒に声をかけられた。いつも授業終わりに私に質問をしてくる子だ。

「急にこんなこと聞くのおかしいかもしれないですけど、先生ってなんで先生になったんですか?」

そう尋ねられた瞬間、私の脳裏にはすぐ一つの小さくて古ぼけた地球儀が浮かんだ。

それは幼いころに亡くなった母からもらった大切なもの。教師を目指すきっかけになったもの。

「地球儀があったからかな」
気づけば、口からそうついて出ていた。




あれは忘れもしない小学生の頃。
湿布のような薬の匂いに包まれた、静かなあの場所で。いつの間にか枯れた草木を視界に入れながら、微笑んでいた母の姿が思い起こされる。


「お母さん、病気が治ったら、絶対一緒に桜見にいこうね!」

11月初め、窓の外で冷たい風が吹き荒れるのが、木々にかろうじてついている枯葉が揺れ落ちる様から見える。私には生まれた時すでに父がいなかった。母はここまで女手一つで私を育て、疲弊し、ついには入院に至ったのだ。

「そうね、桜、今年はどんな色をしているかな」
「えー?桜なんだからきっと桜色だよ!」
「桜色、とっても素敵ね」
母はいつも私の言葉にふふっと微笑んだ。それがうれしくて私は母にいろんな言葉を投げかけた。

「お母さん、今日歴史の授業があったんだ。なんか昔にあったことって、面白い感じがすると思ったんだ!」
「やっぱり、私たちの子ね。私たちも歴史が大好きだったのよ。あなたと同じ。」
「そうなんだ、お母さんも!お母さんと一緒じゃん!」
母は白いシーツの上で静かにうなずいた。 

「歴史はね、今まで生きてきた人の結晶なのよ。それが教科書に残っていても残っていなくても、人に知られていても知られていなくても、私たちより先に生まれた人の人生はキラキラと輝いていて美しいものだと私は思うわ。」

そう言って彼女は少し咳込んだ。窓から吹き込む風がびゅうっと目の前を通り過ぎる。

「大丈夫、窓、閉めるね。」
窓を閉める寸前、風を押し込むような音が静かな病室に響き渡った。

「んん”っ、大丈夫。あ、そうだ、そこの机の上に置いてある地球儀を取ってもらってもいい?」
「これ?」

母の病室の机の上にはいつも小さくて古ぼけた地球儀が置いてあった。それは寂しい色合いの部屋にある1つのアクセントとしてそこにあった。手に取って適当に地球を回してみる。 

母は速いスピードで回転する地球儀にそっと触れて回転を止めた。私はふと目についた国をつぶやいていた。

「・・・ドイツ」
「世界にはね、どの国にもそれぞれの深い歴史と人生が詰まっているの。ドイツは移民って言って他の国から来た人たちがそこに住んで結果的に出来た国なのよ。だから、他のヨーロッパの国、フランスとかイタリアとかと言語がちょっとだけ違うの。発音や文字がちょっと独特なんだよ。」

「へーそうなんだ。え、じゃあ、ここは?えーっと、イギリス、って何か聞いたことあるかも」
「そこはね・・・」

母はえらく物知りだった。歴史について語っている母の顔は普段の微笑みとは違って、一段と楽しそうで、私はその表情を浮かべた母が好きだと思ってさらに色々な国を挙げた。楽しそうに語る表情に憧れを抱いていた。


幸せな一時は本当に一時だった。

母が亡くなった時、私は祖父母の側で母の地球儀を胸に抱えながら、静かに涙していた。それから母との思い出として夢に出てくるのはやはりあの日のことだった。その夢を見る度、机上の地球儀を手に取り、あの時と同じように回して止めた。



「なにそれ、なんか思い出がある物なんですか?」
生徒の返答で我に返った。馳せていたセピア色の思い出を抜け出して今に戻った。

「まあ、そういうことかな。歴史ってのは今まで生きてきた人の人生が詰まったものなんだよ。その人生たちを君たちにこうやって伝えるのが楽しいから、今私は先生をやっているのかな」

そう言うと、生徒は納得したように、ありがとうございますと述べて待っていた友達の方へ向かっていった。



帰宅してすぐ、何とはなしに久しぶりに地球儀を回す。あのころよりも、そして夢を見続けたあの日々よりも地球儀の回転は歪になっている。

今私は母のように楽しく彼らに歴史を伝えているだろうか、人生の結晶を未来に受け継いでいけているだろうか、と思い、地球儀に触れた。

指先はドイツを指していた。

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