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九十二、正体 - l’identité -
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ガイウスは冷たい石の螺旋階段を下り、鉄柵の向こうで藁の茣蓙の上に座る老人を見た。上等な毛織物のローブに身を包んで、気怠げに壁に背を預け、片膝を立て、もう片方の脚を伸ばしている。
この世で最も軽蔑する生き物だ。ガイウスは柵の向こうを冷たく見下ろした。
「いいざまだ。アントワーヌ・デヴェスキ」
デヴェスキは立ち上がって鉄の枷をガチャガチャと鳴らしながら柵に近付き、茶色い目を見開いてガイウスに詰め寄った。最初の言葉は、ガイウスが凡そ想像もしていない言葉だった。
「アニエスは」
デヴェスキが声を荒げた。
「アニエスはどうなった。無事なのか」
デヴェスキを見るガイウスの青灰色の目は、石の床よりも冷たい。
「どの口が」
と、吐き棄てるように言った。
「お前のせいで毒を盛られたんだぞ。あの強欲な女がお前の資産と事業を全て乗っ取るためにしたことだ。よくもうちのアニエスを…」
「うちの?」
デヴェスキが激しい口調で言った。
「うちの、と言ったか?アニエスはわたしの娘だ。生まれた時から、今までずっと!大体、最初に娘を巻き込んだのは一体誰だ、ガイウス!」
「お前のような薄汚い詐欺師に、父親を名乗る権利などない。アニエスはコルネールの娘だ。だがお前は違う。もうコルネールとは何の関係もない」
デヴェスキは不揃いな歯を剥き、狂ったように笑い出した。笑い声が石の壁に響く。
「何という卑劣な男だ、ガイウス!お前、アニエスの負い目を利用したな」
「アニエスは何も負い目に思うことはない」
ガイウスは静かに反駁した。このろくでなしの口から大切なアニエスの名が出るのが、不愉快で堪らない。
「そう言ったのか?アニエスに。コルネールの血が繋がっていなくともお前はコルネールの娘だ、何も気にするな、と?分かっているはずだ。そんな言葉が気休めにもならんと言うことをな。その無意味な言葉を免罪符にして、お前はアニエスを利用する罪悪感を消したかったんだろうよ。だがアニエスはどうだ。ますますお前に尽くそうとしただろう。あれほどの娘が命を削るさまを、お前は目的のために看過していたんだろう。お前は卑劣で、狡猾で、傲慢極まりない。お前の父親と同じように」
「どうとでも言えばいい。だがわたしはお前に似ていると思ったことはない」
「はあ?おいおい、まさか――」
デヴェスキは目を血走らせ、耳障りな甲高い声でヒッヒと笑った。
「お前、今までわたしを父親だと思っていたのか」
ガイウスは凍り付いた。しかし、デヴェスキが冗談を言っているとも思えない。幼い頃から抱いていた‘父親’への違和感の正体が、今理解できた気がする。
言葉が出ないガイウスを揶揄するように、デヴェスキは続けた。
「そうか、コンスタンスめ。言わなかったんだな。わたしはてっきり、血が繋がっていないからこその憎悪と思っていたが、お前の冷血ぶりは大したものだ。肉親と信じていた相手でさえそれほど憎むことができるとはな」
デヴェスキは目を三日月の形に歪めた。
「お前と顔を合わせるのもこれが最後だろうから教えておいてやる。お前はコンスタンスがわたしとの結婚を避けるために他の男と作った子供だ。だが妊娠が分かる前に相手は馬車の事故で死んだ。名はマルセル・ピノ。美術商だった。ある意味では、商売敵だよ。コルネールと結婚するために、婚約者だったわたしの命を何度も狙ってきた。暗殺者を雇い、馬車に仕掛けをしてまで」
この言葉が、ガイウスに鮮烈な発想をもたらした。何の証拠もない、ただの憶測だ。だが、確信に近い。
「…殺したな」
この時デヴェスキはひどく醜悪な笑みを見せた。答えなど聞かなくても、その顔で十分だ。
「事故が故意に起こされたものだとしたら、その可能性はあるな。だがそれは殺し合いの結果、わたしが勝ったというだけのことだ。最も罪深きは我らがコンスタンスだろう。最初の子の父親を殺した男と寝て、挙げ句その子供を産んでいるのだから。まったく、理解に苦しむね」
まるで他人事のような言いざまだ。セオスはコンスタンスが一人で作って産んだとでも思っているように聞こえる。
「はっ」
ガイウスは鼻で笑った。胃の中で何かがぐらぐらと渦巻いている。最悪の気分だ。
「お前にはわからないだろうさ」
妻を財産の付属品としか考えていないような男に、わかってたまるか。
セオスは保険だったのだ。母コンスタンスはマルセル・ピノを殺したのがデヴェスキだと知っていたのだろう。その憎しみがガイウスに向くのを恐れ、夫の血をコルネール家に残すことでその殺意を削ごうとしたのだ。これも、狡猾なやり方だ。しかし母を責めることはできない。彼女がセオスのことをガイウスと同じように心から愛していたことを、ガイウスは知っている。無論、セオスもそれを知っている。
「血の繋がりがどうだろうと、セオスもアニエスも愛している。わたしたちは家族だ。だがお前は違う。暗闇の中で孤独に死ぬといい」
「お前にそんな情緒があったとは驚いた。わたしはてっきり、血の繋がらない美しいアニエスを慰み者にするためにそばに置いていると思っていたよ、ガイウス」
ガイウスは奥歯を噛んだ。でなければ品性の欠片もなく目の前の男を罵倒していたことだろう。
「お前と言う奴は、どこまで下劣なんだ?生きていることが恥ずかしくならないのか」
憤怒を必死で抑え込むガイウスに向かって、デヴェスキはニタリと嘲笑った。得体の知れない薄気味悪さが、ガイウスのうなじをぞくりとさせた。
「…お前は一体誰なんだ。ルネ・ヴィエルニルも本当の名ではないんだろう」
「ルネ・ヴィエルニルは大陸の西の方からやってきた行商だ。一年ほど行動を共にし、ルネが死んだ後はわたしがルネに成り代わって身代を大きくしてやった」
「…本物のルネ・ヴィエルニルを殺したのか。人生を乗っ取るために」
ガイウスは驚かなかった。デヴェスキの人を食ったような顔が、残忍な殺人者の顔へと変貌しても、それが本来の姿なのだろうと思っただけだ。だが、アニエスはひどく傷付くだろう。もう既にボロボロに傷付いているのに、これを知れば更に傷を増やすことになる。
セオスもそうだ。遠くルドヴァンで領主の名代として政務に集中していることが幸い、父親のことはまだその耳には入っていない。それが、突然こんなことを知らされたら、どんなに苦しむだろう。
「お前は一体誰だ」
ガイウスはもう一度訊いた。
「それがな、わたしもよくわからんのだ」
デヴェスキは不気味に笑った。
「最初に呼ばれていた名は確か‘ハンス’だ。姓はない。親は傭兵と娼婦だったらしいが物心つく前にどこぞで死んだらしい。名も知らん。気付いた時には傭兵団で使い走りをさせられていた。わたしは体が小さかったから兵には向かないと、武具の調達、伝令、傭兵の身の回りの世話が主な仕事だった。それで目端が利くようになって、ある日見張りの兵を一人殺して、金と武具を盗んで逃げた。あいつらはわたしみたいな小物が攻撃すると思わないから、やるのは簡単だ。奴らが人を殺すのを散々見てきたから、やり方は知っていたのさ。商売を始めて最初に名乗ったのは‘テランス・リアン’。姓がある方が信用されやすいだろ?ティモテ・リヴィエとか、リシャール・テレル、…TRとも呼ばれていた。もうあとは思い出せないな」
「そうか」
ガイウスは何の感情もその顔に映さず、背を向けた。
「待て!」
デヴェスキが叫んだ。
「娘に会わせろ」
「何故だ」
「わたしは死罪だろう。死ぬ前に血を分けた子の顔を見たい」
「セオスもお前の子なんだろう。アニエスと何が違う」
はっ、とデヴェスキは鼻で笑った。
「セオス。あれはコルネールのものだ。コンスタンスがわたしを使って手に入れた駒に過ぎない。だがアニエスは違う。あれは、わたしの娘だ。わたしが、望んだ女に産ませた、小さなアニエスだ」
ガイウスは新鮮な驚きを持ってこの老人を振り返った。
まさか、アニエスのことを本当に愛しているのか。いや、或いは執着かもしれない。ついぞ親を知らず、自分が何者かも知らずに生きて死ぬ人生の大きな欠損を、血を分けた子の存在を確かめることで補いたいのかもしれない。こういう手合いは、自分にコントロールできないことがあるという事実を嫌うものだ。それが親の不存在や自分の起源の不確かさという、人間の手の及ばないことであっても。
「…死んだんじゃないだろうな」
と、デヴェスキは無言のままでいるガイウスに向かって顔色を変えた。
「ガイウス!」
「お前が何者か知れてよかった、ハンス」
それだけ言って、ガイウスは監獄を後にした。デヴェスキの叫び声が背中を追いかけてくる。が、ガイウスは答えなかった。
石の階段を上がりながら考えていたのは、アニエスのことだ。
これまで兄妹だと思っていた。半分は血が繋がっていると、そう信じていた。
セオスとは、種違いだと知ってもこれからも変わらずにいられるだろう。そもそも、父親の存在が希薄だったのだ。今更父親が違うと知ったところで、どうということもない。それに、セオスはコルネールの人間として、立派に領主代理を務めている。勤勉で誠実で、合理的かつ健全な精神を持った、ガイウスが最も信頼できる人間だ。
(しかし、アニエスは――)
ガイウスは分厚い木製の扉と二重になった鉄柵の門を出、青空の眩しさに目を閉じた。
アニエスとは、何かが決定的に変わってしまう気がする。血の繋がりなど関係ない。家族として愛している。その言葉に嘘はない。
問題は、近頃アニエスが知らない女に見えることだ。――いや、違う。元々知らなかったのだ。
今までガイウスがアニエスだと思っていた明るく優美な娘は、‘コルネール家の妹’を必死に演じていたアニエスに過ぎず、本当のアニエスは孤独で、意地が強く、献身的で、誰よりも愛を求めている、強く脆い、ありふれた心を持つ女だ。
(愛おしい)
と、心からそう思った。
だが、許されるのだろうか。残された数少ない肉親であるその父親を追放し、処刑台へと導こうとしている血の繋がらない男を、アニエスはこの後の人生の中で憎むようになるのではないか。
――しかし、それはアニエスが目を覚ませば、の話だ。
きっとこの後の議会の間ずっと頭を占めるのは、最後に見たアニエスの青白い寝顔だろう。
気に入らないが、デヴェスキ――いや、‘ハンス’の言っていたことは正しい。アニエスを巻き込んだのは自分だ。それも、危険なことをさせている自覚はあった。アニエスが危険を顧みず、コルネールのために目的を遂行しようとしていることも、理解していた。
(わたしのせいだ)
ガイウスは黒い石の牢を背に、歯噛みする思いで馬車に乗り込んだ。
この世で最も軽蔑する生き物だ。ガイウスは柵の向こうを冷たく見下ろした。
「いいざまだ。アントワーヌ・デヴェスキ」
デヴェスキは立ち上がって鉄の枷をガチャガチャと鳴らしながら柵に近付き、茶色い目を見開いてガイウスに詰め寄った。最初の言葉は、ガイウスが凡そ想像もしていない言葉だった。
「アニエスは」
デヴェスキが声を荒げた。
「アニエスはどうなった。無事なのか」
デヴェスキを見るガイウスの青灰色の目は、石の床よりも冷たい。
「どの口が」
と、吐き棄てるように言った。
「お前のせいで毒を盛られたんだぞ。あの強欲な女がお前の資産と事業を全て乗っ取るためにしたことだ。よくもうちのアニエスを…」
「うちの?」
デヴェスキが激しい口調で言った。
「うちの、と言ったか?アニエスはわたしの娘だ。生まれた時から、今までずっと!大体、最初に娘を巻き込んだのは一体誰だ、ガイウス!」
「お前のような薄汚い詐欺師に、父親を名乗る権利などない。アニエスはコルネールの娘だ。だがお前は違う。もうコルネールとは何の関係もない」
デヴェスキは不揃いな歯を剥き、狂ったように笑い出した。笑い声が石の壁に響く。
「何という卑劣な男だ、ガイウス!お前、アニエスの負い目を利用したな」
「アニエスは何も負い目に思うことはない」
ガイウスは静かに反駁した。このろくでなしの口から大切なアニエスの名が出るのが、不愉快で堪らない。
「そう言ったのか?アニエスに。コルネールの血が繋がっていなくともお前はコルネールの娘だ、何も気にするな、と?分かっているはずだ。そんな言葉が気休めにもならんと言うことをな。その無意味な言葉を免罪符にして、お前はアニエスを利用する罪悪感を消したかったんだろうよ。だがアニエスはどうだ。ますますお前に尽くそうとしただろう。あれほどの娘が命を削るさまを、お前は目的のために看過していたんだろう。お前は卑劣で、狡猾で、傲慢極まりない。お前の父親と同じように」
「どうとでも言えばいい。だがわたしはお前に似ていると思ったことはない」
「はあ?おいおい、まさか――」
デヴェスキは目を血走らせ、耳障りな甲高い声でヒッヒと笑った。
「お前、今までわたしを父親だと思っていたのか」
ガイウスは凍り付いた。しかし、デヴェスキが冗談を言っているとも思えない。幼い頃から抱いていた‘父親’への違和感の正体が、今理解できた気がする。
言葉が出ないガイウスを揶揄するように、デヴェスキは続けた。
「そうか、コンスタンスめ。言わなかったんだな。わたしはてっきり、血が繋がっていないからこその憎悪と思っていたが、お前の冷血ぶりは大したものだ。肉親と信じていた相手でさえそれほど憎むことができるとはな」
デヴェスキは目を三日月の形に歪めた。
「お前と顔を合わせるのもこれが最後だろうから教えておいてやる。お前はコンスタンスがわたしとの結婚を避けるために他の男と作った子供だ。だが妊娠が分かる前に相手は馬車の事故で死んだ。名はマルセル・ピノ。美術商だった。ある意味では、商売敵だよ。コルネールと結婚するために、婚約者だったわたしの命を何度も狙ってきた。暗殺者を雇い、馬車に仕掛けをしてまで」
この言葉が、ガイウスに鮮烈な発想をもたらした。何の証拠もない、ただの憶測だ。だが、確信に近い。
「…殺したな」
この時デヴェスキはひどく醜悪な笑みを見せた。答えなど聞かなくても、その顔で十分だ。
「事故が故意に起こされたものだとしたら、その可能性はあるな。だがそれは殺し合いの結果、わたしが勝ったというだけのことだ。最も罪深きは我らがコンスタンスだろう。最初の子の父親を殺した男と寝て、挙げ句その子供を産んでいるのだから。まったく、理解に苦しむね」
まるで他人事のような言いざまだ。セオスはコンスタンスが一人で作って産んだとでも思っているように聞こえる。
「はっ」
ガイウスは鼻で笑った。胃の中で何かがぐらぐらと渦巻いている。最悪の気分だ。
「お前にはわからないだろうさ」
妻を財産の付属品としか考えていないような男に、わかってたまるか。
セオスは保険だったのだ。母コンスタンスはマルセル・ピノを殺したのがデヴェスキだと知っていたのだろう。その憎しみがガイウスに向くのを恐れ、夫の血をコルネール家に残すことでその殺意を削ごうとしたのだ。これも、狡猾なやり方だ。しかし母を責めることはできない。彼女がセオスのことをガイウスと同じように心から愛していたことを、ガイウスは知っている。無論、セオスもそれを知っている。
「血の繋がりがどうだろうと、セオスもアニエスも愛している。わたしたちは家族だ。だがお前は違う。暗闇の中で孤独に死ぬといい」
「お前にそんな情緒があったとは驚いた。わたしはてっきり、血の繋がらない美しいアニエスを慰み者にするためにそばに置いていると思っていたよ、ガイウス」
ガイウスは奥歯を噛んだ。でなければ品性の欠片もなく目の前の男を罵倒していたことだろう。
「お前と言う奴は、どこまで下劣なんだ?生きていることが恥ずかしくならないのか」
憤怒を必死で抑え込むガイウスに向かって、デヴェスキはニタリと嘲笑った。得体の知れない薄気味悪さが、ガイウスのうなじをぞくりとさせた。
「…お前は一体誰なんだ。ルネ・ヴィエルニルも本当の名ではないんだろう」
「ルネ・ヴィエルニルは大陸の西の方からやってきた行商だ。一年ほど行動を共にし、ルネが死んだ後はわたしがルネに成り代わって身代を大きくしてやった」
「…本物のルネ・ヴィエルニルを殺したのか。人生を乗っ取るために」
ガイウスは驚かなかった。デヴェスキの人を食ったような顔が、残忍な殺人者の顔へと変貌しても、それが本来の姿なのだろうと思っただけだ。だが、アニエスはひどく傷付くだろう。もう既にボロボロに傷付いているのに、これを知れば更に傷を増やすことになる。
セオスもそうだ。遠くルドヴァンで領主の名代として政務に集中していることが幸い、父親のことはまだその耳には入っていない。それが、突然こんなことを知らされたら、どんなに苦しむだろう。
「お前は一体誰だ」
ガイウスはもう一度訊いた。
「それがな、わたしもよくわからんのだ」
デヴェスキは不気味に笑った。
「最初に呼ばれていた名は確か‘ハンス’だ。姓はない。親は傭兵と娼婦だったらしいが物心つく前にどこぞで死んだらしい。名も知らん。気付いた時には傭兵団で使い走りをさせられていた。わたしは体が小さかったから兵には向かないと、武具の調達、伝令、傭兵の身の回りの世話が主な仕事だった。それで目端が利くようになって、ある日見張りの兵を一人殺して、金と武具を盗んで逃げた。あいつらはわたしみたいな小物が攻撃すると思わないから、やるのは簡単だ。奴らが人を殺すのを散々見てきたから、やり方は知っていたのさ。商売を始めて最初に名乗ったのは‘テランス・リアン’。姓がある方が信用されやすいだろ?ティモテ・リヴィエとか、リシャール・テレル、…TRとも呼ばれていた。もうあとは思い出せないな」
「そうか」
ガイウスは何の感情もその顔に映さず、背を向けた。
「待て!」
デヴェスキが叫んだ。
「娘に会わせろ」
「何故だ」
「わたしは死罪だろう。死ぬ前に血を分けた子の顔を見たい」
「セオスもお前の子なんだろう。アニエスと何が違う」
はっ、とデヴェスキは鼻で笑った。
「セオス。あれはコルネールのものだ。コンスタンスがわたしを使って手に入れた駒に過ぎない。だがアニエスは違う。あれは、わたしの娘だ。わたしが、望んだ女に産ませた、小さなアニエスだ」
ガイウスは新鮮な驚きを持ってこの老人を振り返った。
まさか、アニエスのことを本当に愛しているのか。いや、或いは執着かもしれない。ついぞ親を知らず、自分が何者かも知らずに生きて死ぬ人生の大きな欠損を、血を分けた子の存在を確かめることで補いたいのかもしれない。こういう手合いは、自分にコントロールできないことがあるという事実を嫌うものだ。それが親の不存在や自分の起源の不確かさという、人間の手の及ばないことであっても。
「…死んだんじゃないだろうな」
と、デヴェスキは無言のままでいるガイウスに向かって顔色を変えた。
「ガイウス!」
「お前が何者か知れてよかった、ハンス」
それだけ言って、ガイウスは監獄を後にした。デヴェスキの叫び声が背中を追いかけてくる。が、ガイウスは答えなかった。
石の階段を上がりながら考えていたのは、アニエスのことだ。
これまで兄妹だと思っていた。半分は血が繋がっていると、そう信じていた。
セオスとは、種違いだと知ってもこれからも変わらずにいられるだろう。そもそも、父親の存在が希薄だったのだ。今更父親が違うと知ったところで、どうということもない。それに、セオスはコルネールの人間として、立派に領主代理を務めている。勤勉で誠実で、合理的かつ健全な精神を持った、ガイウスが最も信頼できる人間だ。
(しかし、アニエスは――)
ガイウスは分厚い木製の扉と二重になった鉄柵の門を出、青空の眩しさに目を閉じた。
アニエスとは、何かが決定的に変わってしまう気がする。血の繋がりなど関係ない。家族として愛している。その言葉に嘘はない。
問題は、近頃アニエスが知らない女に見えることだ。――いや、違う。元々知らなかったのだ。
今までガイウスがアニエスだと思っていた明るく優美な娘は、‘コルネール家の妹’を必死に演じていたアニエスに過ぎず、本当のアニエスは孤独で、意地が強く、献身的で、誰よりも愛を求めている、強く脆い、ありふれた心を持つ女だ。
(愛おしい)
と、心からそう思った。
だが、許されるのだろうか。残された数少ない肉親であるその父親を追放し、処刑台へと導こうとしている血の繋がらない男を、アニエスはこの後の人生の中で憎むようになるのではないか。
――しかし、それはアニエスが目を覚ませば、の話だ。
きっとこの後の議会の間ずっと頭を占めるのは、最後に見たアニエスの青白い寝顔だろう。
気に入らないが、デヴェスキ――いや、‘ハンス’の言っていたことは正しい。アニエスを巻き込んだのは自分だ。それも、危険なことをさせている自覚はあった。アニエスが危険を顧みず、コルネールのために目的を遂行しようとしていることも、理解していた。
(わたしのせいだ)
ガイウスは黒い石の牢を背に、歯噛みする思いで馬車に乗り込んだ。
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