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七十、光の回帰 - rallumé -
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一瞬でキセの頭を恐怖が占めた。
腕を掴むドーリッシュの力が強く、渾身の力でも振り払うことができない。キセは濡れた土と草の上でジタバタともがいた。
「やっ!やめてください!」
「なぜ?姉さんの僕たちがあなたのおもてなしに失敗したのですから、その先は僕の役目ですよ」
興奮に口を歪ませたドーリッシュの息が首筋にかかり、全身が総毛立った。
「あっ、あの方たちは、侯爵夫人の僕では、ありませんっ…!」
「おや、ではあなたの僕ですか?」
「芸術家です!いつかこんなふうに雇われなくても、暮らして行けるようになります」
「他人の未来より、自分の未来のことを考えたらどうです?王女殿下」
ひゅっ、とキセは悲鳴を飲み込んだ。ドーリッシュの手がアンダードレスの下を這っている。恐怖で身体が強張ったが、身を捩ってそれから逃れようとした。
「わたしの未来は、テオドリックと共にあります」
「ふむ」
と、ドーリッシュは厚い唇をニタリと吊り上げた。
「何をされたか言えないほど酷く犯された後もそう言えるか、試してみましょう」
ドーリッシュの舌が、べろりとキセの首を這った。
「い、やっ!」
キセがドーリッシュの顔を払い除けようと振り上げた手を、ドーリッシュは簡単に掴んで止め、土と草の上に強く押し付けた。
「やめませんよ。あなたをどこか遠くへ連れて行って、子を孕むまで犯し続けましょう。そうすれば、二度と王太子殿下の元へ戻ろうと思わないはずです。生まれてくる子が誰の子か分からないのですからね。僕か、王太子か、それともコルネールか」
身体の内側が凍り付いたようになり、キセは言葉を失った。生まれてからこれまで、これほどの悪意に晒されたことがなかった。しかも、この男はキセがガイウスとも寝ていると思っている。ひどい侮辱だ。キセにとっては、自分のことよりも、友人のガイウスが貶められたことの方が悲しかった。
「ほら、あなたがいつも男を誘うように、僕にもやって見せてください。気が変わるかも知れませんよ」
ドーリッシュの手が無遠慮にアンダードレスの上からキセの胸を掴んだ。あまりの痛さにキセは悲鳴を上げそうになったが、唇を噛んで耐えた。涙も堪えた。悪意のある相手に、弱みを見せてはいけない。
「手を、離してください…」
「ああ、その顔。悪くない誘惑ですね」
満足げに笑ったドーリッシュがスカートをたくし上げてキセの膝に触れ、そこから手を這い上がらせてきた。キセの身体の奥からこれまで感じたことのないほどひどい嫌悪感と激しい恐怖が湧き起こり、それが喉を震わせ、今まで出したこともないほどの大きな声を発露させた。
「わたしに触れてよいのはテオドリックだけです!」
その瞬間、鈍い打撃音が耳に届くと同時にフッと身体が軽くなり、真上からジョフロワ・ドーリッシュの姿が消えた。
キセはわけがわからず混乱しそうになったが、刹那の後に誰かに強い力で全身を包み込まれ、ほとんど反射的にその人物にしがみ付いた。
顔が見えなくても、それが誰か、匂いでわかる。
「遅くなった。悪かった」
声が震えている。
「テオドリック…!」
キセはテオドリックの背にしっかりと腕を回した。この時、初めて涙が流れた。
一瞬夢を見ているのかと思ったが、夢ではない。残り香でもない。テオドリックが来てくれた。今までの絶望が嘘のようだ。
「遅くないです。わたし、ちゃんと無事です。来てくださって、ありがとうございます」
冷え切ったキセの身体を強く抱き締めながら、テオドリックは大きく息をついた。キセがとりあえずは無事だった安堵と、易々と攫われた不甲斐なさと、キセを傷付けようとした者たち――とりわけ今まさにキセにのしかかっていたジョフロワ・ドーリッシュへの憎悪と憤怒で、感情がぐちゃぐちゃだ。
本当なら今すぐに剣を抜いて、そこで伸びているドーリッシュの首を斬り落としてやりたい。が、それよりも震えるキセを抱き締めることの方が余程重要だ。それに、逃げたところで間もなく屋敷は軍に包囲される。ヴィゴが手配りをしているはずだ。
テオドリックは雨露に濡れたシャツをキセから剥ぎ取って自分の上衣を脱ぎ、それを肩から掛けてやると、頬に付いた土と涙を袖で拭い、遠慮がちに短い前髪を分けて、額に唇を寄せた。キセが怖がっていないことに安堵して、もう一度腕の中に抱き締めた。
「よく頑張ったな。怖かっただろう」
「はい。でも、テオドリックが来てくださいましたから、もう大丈夫です。それより、ジャンさんが心配です。大怪我をされているかも…」
「すぐ探させる。大丈夫だ」
「はい…」
キセはテオドリックの胸に頬を寄せ、その匂いをすんすんと吸い込んだ。バクバクと破れそうなほどに脈打っていた心臓がだんだんと平静を取り戻していく。それと同調して、思考も次第にはっきりしてきた。重大なことを告げなければならない。
「侯爵夫人はわたしたちの婚姻を阻止し、再び戦争を始めさせるおつもりです」
口に出すだけでぞっとする。再び震え始めた手を、テオドリックが強く握った。
「心配するな。そんなことは絶対にさせないし、あんたにも二度と手を出させない」
キセは、ひどく心配そうにこちらを見つめてくるテオドリックの顔を見上げた。今にも泣き出しそうに見える。
「…なぜ、この場所がわかったのですか?」
「怪しい動きがあると、間諜が知らせに来た。それから、アニエス・コルネールが――」
テオドリックが話して聞かせたのは、キセにとっては意外なことだった。
間諜のヴィゴに言われたとおり、テオドリックは王都郊外に位置するオルレーズ通り六番地のドーリッシュ屋敷へ駆けた。屋敷へ着く頃には雨が上がり、雲の切れ間から月光が微かに射していた。門番はなく、鉄柵の門が閉じられている。屋敷の窓は明るいが、キセがどこにいるのか見当も付かない。屋敷の中を虱潰しに探すには、時間が惜しい。
そこへ、夏の夜には似つかわしくない、足元まですっぽり隠れる黒い外套を纏った女が近付いてきた。フードを目深に被ったその顔は、アニエス・コルネールのものだった。アニエスは周囲を警戒しながら音を立てないように閂を外して門を開け、テオドリックを迎え入れた。
テオドリックが訝しんで声を掛ける前にアニエスが口を開き、息だけの声で手短に言った。
「キセ姫が大切なら、まずはわたしを信用してください、殿下。わたしの見立て通りなら、キセ姫は今頃は北の裏庭に出ているはずです。左の柵に沿って行けば辿り着きます。いなければ裏庭の勝手口から三階へ上がって、中央の部屋を探してください。早く行ってあげて」
フードからチラリと見えた目が、必死に訴えているようだった。訊きたいことは色々あったが、全てどうでもいい。テオドリックは騎乗のまま一目散に駆けて、蔦の這う裏庭らしき場所に辿り着いた。無数のバラが植えられているシェダル宮とは趣が全く違っていて、花の香りがしない。代わりに、雨に濡れた草木と土、それから何か薬草のような重苦しい匂いが辺りに漂っている。
ここで、声が聞こえた。聞き間違えるはずがない。キセの声だ。
地面に置かれたランプの側で、キセが何者かに組み敷かれているのを視認したとき、今まで感じたことのない程の憤怒が身体中に渦巻いた。気付いたときには馬を飛び下りて駆け出し、その男の首根っこを掴んで、頬の骨が砕けるほど激しく殴り飛ばしていた。
その直前にキセが叫んだ言葉が、耳から離れない。
全く不謹慎としか言いようがないが、どこか自己犠牲的な精神性のもとで生きているキセがはっきりとした言葉で自分以外の男を拒絶したのが、嬉しかった。自分に触れてよいのはテオドリックだけだと、キセが心からそう言った。
テオドリックが一部始終を話し終えた後、キセはその腕に身を委ねながら、大きく息をついた。
「アニエスさまが…」
不可解ではあるが、なんだかほっとした。
「…帰ろう、キセ」
テオドリックはキセを抱く腕に力を込めて言った。こんなところにもう一秒でもいさせたくない。
キセが肩にしっかりと腕を回して小さく頷いたのを確認し、テオドリックはその身体を抱き上げた。この時、風に裾が捲れ、キセの白い膝や脛に擦り傷ができているのが見えた。
再び、凍りつくような怒りが血流となって全身を巡っていく。
が、テオドリックは自分でも不思議なほど冷静だった。
(殺してやる)
極めて理性的な頭でそう考えた。ヴェロニク・ルコントとその弟は、害悪でしかない。
門前には、既に軍が到着していた。屋敷へ突入するための配備を指揮していたのは、ネフェリアだ。
柵の外側に待機している空の馬車は、恐らくキセの迎えのためだろう。ヴィゴの要請で動いたにしては、やけに早い。
「アストル准将」
と、テオドリックは姉に声をかけた。今この場では、王太子とその配下の軍人であるという関係性を明示したとも言える。
「テオドリック殿下」
ネフェリアはその意図を汲んで上官に向かってするように弟へ敬礼し、腕に抱かれるキセを認めると、表情こそ変えないものの、明らかにほっとした様子で肩の力を抜いた。
「キセ・ルルー。無事か」
「大丈夫です、ネフェリアさま」
そう言って気丈にも微笑んだキセの頬を、ネフェリアは労るように撫でた。
「先刻護衛どのを我々が保護した。傷は深そうだが、命はひとまず無事だ。レグルス城で医師が治療に当たっている」
「ああ…」
と、キセは安堵して大きく息をつき、涙を浮かべた。
「ありがとうございます」
「助かった。俺からも礼を言う」
「それが仕事だ。しかし、デレクが先に来ていたとは」
「…?俺の部下が軍を要請したのではないのか」
「軍を要請したのはリーズだ」
「そうか」
とだけ言って、テオドリックは鉄柵の門を出、キセを馬車に乗せた。ネフェリアに指示を出すためその場を一度離れようとしたところで、馬車の中からシャツの袖を引かれた。
振り返ると、キセが縋るような顔でこちらを見ている。
テオドリックの胸が愛おしさと哀憐でいっぱいになった。力一杯抱きしめる代わりにキセの髪をくしゃっと撫で、額にキスをした。
「ちょっと待ってろ。すぐ戻る」
はい。と返事をしたかどうか、キセは自分では分からなかった。まだ頭に微かに靄がかかったように思考がはっきりしない。
まだ身体中にドーリッシュに触れられた感触が残っている。手首の赤い痕が、まだ肌を締め付ける気さえする。
キセは身体を縮こまらせて馬車の椅子の上で膝を抱え、テオドリックの上衣にすっぽりと全身を包み込んで、匂いで全身を満たすように大きくゆっくりとした呼吸を繰り返した。
屋敷では、既に静かに兵士たちの潜入が始まっている。テオドリックは屋敷の外から数十人の部下たちの指揮を執るネフェリアに近付いて行き、低い声で言った。
「裏庭でドーリッシュが伸びている。捕らえて尋問しろ。姉と共謀して和平を阻もうとしているのは分かっているが、自白が必要だ。殺す以外は指を折ろうが皮を剥ごうが、何をしても構わない」
ネフェリアは探るような目でテオドリックを見た。
「…軍の規定に則て行う」
テオドリックはネフェリアの実直な瞳を見つめてフン、と鼻を鳴らした。ネフェリアは眉の下を暗くした。
「自分の手で殺すつもりか」
「何故そう思う」
「殺意に満ちたお前を初めて見るからさ」
「軍人の仕事をしろ、アストル准将」
テオドリックは怒気を発して、姉を睨め付けた。
「仰せのままに。王太子殿下」
ネフェリアが畏まってそう言った時には、テオドリックは既に背を向けて馬車へ向かっていた。一分一秒でも惜しい。キセのそばに戻りたい。
テオドリックが馬車に乗り込んだ時、キセは椅子の上で蹲るように膝を抱えたまま、微動だにしなかった。
(眠ったのか?)
テオドリックがキセの髪に触れた途端、キセが弾けるように飛び退き、身体を強張らせた。
「あ…テオドリック…」
恐怖に見開いた黒い瞳がだんだんと光を取り戻していく。テオドリックはキセに触れた手を引っ込めることもできず、そのまま動かなかった。
「すみません。うとうとしていて…」
キセは肩から掛けているテオドリックの上衣を両手で掴んで、俯いた。
テオドリックにひどい態度を取ってしまったことが恥ずかしい。危険は去ったというのに、まだ身体の芯から滲み続ける恐怖を振り払えないでいる。いやな思いをさせて、傷付けたかもしれない。テオドリックの顔が見られない。
「キセ」
と、優しいテオドリックの声が落ちてくると同時に、温かい身体に包まれた。テオドリックの温かい手がキセの手首をそっと撫で、貼り付いた恐ろしい感触を溶かしていく。よく知るこの温度が、ここは安全だと示している。
「一人にして悪かった。もう大丈夫だ。もう離さないから――」
凍え切った世界に光が戻ったような気分だ。キセはテオドリックの腕にしがみつき、広い背に腕を回した。
「怯えなくていい。大丈夫だ。俺がいる」
ふつりと情緒の糸が切れ、堰を切ったように涙が溢れた。
目の奥が痛いほどに熱くなり、止めようと思っても止まらない。叫びにも似た何かが喉に迫り上がり、声となって外に出た。
それからしばらく、キセは子供のように声を上げて泣いた。
腕を掴むドーリッシュの力が強く、渾身の力でも振り払うことができない。キセは濡れた土と草の上でジタバタともがいた。
「やっ!やめてください!」
「なぜ?姉さんの僕たちがあなたのおもてなしに失敗したのですから、その先は僕の役目ですよ」
興奮に口を歪ませたドーリッシュの息が首筋にかかり、全身が総毛立った。
「あっ、あの方たちは、侯爵夫人の僕では、ありませんっ…!」
「おや、ではあなたの僕ですか?」
「芸術家です!いつかこんなふうに雇われなくても、暮らして行けるようになります」
「他人の未来より、自分の未来のことを考えたらどうです?王女殿下」
ひゅっ、とキセは悲鳴を飲み込んだ。ドーリッシュの手がアンダードレスの下を這っている。恐怖で身体が強張ったが、身を捩ってそれから逃れようとした。
「わたしの未来は、テオドリックと共にあります」
「ふむ」
と、ドーリッシュは厚い唇をニタリと吊り上げた。
「何をされたか言えないほど酷く犯された後もそう言えるか、試してみましょう」
ドーリッシュの舌が、べろりとキセの首を這った。
「い、やっ!」
キセがドーリッシュの顔を払い除けようと振り上げた手を、ドーリッシュは簡単に掴んで止め、土と草の上に強く押し付けた。
「やめませんよ。あなたをどこか遠くへ連れて行って、子を孕むまで犯し続けましょう。そうすれば、二度と王太子殿下の元へ戻ろうと思わないはずです。生まれてくる子が誰の子か分からないのですからね。僕か、王太子か、それともコルネールか」
身体の内側が凍り付いたようになり、キセは言葉を失った。生まれてからこれまで、これほどの悪意に晒されたことがなかった。しかも、この男はキセがガイウスとも寝ていると思っている。ひどい侮辱だ。キセにとっては、自分のことよりも、友人のガイウスが貶められたことの方が悲しかった。
「ほら、あなたがいつも男を誘うように、僕にもやって見せてください。気が変わるかも知れませんよ」
ドーリッシュの手が無遠慮にアンダードレスの上からキセの胸を掴んだ。あまりの痛さにキセは悲鳴を上げそうになったが、唇を噛んで耐えた。涙も堪えた。悪意のある相手に、弱みを見せてはいけない。
「手を、離してください…」
「ああ、その顔。悪くない誘惑ですね」
満足げに笑ったドーリッシュがスカートをたくし上げてキセの膝に触れ、そこから手を這い上がらせてきた。キセの身体の奥からこれまで感じたことのないほどひどい嫌悪感と激しい恐怖が湧き起こり、それが喉を震わせ、今まで出したこともないほどの大きな声を発露させた。
「わたしに触れてよいのはテオドリックだけです!」
その瞬間、鈍い打撃音が耳に届くと同時にフッと身体が軽くなり、真上からジョフロワ・ドーリッシュの姿が消えた。
キセはわけがわからず混乱しそうになったが、刹那の後に誰かに強い力で全身を包み込まれ、ほとんど反射的にその人物にしがみ付いた。
顔が見えなくても、それが誰か、匂いでわかる。
「遅くなった。悪かった」
声が震えている。
「テオドリック…!」
キセはテオドリックの背にしっかりと腕を回した。この時、初めて涙が流れた。
一瞬夢を見ているのかと思ったが、夢ではない。残り香でもない。テオドリックが来てくれた。今までの絶望が嘘のようだ。
「遅くないです。わたし、ちゃんと無事です。来てくださって、ありがとうございます」
冷え切ったキセの身体を強く抱き締めながら、テオドリックは大きく息をついた。キセがとりあえずは無事だった安堵と、易々と攫われた不甲斐なさと、キセを傷付けようとした者たち――とりわけ今まさにキセにのしかかっていたジョフロワ・ドーリッシュへの憎悪と憤怒で、感情がぐちゃぐちゃだ。
本当なら今すぐに剣を抜いて、そこで伸びているドーリッシュの首を斬り落としてやりたい。が、それよりも震えるキセを抱き締めることの方が余程重要だ。それに、逃げたところで間もなく屋敷は軍に包囲される。ヴィゴが手配りをしているはずだ。
テオドリックは雨露に濡れたシャツをキセから剥ぎ取って自分の上衣を脱ぎ、それを肩から掛けてやると、頬に付いた土と涙を袖で拭い、遠慮がちに短い前髪を分けて、額に唇を寄せた。キセが怖がっていないことに安堵して、もう一度腕の中に抱き締めた。
「よく頑張ったな。怖かっただろう」
「はい。でも、テオドリックが来てくださいましたから、もう大丈夫です。それより、ジャンさんが心配です。大怪我をされているかも…」
「すぐ探させる。大丈夫だ」
「はい…」
キセはテオドリックの胸に頬を寄せ、その匂いをすんすんと吸い込んだ。バクバクと破れそうなほどに脈打っていた心臓がだんだんと平静を取り戻していく。それと同調して、思考も次第にはっきりしてきた。重大なことを告げなければならない。
「侯爵夫人はわたしたちの婚姻を阻止し、再び戦争を始めさせるおつもりです」
口に出すだけでぞっとする。再び震え始めた手を、テオドリックが強く握った。
「心配するな。そんなことは絶対にさせないし、あんたにも二度と手を出させない」
キセは、ひどく心配そうにこちらを見つめてくるテオドリックの顔を見上げた。今にも泣き出しそうに見える。
「…なぜ、この場所がわかったのですか?」
「怪しい動きがあると、間諜が知らせに来た。それから、アニエス・コルネールが――」
テオドリックが話して聞かせたのは、キセにとっては意外なことだった。
間諜のヴィゴに言われたとおり、テオドリックは王都郊外に位置するオルレーズ通り六番地のドーリッシュ屋敷へ駆けた。屋敷へ着く頃には雨が上がり、雲の切れ間から月光が微かに射していた。門番はなく、鉄柵の門が閉じられている。屋敷の窓は明るいが、キセがどこにいるのか見当も付かない。屋敷の中を虱潰しに探すには、時間が惜しい。
そこへ、夏の夜には似つかわしくない、足元まですっぽり隠れる黒い外套を纏った女が近付いてきた。フードを目深に被ったその顔は、アニエス・コルネールのものだった。アニエスは周囲を警戒しながら音を立てないように閂を外して門を開け、テオドリックを迎え入れた。
テオドリックが訝しんで声を掛ける前にアニエスが口を開き、息だけの声で手短に言った。
「キセ姫が大切なら、まずはわたしを信用してください、殿下。わたしの見立て通りなら、キセ姫は今頃は北の裏庭に出ているはずです。左の柵に沿って行けば辿り着きます。いなければ裏庭の勝手口から三階へ上がって、中央の部屋を探してください。早く行ってあげて」
フードからチラリと見えた目が、必死に訴えているようだった。訊きたいことは色々あったが、全てどうでもいい。テオドリックは騎乗のまま一目散に駆けて、蔦の這う裏庭らしき場所に辿り着いた。無数のバラが植えられているシェダル宮とは趣が全く違っていて、花の香りがしない。代わりに、雨に濡れた草木と土、それから何か薬草のような重苦しい匂いが辺りに漂っている。
ここで、声が聞こえた。聞き間違えるはずがない。キセの声だ。
地面に置かれたランプの側で、キセが何者かに組み敷かれているのを視認したとき、今まで感じたことのない程の憤怒が身体中に渦巻いた。気付いたときには馬を飛び下りて駆け出し、その男の首根っこを掴んで、頬の骨が砕けるほど激しく殴り飛ばしていた。
その直前にキセが叫んだ言葉が、耳から離れない。
全く不謹慎としか言いようがないが、どこか自己犠牲的な精神性のもとで生きているキセがはっきりとした言葉で自分以外の男を拒絶したのが、嬉しかった。自分に触れてよいのはテオドリックだけだと、キセが心からそう言った。
テオドリックが一部始終を話し終えた後、キセはその腕に身を委ねながら、大きく息をついた。
「アニエスさまが…」
不可解ではあるが、なんだかほっとした。
「…帰ろう、キセ」
テオドリックはキセを抱く腕に力を込めて言った。こんなところにもう一秒でもいさせたくない。
キセが肩にしっかりと腕を回して小さく頷いたのを確認し、テオドリックはその身体を抱き上げた。この時、風に裾が捲れ、キセの白い膝や脛に擦り傷ができているのが見えた。
再び、凍りつくような怒りが血流となって全身を巡っていく。
が、テオドリックは自分でも不思議なほど冷静だった。
(殺してやる)
極めて理性的な頭でそう考えた。ヴェロニク・ルコントとその弟は、害悪でしかない。
門前には、既に軍が到着していた。屋敷へ突入するための配備を指揮していたのは、ネフェリアだ。
柵の外側に待機している空の馬車は、恐らくキセの迎えのためだろう。ヴィゴの要請で動いたにしては、やけに早い。
「アストル准将」
と、テオドリックは姉に声をかけた。今この場では、王太子とその配下の軍人であるという関係性を明示したとも言える。
「テオドリック殿下」
ネフェリアはその意図を汲んで上官に向かってするように弟へ敬礼し、腕に抱かれるキセを認めると、表情こそ変えないものの、明らかにほっとした様子で肩の力を抜いた。
「キセ・ルルー。無事か」
「大丈夫です、ネフェリアさま」
そう言って気丈にも微笑んだキセの頬を、ネフェリアは労るように撫でた。
「先刻護衛どのを我々が保護した。傷は深そうだが、命はひとまず無事だ。レグルス城で医師が治療に当たっている」
「ああ…」
と、キセは安堵して大きく息をつき、涙を浮かべた。
「ありがとうございます」
「助かった。俺からも礼を言う」
「それが仕事だ。しかし、デレクが先に来ていたとは」
「…?俺の部下が軍を要請したのではないのか」
「軍を要請したのはリーズだ」
「そうか」
とだけ言って、テオドリックは鉄柵の門を出、キセを馬車に乗せた。ネフェリアに指示を出すためその場を一度離れようとしたところで、馬車の中からシャツの袖を引かれた。
振り返ると、キセが縋るような顔でこちらを見ている。
テオドリックの胸が愛おしさと哀憐でいっぱいになった。力一杯抱きしめる代わりにキセの髪をくしゃっと撫で、額にキスをした。
「ちょっと待ってろ。すぐ戻る」
はい。と返事をしたかどうか、キセは自分では分からなかった。まだ頭に微かに靄がかかったように思考がはっきりしない。
まだ身体中にドーリッシュに触れられた感触が残っている。手首の赤い痕が、まだ肌を締め付ける気さえする。
キセは身体を縮こまらせて馬車の椅子の上で膝を抱え、テオドリックの上衣にすっぽりと全身を包み込んで、匂いで全身を満たすように大きくゆっくりとした呼吸を繰り返した。
屋敷では、既に静かに兵士たちの潜入が始まっている。テオドリックは屋敷の外から数十人の部下たちの指揮を執るネフェリアに近付いて行き、低い声で言った。
「裏庭でドーリッシュが伸びている。捕らえて尋問しろ。姉と共謀して和平を阻もうとしているのは分かっているが、自白が必要だ。殺す以外は指を折ろうが皮を剥ごうが、何をしても構わない」
ネフェリアは探るような目でテオドリックを見た。
「…軍の規定に則て行う」
テオドリックはネフェリアの実直な瞳を見つめてフン、と鼻を鳴らした。ネフェリアは眉の下を暗くした。
「自分の手で殺すつもりか」
「何故そう思う」
「殺意に満ちたお前を初めて見るからさ」
「軍人の仕事をしろ、アストル准将」
テオドリックは怒気を発して、姉を睨め付けた。
「仰せのままに。王太子殿下」
ネフェリアが畏まってそう言った時には、テオドリックは既に背を向けて馬車へ向かっていた。一分一秒でも惜しい。キセのそばに戻りたい。
テオドリックが馬車に乗り込んだ時、キセは椅子の上で蹲るように膝を抱えたまま、微動だにしなかった。
(眠ったのか?)
テオドリックがキセの髪に触れた途端、キセが弾けるように飛び退き、身体を強張らせた。
「あ…テオドリック…」
恐怖に見開いた黒い瞳がだんだんと光を取り戻していく。テオドリックはキセに触れた手を引っ込めることもできず、そのまま動かなかった。
「すみません。うとうとしていて…」
キセは肩から掛けているテオドリックの上衣を両手で掴んで、俯いた。
テオドリックにひどい態度を取ってしまったことが恥ずかしい。危険は去ったというのに、まだ身体の芯から滲み続ける恐怖を振り払えないでいる。いやな思いをさせて、傷付けたかもしれない。テオドリックの顔が見られない。
「キセ」
と、優しいテオドリックの声が落ちてくると同時に、温かい身体に包まれた。テオドリックの温かい手がキセの手首をそっと撫で、貼り付いた恐ろしい感触を溶かしていく。よく知るこの温度が、ここは安全だと示している。
「一人にして悪かった。もう大丈夫だ。もう離さないから――」
凍え切った世界に光が戻ったような気分だ。キセはテオドリックの腕にしがみつき、広い背に腕を回した。
「怯えなくていい。大丈夫だ。俺がいる」
ふつりと情緒の糸が切れ、堰を切ったように涙が溢れた。
目の奥が痛いほどに熱くなり、止めようと思っても止まらない。叫びにも似た何かが喉に迫り上がり、声となって外に出た。
それからしばらく、キセは子供のように声を上げて泣いた。
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