獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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三十、賭け - le pari -

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 この日、テオドリックは早朝からアストレンヌ城へ出仕し、二階の執務室に籠もって父親が前日にやり残した地方からの行政報告書と街道整備の嘆願書、更には軍備の拡張に関する意見書に目を通し、城に常駐する秘書官たちにそれらに関する指示を出して庭園の池を臨むベンチに腰を下ろした。
 ここ数日、何をしても気分が晴れない。
 自分がこんなに下劣な人間だとは思いもしなかった。
 キセに働いた行為は、暴力的で、利己的で、あまりに幼稚だ。それも、前日にしたのと同じ失敗を、あまつさえ更に悪い形でやってしまった。
(だからいやだったんだ)
 愛だの恋だのというこの執着は、冷静さを失わせる。
 そもそも、道理に合わない。ガイウス・コルネールがキセが足を傷める原因を作ったことに対してあれほど腹を立てておきながら、自分は彼女に対してもっと酷いことをしたのだから。
 キセは‘これは愛の行為ではない’と言った。だが、テオドリックにしてみれば愛とは元々利己的で支配的なものだ。だから心を乱され、相手を傷つけてしまう。
 キセを見るあのガイウス・コルネールの目も、そういう類のものだった。キセの足に巻かれた包帯を見るたびにそれを破り捨ててやりたくなったのも、あの男の中にそういう執着の一端を見たからだ。
 それを――
(‘友達’になっただと)
 あの猛禽のような目をした男に心を許せば、友達では済まない。その上、あの遣り手のガイウス・コルネールが、気に入った女が王太子の婚約者だからと言って大人しく引き下がるような男だとも思えない。春の宴で再び会った時には必ず誘惑しようとするだろう。
 正直、二人を会わせたくない。
 いや、会っても自分が彼女にガイウスの入り込む隙がないほどぴったりくっついていればいい。問題は、キセが触れることを許してくれるかどうかだ。
 テオドリックはベンチに身体を預けて背を反らせ、背もたれのてっぺんに頭を乗せて空を見上げた。さっきまで文字ばかり見ていた目にはこの青空は眩しすぎる。痛いほどだ。テオドリックはきつく目を閉じた。
 八方塞がりだ。キセに触れたくて、誘惑したくて堪らない。同じくらい自分を欲しがって欲しい。それなのに、これ以上深い仲にはなれない。
 兄を殺した男を愛さなければならない道理など、ない。
「ここにいたのか。探したぞ、デレク・・・
 溌剌と透き通るような声が落ちてきた。テオドリックは目を開かなかった。
「…馬術大会はどうした」
「訓練中の怪我で一人欠員が出た。お前に代役を頼もうと思ってな」
 テオドリックは目を開けた。上からこちらの顔を覗き込むように、深い緋色の軍服を纏った姉のネフェリアが見下ろしてくる。短い亜麻色の髪が太陽光に反射して、まるで後光のようだ。
 姉は間違いなく美女なのに、時々本当に男なのではないかと思う時がある。女性にしては背が高いし、顔が整っている分、男と同じ格好をしているとまさに中性的な美青年といった雰囲気がある。話し方や声もそうだ。どちらかというとハスキーな声をしていて、男のような話し方は軍に入る前から身に付いたものだった。
 まだドレスを着てまっすぐな長い髪を流行の髪型に結っていた頃から、数多の者がこの美貌の王女に恋焦がれた。男だけではない。むしろ、女性の崇拝者の方が多かったくらいだ。
 ネフェリアは切れ長のアーモンド型をした麗しい目元を上機嫌に細め、弟の肩をぽんぽんと叩いた。
「さあ、行こう。エスペリスの鞍は付けさせてある」
「まだ政務が片付いていない」
 それに、とてもそんなものに出る気にはなれない。キセやスクネも見に行っているはずだ。なんとなく、彼女と顔を合わせることに抵抗がある。が、そんな事情はネフェリアの知るところではない。
「それは国王の仕事だ。お前は王太子として軍の催しに出ろ。王女と王太子の騎射対決なら確実に盛り上がるし、どちらが勝っても士気が上がると思わないか」
「軍の士気を上げるために出ろと?」
「まさしく王家の者の仕事だろう」
 ネフェリアは腕を組み、胸を張った。
 テオドリックはちょっと考えて、ひとつの条件を出した。
「…せっかくの姉弟対決をただ終わらせるのは惜しいな」
 これを聞いて、ネフェリアは柳眉を上げ、面白そうに深い緑色の瞳をキラリと輝かせた。
「いいぞ。何を賭ける」
「敗者は勝者の願いをひとつ叶える」
「乗ろう」
 ネフェリアはニッと笑って快諾した。

 出走の前、歓声に沸く観客席の西側に驚いた様子のキセの姿を見つけたが、視界に入れないようにして前方と的を見つめた。
 二騎が旗の合図で一斉に走り出した。
 エスペリスの黒い鬣が風に靡き、風を切る音が耳に響く。馬の鞍に括り付けられた矢筒から矢を三本抜き、二本を指に挟んだまま一本を番えて的を射、間髪入れずに次の矢を番え、一枚目よりも正確に中心を狙って的中させた。
 キセは身動きもできなかった。いつの間にか右手の薬指に嵌めたオスイア神の指輪のカメオを手のひら側に回し、それを強く握りしめていた。周囲で男たちが何やら話していたが、彼らの会話も周囲で沸き立つ割れるような歓声も、何もキセの耳には届かなかった。目も耳も、キセの全ての感覚がテオドリックに集中した。
 ただ、自分の鼓動が耳に響く。身体の奥から体温が上昇し、手のひらにじっとり汗をかいた。鳩尾が痛くなって初めて、この奇妙な感覚が激しい高揚感だということに気付いた。
 今までの誰よりも美しい騎射だった。初めて会った時のテオドリックは、月神のように見えた。今は、軍神のようだ。
 テオドリックが五つの的をすべて的中させ、巧みに手綱を捌いて舞うように柵を越え、鼻先の差でネフェリアよりも先にゴールした時、額に汗を浮かべるテオドリックと一瞬目が合った。
 その目に浮かぶものを読み解くよりも、キセは自分の身体の感覚を思い出すことに集中した。電撃を受けたように、身体が固まって動かない。心臓が痛い。身体が熱い。
 審判が二人の得点を発表し、二点の僅差でテオドリックが勝利すると、観衆は大いに沸き、次々に「王太子殿下」と「王女殿下」を讃える大歓声が響いた。二人は下馬して互いを讃えて抱き合い、観衆と審判、鍛錬場の隅に控える他の選手へ向けて手を振った。
 テオドリックもネフェリアも輝くような笑みを浮かべていたが、テオドリックはキセの方を向いた時、微かに笑みを消した。少なくとも、キセにはそう見えた。
 その後、青獅子チームの勝利が宣言されると、鍛錬場中央にいるテオドリックとネフェリアの元へ、華やかに着飾った良家の子女たちが色とりどりの花を一輪ずつ持ってどっと押し寄せ、彼らに手渡し始めた。
「あー、あれは…」
 イサクがちょっと気まずそうに言った。
「伝統なんです。戦に出た騎士が花の乙女の元に舞い戻るって言う、昔話になぞらえているんです。深い意味は――」
 イサクはちらりとキセを見た。テオドリックが花を受け取る度に頬を染めたうら若い貴婦人たちの手にキスをするのを、キセは不自然なほど口数少なく見下ろしている。
「――ないんですよ」
 このイサクの言葉は、正確ではない。
 エマンシュナに古くから伝わる物語では、戦を終えた騎士のもとに花を纏う乙女が現れ、騎士は乙女の花を一輪ずつ剥ぎ取り、やがて二人は交わる。
 この軍の伝統行事における「花」の意味するものは「純潔」であり、若い貴婦人たちが気に入った騎手に花を捧げる儀礼的な行為の意味するところは、「あなたに純潔を捧げてもよい」という意思表示なのだ。
 無論、花を捧げればその想いが叶うというわけではない。あくまで慣例だから、花を捧げる側も受け取る側も、多くの場合はそれ以上の意味を求めたりはしない。その証しに、女性であるネフェリアにも両手では収まりきらないほど多くの花が捧げられている。
 テオドリックは他ならぬ王太子なのだから他の誰よりも多く花を受け取ることは必然だが、それを誇らしいこととして寛容に受け止められるか、或いは気分を害するか、王太子妃になろうというこの女性がどちらの反応を見せるのか、イサクには予想ができなかった。
 が、イサクの心配をよそにキセは顔を輝かせた。
「花瓶がたくさん必要になりますね!早く帰ってテレーズさんと用意しましょう。お花がいっぱいのエントランスはきっと綺麗ですよ」
 スクネはくすくすと笑った。
「しかし、他の騎手が気の毒だな。ほとんど全てを王太子と王女に持って行かれた」
「けれど、誰よりも綺麗な騎射でしたから、納得です。王太子さまでなくても、きっと皆さんテオドリックにお花をあげたと思います。でも、差しあげられるお花が一輪だけというのは、なんだか勿体なく感じますね。わたしはみなさんに差し上げたいです。本当に素晴らしかったですから」
「お前は本当に、天使のようだな」
 スクネは恥ずかしげもなく相好を崩して、キセを愛おしそうに抱きしめた。
 キセもふふ、と笑って兄を強く抱きしめ返したが、目は鍛錬場で乙女から花を捧げられるテオドリックを見ていた。
 
 夜、キセはエマンシュナへ来て初めて床に臥した。原因は、頭痛だ。
 頭痛が頻発する体質ではないが、長い時間太陽の下に出ていたからか、或いは疲労が出たのか、帰り道で重く強い痛みを覚え、夕刻前に帰城してすぐに寝室へ籠もってしまったのだ。
「うう」
 キセは太陽の匂いがしみついた柔らかいリネンの毛布に包まり、唸り声を上げた。
(情けないです…)
 帰ったらすぐに花瓶の用意をして、テオドリックが持ち帰るであろうたくさんの花をテレーズと一緒に生けようと思っていたのに、結局叶わない。それどころか、食事の席にもつくことができなかった。大好きな兄と同じ席で食事ができることなど、あと何度もないというのに。
 それなのに、一人きりになれる理由ができてどこか安堵している自分がいる。
 誰にも会いたくないと感じたのは初めてだ。心の底に澱のようなものが溜まって、いつものように楽しくお喋りしていても、美しいアストレンヌの街並みを見ても、心から笑えない。
 キセは頭から毛布をかぶり、右手の指輪を手のひらの中に入れて握りしめ、祈りの言葉を唱えた。
 この頭痛の種が何なのか、本当は分かっている。しかし、これを表に出してはだめだ。これを認めたら、自分の中で何かが崩れてしまう。
 その後、温かいカモミールティーと胃に優しいオートミールを持ってきたテレーズを笑顔で迎え入れてそれらを胃に入れると、キセは再び毛布に包まって目を閉じた。

 馬術大会を終えたテオドリックとネフェリアは、鍛錬場での打ち上げに顔を出していた。
 煌々と焚かれたいくつもの篝火が広い鍛錬場を照らす中、陸海軍司令官、元帥ら揃って髭面の重鎮たちが顔を揃え、若い兵士たちが石で作った軍隊式の大きな釜戸を用意し、王城から出張してきた料理人たちがそこで肉やパンを焼き、スープを煮る。
 夜も更け酒が進み血気盛んな兵が喧嘩を始めた頃、テオドリックとネフェリアはその喧騒に紛れて宴を抜けた。
「まったく、兵たちの宴はこれがいけないな。酒も過ぎると火種だ」
 ネフェリアは呆れたように首を振って誰もいない鍛錬場の客席の下の通路を進み、厩舎へ足を向けた。冷たい石の壁にまばらに点けられた燭台が足元を照らしている。
「ネフィ…いや、姉上」
 テオドリックが姉を呼び止めた。
 弟からそう呼ばれるのは、何か改まって話がある時だけだ。ネフェリアは振り向いた。
 将校たちとかなり酒を飲んでいたが、テオドリックは酔っていなかった。
「賭けの件か。何が欲しい」
 ネフェリアはわざと軽い調子で言った。
「会って欲しい男がいる」
 これが何を意味するのか、ネフェリアにはわかっている。
 いつもなら縁談など一蹴するところだが、これまでずっと自分の選択に理解を示し続けた弟の頼みだ。しかも、例え遊び半分の勝負事であろうとも、一度取り決めた約束となれば、簡単に反故にするのは自分の矜持が許さない。
 ネフェリアは笑みを消し、無言で先を促した。テオドリックは姉の目をまっすぐ見た。
「イノイルの王太子だ」
 テオドリックは姉が怒り狂うのではないかと思った。姉はここ数年は専らエマンシュナ領内に入り込んだイノイル軍との戦いに明け暮れてきたのだ。
 ところが、ネフェリアは何か合点がいったように「ははあ」と眉を開いた。
「今日、客席にいたな?」
 テオドリックは頷いた。恐るべき洞察力だ。
「何故わかる」
「お前、北側の貴賓席を呆けた顔で見ていただろう」
「間抜けな顔をした覚えはない」
「していたさ。その間抜けな視線の先に、見覚えのない黒髪の娘がいた。よく似た黒髪の男も。あれは兄妹だな。…では――」
 ネフェリアが光明を見たように目を見開き、次にテオドリックを見た。姉の頭の中で何かが繋がったのだ。
「…そういうことだ」
 テオドリックは言った。
「お前がずっとこそこそ何かをしていたのは、こういうことか。すごいな。どうやった」
 ばれていたとは、知らなかった。内密にやっていたし情報が一切漏れないように細心の注意を払っていた。事実、家臣でこのことを知る者は一人もいない。が、姉は何か察知していたようだ。それでも何も聞かなかったと言うことは、それほど信頼してくれていたのだろう。
「怒らないのか」
「人を虜にすることだけが取り柄だった弟がはかりごとを覚えたのだぞ。感心するに決まっている」
 ネフェリアが快活に笑うのを、テオドリックは苦々しい思いで眺めた。どうも褒められている気がしない。
「が、わたしがそれに乗るかどうかは、別の話だ」
「スクネ・バルーク・シトーは高潔な男だ。思慮深く、信頼できる」
 ネフェリアは面白そうに目をキラリと輝かせた。
「わたしは結婚するつもりはないぞ。そのスクネ殿がわたしの決意を覆せるほどの男だと言うのなら話は別だが、まあ、そんなことは起こらないだろう」
 姉の挑戦的な視線を受けて、テオドリックは肩をすくめた。
「スクネ殿もイノイル国王に姉上をその気にさせろと言われている。あの男は王命に忠実だ。手強いぞ」
 ふん、とネフェリアは鼻で笑った。
「それで、お前は――」
 ネフェリアは腕を組んで石の壁に背を預けた。
「あの黒い小鳥ちゃんメルレッティーヌとよろしくやると言うわけか」
「何だその呼び方は」
「ピッタリだろう」
 ふふん、とネフェリアは得意げに笑った。
「彼女はオスタ教の神官だ」
「還俗させたというのか?やるな、デレク」
 と、ネフェリアは揶揄い半分に軍での呼び名で弟を呼んだ。
「それで、その‘海の黒い小鳥ちゃんメルレッティーヌ・マリーヌ’の名は?」
「キセ・ルミエッタ」
「名も可憐だ。キセ姫にもぜひ会いたいね」
 テオドリックはなんとなく姉が男に生まれなくて良かったと思った。会ったばかりのネフェリアにひどく懐くキセの姿が容易に思い浮かぶ。
 テオドリックは想像したキセの様子がおかしくて、小さく笑った。
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