獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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百二、生命 - la vie -

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 下の甲板に降りて薄暗い船室に連れ込まれるや否や、キセの身体は壁に押し付けられ、炎のような口づけに見舞われた。
 激しく絡みついてくる舌に翻弄されて呼吸もままならず、もがくようにテオドリックにしがみついた。じくじくと唇が腫れて熱を持ち始めた頃、テオドリックは唇を解放し、キセの頬を両手で包んだ。
 テオドリックのエメラルドグリーンの瞳がひどく張り詰めている。その感情の昂りが肌に伝わって来るほどだ。
 そしてこの時、キセはようやく自分たちがどこにいるのかを知った。船員たちの仮眠用の部屋であるらしく、周囲には狭い寝台がいくつか並び、その上に簡易的な寝具が積まれている。
 「暖を取る」という言葉の意味を正しく理解した時、身体の奥から熱が溢れ出し、心臓が忙しく鳴り始めた。
「キセ…」
 テオドリックがキセの外套を肩からすべり落とし、首の窪みに吸い付きながら、すっかり冷たくなったドレスをまさぐり、背中に探り当てた留め具を外し始めた。唇の触れる場所から小さな火花が散り始める。
「あ、あの、会合が…」
「気にするな。もう終わったようなものだ」
「え!?で、でもまだ…」
「濡れた服を着ていたら余計に冷えるだろ。風邪を引かせたくない」
 テオドリックが当然のように言うので、キセはそれもそうかと納得しそうになったが、一瞬で考えを改めた。まだ国王たちは互いの船の上で話し合っている。今からしようとしていることは、間違いなく不謹慎だ。
 ところがテオドリックはキセが躊躇するのも構わず、海水と潮風で冷たくなったドレスをあっという間に剥ぎ取ってしまった。
 キセが胸を隠すよりも先に、テオドリックはキセの腕を掴んで壁に押し付け、鎖骨から胸へと唇で辿り、その先端を食んだ。
「あっ…!」
 キセの肌に熱が蘇って快感に震え、抵抗力をなくし始めると、テオドリックはバサバサと濡れたベストとシャツを甲板の上に脱ぎ捨ててキセの身体を担ぎ上げ、奥の寝台へ押し倒した。
「もう、テオドリック…」
 キセは咎めるように言ったが、その声は欲望に火を点けられて、掠れている。
 テオドリックは自分も寝台に乗り上げ、きちんと畳まれていた毛布で二人の身体を包むと、キセの唇を指でなぞり、もう片方の手でキセの左胸に触れた。柔らかな体温がキセの肌を伝っていく。
「温めてくれ、キセ」
 この瞬間、キセは囚われた。
 金色の睫毛に縁取られた美しい緑色の目がキセにこいねがい、官能的な唇が重なり合おうと下りてくる。
 衝動的で無分別なこの行為は、たったいま命を脅かされたテオドリックの生命への渇望なのだ。今、テオドリックは生命に触れ、キセの身体を通して、勝ち得た自分の命を確かなものにしようとしている。
 そして唇が触れ合ったとき、キセは躊躇も分別も棄てた。
 舌が絡み合うと腹の奥で欲望が溶け出し、テオドリックの指が触れた乳房の先端からひりひりと快感が走って、キセの身体に無数の火花を散らせた。冷え切った身体に熱が灯り、悦びが走る。
「あ――!」
 テオドリックの指が中へ入ってきて、キセの弱い場所をつついた。自分でも分かる。身体の奥がテオドリックを迎え入れるべく潤い、テオドリックの長い指を濡らしている。
「あ、あっ。待ってください…。もう…――っ!」
 胸と脚の間から全身につたわる快楽が、キセの身体を震わせ、官能の果てへ連れて行った。
 こんなに早く果ててしまうなんて、恥ずかしい。身体が異常なほど熱い。ふわふわと霞がかった意識の中で、キセは自分もテオドリックと同じく、生命に触れる行為を求めているのだと知った。中から指が抜かれても、身体の内側に痺れるような感覚が残っている。
「キセ、もう入りたい」
 テオドリックは苦悶するような顔で言い、鬱陶しそうにベルトを外してズボンの前を寛げた。
 キセは思わず顔を覆った。大きく立ち上がったテオドリックの一部を直視してしまったからだ。恥ずかしくて、テオドリックが欲しくて、触れたくて、心臓が痛い。
「許せ。次はもっとゆっくりするから」
 荒い息遣いで言いながら、テオドリックはキセの柔らかい腿を掴み、押し上げた。
「つ、次?って――ああ…!」
 テオドリックがひと息に一番奥まで入ってくる。
 感度を増したキセの身体はこの刺激に耐えかねて、再び絶頂を迎えた。テオドリックは激しく締め付けられ、あまりの快楽に呻き声を漏らした。
「…ッ、キセ、あまり締めるとひどくなるぞ」
「んんっ、う、でもっ、無理ですっ…。き、気持ちよくて…」
 涙声で訴えるキセはあまりにも美しく、可憐で、淫らだ。羞恥に身体中を赤く染めて目も合わせてくれないのに、びくびくと繋がった部分を締め付けてその甘い香りと可愛い声でもっと深いところまで求めてくる。
 もっと聞きたい。もっと求めて欲しい。
 テオドリックは顔を覆っているキセの手に触れて指を絡め、寝台へ押し付けると、噛み付くように口付けをしてもう一度内部へ侵入した。キセが唇の下で甘美な悲鳴を上げ、本人の意識しないうちに腰を揺らしてもっと奥へとテオドリックを誘い込んでくる。
 その後の二人は、火がついたようになった。
 キセの身体は熱く波のようにうねってテオドリックを快楽の嵐の中に誘い、テオドリックもまたキセを激しく攻め立てて何度も法悦の果てへ連れて行った。
 ついさっきまで身体が冷え切っていたことが嘘のようだ。海の上にいることも、時間も忘れた。
 ただ熱く荒い呼吸を繰り返す二人の息遣いと、神経を昂ぶらせる汗の匂いと、繋がっている場所の湿った音が、今は二人の世界の全てだ。
「――っ!あっ、あ、テオドリック…」
 おかしくなりそうだ。気持ちよくて、テオドリックが愛おしくて、他のことはもう何も考えられない。テオドリックの腕がキセの身体をきつく抱き締め、二つの身体の境界をなくすように肌が触れ合う。
「愛しています、…テオドリック」
 言葉がうわごとのように溢れ出た。
 この人が好きで堪らない。理性も立場も捨てて、自分にだけ劣情も愛情も、動物的な衝動さえ、全てをまっすぐにぶつけてくるテオドリックが、胸が痛くなるほど愛おしい。
「は…ッ、キセ…。あんたは俺の命だ。俺の生命の光。俺の女神――」
 身体の中で激しく繰り返されるテオドリックの律動が、キセに何度目とも知れない絶頂をもたらすと、テオドリックはその締め付けに堪らず呻いて腰を強く叩き付け、身体中を暴れ回る熱情を愛おしいキセの中に解き放った。
「愛してる、キセ…」
 熱く汗ばんだ肌が混じり合い、鼓動が肌を伝って重なり合う。
 恍惚に意識を泳がせながらキセがテオドリックの頬を引き寄せ、情熱的なキスをした。テオドリックはそれに夢中で応え、解き放ったはずの熱が再び身体の中で暴れ始めるのを感じた。
「ん、んっ…。は…」
 キセの甘い声がテオドリックの神経を鋭くさせる。
 テオドリックが繋がった部分を馴染ませるように腰を引くと、ビク、とキセの身体が震えた。
 長い睫毛の下で新月の星空のような瞳が幸せそうに潤み、覗き込んでくる。
「…もう一回ですか?」
 テオドリックは柔らかく目を細めてキセの唇を啄むように吸い付き、赤く色付いた頬へ、細い首へ、滑らかな胸へと優しく唇で触れて、柔らかい感触に身を委ねながらキセの肌を愛撫した。
「約束通り、今度はゆっくりする」
 緑色の瞳の奥が燃えている。キセは再び訪れた快楽を全身で受け入れた。

 二人の呼吸が落ち着いてきた頃、すっかり温かくなった毛布の中で素肌を触れ合わせながらテオドリックが思い出したように言った。
「…さてはキセ、襲撃に備えていたな。俺の上衣を直前で替えさせたのもそのためか」
 事実、キセはイサクに言ってテオドリックの衣装も予定していた厚い織物のものから絹の軽いものに替えさせていた。キセはテオドリックの硬い胸に乗せていた顔を上に向け、悪戯を叱られた子供のような調子で小さく顎を引いた。
「ですが、まさか今日いらっしゃるとは思いませんでした。念には念をと思っただけなんです。その方がよいような気がしたので…。アニエスのお父さまが別れ際におっしゃったという言葉も、ずっと気になっていましたし」
「‘御者にチップを弾んでやれ’というやつか」
「はい。ですから、お金で雇われている方が動いているのだと思いました。それで、なんとなく…侯爵夫人はわたしを狙っていらっしゃるのではないかと思っていたので、万が一何かあった時に逃げられるよう軽めのドレスにしたのですが――」
 キセは黒いまつ毛を伏せて目元に影を伸ばした。
「…違いました。きっと侯爵夫人はテオドリックの命を狙って、わたしを苦しめようとなさったのですね」
「あの女が法廷であんたの名誉を傷つけるようなことを言わなかったのは、これが目的だったからだな」
 罪から逃れられないと悟ったヴェロニク・ルコントには、キセの不名誉によりこの会合が中止になることこそ避けたい一事だったのだ。記念すべき日に、愛する者を目の前で失う地獄を味わわせるには、予定通りこの会合が行われる必要があった。
 ぎゅ、とテオドリックの手を強く握り、キセはそこにキスをした。
「無事でよかったです…」
「あんたが救ってくれた」
 テオドリックはキセを両腕の中に包み込んだ。
「女神さまのご加護のおかげです」
「いや、キセ。あんたの加護だ」
 キセは胸がくすぐったくなって目を細めたが、直後にテオドリックが顔をしかめてギュッと鼻をつまんできた。
「だがそういう、言葉にできないような漠然とした不安も、次からは船に乗る前に教えてくれ。泳ぐ練習くらいはしておくから」
「ふふ。必要ないくらいお上手でしたよ。それに、不安はなかったんです。あなたと一緒だから、何があっても大丈夫だって、いつも思っています」
 二人は笑い合って、互いの生命を確かめ合うように唇を触れ合わせ、肌を重ねた。
 既に船が港へ到着し、上の甲板で従者たちが気まずい思いをしながら待っていることには、少しも気づいていない。

 襲撃者の尋問は、ジャンが行った。
 自分を刺した男に対して事務的かつ紳士的に振る舞えるのは、間違いなくこの男の美徳だ。
 ヴェロニク・ルコントが約束した報酬の倍額を提示すると、自らをルゴと名乗った男は少しの逡巡もなく全てを白状した。
 北方の島国の傭兵だったルゴはエマンシュナに渡った後、とても堅気の人間が使うことのできない類の伝手でヴェロニク・ルコントに雇われた。
 当初の契約は不要となった取引相手の始末で、ヴェロニク・ルコントに護衛として付いていた男の、謂わば相棒役だった。
 ドーリッシュ邸の事件の後、抜け目のないヴェロニク・ルコントは自分の罪が白日の元に晒された後のことにも備えていた。
 即ち、王太子テオドリックの暗殺だ。
 これに政治的な意図など全くない。ただキセを苦しめるためだけの計画だった。
「まったく呆れるよな。嫌いな女を虐めるためだけに財産の半分を報酬に使って王太子の暗殺を企てるとは」
 手足を鎖で繋がれたルゴは悪びれもせずに笑った。ジャンは暗殺者を冷たく一瞥し、事務的に言った。
「それでは、約束の報酬は、あなたの刑期が終わってから支払われます」
 ルゴは笑みを消した。
「王太子暗殺を実行しようとしたので勿論通常なら死罪になりますが、あなたとは取り引きがありましたので、ざっと見積もって…まあ、少なくとも百二十年くらいですかね。生きていたらいいですね」
 ジャンは爽やかに笑って見せた。これがジャンの報復であることは、言うまでもない。

「まさか、この期に及んであの女の魂のために祈るとか言わないですよね」
 この日の夜、セレンが報告書を手にしながら、ソファでゆったりとくつろぐキセに言った。
「すべての魂のために祈ります。勿論、あの方の哀れな魂も」
 キセは読んでいた本から顔を上げ、膝に乗っているテオドリックの頭をそっと撫でて言った。セレンは呆れて肩をすくめた。
「ああ、まったく、お人好しなんだから」
 テオドリックは瞑っていた目蓋を薄く開け、キセの顔を見上げて、その頬に手を伸ばした。
「俺の女神は慈悲深いな」
「ふふ」
 キセはニコニコと笑ってテオドリックの額にキスをした。
「ああ、はいはい。いちゃいちゃしたいなら、わたしはもう行きますので」
「そうしてくれ」
 セレンは扉の前でキセにだけわかるように「イー」と歯を見せ、キセを笑わせた。ちょうどイサクがやってきたところだったが、部屋に入る前にセレンがその腕を引いて連れ去った。

 翌日、イノイル王国との終戦及び恒久的な和平の締結、それぞれの王太子と王女の結婚、そして、国王の退位が正式に発表された。
 テオドリックがキセを探しにネリへ旅立ってから、ちょうど六か月目のことだった。
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