獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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八十二、啓示 - la révélation -

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「謁見についていった!?」
 シダリーズが喫驚したのは、レグルス城で共に食卓を囲んでいるときのことだ。その他、ネフェリアとオベロンの姉弟と、スクネも同じ席に着いている。
 みな気軽な装いで、ネフェリアは珍しくドレスを着ている。髪の色に似つかわしい亜麻色の流れるような型のドレスだ。シダリーズはオリーブ色、キセはレンガ色のドレス、そして、男性陣も濃紺や深い緑などの色を纏っている。これらの色味だけ見ても、秋の訪れを肌身で感じることができる。――則ち、テオドリックが父王に宣言した和平の期日である‘半年後’が、すぐそばまでやって来ているのだ。
 ネフェリアは切り分けた肉を口に運びながら、彼女たちの様子を興味深く見守った。
 小動物のように何度か口をもぐもぐとさせた後、キセは「はい」と事も無げに言った。
「南の地域を王府に帰属させられないかお願いに行ってみました」
「はぁ…」
 シダリーズは言葉もない。あまりに突拍子もない行動だ。
「気持ちは分かるぞ、リーズ。俺も事後報告されて何も言えなかった」
 テオドリックが眉間に皺を寄せて言った。相談してもらえなかったことが不満なのだ。
「だめと言われてしまったら困りますので、事前に相談せずに行って参りました」
 まるで近所に散歩にでも行ってきたような軽やかさだ。
「気を付けろ、テオドリック。こいつはそういうところがあるぞ」
 向かいの席で、インゲンをフォークに刺したスクネが苦笑した。
 その隣で火が付くような濃さのブランデーをスクネのグラスに注いでいたネフェリアも、おかしそうに笑ってキセに訊ねた。
「で、父上には邪険にされなかったか?」
「はい。とてもお優しかったです。玉座を近くで見せてくださいました」
「近くで?壇上に上がったのか」
「はい」
 ネフェリアは目を見開いて驚き、同じような顔をした弟たちと顔を見合わせた。
「あれには俺たちも近づいたことがない」
「わたしが玉座にしっぽがあるかどうかセレンと話していたら、特別にと仰って…。テオドリックのお父さまはネコさんがお好きなのではないですか?」
「ぶっ」
 テオドリックが吹き出したのを皮切りに、みな声をあげて笑った。
「やめてくれ。即位してもあれに座れなくなる」
「わたしはとっても可愛いと思いましたよ」
 キセがテオドリックに向かって胸を張った。
「きっとテオドリックにも似合います」
「どうかな」
 キセが言うとそんな気がしてくる。
 今までズタズタにしてやりたいと思っていたあの馬鹿馬鹿しいただの権力の象徴は、裏を返せばただの――しかもキセから見れば可愛いただの――金色のネコの椅子だ。
「で、しっぽはあったのか?」
 テオドリックは腹をひくひくさせて、持っていたフォークを皿に置いた。おかしくてとても肉を頬張ることができない。
 キセはちょっと悪戯っぽく笑い、一同をぐるりと見回した。
「それは、テオドリックがあのネコさんの椅子に座ったときにみなさんに教えてください」
 スクネは呆れたようにヤレヤレと首を振ってネフェリアに何事か耳打ちし、顔を見合わせてくすくす笑った。
「ネコさんの椅子は置いておいて、キセ、南の地域はどうなったの?」
「ダメでした」
 シダリーズはちょっとがっかりしたように肩を落としたが、キセは特に気にしている様子がない。
「一度国王から家臣に褒賞として与えたものは、例え王府でも権力を行使して取り戻すことはできないのだそうです」
「そんなの、詭弁だ」
 オベロンが反論した。
「父上は面倒な手続きを渋っているだけです。厳密に言えば、存命中の正当な所有者が五十年以上不明な場合、財産は王府に帰属します。話を聞いた限りでは、デヴェスキという男が正当な権利の継承者かどうかは不確かですから、王府としてはその所有権の正当性を調査する必要があります。その地域が犯罪の温床になっていると言うなら、尚更です」
 正義感の強いオベロンは、父親の対応に失望した。王都に荒廃した地域があると言うこと自体がそもそも王府としての恥なのだ。これを長らく放置していたことでさえ由々しき事態であるのに、キセがわざわざ運んできた解決の好機さえも無駄にするとは、あまりに怠惰だ。
 オベロンの隣でシダリーズがウンウンと頷き、慰めるように肩に触れた。
「はい、なので――」
 と、キセの瞳がらんと光ったとき、テオドリックはちょっと苦々しげに人差し指を上げて遮った。
「言うな。その先はわかる」
「アントワーヌ・デヴェスキの権利が不当なものであることを証明するんだな」
 代わりにネフェリアが先を引き取って言うと、キセは何も不安要素がないといったような感じでにっこりと微笑んだ。
「はい。そこら辺はアニエスとガイウスさまが巧くやってくれると思います。わたしたちはこれから、この計画の賛同者を増やさなければなりません」
「じゃあ、わたしの出番ね」
 シダリーズが言った。
「はい!頑張りましょう」

 夜半、ネフェリアはスクネと共に自分の城の寝室にいた。
 ヌンキ城までネフェリアを送っていったスクネが、優しく情熱的な口付けでネフェリアを誘惑することに成功したからだ。
「今日軍服じゃないのは何故だ?」
 スクネが掠れ声で問うと、ネフェリアは唇を吊り上げてその手を取り、酒と武具のコレクションに囲まれた自室の奥へ招き入れて、自分よりもずっと高い位置にある首に腕を巻き付けた。アクアマリンの瞳が熱っぽく光っている。
「男を誘惑するにはドレスの方が都合がいいだろう」
「そういう時は俺を・・と言えよ」
 スクネが冗談っぽく眉を寄せると、ネフェリアは喉の奥でくすくすと笑った。
「そうだな。スクネを誘惑したかった」
 スクネは満足げに柔らかく微笑んで、唇を重ねた。
「ドレス姿の君も美しいが、俺は軍装の君にもひどくそそられる。まあ、確かにこっちは脱がせやすいという利点があるな」
 スクネは細い首に吸い付きながらスカートの下に手を滑らせてネフェリアの脚に触れ、つ、と腿へと這わせ、途中でぴたりと手を止めた。
「これは――」
 ごつごつした金属と革の感触がある。
「ああ、外していい」
 ネフェリアは失念していたように言った。スクネがスカートを捲り上げると、しなやかな筋肉の付いた白い腿に革のベルトが括り付けられ、そこに小さなナイフが差してある。
「軍人の習慣だ」
 スクネは苦笑した。
「君は本当に油断ならないな」
 革のベルトを金具から外し、ナイフごと手近にあったサイドテーブルに置いて、ネフェリアの腰を抱き寄せた。ネフェリアはスクネの襟を開きながら、悪戯っぽく笑んで言った。その仕草が、ひどく艶冶だった。
「わたしを妻に迎えるからには、寝首を掻かれないように気を付けることだ。スクネ・バルーク」
「では毎晩疲れさせてしまわなくては」
 不意に身体を持ち上げられ、ネフェリアは声を上げて笑った。
 スクネ以外に自分をこうも軽々と担ぎ上げる男はいない。この腕の中が好きだし、この男の肌に触れている感覚も好きだ。スクネの舌が焦らすように鳩尾を這い、身体に火を灯していくのも、スクネが身体を揺らす度に黒い髪が揺れて、黒曜石のような瞳がこちらをまっすぐに見つめ、欲望と愛情とを同時に映すのも、胸に何か熱いものが満ちる、幸福な瞬間だ。
「気付けて良かった」
「…っ、なんだって?」
 スクネが快楽に眉を歪ませながら、ネフェリアの唇に耳を寄せた。ネフェリアはそのままスクネの頬を引き寄せて唇を重ね、身体の奥に感じるスクネの熱と快楽に唸りながら、息だけの声で言った。
「貴殿を愛おしむ気持ちに、気付けて良かった」
 そうでなければ、きっと一生同じ場所にいただろう。
「ああ。俺も愛しているよ」
 と、冷静な声色で言ってはみたが、もう限界だ。スクネは身体中を跳ね回る熱情に堪えられず、ネフェリアの身体の奥にそれをぶつけた。彼女の息遣いが、小さく漏れる声が、スクネを昂らせ、胸を熱くした。
 ネフェリアが腰を反らせて震え、スクネがその中に全てを放ってベッドに倒れ込んだ後、ネフェリアは呼吸を整えながら隣で寝転ぶスクネの汗を布で拭いてやり、静かに言った。
「デヴェスキとルコントの件を、軍人としての最後の任務にする」
 いつもより少しだけ硬い声だ。
「見届けてくれるか、スクネ」
「無論だ」
 スクネはネフェリアの頭を撫で、腕の中に包んだ。
 彼女がどれほど軍人としての人生を大切にしていたか、知っている。一つの終わりを迎えることは、その先にどんな幸福が待っていたとしても、かけがえのないものを深い海の底へ沈めるのと同じことだ。
「君は勇敢だ。尊敬する」
「それは、そうだろう。わたしたちはみなそう在らねばならない。そういう風に育てられてきたのだからな。殊に我が王家は倦むほど長い間、変わりなく」
 スクネはおかしくなった。なんとも、ネフェリア・アストルらしい言葉だ。
「だが最近、大きな変化を感じるんだ。…なあ、スクネ」
 ネフェリアの孔雀色の瞳がスクネを見上げてきらめいた。
「今から言うことは閨での睦言だが――」
 他言するなということだ。スクネは目を細めて返答した。
「わたしには泥の道の事件でデレクは啓示を受けたのではないかと思うときがある」
「啓示?」
「ああ。我が叔父やミノイ王子を始め多くの尊い兵の命が犠牲になったあの海で、女神がキセを探すようデレクを導いたんじゃないかとね」
「驚いた。君が信心深いとは」
「そうでもないさ。ただ、最近はキセの影響かな。あの子が本当に女神が遣わした存在のように思える。あの子に出逢ってデレクは変わった。恐怖や怒りを理由に国王になろうとはしなくなった。本当の意味で王となり国と国民を背負うことを覚悟したようだし、一人の人間としての幸せを諦めなくなった。今日の話もそうだ。母上を亡くしてから止まっていた父上の時間が動き出した」
「そうなのか?」
 玉座を見せてもらったと話していただけだが、娘のネフェリアから見れば父親の明らかな変化が分かるものなのだろうか。
「キセは玉座にしっぽが生えているかと言っただろう」
 スクネは喉の奥で笑った。
「ああ、あれな」
「あれを初めて見たとき、母上も同じことを訊いたそうだ」
 スクネはますますおかしくなった。なんともお茶目な王妃だ。それが二代続こうとは、玉座に座った歴代の王たちも予想しなかったに違いない。
「父上にとって母上の思い出は、憧憬と哀惜の結晶だ。今まではそれに対して心を閉ざして拒絶してきたのに、キセのことは受け入れた。今度は彼女が父上に啓示を授けたのではないか」
「俺は神を信じていない」
 スクネは柔らかな笑みを湛えてネフェリアの金色の髪をさらさらと梳いた。
「すべては人の意志だ。それらが積み重なって道ができ、街ができ、国ができて、歴史がつくられる。その事実は変わらない。だが、時々キセを見ていると、本当に神々が祝福を与えたんじゃないかと思う。あの子には何か、人の心を変える力がある。その源が女神への信仰心なのかもしれないし、海のような広い愛なのかもしれないが――」
 スクネはキセの顔を思い描いた。あどけない可憐な少女だったキセは、今や立派に未来の王妃としての道を歩み始めている。
「寂しいな」
 そう言って、ネフェリアがスクネの髪を撫でた。
「落ち込んでいるように見えたか?」
「ああ。違うのか?」
「いや、そうだな。もうキセが恋しい」
「キセ・ルルーは幸せ者だな。貴殿のような兄がいて」
 スクネはごろりと横向きになって枕に肘をつき、優しい笑みを浮かべるネフェリアの腰をゆるゆると撫でて、誘惑するように唇を吊り上げた。
「心配には及ばない。俺はもう自分の女神を見つけたからな」
「そうか」
 ネフェリアは屈託ない笑い声をあげた。
 スクネは短い金色の髪にキスをし、頬に触れ、珊瑚色の唇にキスをした。
「…もう一度しようか」
 二人は笑って抱き合い、ベッドの上で重なり合った。
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