獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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二十四、レグルス城 - Château de Regulus -

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 テオドリックはキセのために浴室を用意させていた。レグルス城一階の隅に設えられた床も壁も大理石造りの浴室で、天井部分の通気口から蒸気が吹き出し、中央に置かれた美しい陶器の浴槽に湯が張られ、ラベンダーやローズマリーの葉が浮かべられている。キセはその中に身体を沈めながら、深く息を吐いた。ハーブの心地よい香りが鼻腔から身体中に広がる。
 なんだかまだ信じられない。このひと月も経たないうちにいろいろなことが変わってしまった。
 しかし、覚悟を決めた。愚直なまでに王国と国民のために自分を犠牲にしようとするあの優しい人の力になりたいと、その傍らに寄り添いたいと心から望んだのだ。
(でも、それだけでしょうか)
 頭のどこかでもう一人の自分が語りかけた。あの緑色の憂いを帯びた瞳が自分を見つめる度、熱い手が触れる度、何か心の奥にしまってある不可思議な感情が溢れそうになる。
 あの塔の夜、身体に触れられて分かったことがある。自分がテオドリックに対して欲望を感じていると言うことだ。もっと触れて欲しい。もっと深いところまで暴かれるのなら、その相手はテオドリック以外には有り得ない。これはもはや義務感などではない。
 しかし、テオドリックはきっと違う。オアリスを発ってからというもの、避けられている気がする。他人の目があるところではこれまで通りだが、二人きりになるとキセに触れようとしないのだ。今までは慣れるためと言って触れてきていたのに、急にそれをしなくなった理由がキセには分からない。もう十分だと判断したのか、気が変わったのか、この態度の変化がキセを不安にさせた。
(いいえ、違います。不安なのは――)
 キセは湯に顔を浸けて鼻からぶくぶくと息を吐いた。
 不安なのは、テオドリックの温もりが離れていくことを不満に思う自分だ。テオドリックのことをもっと知りたい。時々どうしようもなく憂鬱そうな目をする彼の心の奥深くに触れたい。しかしそれは利己的な欲求に過ぎず、自分にとっても開けてはならない蓋なのかもしれない。触れてしまったら最後、きっとひとつのものだけで心が埋め尽くされてしまう。そこには王国も国民もなく、女神もいない。どう進むのがいちばん正しいのか、頭では分かっているつもりだ。しかし、心は他のものを望んでいる。
 キセは湯の中に最後まで息を吐いてぷはっと顔を出し、白い湯気が濛々と立ち昇っていく天井をぼんやり眺めてゆっくり目を閉じた。

 テオドリックとイサクは重苦しい空気の中、無言でいた。
「お前が真実を墓まで持って行け」
 とイサクが言ってからかれこれ三十分は経つが、テオドリックは黙りこくったまま、ただ酒を飲み続けている。
「…本当に、確かなのか?五年も前だし、お前も混乱していたはずだ。記憶違いと言うこともある」
 堪り兼ねてイサクが口を開いた。テオドリックはゴツンと重たいグラスをテーブルに置いて立ち上がり、部屋の奥のキャビネットから小さな銀の宝石箱を取り出して戻ってきた。宝石箱の蓋を開け、中身を手の中に包み、グラスの隣に置いた。
 イサクはそれを手に取った。傷だらけの金のボタンだった。テオドリックが襲われ返り討ちにした相手から引きちぎってきたものだ。あれ以来、テオドリックが自分への戒めとしてこれを手元に置いていたことを、イサクは知っている。
「…オアリス城の肖像画で見た。ミノイ王子の軍服に付いていたものと同じだ」
 金のボタンには、波と鷲の文様が細密に彫られ、広げられた翼の中に二枚の羽が描かれている。これがシトー家の二番目の子の証であることを、テオドリックはオアリス城の回廊で知った。一番目の子スクネは羽が一枚、三番目のイユリは三枚の羽が描かれたボタンをそれぞれ軍服にあしらっているのだとキセが楽しそうに話していたのを聞いたとき、テオドリックは血が凍るような思いがした。
「俺があの日殺したのは確かにミノイ王子だった」
「あー…じゃあ」
 イサクはボタンを宝石箱に戻しながら言った。
「やっぱり…墓まで持って行くしかないな」
 テオドリックは無言で酒を飲み干し、手ずから再びグラスを満たした。イサクは片足を膝に乗せ、沈鬱な表情の乳兄弟を横目で眺め、口を開いた。
「彼女がその事実に耐えられないと思うのなら、そうするしかない。お前が妃に選んだ女性が、真実を語るに値しないと思うならな。まあ、もう互いに選ぶ余地もないんだろうが。知らない方が幸せということもある」
 テオドリックが中身を半分残したままグラスを置いて立ち上がった時、扉を叩く者がいた。テオドリックが扉を開けて迎え入れると、外にはテレーズがテオドリックの着替えを持って立っていた。
「テレーズ、何をしている。キセはどうした」
「のんびり湯浴みをされてますよ。あなたさまの優しいお姫さまが‘殿下の方がお忙しくされているから先に殿下にお召し替えを’と仰るので、持って参りましたんですよ。それにしても、よかったですわねぇ殿下。殿下が急いでご用意なさった浴槽をとてもお気に召したようですよ。もう一時間以上もお入りになっていますわ」
「一時間以上?」
 テオドリックは眉をひそめた。テレーズは頬をつやつやさせて「ええ」と頷いたが、その答えを全て聞き終える前にテオドリックは部屋の外へ出て行った。
 テオドリックが階段を下り、一階の北の隅へ向かって浴室の半円形の扉を開けると、白い衝立の奥、白い湯気が立ちこめる中に、白い陶器の浴槽の縁に首を預けて眠りこけるキセを見つけた。
「やっぱりか…」
 思わず溜め息が出た。「風呂に入ってゆっくり休め」とは言ったが、こういうことではない。
「キセ、起きろ」
 と声を掛けてみたが、案の定、効果はない。
(こんな折りに…)
 極力離れようと努力しているときに、その肌に触れなければならないとは。
「鬼か」
 思わず、恨み言が言葉に出た。テオドリックの気持ちも知らず、キセは黒く長い睫毛を目元に伸ばし、白い肩を穏やかな呼吸で上下させている。一本の長いピンで器用にくるくるとひとつにまとめられた黒い髪がほつれて細く波を描きながら透けるような首に落ち、湯に温められて血色を増した肩をなぞるように、髪から落ちた水滴が肌を伝っていく。
(まずい)
 裸のキセを抱き上げて平常心でいられる自信がない。一瞬テレーズを呼ぼうかと思ったが、年嵩のテレーズにはキセを抱えて二階へ上がることは不可能だし、他には男しかいない。自分以外の男がキセの身体に触れるのは論外だ。
 テオドリックは観念して衝立に引っ掛けられていた大きな浴用の布を取り上げて肩に掛け、自分のシャツが濡れるのも構わずキセを浴槽から抱き上げた。ここまでしても、キセは目覚めない。苦々しく思いながら、腕と膝でその身体を支え、極力その魅惑的な身体を視界に入れる誘惑と戦いながら目を半開きにしてキセの身体を布で覆ってやり、余った布の端っこで髪をごしごし拭いてやった後、横向きに抱いて寝室まで運んだ。その肌の柔らかさを意識しないように努力したが、無理だ。否応なしにキセの身体の奥を思い出し、身体が熱くなる。
「テレーズ、テレーズ!」
 叫ぶように乳母を呼び、浴用の布に包まったままキセをベッドに横たえた。
「はいはい、殿下。…アラ」
「後は頼む」
 と、トコトコと寝室へ入ってきた乳母にそれだけ言うと、そのまま寝室の奥の扉から自分の部屋へ逃げるように戻り、扉の前で足を止め、
「キセは風呂で熟睡する癖があるから、次から気を付けてやってくれ」
 と言い足してから扉を閉めた。濡れたシャツを脱いで着替える間、イサクが何か言いたそうに足を組んでニヤニヤしていたが、テオドリックはそれを黙殺した。

 翌日から春の宴に向けて準備が始まった。
 テオドリックが最初にしたことは、アストレンヌで最も腕のいい仕立屋のうち、最も噂好きな仕立屋を城に呼ぶことだった。
 狐が自分の尻尾を襟巻きにしたような風体のキツネ色の髪の仕立屋――その名もマダム・ルナールキツネが黒いドレスの裾を靡かせながら靴音も高く現れると、キセはテレーズによって一階の客間へ引っ張り込まれ、一様に黒いドレスを着て髪を引っ詰めたマダムの三人のお針子たちによって白い綿のアンダードレスだけになるまで衣服を剥ぎ取られた後は、彼女たちに身体のあちこちを細かく採寸された。そしてその次の生地を選ぶ作業に入る頃、テオドリックも客間に顔を出した。これを咎めたのは、乳母のテレーズだ。
「あら、殿下!いけませんわ。いくら婚約者でもご婦人のお支度をお覗きになるなんて」
「堅いことを言うな、テレーズ。可愛い婚約者の大切なドレス選びなんだから、俺にも口を挟ませてくれ」
 テオドリックは広々とした客間の大きな姿見に向かうキセの傍らにそっと立ち、輝くような笑みで腰を抱いた。
 キセは逃げ出しそうな足の裏を床にぴったりとくっつけた。それに矛盾して、もっとこの腕の温かさに触れていたいと思った。鏡の中には、頬を染めて嬉しさを隠しきれずに唇を結ぶ白いレースのアンダードレスだけを身に付けた自分がいる。光沢のある明るいグレーのセットアップとチャコールグレーのタイを隙なく身に付けたテオドリックと並んでいるのを見ていると、なんだかひどく恥ずかしくなった。
「ダメか?キセ」
「えっ!?あの…」
「ん?」
 テオドリックの美しい瞳が弧を描いてキセの瞳を覗き込んだ。この顔とこの声を向けられては、キセには拒絶できない。
「だ、だめではないです…」
 キセが耳まで赤くした顔でテオドリックの方を向くと、テオドリックはいつものようにちょっと意地悪そうな含み笑いを返して頬にキスをした。
 テレーズは「まったくもう」などと言って鼻をフンスカ鳴らしていたが、その視線はどこか微笑ましげだ。
 テオドリックはマダム・ルナールの持参した最高級の生地のうち、キセがよく着ている白や淡いブルー、桜色のものを広げて次々にキセの肩から胸にかけて当てていった。
には淡い色も似合うが、もう少し鮮やかな色はどうだ?きっと肌の色がよく映える。美しい黒髪も」
 テオドリックはキセの髪をひと束持ち上げて肩の前に垂らした。そっと肌をかすめる指がくすぐったくて、キセはぴくりと肌を震わせた。
「君は青が好きだろう」
「そうなんです。よくご存じですね」
 キセは眉を開いた。
「当然だ。新しい旅立ちの日に来ていたドレスも青だったな。海の色だからか?」
「はい。海と、空の色です。女神さまを近くに感じられます」
「じゃあ、これはどうだ」
 とテオドリックが手に取ったのはマダム・ルナールの生地のうち、光沢のあるティールブルーの生地で、葉や枝や木の実の文様が地紋になっている。黒いドレスのお針子が生地を受け取ろうとしたが、テオドリックはにっこりとお針子に微笑んでそれを拒み、キセの肩に生地を掛けてやった。
「きれいです…」
 キセはこの色がひと目見て気に入ったが、すぐにその理由に気が付いた。光の当たり具合によって緑色の光を帯びて見え、それがテオドリックの瞳の色とそっくりなのだ。
「纏う者が美しいからドレスも美しく見える」
 テオドリックは低い声で囁き、キセの頬にキスをした。鏡越しに合った視線が、塔の夜の熱を蘇らせた。自分の顔もまともに見られず、キセは目を閉じた。
「あ、あんまり見ないでください…」
「無理な相談だ。見なければドレスの生地が選べないだろう。目を開けろ」
 テオドリックがキセの腰から腹へするりと手を沿わせた。
「あの…でも、うう。こ、これは…やりすぎでは」
 キセが目を半開きにして息だけの声で抗議すると、テオドリックはますます楽しそうに微笑んだ。楽しいはずだ。昨日風呂で眠りこけたキセに無自覚な誘惑を仕掛けられた仕返しをしているのだから。キセは王太子の婚約者として表に出るという立場上、その義務感からこれを拒むことはできない。
 キセの気持ちも露知らず、その様子をうっとりと眺めていたのはマダム・ルナールと乳母のテレーズだ。
「んまあぁ、本当に仲睦まじいこと。お嬢さまもなんてお美しいのかしら。王太子殿下が片時もおそばを離れたくないのも仕方ありませんわねぇ」
「本当に。わたくしも殿下がお生まれになったときからおそばにおりますけれど、こんな殿下は初めてですわ」
「正式な発表はいつになるんですの?」
「もう間もなくだ、マダム・ルナール。楽しみにしていてくれ」
 テオドリックがキセの生地を選びながら輝くような笑顔を向けると、お針子たちとマダム・ルナールがうっとりと頬を染め、次いでキセを生温かい視線でうっとり見つめた。その上マダム・ルナールとテレーズがウフフと微笑み合う声が、キセをますます居たたまれなくさせた。
(は、恥ずかしくて死んでしまいそうです…!)
 キセはもう一度ぎゅっと目を瞑った。
 結局、キセの気がそぞろなうちに二十着分のドレスが決まっていた。正気だったらそんなにたくさんのドレスは注文しなかったはずだが、最後の方はテオドリックとテレーズに勧められるまま生返事をしていたような気がする。というか、確実にそうだ。
 キセが自己嫌悪に陥る間もなく、テオドリックはキセにエマンシュナ風の襟が広くスカートがふんわり広がるレモン色のドレスを用意し、彼女をダンスのレッスンに連れ出した。
 レッスンの場所は一階中央の大広間で、床には中心点から放射状に広がるように色の違う石で大きな七芒星が描かれ、その星型を囲うように古代の遺跡を彷彿とさせる七本の柱が等間隔に立ち、壁には肖像画や武具や馬具が飾られていて、隅にはこの空間にやや不釣り合いな美しいチェンバロが置かれている。吹き抜けの天井に設えられた天窓と南側の庭へと続く大きなガラスの掃き出し窓が、高い位置に上がった太陽の光を大広間へ招き入れて室内を眩しく照らし、巧緻なガラス細工と真鍮でできたシャンデリアをきらきらと輝かせている。
「皆さん強そうです」
 と、ほのぼの言ったキセの視線の先には、高い位置に飾られた肖像画の軍人たちがいる。みな顎髭を伸ばし、甲冑や軍服を着て見る者を威圧している。テオドリックは眉を寄せてそれらを見上げた。
「歴代の王家出身の名将たちだ。ダンスホールには相応しくないから外させよう」
「そんな!歴史あるものなのでしょう?」
「内装を変えるのが面倒だから今までやらなかっただけで、俺は古くて辛気くさいものに関心はない。この城の女主人はあんたなんだから、あんたの好きに変えてもいいんだぞ」
 テオドリックが不敵に笑うと、キセの頬が熱くなった。
「う…では、お花を飾ってみてはどうですか?ダンスがもっと楽しくなりますよ」
「いい考えだ。早速用意させる」
 テオドリックが命じるまでもなく、大広間の隅にいるイサクが外に控えている黒服の使用人に目配せして遣いをやらせた。
「では始めようか。我が国の伝統舞踊‘エメネケット’は単純だが、技術が要る」
「はい、がんばります。よろしくお願いします」
 キセがテオドリックの前に立ち、緊張気味に膝を折ってお辞儀すると、テオドリックは楽しそうに微笑んで自分もお辞儀をした。イサクはその様子を含み笑いで見守りながらチェンバロの前に座った。
「まずはゆっくりなテンポで行きますよ、お二方」
「俺の真似をしろ」
 テオドリックが言った。
 イサクがチェンバロを弾き始めると、テオドリックが頭を下げて挨拶をした。キセもその真似をして頭を下げ、そろりそろりと足を動かし始めた。それほど複雑でないステップを何度か繰り返して互いに手を合わせ、爪先で円を描くように互いの場所を入れ替わる。ここまでは簡単だが、問題はこの先だ。一度男女の位置が入れ替わるごとに曲のテンポがどんどん早くなり、これについていかなければならない。キセは七回目の入れ替わりの時に足をもつれさせた。テオドリックが腕を引き、キセの腰を支えてニヤリと笑った。
「まだまだ、こんなものでは観客は満足してくれないぞ」
「はい、がんばります!」
 キセは身体に触れるテオドリックの体温から逃げ出したくなったが、結局は楽しさが勝ち、夢中になって夕刻までレッスンを続けた。得意分野とまでは行かないが、ダンスは好きだ。
 徐々に速くなる曲調に合わせてキセもステップを踏み、テオドリックと息を合わせて場所を入れ替わる。動作がだんだん激しくなってくると、まるでゲームをしているような感覚でわくわくしてきた。何度か転びそうになったが、全てテオドリックが受け止めた。五回目に足をもつれさせた時は弾みで一緒によろけたテオドリックの膝に乗り上げてしまい、キセはとうとうおかしくなって笑い出した。
「これ、楽しいです」
「それはよかった」
 テオドリックも楽しそうに笑い声を上げた。
 キセは一瞬息が止まった。テオドリックの美しい瞳が燃えるような熱を持ってまっすぐにキセを見つめ、近付いてきたからだ。長い指が結われた髪の中に挿し入れられ、腰に添えられたテオドリックの手に身体を引き寄せられた。
 唇が触れる――と思ったとき、テオドリックはそっと身体を離してキセの手を掴み、立たせた。
「大丈夫か」
 と訊ねてきた声は冷静そのものだった。緑色の瞳の中に宿っていた熱も、すっかりどこかに隠れてしまっている。
「は、はい」
「足を捻ると困る。今日はこのくらいにしよう」
 テオドリックはそう言って、キセに背を向けた。
「はい…」
 キセは混乱した。恥ずかしかった。無意識のうちに唇が触れ合うのを求めていた自分も、楽しいダンスが終わったことに落ち込む自分も、どちらも正しくない。
 この日の夜、キセは掃き出し窓を開けてバルコニーへ出、ネリのある東北の方角を向いて長い時間祈りを捧げた。
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