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七十八、エマンシュナ婦人会 - Association pour Femmes Emenchenéennes -
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スクネとネフェリアの婚約が改めて議会で承認された。
――と言っても、テオドリックが議会に諮ることなくキセと婚約したように、国王とその子供たちの婚姻は議会の承認を得る必要はないから、今回議会で承認されたのは、実際にはシダリーズとスクネの婚約の破棄だ。
当初、シダリーズの父親でテオフィル王の二番目の弟ナタナエル・アストル公爵は不満を露わにし、スクネとテオドリックに抗議した。が、結局は受け入れた。
この議場にシダリーズとキセが現れ、シダリーズが自分から破談を申し出たことを父親に説き、キセはシダリーズとエマンシュナで友情を育み、共に歩めることを涙ながらに喜んでナタナエルに感謝を伝えたからだ。
「リーズはわたしがこの国で何をすべきか、王族の女性の視点から示してくださる大切な方です。こんなに素晴らしい姫君をお育てになったナタナエル殿下と奥方のフロランス殿下にも、心から感謝しています」
と、王太子妃になるキセにこう言われたのでは、勝手に隣国の王太子妃になることを拒否した娘を叱りつけようと思っていたナタナエルも引かざるを得ない。テオドリックもシダリーズとネフェリアの英断を議場で誉め讃えた結果、他の有力者たちもそれに同調した。
「ありがとう、キセ。お父さまを説得してくれて」
花模様の装飾が可愛らしい白木の丸テーブルの隣で、シダリーズがバニラとショコラのジェラートを頬張りながら言った。
お気に入りのジェラート屋に、いつも通り‘庶民的な’服装でやって来ているのだ。キセは装飾の少ない濃紺のドレスにつばの広い黒い帽子を被ってこの国ではやや目立つ黒髪を巧く隠しているが、シダリーズは袖と裾にあしらわれたスカラップレースの装飾が美しいペールピンクのドレスに身を包んでいて、その隠しきれないキラキラした空気を周囲に振りまいている。
キセはシナモンとリンゴのジェラートをうっとりと口の中で溶かし、ニコニコしながらちょっと首をかしげた。
「わたしが説得したのではありませんよ。リーズが正直な気持ちを話したから、ナタナエルさまも理解してくださったのだと思います」
「ううん、わたし多分、キセがいなかったら、お父さまにすっごく怒られてたと思う。殴られていたかも」
「そんな!リーズを叩くなんて、誰にもそんなことできません」
「できるわよ」
と断言したのは、アニエスだ。
アニエスは、夜会で見るときとは別人だ。
化粧っ気のない顔は妖艶な美女の面影を隠し、実年齢より三歳は下に見える。髪はひと束の三つ編みにまとめ、灰色がかったミントグリーンの装飾と広がりの少ないドレスを着て、今は長細い銀のスプーンにオレンジとクランベリーのジェラートを乗せている。
アニエスは利かん気の強い少女のように頬を膨らませた。
「男なんて、大概が独善的なんだから。うちの兄が良い例よ。相手が愛する家族だって気に入らないことがあれば手を上げるわ」
「そんなことはないですよ。確かに心配が過ぎてアニエスさまを叩いてしまったのは全く良くないと思いますが、本来のガイウスさまは周囲に気を配れるお優しい方だと思います」
アニエスは不服そうにむぐむぐとジェラートを頬張り、飲み込んだ後で、キセにちょっと意地悪そうな視線を投げ、低く言った。
「…そのアニエスさまっていうのやめて。あなたの方が立場が上なのに、不自然だわ」
「あっ、はい。…アニエス」
何だか恥ずかしい。キセはちょっと顔を赤くした。アニエスもつられて赤面しそうになったが、ジェラートと一緒に頼んだ熱いコーヒーを飲んでごまかした。
「…兄が優しいのはあなたの前だからよ」
「そうでしょうか」
「わたしもそう思うわ」
納得いかない様子のキセに、シダリーズも短く頷いて見せた。
「怒った時こそ人間の本性が出るのよ」
「どんな理由があっても女性に手をあげるなんて、最低だわ」
アニエスとシダリーズが口々に言うので、キセはなんだかガイウスが気の毒になってきた。ガイウスがアニエスをひどく案じていた様子は、テオドリックから聞いている。
「で、ですが、ガイウスさまはもう二度とそんなことをしないと約束してくださいましたよ。もう一度信じて差しあげてください」
そう言って、キセは一週間前のことを思い起こした。
昼食会という名の謀略会議の後、帰路に就こうとしたガイウスの袖を引いて小さなサロンへ呼び出し、こう言った。
「アニエスさまとガイウスさまが、お互いに大切に想い合っているのがよく分かります。それがわかってわたし、お二人のことがもっともっと好きになりました」
キセはちらりとガイウスの顔を見上げた。なんだかぽかんとしている。
自分がしようとしていることがひどいお節介のように思えたが、ここで引いてはいけないと自分を叱咤した。
「あの…。立ち入った話をしてしまって烏滸がましいのですが…」
「とんでもない。気に留めてくれて、嬉しく思う」
苦笑したガイウスに、キセは柔らかく微笑みかけ、「ですが」と声を落とした。
「もう絶対にアニエスさまを叩かないでください。あんなに兄君を慕っていらっしゃるアニエスさまが、感情任せに頬を打たれる道理はありません」
ガイウスは目を丸くして、真っ赤になったキセの顔を見つめた。
(ああ、年上の殿方を叱ってしまいました)
もう友人と思ってくれないかも知れない、と心配になったが、それでも、やはり引けない。
アニエスはガイウスへの感情をひた隠しにして苦しんでいる。その秘密を打ち明けられた以上、キセは秘密を共有する友人として、アニエスの心を守りたい。
「ですから、もうだめですよ。絶対だめです。約束してください」
キセが人差し指を立てて言うと、ガイウスは静かに片膝を着き、キセの手を取って、まっすぐにその瞳を見上げた。キセには唇がちょっとひくついているように見えたが、すぐにガイウスが目蓋を伏せてキセの手の甲に口付けをしたので、それ以上は表情を読み取ることができなかった。
「あなたとアニエスと、神々に誓う。わたしがアニエスに手を上げることは、二度とない」
灰色がかった青い瞳がキセをまっすぐに見つめた。誠実な目だ。
「はい」
と、キセはガイウスににっこり笑いかけた。
「――それは、あなたに叱られて喜んでるわね」
アニエスがもう一口ジェラートを頬張りながら苦々しげに言った。
「わたしもそう思う」
シダリーズもそう言って、ジェラートにのっていたさくらんぼを口に放り込んだ。ちょっといたずらっぽくニヤニヤしている。
「そ、そんなことはないと思います……けど、やはりわたしでは説得力がないでしょうか…」
キセが的外れなことを言って萎れたので、アニエスとシダリーズは思わず顔を見合わせてニヤリとした。
「そうじゃなくて、ほら、好きな子に構われたらやっぱり嬉しいじゃない?」
ウ、とキセはちょっと顔を赤くして言葉を飲み込んだ。
「と、とにかくですね。アニエスさ――アニエスに手をあげたことを後悔されていました。許してあげて欲しいです。それに、本当は、アニエスも許したいと思っているはずです!」
キセは力いっぱい説いた後、ちょっと心配そうにアニエスの顔を覗き込んだ。
アニエスは表情を消してじぃっとキセの顔を見返し、やがて頬を膨らませて、ぷーっと吹き出した。
「何を心配されてるのかと思ったら、とっくに許してるわ。わたしもやり返したんだからおあいこよ」
「そうなのですね」
キセはあからさまにほっとした様子でアニエスに笑いかけた。
「お兄さまが大好きなのね」
シダリーズのこの言葉に、キセはどきりとしてしまった。自分の態度や言動のせいでアニエスの秘密がばれてしまうようなことは、あってはならない。シダリーズに秘密を持つことは心苦しいが、これは自分も墓まで持っていかなければならない秘密だ。
が、アニエスは一瞬だけ呆れたようにキセを一瞥し、「そうね」とシダリーズに短く返答した。
「大切な兄だから」
「でもちょっと兄離れしないといけないわ。キセに意地悪だったのは、作戦のためだけじゃなくて嫉妬してたからでしょう」
何も知らないシダリーズは無邪気なものだ。キセはハラハラとアニエスの顔を見た。傷ついたのではないかと、心配しているのだ。
「――ああいうの、やめてくれる?馬鹿正直に顔に出しすぎだわ」
と、シダリーズが化粧室へ席を立った隙にアニエスが文句を言った。
「す、すみません。つい…」
「別に、あなたが心配するようなことはないわよ。そんなつもりで打ち明けたんじゃないし、今更ガイウスのことで傷ついたりしないわ。それよりも、もっと良いやり方で仕返しすることにしたの」
仕返しとは穏やかではない。やはりまだガイウスのことを怒っているのではないかと、キセは不安になった。ところが、アニエスは勝ち気に笑ってこう言った。
「あなたと仲良くなって、嫉妬させてやろうと思ってるのよ」
「あ…!」
ぱあっとキセは顔を明るくした。
「アニエスさまはわたしのことを友人と思ってくださっているのですね!嬉しいです。そういう仕返しなら、大歓迎ですよ」
「‘さま’ってやめて」
「あっ、はい!アニエス」
「あら。何の話?楽しそう」
戻ってきたシダリーズがころころと笑った。
この日、三人がお忍びで顔を合わせたのは、平服の侍女や従者を離れたところに控えさせて心置きなくジェラートを楽しむためだけではない。
アニエスの大学時代の知り合いの伝を頼り、水路や街路の整備に詳しい専門家の意見を聞きに行くためだ。
キセは以前迷い込んだ郊外の荒廃した地域を、どうにかして人々の集まる場所にしたいと考えていた。今は廃墟になっているが、神殿や屋敷など、きれいにして学校や孤児院などに有効活用できそうな建物が多く見られたからだ。
これをシダリーズに相談したところ、二つ返事で乗ってくれたのだ。更に、学術界で人脈のありそうなアニエスにも協力を仰ぐことになった。
お気に入りのジェラート屋に立ち寄ったのは、戦の前の腹ごしらえのようなものだったが、思いのほかアニエスとシダリーズが打ち解けていたので、この寄り道はただの腹ごしらえ以上の意義があったと、キセは嬉しくなった。
「それではエマンシュナ婦人会、活動開始ですね!」
と、ジェラートを食べ終えたキセが満面の笑みで言うと、アニエスとシダリーズは目をくりくりさせて顔を見合わせた。
「ださっ」
アニエスが失笑した。
「えっ!」
「おばあちゃんたちが趣味で作った刺繍とかお菓子とかを見せ合う集まりみたいよ」
「ああ、いいですね。それもやりましょう!」
「ちょっと、まずは都市計画でしょ」
アニエスが呆れて立ち上がり、シダリーズもそれに続いた。
「行きましょう。名前は後で考えるとして、この活動をもっと大きくしなきゃ」
キセは二人に向かって頷いた。同志がいることがこんなに心強いとは、知らなかった。
「なんだかワクワクします。ね!」
と、弾けるような笑顔で振り返った先には、セレンの姿がある。
セレンは地味なベージュ色の平服を着ていても騎士らしくシダリーズの若い侍女が席から立ち上がるのを手を取ってエスコートしていたが、キセの嬉しそうな視線を受けると、石つぶてでも喰らったように両手で顔を覆い、両手の指の間から主君の後ろ姿をじっと眺め、くぐもった声で独り言のように呟いた。
「うちの姫さま、最高…最高です。可愛すぎる…。そう思いません?」
問いかけられたシダリーズの若い侍女は、鼻息荒く悶えるイノイル人に困惑しながらウン、と頷いた。
――と言っても、テオドリックが議会に諮ることなくキセと婚約したように、国王とその子供たちの婚姻は議会の承認を得る必要はないから、今回議会で承認されたのは、実際にはシダリーズとスクネの婚約の破棄だ。
当初、シダリーズの父親でテオフィル王の二番目の弟ナタナエル・アストル公爵は不満を露わにし、スクネとテオドリックに抗議した。が、結局は受け入れた。
この議場にシダリーズとキセが現れ、シダリーズが自分から破談を申し出たことを父親に説き、キセはシダリーズとエマンシュナで友情を育み、共に歩めることを涙ながらに喜んでナタナエルに感謝を伝えたからだ。
「リーズはわたしがこの国で何をすべきか、王族の女性の視点から示してくださる大切な方です。こんなに素晴らしい姫君をお育てになったナタナエル殿下と奥方のフロランス殿下にも、心から感謝しています」
と、王太子妃になるキセにこう言われたのでは、勝手に隣国の王太子妃になることを拒否した娘を叱りつけようと思っていたナタナエルも引かざるを得ない。テオドリックもシダリーズとネフェリアの英断を議場で誉め讃えた結果、他の有力者たちもそれに同調した。
「ありがとう、キセ。お父さまを説得してくれて」
花模様の装飾が可愛らしい白木の丸テーブルの隣で、シダリーズがバニラとショコラのジェラートを頬張りながら言った。
お気に入りのジェラート屋に、いつも通り‘庶民的な’服装でやって来ているのだ。キセは装飾の少ない濃紺のドレスにつばの広い黒い帽子を被ってこの国ではやや目立つ黒髪を巧く隠しているが、シダリーズは袖と裾にあしらわれたスカラップレースの装飾が美しいペールピンクのドレスに身を包んでいて、その隠しきれないキラキラした空気を周囲に振りまいている。
キセはシナモンとリンゴのジェラートをうっとりと口の中で溶かし、ニコニコしながらちょっと首をかしげた。
「わたしが説得したのではありませんよ。リーズが正直な気持ちを話したから、ナタナエルさまも理解してくださったのだと思います」
「ううん、わたし多分、キセがいなかったら、お父さまにすっごく怒られてたと思う。殴られていたかも」
「そんな!リーズを叩くなんて、誰にもそんなことできません」
「できるわよ」
と断言したのは、アニエスだ。
アニエスは、夜会で見るときとは別人だ。
化粧っ気のない顔は妖艶な美女の面影を隠し、実年齢より三歳は下に見える。髪はひと束の三つ編みにまとめ、灰色がかったミントグリーンの装飾と広がりの少ないドレスを着て、今は長細い銀のスプーンにオレンジとクランベリーのジェラートを乗せている。
アニエスは利かん気の強い少女のように頬を膨らませた。
「男なんて、大概が独善的なんだから。うちの兄が良い例よ。相手が愛する家族だって気に入らないことがあれば手を上げるわ」
「そんなことはないですよ。確かに心配が過ぎてアニエスさまを叩いてしまったのは全く良くないと思いますが、本来のガイウスさまは周囲に気を配れるお優しい方だと思います」
アニエスは不服そうにむぐむぐとジェラートを頬張り、飲み込んだ後で、キセにちょっと意地悪そうな視線を投げ、低く言った。
「…そのアニエスさまっていうのやめて。あなたの方が立場が上なのに、不自然だわ」
「あっ、はい。…アニエス」
何だか恥ずかしい。キセはちょっと顔を赤くした。アニエスもつられて赤面しそうになったが、ジェラートと一緒に頼んだ熱いコーヒーを飲んでごまかした。
「…兄が優しいのはあなたの前だからよ」
「そうでしょうか」
「わたしもそう思うわ」
納得いかない様子のキセに、シダリーズも短く頷いて見せた。
「怒った時こそ人間の本性が出るのよ」
「どんな理由があっても女性に手をあげるなんて、最低だわ」
アニエスとシダリーズが口々に言うので、キセはなんだかガイウスが気の毒になってきた。ガイウスがアニエスをひどく案じていた様子は、テオドリックから聞いている。
「で、ですが、ガイウスさまはもう二度とそんなことをしないと約束してくださいましたよ。もう一度信じて差しあげてください」
そう言って、キセは一週間前のことを思い起こした。
昼食会という名の謀略会議の後、帰路に就こうとしたガイウスの袖を引いて小さなサロンへ呼び出し、こう言った。
「アニエスさまとガイウスさまが、お互いに大切に想い合っているのがよく分かります。それがわかってわたし、お二人のことがもっともっと好きになりました」
キセはちらりとガイウスの顔を見上げた。なんだかぽかんとしている。
自分がしようとしていることがひどいお節介のように思えたが、ここで引いてはいけないと自分を叱咤した。
「あの…。立ち入った話をしてしまって烏滸がましいのですが…」
「とんでもない。気に留めてくれて、嬉しく思う」
苦笑したガイウスに、キセは柔らかく微笑みかけ、「ですが」と声を落とした。
「もう絶対にアニエスさまを叩かないでください。あんなに兄君を慕っていらっしゃるアニエスさまが、感情任せに頬を打たれる道理はありません」
ガイウスは目を丸くして、真っ赤になったキセの顔を見つめた。
(ああ、年上の殿方を叱ってしまいました)
もう友人と思ってくれないかも知れない、と心配になったが、それでも、やはり引けない。
アニエスはガイウスへの感情をひた隠しにして苦しんでいる。その秘密を打ち明けられた以上、キセは秘密を共有する友人として、アニエスの心を守りたい。
「ですから、もうだめですよ。絶対だめです。約束してください」
キセが人差し指を立てて言うと、ガイウスは静かに片膝を着き、キセの手を取って、まっすぐにその瞳を見上げた。キセには唇がちょっとひくついているように見えたが、すぐにガイウスが目蓋を伏せてキセの手の甲に口付けをしたので、それ以上は表情を読み取ることができなかった。
「あなたとアニエスと、神々に誓う。わたしがアニエスに手を上げることは、二度とない」
灰色がかった青い瞳がキセをまっすぐに見つめた。誠実な目だ。
「はい」
と、キセはガイウスににっこり笑いかけた。
「――それは、あなたに叱られて喜んでるわね」
アニエスがもう一口ジェラートを頬張りながら苦々しげに言った。
「わたしもそう思う」
シダリーズもそう言って、ジェラートにのっていたさくらんぼを口に放り込んだ。ちょっといたずらっぽくニヤニヤしている。
「そ、そんなことはないと思います……けど、やはりわたしでは説得力がないでしょうか…」
キセが的外れなことを言って萎れたので、アニエスとシダリーズは思わず顔を見合わせてニヤリとした。
「そうじゃなくて、ほら、好きな子に構われたらやっぱり嬉しいじゃない?」
ウ、とキセはちょっと顔を赤くして言葉を飲み込んだ。
「と、とにかくですね。アニエスさ――アニエスに手をあげたことを後悔されていました。許してあげて欲しいです。それに、本当は、アニエスも許したいと思っているはずです!」
キセは力いっぱい説いた後、ちょっと心配そうにアニエスの顔を覗き込んだ。
アニエスは表情を消してじぃっとキセの顔を見返し、やがて頬を膨らませて、ぷーっと吹き出した。
「何を心配されてるのかと思ったら、とっくに許してるわ。わたしもやり返したんだからおあいこよ」
「そうなのですね」
キセはあからさまにほっとした様子でアニエスに笑いかけた。
「お兄さまが大好きなのね」
シダリーズのこの言葉に、キセはどきりとしてしまった。自分の態度や言動のせいでアニエスの秘密がばれてしまうようなことは、あってはならない。シダリーズに秘密を持つことは心苦しいが、これは自分も墓まで持っていかなければならない秘密だ。
が、アニエスは一瞬だけ呆れたようにキセを一瞥し、「そうね」とシダリーズに短く返答した。
「大切な兄だから」
「でもちょっと兄離れしないといけないわ。キセに意地悪だったのは、作戦のためだけじゃなくて嫉妬してたからでしょう」
何も知らないシダリーズは無邪気なものだ。キセはハラハラとアニエスの顔を見た。傷ついたのではないかと、心配しているのだ。
「――ああいうの、やめてくれる?馬鹿正直に顔に出しすぎだわ」
と、シダリーズが化粧室へ席を立った隙にアニエスが文句を言った。
「す、すみません。つい…」
「別に、あなたが心配するようなことはないわよ。そんなつもりで打ち明けたんじゃないし、今更ガイウスのことで傷ついたりしないわ。それよりも、もっと良いやり方で仕返しすることにしたの」
仕返しとは穏やかではない。やはりまだガイウスのことを怒っているのではないかと、キセは不安になった。ところが、アニエスは勝ち気に笑ってこう言った。
「あなたと仲良くなって、嫉妬させてやろうと思ってるのよ」
「あ…!」
ぱあっとキセは顔を明るくした。
「アニエスさまはわたしのことを友人と思ってくださっているのですね!嬉しいです。そういう仕返しなら、大歓迎ですよ」
「‘さま’ってやめて」
「あっ、はい!アニエス」
「あら。何の話?楽しそう」
戻ってきたシダリーズがころころと笑った。
この日、三人がお忍びで顔を合わせたのは、平服の侍女や従者を離れたところに控えさせて心置きなくジェラートを楽しむためだけではない。
アニエスの大学時代の知り合いの伝を頼り、水路や街路の整備に詳しい専門家の意見を聞きに行くためだ。
キセは以前迷い込んだ郊外の荒廃した地域を、どうにかして人々の集まる場所にしたいと考えていた。今は廃墟になっているが、神殿や屋敷など、きれいにして学校や孤児院などに有効活用できそうな建物が多く見られたからだ。
これをシダリーズに相談したところ、二つ返事で乗ってくれたのだ。更に、学術界で人脈のありそうなアニエスにも協力を仰ぐことになった。
お気に入りのジェラート屋に立ち寄ったのは、戦の前の腹ごしらえのようなものだったが、思いのほかアニエスとシダリーズが打ち解けていたので、この寄り道はただの腹ごしらえ以上の意義があったと、キセは嬉しくなった。
「それではエマンシュナ婦人会、活動開始ですね!」
と、ジェラートを食べ終えたキセが満面の笑みで言うと、アニエスとシダリーズは目をくりくりさせて顔を見合わせた。
「ださっ」
アニエスが失笑した。
「えっ!」
「おばあちゃんたちが趣味で作った刺繍とかお菓子とかを見せ合う集まりみたいよ」
「ああ、いいですね。それもやりましょう!」
「ちょっと、まずは都市計画でしょ」
アニエスが呆れて立ち上がり、シダリーズもそれに続いた。
「行きましょう。名前は後で考えるとして、この活動をもっと大きくしなきゃ」
キセは二人に向かって頷いた。同志がいることがこんなに心強いとは、知らなかった。
「なんだかワクワクします。ね!」
と、弾けるような笑顔で振り返った先には、セレンの姿がある。
セレンは地味なベージュ色の平服を着ていても騎士らしくシダリーズの若い侍女が席から立ち上がるのを手を取ってエスコートしていたが、キセの嬉しそうな視線を受けると、石つぶてでも喰らったように両手で顔を覆い、両手の指の間から主君の後ろ姿をじっと眺め、くぐもった声で独り言のように呟いた。
「うちの姫さま、最高…最高です。可愛すぎる…。そう思いません?」
問いかけられたシダリーズの若い侍女は、鼻息荒く悶えるイノイル人に困惑しながらウン、と頷いた。
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