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十一、挑発と応酬 - une provocation -
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ローズマリーが添えられた鹿肉のローストと果実を煮詰めたソースの香りが鼻腔をついた。マッシュポテトには領内で製造されたチーズソースが添えられ、香ばしく焼かれたパンの中心は、今まで食べたことがないくらいふんわりしている。
「料理が気に入ったようでよかった」
黙々と口に料理を運び続けるオルフィニナを眺めながら、ルキウスが言った。
「シェフに礼状を書きたいくらいだ」
オルフィニナは大真面目に言って鹿肉を切り分けた。本心だ。
ふと、顔を上げた。
さっさと食事を終えたルキウスが柔らかい椅子の背もたれに背を預けて寛ぎ、グラスに入った食後のワインをゆらゆら揺らしながら、オルフィニナを凝視している。
「伝えておくようバルタザルに言っておくよ」
そう言ったルキウスの目は、明らかに何か別のことを考えている。オルフィニナは途端に鹿肉とソースの味が分からなくなった。
緊張している。と自覚した途端に、小さな動揺が広がった。
(なぜそんな必要がある)
オルフィニナは味気ない咀嚼を繰り返しながらルキウスの目を見つめた。料理の美味さに薄れていた居心地の悪さが、何倍にもなってぶり返してくる。
「…わたしの食事姿を観察して何か得るものはあるのか」
「あるよ」
ルキウスは淡々と答えた。視線が唇に絡み、肌をざわつかせる。なぜか、数日前の口付けを思い出した。
オルフィニナは最後の一切れを口に入れて喉に押し込み、辛みの強いワインで流し込んだ。
「ルドヴァンへ行った目的を訊いてもいいか。美男の再従兄どの一家と愉快な夕食会を開くためじゃないだろう。マイテ産のワイン以外に何を仕入れてきた?」
ワイングラスを口に運ぶルキウスの手がぴたりと止まった。眉間に皺が寄っている。
「…君、やけにコルネール公爵を褒めるよね。ああいう男が好きなのか?」
「ああいう男?」
「不遜、傲慢、無遠慮」
「それはあなたのことだろう」
オルフィニナが眉をひそめると、ルキウスは苦笑した。道理だ。自覚はある。
「じゃあ、年上、黒髪?」
オルフィニナは答えず、ワインを飲み干して、グラスを置いた。
「確かに、暗い髪は魅力的だ」
静かに微笑した琥珀色の視線の先が、ルキウスには何となく見えた。
「…昔の男か。アドラーじゃないよな」
「クインのことを言っているなら、違う。妙な勘ぐりはやめて欲しい。わたしの騎士の名誉に関わることだ」
ルキウスはにっこりと微笑んだ。また作り笑いだ。
「じゃあ、誰?」
「ルドヴァンでの所用については教える気はないということでいいか」
「後で教えてあげるよ。君が昔の男のことを話すのが先だ」
オルフィニナは小さく息をついた。
「別に、面白い話じゃない。若い頃によくある子供じみた色恋だ。それに、わたしの男だったことはない」
「片思いか。かわいいね」
オルフィニナは琥珀色の目をルキウスに向けた。不愉快に思うべきは自分なのに、ルキウスの目がまるで楽しさの欠片もなく、むしろひどく不快な話で耳を汚されたように鈍く翳っている。
「相手は?」
回答を拒むことは許されないような口調だ。だが、これは今まで誰にも告げたことがない。立場も政治も関係なく、オルフィニナというただの女としての自己の一部にしまっていた、ささやかな思い出だ。それを口に出すのが怖いと思った。誰にも触れられない心の深い場所を曝け出してしまうような気がする。
オルフィニナが珍しく言葉を詰まらせていると、ルキウスは閃いたように眉を開いた。
「アドラーだな」
「クインは違うと言った」
つい、声が荒くなる。
「さっき君は‘クインのことを言っているなら’と言っただろ。違うアドラーだ。兄のイェルクだな。さっき彼の話をしたとき、君の表情が少し違って見えた」
琥珀色の目が静かに怒りを湛えてルキウスを見た。図星なのだ。ルキウスの肌に愉悦がせり上がる。オルフィニナのこういう目は、ぞっとするほど美しい。
「彼は今どこにいる?」
「…フレデガルの妻の姪に婿入りして爵位を与えられ、王府に仕えている」
オルフィニナは表情を変えなかったが、機嫌を損ねたのは明白だった。言葉に棘がある。踏み込まれたくない場所を無遠慮に荒らされているのだから、無理もない。が、ルキウスは構わず続けた。
「なるほど。それで弟のクインがアドラーの後継者なのか。連絡は取ってる?」
「オルデンに移ってからは取っていない。クインも同じだ」
「寂しいね」
言葉とは裏腹に上機嫌な声だ。同情など、欠片もない。
「今も好き?」
「愛してるよ。家族だから」
「一途だね」
作り笑いの顔のまま、ルキウスが言った。
「…あなたにはわからないだろう」
オルフィニナは冷たく言って目蓋を伏せた。長い睫毛が琥珀色の虹彩を覆い隠すと同時に、心をも閉じたように見えた。
「なぜ俺には分からないと思う」
「あなたは、誰かに心を分けるには独善的すぎる」
「心外だな」
「わたしの個人的な所感だ」
ルキウスは唇を吊り上げた。
「じゃあ、君が教えてくれればいい」
粛々と運ばれてきたデザートのプディングと紅茶の向こうで、ルキウスの緑色の目が刺し貫くように視線を向けてくる。
何を言っているのかと、オルフィニナはしばらくその言葉を頭の中で反芻した。そして考えつく意味が一つしかないと知った時、悪い冗談を聞いたような調子で首を振った。
「この手のものは教えられるものではないし、わたしはどう考えても適任じゃない」
「君が適任だよ。他でもない俺が望むから」
「フ」
オルフィニナは失笑した。話が通じない。
「悪いが期待には応えられない。その件は他を当たってくれ」
「怖いんだろ」
ルキウスは嘲るように言った。
「何?」
「君が俺を誘惑して、俺がそれに応えた後、俺にハマるのが怖いんだ」
ルキウスは美しい緑色の目を細め、唇の片端を吊り上げた。挑発している顔だ。
オルフィニナは鼻で笑ってプディングを口に運んだ。ほんのり苦みのある甘いソースが柔らかいプディングと一緒に舌の上で溶ける。
果たしてそんなことがあるだろうか。
確かにキスに嫌悪感はなかった。それだけのことだ。
だが、あの時身体に起こった変化は、どう説明したら良いのか、わからない。胸がざわざわと騒ぎ出した。いやな感じだ。これ以上は思い出したくない。
「…ルドヴァンへは何をしに?」
話題を変えようとしたその意図を理解しているのか、ルキウスは今度は心から満足したような笑みを浮かべてプディングを口に入れた。
「貿易の要衝には、交易品だけじゃなくて情報もいち早く集まるだろ。俺はアストレンヌとギエリで起きている事を知るためにルドヴァンへ行った。向こうにはコルネール公爵の伝で優秀な間諜が何人かいるからね。俺もいろいろと面倒くさい立場なんだ」
オルフィニナは「そうか」とだけ言って、最低限の礼儀として紅茶を飲むと、すぐさま席を立った。早くこの場を去りたかった。逃げようとしているわけではない。この無益な食事会から静かな一人の空間へ戻りたいだけだ。そう自分に言い聞かせた。
「何を知ったか、知りたくないのか?」
「…興味がない」
ルキウスが音もなく立ち上がり、オルフィニナの目の前へやって来て、手を差し出した。エスコートをさせろということらしい。
オルフィニナが差し出された手に自分の手を載せた途端、強い力で引き寄せられ、腕の中に閉じ込められた。麝香に似たルキウスの匂いに包まれ、初めてルースへ来た日に味わわされたあの熱っぽい感覚が身体の内側に生々しく蘇る。
「嘘はよくないな」
ルキウスは低く囁いてオルフィニナの頤を掴み、上を向かせた。目元が赤い。この間キスした時のように、琥珀色の瞳が潤んでいる。ルキウスはこの顔から目を離すことができなくなった。
「否定しても無駄だ。君がこれを気に入ったのは、顔を見ればわかる」
オルフィニナが反論する隙もなく、唇が重なってきた。首の後ろにルキウスの手が触れ、熱が伝ってくる。
唇を啄まれ、頸部をそっと撫でられると、オルフィニナは自覚もなく小さな呻き声を漏らした。
ルキウスには、彼女の身体の変化が解る。
後ろへ引こうと身じろぎしたオルフィニナの腰を強く抱き寄せて、捕食するように唇を覆い、唇の間から舌を潜り込ませた。
「ん…、ふ」
甘い。どちらの味か判らないほどに舌が混ざり合い、息遣いが荒くなる。
「ほら。君、今、キスに応じてる」
ルキウスが唇を触れ合わせながら低く囁いた。
カッ、と身体が熱くなる。オルフィニナは思わず身体をよじったが、その腕から逃れることができない。
「…っ」
もう一度唇が覆われ、角度を変えて舌が入ってくる。ぞくぞくとせり上がる感覚が何なのか、オルフィニナは知っている。
だが、認めたくない。
頤を掴んでいた手が喉へ降り、鎖骨をなぞって更に下へ這い、ドレスの上から胸を覆った時、オルフィニナは思わずルキウスの手を掴んだ。
「…何?」
中断させたオルフィニナの方が狼藉をしているような言い草だ。
「これに、何の意味がある」
情婦にする気はないと言いながら、行動は矛盾している。ルキウスが望むのならば受け入れざるを得ないが、目的も意味も不明なまま無益な行為を受け入れるのは、オルフィニナの倫理観に反している。
「知るかよ。意味なんて求めるな」
ルキウスは苛立ったように言い放つと、もう一度オルフィニナの唇を貪った。今度は、もっと深い。
「はっ…、う――」
酸素を求めて唇を離したそばから、また角度を変えて唇が重なり、舌が内部を侵すように絡まってくる。ルキウスの息がだんだんと熱く荒くなり、腰を抱く手が強くなる。手首を掴むオルフィニナの手を邪魔くさそうに振り解き、ドレスの上からもう一度胸に触れた。
「ん…!」
織物の生地の下に変化を始めた部分があることを、ルキウスの手は感じ取っている。
「逃げたいんだ?」
身体を引き剥がすように肩に触れてきたオルフィニナの手を掴み、ルキウスは低く掠れた声で言った。
「臆病者」
頭に血が昇った。
そう自覚した時には、相手の胸ぐらを襟が破けるほど強く掴み、自分から唇を重ねていた。
「――ッ」
痛みに呻いて身体を離したルキウスを見上げ、オルフィニナは血の付いた唇を吊り上げた。
噛みつかれた唇から滲む血を指で拭い、ルキウスは笑った。背筋がヒヤリとするほど冷たい笑顔だ。
「やってくれるね、ニナ」
オルフィニナが後退りして背中を壁に付けた時、広間の扉が開いた。
グルグルと警告音を発しながら、エデンがその白く雄大な体を現し、鼻に皺を刻み、鋭い牙を剥いて、ゆっくりとルキウスに近づいてくる。
「エデン」
オルフィニナがほっとして優しく呼びかけると、エデンはルキウスを尊大に一瞥して二人の間に割り込み、甘えるように前足を振り上げて後ろ足で立ち、オルフィニナの顔に鼻をくっつけた。こうすると、オルフィニナの身長を軽く超えるほどに大きい。
ルキウスはひりひり痛む唇を舐め、小さく舌を打った。
「俺の城では食事の場に獣が立ち入るのを許していない」
「そうか。だがエデンより先にあなたがいたじゃないか」
「俺が獣だと言いたいのか」
「あなたが獣でないとなぜ言える」
オルフィニナが冷たく言うと、ルキウスは嘲笑交じりに反駁した。
「なら人に噛み付く君の方が獣じみてる」
「先に噛み付いたのはそっちだろう」
「俺は君の唇に歯を立てたりはしていない」
「わたしは物理的なことを言っているんじゃない」
次にルキウスが口を開くより先に、エデンが唸った。二人の視線が互いの顔からエデンに向く。なんだか小馬鹿にしているような調子にも見えた。
「ああ。わかった、エデン」
オルフィニナは観念したように両手を挙げて、エデンの頭を撫でた。
「バルタザルに言ってお前のご飯をもらいに行こう。ね」
オルフィニナはルキウスを冷たく睨め付け、エデンと共に扉へ向かった。
「彼女を君の寝室に入れるな。特に今夜は」
背中がちくりとした。ルキウスの言葉が棘になって背に刺さったのだ。この言葉の意味するところを、オルフィニナは理解している。立場上、拒絶はできない。
「クインがお前を部屋から出したんだな」
扉の外でオルフィニナが苦笑した。エデンは澄まして廊下を悠然と闊歩している。
「まったく、お前もクインも…。そんなに必死になって守らなければいけないほどわたしは弱くないよ」
エデンがピタリと止まり、琥珀色の目でオルフィニナを見上げた。聞き咎めているような顔に見える。
「…そうだな。今のは助かった。お前のおかげでルキウス・アストルを殴らずに済んだよ」
エデンにそんな意図はないだろう。が、少なくとも冷静になれる時間を与えられたのは確かだ。このまま、場違いで的外れな平穏の中に居座り続けるわけにはいかない。
オルフィニナはくしゃくしゃとエデンの頭と背を撫で、階下へ向かった。
「料理が気に入ったようでよかった」
黙々と口に料理を運び続けるオルフィニナを眺めながら、ルキウスが言った。
「シェフに礼状を書きたいくらいだ」
オルフィニナは大真面目に言って鹿肉を切り分けた。本心だ。
ふと、顔を上げた。
さっさと食事を終えたルキウスが柔らかい椅子の背もたれに背を預けて寛ぎ、グラスに入った食後のワインをゆらゆら揺らしながら、オルフィニナを凝視している。
「伝えておくようバルタザルに言っておくよ」
そう言ったルキウスの目は、明らかに何か別のことを考えている。オルフィニナは途端に鹿肉とソースの味が分からなくなった。
緊張している。と自覚した途端に、小さな動揺が広がった。
(なぜそんな必要がある)
オルフィニナは味気ない咀嚼を繰り返しながらルキウスの目を見つめた。料理の美味さに薄れていた居心地の悪さが、何倍にもなってぶり返してくる。
「…わたしの食事姿を観察して何か得るものはあるのか」
「あるよ」
ルキウスは淡々と答えた。視線が唇に絡み、肌をざわつかせる。なぜか、数日前の口付けを思い出した。
オルフィニナは最後の一切れを口に入れて喉に押し込み、辛みの強いワインで流し込んだ。
「ルドヴァンへ行った目的を訊いてもいいか。美男の再従兄どの一家と愉快な夕食会を開くためじゃないだろう。マイテ産のワイン以外に何を仕入れてきた?」
ワイングラスを口に運ぶルキウスの手がぴたりと止まった。眉間に皺が寄っている。
「…君、やけにコルネール公爵を褒めるよね。ああいう男が好きなのか?」
「ああいう男?」
「不遜、傲慢、無遠慮」
「それはあなたのことだろう」
オルフィニナが眉をひそめると、ルキウスは苦笑した。道理だ。自覚はある。
「じゃあ、年上、黒髪?」
オルフィニナは答えず、ワインを飲み干して、グラスを置いた。
「確かに、暗い髪は魅力的だ」
静かに微笑した琥珀色の視線の先が、ルキウスには何となく見えた。
「…昔の男か。アドラーじゃないよな」
「クインのことを言っているなら、違う。妙な勘ぐりはやめて欲しい。わたしの騎士の名誉に関わることだ」
ルキウスはにっこりと微笑んだ。また作り笑いだ。
「じゃあ、誰?」
「ルドヴァンでの所用については教える気はないということでいいか」
「後で教えてあげるよ。君が昔の男のことを話すのが先だ」
オルフィニナは小さく息をついた。
「別に、面白い話じゃない。若い頃によくある子供じみた色恋だ。それに、わたしの男だったことはない」
「片思いか。かわいいね」
オルフィニナは琥珀色の目をルキウスに向けた。不愉快に思うべきは自分なのに、ルキウスの目がまるで楽しさの欠片もなく、むしろひどく不快な話で耳を汚されたように鈍く翳っている。
「相手は?」
回答を拒むことは許されないような口調だ。だが、これは今まで誰にも告げたことがない。立場も政治も関係なく、オルフィニナというただの女としての自己の一部にしまっていた、ささやかな思い出だ。それを口に出すのが怖いと思った。誰にも触れられない心の深い場所を曝け出してしまうような気がする。
オルフィニナが珍しく言葉を詰まらせていると、ルキウスは閃いたように眉を開いた。
「アドラーだな」
「クインは違うと言った」
つい、声が荒くなる。
「さっき君は‘クインのことを言っているなら’と言っただろ。違うアドラーだ。兄のイェルクだな。さっき彼の話をしたとき、君の表情が少し違って見えた」
琥珀色の目が静かに怒りを湛えてルキウスを見た。図星なのだ。ルキウスの肌に愉悦がせり上がる。オルフィニナのこういう目は、ぞっとするほど美しい。
「彼は今どこにいる?」
「…フレデガルの妻の姪に婿入りして爵位を与えられ、王府に仕えている」
オルフィニナは表情を変えなかったが、機嫌を損ねたのは明白だった。言葉に棘がある。踏み込まれたくない場所を無遠慮に荒らされているのだから、無理もない。が、ルキウスは構わず続けた。
「なるほど。それで弟のクインがアドラーの後継者なのか。連絡は取ってる?」
「オルデンに移ってからは取っていない。クインも同じだ」
「寂しいね」
言葉とは裏腹に上機嫌な声だ。同情など、欠片もない。
「今も好き?」
「愛してるよ。家族だから」
「一途だね」
作り笑いの顔のまま、ルキウスが言った。
「…あなたにはわからないだろう」
オルフィニナは冷たく言って目蓋を伏せた。長い睫毛が琥珀色の虹彩を覆い隠すと同時に、心をも閉じたように見えた。
「なぜ俺には分からないと思う」
「あなたは、誰かに心を分けるには独善的すぎる」
「心外だな」
「わたしの個人的な所感だ」
ルキウスは唇を吊り上げた。
「じゃあ、君が教えてくれればいい」
粛々と運ばれてきたデザートのプディングと紅茶の向こうで、ルキウスの緑色の目が刺し貫くように視線を向けてくる。
何を言っているのかと、オルフィニナはしばらくその言葉を頭の中で反芻した。そして考えつく意味が一つしかないと知った時、悪い冗談を聞いたような調子で首を振った。
「この手のものは教えられるものではないし、わたしはどう考えても適任じゃない」
「君が適任だよ。他でもない俺が望むから」
「フ」
オルフィニナは失笑した。話が通じない。
「悪いが期待には応えられない。その件は他を当たってくれ」
「怖いんだろ」
ルキウスは嘲るように言った。
「何?」
「君が俺を誘惑して、俺がそれに応えた後、俺にハマるのが怖いんだ」
ルキウスは美しい緑色の目を細め、唇の片端を吊り上げた。挑発している顔だ。
オルフィニナは鼻で笑ってプディングを口に運んだ。ほんのり苦みのある甘いソースが柔らかいプディングと一緒に舌の上で溶ける。
果たしてそんなことがあるだろうか。
確かにキスに嫌悪感はなかった。それだけのことだ。
だが、あの時身体に起こった変化は、どう説明したら良いのか、わからない。胸がざわざわと騒ぎ出した。いやな感じだ。これ以上は思い出したくない。
「…ルドヴァンへは何をしに?」
話題を変えようとしたその意図を理解しているのか、ルキウスは今度は心から満足したような笑みを浮かべてプディングを口に入れた。
「貿易の要衝には、交易品だけじゃなくて情報もいち早く集まるだろ。俺はアストレンヌとギエリで起きている事を知るためにルドヴァンへ行った。向こうにはコルネール公爵の伝で優秀な間諜が何人かいるからね。俺もいろいろと面倒くさい立場なんだ」
オルフィニナは「そうか」とだけ言って、最低限の礼儀として紅茶を飲むと、すぐさま席を立った。早くこの場を去りたかった。逃げようとしているわけではない。この無益な食事会から静かな一人の空間へ戻りたいだけだ。そう自分に言い聞かせた。
「何を知ったか、知りたくないのか?」
「…興味がない」
ルキウスが音もなく立ち上がり、オルフィニナの目の前へやって来て、手を差し出した。エスコートをさせろということらしい。
オルフィニナが差し出された手に自分の手を載せた途端、強い力で引き寄せられ、腕の中に閉じ込められた。麝香に似たルキウスの匂いに包まれ、初めてルースへ来た日に味わわされたあの熱っぽい感覚が身体の内側に生々しく蘇る。
「嘘はよくないな」
ルキウスは低く囁いてオルフィニナの頤を掴み、上を向かせた。目元が赤い。この間キスした時のように、琥珀色の瞳が潤んでいる。ルキウスはこの顔から目を離すことができなくなった。
「否定しても無駄だ。君がこれを気に入ったのは、顔を見ればわかる」
オルフィニナが反論する隙もなく、唇が重なってきた。首の後ろにルキウスの手が触れ、熱が伝ってくる。
唇を啄まれ、頸部をそっと撫でられると、オルフィニナは自覚もなく小さな呻き声を漏らした。
ルキウスには、彼女の身体の変化が解る。
後ろへ引こうと身じろぎしたオルフィニナの腰を強く抱き寄せて、捕食するように唇を覆い、唇の間から舌を潜り込ませた。
「ん…、ふ」
甘い。どちらの味か判らないほどに舌が混ざり合い、息遣いが荒くなる。
「ほら。君、今、キスに応じてる」
ルキウスが唇を触れ合わせながら低く囁いた。
カッ、と身体が熱くなる。オルフィニナは思わず身体をよじったが、その腕から逃れることができない。
「…っ」
もう一度唇が覆われ、角度を変えて舌が入ってくる。ぞくぞくとせり上がる感覚が何なのか、オルフィニナは知っている。
だが、認めたくない。
頤を掴んでいた手が喉へ降り、鎖骨をなぞって更に下へ這い、ドレスの上から胸を覆った時、オルフィニナは思わずルキウスの手を掴んだ。
「…何?」
中断させたオルフィニナの方が狼藉をしているような言い草だ。
「これに、何の意味がある」
情婦にする気はないと言いながら、行動は矛盾している。ルキウスが望むのならば受け入れざるを得ないが、目的も意味も不明なまま無益な行為を受け入れるのは、オルフィニナの倫理観に反している。
「知るかよ。意味なんて求めるな」
ルキウスは苛立ったように言い放つと、もう一度オルフィニナの唇を貪った。今度は、もっと深い。
「はっ…、う――」
酸素を求めて唇を離したそばから、また角度を変えて唇が重なり、舌が内部を侵すように絡まってくる。ルキウスの息がだんだんと熱く荒くなり、腰を抱く手が強くなる。手首を掴むオルフィニナの手を邪魔くさそうに振り解き、ドレスの上からもう一度胸に触れた。
「ん…!」
織物の生地の下に変化を始めた部分があることを、ルキウスの手は感じ取っている。
「逃げたいんだ?」
身体を引き剥がすように肩に触れてきたオルフィニナの手を掴み、ルキウスは低く掠れた声で言った。
「臆病者」
頭に血が昇った。
そう自覚した時には、相手の胸ぐらを襟が破けるほど強く掴み、自分から唇を重ねていた。
「――ッ」
痛みに呻いて身体を離したルキウスを見上げ、オルフィニナは血の付いた唇を吊り上げた。
噛みつかれた唇から滲む血を指で拭い、ルキウスは笑った。背筋がヒヤリとするほど冷たい笑顔だ。
「やってくれるね、ニナ」
オルフィニナが後退りして背中を壁に付けた時、広間の扉が開いた。
グルグルと警告音を発しながら、エデンがその白く雄大な体を現し、鼻に皺を刻み、鋭い牙を剥いて、ゆっくりとルキウスに近づいてくる。
「エデン」
オルフィニナがほっとして優しく呼びかけると、エデンはルキウスを尊大に一瞥して二人の間に割り込み、甘えるように前足を振り上げて後ろ足で立ち、オルフィニナの顔に鼻をくっつけた。こうすると、オルフィニナの身長を軽く超えるほどに大きい。
ルキウスはひりひり痛む唇を舐め、小さく舌を打った。
「俺の城では食事の場に獣が立ち入るのを許していない」
「そうか。だがエデンより先にあなたがいたじゃないか」
「俺が獣だと言いたいのか」
「あなたが獣でないとなぜ言える」
オルフィニナが冷たく言うと、ルキウスは嘲笑交じりに反駁した。
「なら人に噛み付く君の方が獣じみてる」
「先に噛み付いたのはそっちだろう」
「俺は君の唇に歯を立てたりはしていない」
「わたしは物理的なことを言っているんじゃない」
次にルキウスが口を開くより先に、エデンが唸った。二人の視線が互いの顔からエデンに向く。なんだか小馬鹿にしているような調子にも見えた。
「ああ。わかった、エデン」
オルフィニナは観念したように両手を挙げて、エデンの頭を撫でた。
「バルタザルに言ってお前のご飯をもらいに行こう。ね」
オルフィニナはルキウスを冷たく睨め付け、エデンと共に扉へ向かった。
「彼女を君の寝室に入れるな。特に今夜は」
背中がちくりとした。ルキウスの言葉が棘になって背に刺さったのだ。この言葉の意味するところを、オルフィニナは理解している。立場上、拒絶はできない。
「クインがお前を部屋から出したんだな」
扉の外でオルフィニナが苦笑した。エデンは澄まして廊下を悠然と闊歩している。
「まったく、お前もクインも…。そんなに必死になって守らなければいけないほどわたしは弱くないよ」
エデンがピタリと止まり、琥珀色の目でオルフィニナを見上げた。聞き咎めているような顔に見える。
「…そうだな。今のは助かった。お前のおかげでルキウス・アストルを殴らずに済んだよ」
エデンにそんな意図はないだろう。が、少なくとも冷静になれる時間を与えられたのは確かだ。このまま、場違いで的外れな平穏の中に居座り続けるわけにはいかない。
オルフィニナはくしゃくしゃとエデンの頭と背を撫で、階下へ向かった。
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