獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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二十、唯一のもの - uno solo -

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 池の橋の東屋へ、使用人たちが次々に茶菓子と紅茶を運んで来た。池には鴨やアヒルが飛来して気持ちよさそうに水面をすいすいと移動し、十二歳のウキと四歳のカイは彼らに小さく切った野菜を投げ与えて遊んでいる。
 キセは父と共に残してきたテオドリックが気掛かりで仕方なかったが、三人の母親たちはいつもと変わらず、世間話やお気に入りの舞台役者の話に花を咲かせ、キセにはネリでの生活についてあれこれと尋ねた。
 スクネは相変わらず不機嫌そうに黙って足を組んでいたが、敢えてテオドリックの話に触れようとしなかった。かと言ってキセへの追及をやめたわけではなく、この場の主導権を握っている王妃たちに敬意を示し、あくまで礼儀正しく黙しているに過ぎない。
「キセ姉さま、あの人のところにお嫁に行くの?」
 と、ウキがキセの袖を引いた。不安そうな顔をしている。成長期で子供用のベストとふんわりした袖のシャツも似合わなくなってきている年頃だが、ウキは三人の兄と姉からずっと末っ子扱いされて育ってきたから、同じ年齢の頃の兄たちと比べれば精神的にはまだ幼い。大人たちがあれほど騒げば、不安に思うのも無理のないことだ。
「はい、行きます」
 キセの答えは一貫して明瞭だ。王妃たちは誰からともなく会話をやめ、静かにキセを見た。
「戦争を終わらせるため?」
 ウキは賢い。テオドリックが朝食の席で言ったことを嘘だとは思っていないが、その裏に政治的な思惑があることを見抜いていた。キセは穏やかに微笑して言った。
「テオドリックの力になりたいんです。あの方のそばで、同じ世界を見られたらどんなに素敵だろうって、思うんです」
「王妃さまになりたいってこと?」
「いいえ。例えばテオドリックが漁師でも船乗りでも、ついて行ったと思います。あの方は――」
 キセは先を続けられなかった。女神の導き?違う。運命。それもなんだか違う気がする。テオドリックなら運命は自分で決めるとか言いそうだ。実際に、テオドリックは運命に導かれてキセの前に現れたのではない。それどころか、運命に逆らって出会うはずのなかったキセに会いにきたのだから。
「唯一のもの」
 シノが優雅に薔薇が描かれたお気に入りのティーカップを持ちながら言った。
「…そう言う、例えようもなく比べようもないような、厄介な存在のことをそう言うのよ」
「それは、しっくりきます」
 キセは笑い出した。確かに厄介だ。感情を振り回され、遠くへ連れて行かれようとしている。しかし、それを望む自分自身もそれ以上に厄介な存在なのかもしれない。
 スクネはキセの顔を表情も変えずに無言で見つめ、腕と脚を組んだままでいた。
 それから一時間ほど経った頃、家令のミシナが現れた。
「国王陛下がお呼びです。大人は食堂へ集まるようにと」
 未成年のウキとカイは途中で乳母に別室へ連れて行かれ、ひとつ前の誕生日で既に成人しているキセを含む一同が食堂へ戻った。既に食膳は片付けられ、そのピカピカのテーブルの角を挟んでオーレンとテオドリックが先程と同じように座っている。テオドリックは女性なら誰でもうっとりするような微笑を浮かべ、貴婦人たちを迎えるために立ち上がり、片手を伸ばしてキセを隣に招いた。
 一足遅れて不機嫌さを顔中で表したイユリが入ってきて、ギッとテオドリックを睨みつけた。ユヤが厳しい母の笑顔でそれを窘めたあと、全員着座した。部屋の隅には、ひょろりと背の高い家令のミシナが立っている。
「キセを嫁にやる」
 オーレンの言葉は簡潔だった。
 その瞬間にイユリは席を蹴って立ち上がり、父親に食ってかかった。
「正気と思えない!」
「イユリ殿下、陛下に向かって――」
「ここにいる間は父親だろ!僕は息子として意見してるんだ!家臣と一緒にするな!」
 諫めようとしたミシナに向かって、イユリは怒号した。多少気分屋のイユリも普段ならこれほど声を荒げることはないが、今回ばかりは抑えられなかった。
「イユリ」
 生母のシノ・カティアに穏やかな声で諫められ、イユリは唇を血が滲みそうなほどに噛み締めて口を閉じ、憤然として座った。本当ならそのまま出て行きたいところを、愛する母親たちの面目のために耐えている。
 キセは隣のテオドリックを見上げ、手をキュッと握った。父親に認められたことは安堵したし、嬉しくもある。が、同じくらい不安も膨れ上がった。
「…キセは――」
 オーレンが憂鬱そうに口を開いた。
「ゆくゆくはミノイと結婚させようと思っていた」
 キセは驚いて父親の顔を見、そして母親たちの顔を見渡した。ユヤの隣に座るスクネを含め、誰も驚いていない。皆知っていたことだったのだ。それどころか、テオドリックも別段驚いた様子はない。二人で話している間にオーレンが直々に伝えたのかもしれない。唯一、キセだけが知らなかった。不意に頭を殴られたような衝撃だった。
「キセとミノイの婚姻でもって前王朝を支持する勢力の反抗を封じ、シトー家の王権を盤石にするつもりだったが、もはや叶わぬ。だが、このテオドリック・アストルと――」
 と、オーレンはテオドリックの肩に手を叩きつけるようにして手を置いた。片足が床にめり込みそうなほどの衝撃に、テオドリックは肩を思い切りいからせて耐えなければならなかった。
「――協議し、キセとテオドリック王太子との婚姻が成りエマンシュナとの和平が成立した場合、これによる利点は先の王家と血縁を結ぶより大きいと判断した」
 王妃たちは慇懃に微笑で頷いた。
「キセをエマンシュナに嫁がせるにあたって、我々の最も信を置く者を侍女として同行させることに、テオドリックは同意した。セレンにはこれまで通りキセの側に仕えさせる」
 これは、慣例から言えば異例のことだ。間諜になり得る者を宮廷に立ち入らせることは、普通ならしない。
(それだけ和平に本気なのだ)
 と、スクネは思った。
「加えて、スクネ・バルーク」
 オーレンは無表情で腕を組んでいるスクネの顔を見た。
「お前はテオドリックとキセと共にエマンシュナへ行き、自分の嫁を連れ帰ってこい」
「…はい?」
 これまで落ち着いていたスクネも、これには驚いた。眉を寄せ、最後に開いた口の形のまま、父親の放った言葉を頭の中で何度か繰り返しているようだった。
「こちらだけが嫁にやるのでは割りに合わないだろう。テオドリックの姉をその気にさせて娶れ。これが恒久的な和平の条件だ。失敗は許さん」
 オーレンは買い物を頼むような気軽さで言った。
「待ってください。俺は――」
「あら、いいじゃありませんか」
 ユヤがスクネの言葉を遮って微笑んだ。
「テオドリック殿下の姉君ならさぞ美しい方でしょう。わたくしもエマンシュナとの相互の婚姻には賛成だわ」
 スクネは母親の圧力に屈するほど軟弱者でも意志薄弱でもない。むしろ口数少なく物事を静観した後、機が熟した頃に畳み掛けて自分の意志を貫こうとする質の男だが、王国の命運が懸かっているとなればもはや覆そうとも思えない。
 実際に王国は疲弊している。いかに経済が豊かであると言っても、このまま戦争状態が続けば治世が始まって三十年も経たない若い王朝への支持は下落する。そうなれば、再びイノイルを混乱が襲い、その機に乗じてエマンシュナが戦を仕掛けてくるだろう。立て続けに指導者を失ったイノイル王国は今度こそ永久にその支配下に置かれる運命を辿ってしまう。
 今度の婚姻は突然降って湧いたような突飛な話だ。が、冷静に考えれば、確かに利益の方が大きい。
 それに、スクネが見たところ、テオドリックは本当にキセに惚れているように見えるし、キセもそうだ。誰かと一緒にいてこれほど幸せそうな顔をする妹は初めて見た。
 兄として、キセには幸せになってほしい。テオドリックが家族の前で恥ずかしげもなく宣言した通り、「美しく善良で慈愛に溢れ、こちらの心まで温もりで満たす太陽のような」妹には、望み通りの幸せが相応しい。
 スクネは切れ長の目を不機嫌に細め、溜め息をついた後、観念したように小さく首を振った。
「…それで戦を終えられるのなら、承知しました」
 スクネの言葉を聞いて、イユリは堪り兼ねたように首を振り、テーブルを平手で叩き付けた。
「どうかしてる!何故誰も止めないんだ!キセが心配じゃないのか!敵国の王太子妃なんて、聞こえはいいが実際は人質のようなものじゃないか!キセは…」
 イユリはほとんど泣き出しそうな顔で訴え、母親たちの顔を見渡した。みな毅然と顎を上げ、イユリをまっすぐに見つめている。キセの生母であるオミ・アリアは、優しく慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「キセは、優しすぎる…。敵意と殺意に晒されながら生きて行くには、弱すぎる。殺されてしまう。頼むから、考えを変えてくれ。父上も、あんたも。キセを愛してるなら」
 縋るような目で父親とテオドリックを見つめるイユリを見て、キセは目を伏せたくなった。兄にこんな顔をさせるのは、自分が頼りないからだ。自分の無力さが恥ずかしくて、嫌になる。
 ところがテオドリックは、キセとそっくりな顔を悲壮に歪めたイユリを冷ややかな目で見返し、突き放すような口調で言った。
「あんたは何を言っているんだ?」
 テオドリックが静かに怒っている。キセはテオドリックの顔を見上げた。
「キセは強いだろう。俺はこれほど気骨のある女性を他に知らない。優しいからなんだと言うんだ。キセが他者に心を分けられるのは、それだけ心が強く大きくできているからだろ。あんたとは違う。俺が妻に選んだ女性を何もできない子供のように言うのはやめてもらいたい」
 キセは泣きたくなった。同時に、テオドリックを思い切り抱きしめたい衝動に駆られた。不思議な気持ちだ。胸が熱く、鼓動が速まる。
 オミ・アリアがテオドリックにニッコリと笑いかけた。その顔は、キセに生き写しだ。まったく驚いたことに、オーレンも笑っている。
「では、そういうことだ。イユリ・スキロス」
 オーレンがすっかり言葉をなくしてしまったイユリに呼び掛けた。
「お前の兄がエマンシュナの姫を連れ帰った暁には、愛する妹の置かれた環境を思い遣って接することだ」
 イユリは無言のまま、肩を竦めた。
「家長の決定である。異論はないな」
 オーレンは一同を見回した。

 キセは夕刻の祈りを終えたあと、自室の寝台にごろりと寝転がった。幼い頃から起居していたこの寝室が、これほど違う場所に感じたことは今までにない。
 幾何学柄の格子状に木の枠が組まれた天井をぼんやり眺め、破裂しそうな頭を何とか整理しようとしていた。嬉しさ、不安、安堵、悲しさ、罪悪感――嵐のように一気に吹き付けてくる。特に二番目の兄とのことは、当の本人が死んでしまったからと言って簡単に受け流せるものではない。
「ミノイお兄さま…」
 口に出して、キセは手のひらをまぶたに押し付けた。真っ暗な視界の中で目の奥が熱くなり、湧き上がってきたものが目を濡らして目尻へ伝っていく。
「妬けるな。夫以外の男の名を呼ぶのか」
 テオドリックの声が落ちてきた。キセがびっくりして目を開け、指の間から外を覗くと、寝台のそばにはいつの間にかテオドリックが立っている。
「あ、待ってください。少し…」
 涙を拭こうとしたキセの手を、テオドリックは掴んで退かし、まぶたにキスをして、こぼれそうな涙を自分の指で拭った。
「入っていらしたのに気付きませんでした」
 キセはすぐ目の前にある緑色の目が優しく細まるのを見て、心臓が騒ぎ出したのを無視した。
「部屋を遠くに分けられてしまったから、忍んで来たんだ。また間違い・・・が起こるとまずいと思われているんだろう」
「間違い…だったのでしょうか」
「あんたはどう思う」
「わたしは、心に従ったことを間違いだとは思いません」
 キセの答えは相変わらず一貫している。それも、恥ずかしさに顔色を変えながら、毅然とこちらを見返してくる。テオドリックは口元が綻ぶのを抑えられなかった。これは計画の一部だったはずだ。極めて政治的な目論見の、それも出発点にようやく立っただけのことだ。それなのに、キセが自分を受け入れたことをこれほど歓喜している。その上で愛はないと言い切れるのか、今はもう分からない。が、テオドリックの身体は頭が結論を出すより前に動いた。
 キセは覆い被さってきたテオドリックの身体を受け止め、口付けを受け入れた。押し付けられたテオドリックの胸から自分の鼓動が伝わってしまいそうだ。
「…まずい」
 テオドリックが呟いた。キセは驚いて身体を離そうとした。自分のキスのことかと思ったのだ。が、テオドリックはキセに離れることを許さず、腰を強く抱いてそのまま動こうとしない。
「このままでは本当に襲う。正式にオーレン王の許しを得た手前、婚儀の前にあんたに手を出すわけにはいかない。…だが、離したくない」
「――あっ、あああの…」
 これにはすっかり動揺してしまった。昨夜の熱を身体が思い出して体温が上がり、鳩尾がぎゅうっと締め付けられ、腹の奥が疼く。それから、臍の下の、テオドリックに昨夜触れられた場所が――
 キセは不埒な妄想を振り払うように首をぶんぶんと振り、自分を戒めるために頬をギュムッとつねった。
「…何をしてる」
 テオドリックが顔を上げ、心底不思議そうに訊ねた。
「て、テオドリック、お庭をお散歩しませんか?お話ししましょう。わたし、お話しがしたいです。外で」
 キセがしどろもどろに提案した内容を、テオドリックは承諾することにした。その方が、こちらにとっても都合がいい。
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