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12 レーヌ - Reine -
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ルキウスは湯浴みの後、二つ隣の部屋の扉を押した。
寝室の中は誰もいない。
左の壁側にある続き部屋の浴室の扉から灯りが漏れているから、恐らく入浴中だろう。騎士や女中さえいないのは、他でもないルキウスがこの階から人払いをしたからだ。
マントルピースの上に置かれた燭台の火がユラユラと揺れて書き物机の上に積み上がった本の影を躍らせた。サイドテーブルには絹地の栞が挟まれた冒険小説の分厚い本が置かれ、その横に放置された飲みかけの紅茶は、すっかり冷めてカップの内側に茶色い輪を描いている。
天蓋のカーテンが開け放たれたベッドは裳抜けの殻だ。五つある草花の刺繍が美しいふかふかのクッションは非情にも邪魔くさそうに脇に追いやられているが、それらと揃いの筒状の長い枕は横を向いて寝る時にしがみ付くのにちょうど良い場所に転がっているから、女公の睡眠に相伴する栄誉を与えられた数少ない寝具の一つなのだろう。ベッドの上部中央には、この部屋のクッションの中で一番厚みが少なく小さい枕が一つきちんと置かれ、毛布と布団はベッドの足元に畳まれている。
彼女らしい、こざっぱりした部屋だ。誰かを寝室へ招く気配など、微塵もない。
いつも彼女の肌から漂うジャスミンのような香りが空気中に漂い、胸をざわつかせる。なぜこんな気分になるのか、わからない。
普段は誰かと子供じみた口論なんかしないし、敵方の人間だからと言って相手を傷つけたり無体を働いたりはしない。相手が女性なら、尚更だ。
それなのに、オルフィニナには感情を乱される。
オルデン城主がオルフィニナ・ドレクセンでなければ、さっさと身柄をアストレンヌへ送って、その処遇を国王の判断に委ねていただろう。それが通常の手続きだ。
しかし、オルフィニナがオルデン城主としてツークリエン山の陣営へ現れた時、そんな考えは元から存在しなかったもののように消失した。自分を痛めつけた女を掌中に収めることで、傷付けられた自尊心を奪い返そうとしたのかもしれない。
それは今も続いているのか。
この感情は不可解だ。とても言葉では表せない。
だから、アルヴィーゼに彼女をどうする気かと問い詰められた時、自分の中にさえ確たる答えを見つけることができなかった。今も同じだ。
彼女の生活様式を覗いたところで答えが見つかるわけはないとわかっていても、彼女の香りが漂うこの空間を観察せずにはいられなかった。
書き物机の後ろの壁にはオルデンの子供たちが描いた赤い髪のオルフィニナ女公と白いオオカミの肖像画がいくつも掛かっている。
(そういえば、バルタザルが壁に穴を開けていいかとか訊きに来たな)
そんなもの、許可など取らずに勝手にしてしまえば良いものを、生真面目なことだ。ルキウスはおかしくなった。
オルデン城ではオルフィニナの観察に忙しかったから、絵をじっくり眺めるほどの余裕はなかった。が、今は違う。
子供たちの肖像画は、どれも小さいながらも植物模様の浮き彫りの美しい立派な額に飾られている。絵よりも額縁の面積の方がよほど大きいものもある。筆致の幼さや描かれた紙の粗末さを考えると、全く不釣り合いという他ない。よほど大切にしているのだろう。オルデンという町とともに、彼女は子供たちや若い家族を育ててきたのだ。統治者よりも、もしかしたら教育者の方が彼女の性に合っているのではないか。
この時、一つの絵から目が離せなくなった。理由は判然としない。
が、他の絵と、何かが違う。
(髪かな)
ルキウスはその絵をまじまじと見た。
他の女公が赤い髪を一束の三つ編みや丸いまとめ髪にしているのに対して、この絵の女公だけは長い髪を下ろしているのだ。
五、六歳くらいの子供が描いたような絵だから、想像で描いたものかもしれない。が、何か気になる。
ルキウスはその絵を手に取り、壁から外した。
――からり。と、音がした。
「…?」
額縁の中から小さく固いものが当たっているようだった。何かが意図的に隠されている。ルキウスは続き部屋の浴室で湯浴みをするオルフィニナに気づかれないようにそっと裏板を外し、絵を取り出して書き物机に置き、耳のそばで額縁を振ってみた。カラカラと音がするのは、鳥や木の実や葉の浮き彫りが施された額縁の木枠の中からだ。
バキ!と何かが壊れる音で、オルフィニナは目を開いた。
いつの間にか浴槽の縁に頭を預けたまま眠っていたらしい。辛うじて湯はまだ温かいから、寝入ってしまってからそれほど時間は経っていないはずだ。
「クイン?…エデンか?」
返答はない。頭が次第にはっきりすると、夕食の後でルキウスが人払いをしていたことを思い出した。
なんだか嫌な予感がする。
オルフィニナはラベンダーとマジョラムの香る浴槽から出て、身体も長い髪も濡れたまま、籐の衝立に引っ掛かっていた綿織物のガウンだけを身に纏い、帯を結びながら足早に部屋へ戻った。
予感は、当たっていた。
子供たちの絵を掛けた壁の前に、ルキウスが立っている。後ろを向いているから、表情はわからない。――が、顔を見るまでもない。背中からでもその怒りが伝わって来る。
床に散らばった額縁の無惨な木片を目にしたとき、オルフィニナは大きく息をついた。諦めの溜め息だ。
こちらを振り向いたルキウスの手には、指輪が握られている。黄金の環に微細な線で吠える狼の頭が彫られ、石座には透き通った楕円の琥珀が燭台の灯りを受けて輝いている。
オルフィニナは確信した。
それが何か、ルキウスは正しく理解している。
「強かな女だな、オルフィニナ・ドレクセン」
ルキウスは冷笑し、指輪を長い指先で弄んだ。緑色の目が鈍く怒りに燃えている。
「大事なのは絵じゃなくて額縁の方だったわけだ。重大な秘密を、こんなところに隠していたとはね」
ルキウスの靴の下で、木片が砕けた。
「…絵の方がよほど価値がある。それはただの骨董品だ」
「そう。ただの骨董品だ。君の父親の死に際に消え、フレデガル・ドレクセンが血眼になって探している、ただの指輪。そして、アミラ王となるのに必要な指輪だ。そうだろ?」
髪から落ちる雫が氷のように冷たく肌を伝う。オルフィニナは言葉を発することができなかった。
ルキウスが捕食者の足取りで近づいてくる。オルフィニナは本能的に足を後ろへ引いたが、すぐに壁にぶつかった。もう退路はない。
「髪が濡れてる。風邪をひくぞ」
ルキウスはそう言ってオルフィニナの右手を取り、その人差し指に指輪を通した。オルフィニナの細い指には大き過ぎ、すぐに抜けてしまいそうなほどだが、ルキウスは構わずにそれがあるべき場所に嵌めた。ひやりと冷たい感触が指にまとわりつく。
「――ルドヴァンで俺が得た情報は、陰謀についてのことだ。父の従弟ヴァレル・アストルが俺を失脚させようとしてる」
「興味がない」
オルフィニナはにべなく言って指輪を外そうとしたが、ルキウスがオルフィニナの手首を掴んで壁に押し付け、それを阻んだ。
「ギエリで起きていることも調べた。知りたいだろ?」
オルフィニナはルキウスの形の良い唇が歪に吊り上がるのを見た。美貌が、その表情をいっそう暗く見せる。
「エギノルフ王の死を、ギエリを制圧したヴァレルは把握していた。それなのにアミラ国民にも俺の父にも公表していない。これがどういうことか解るよな」
最悪の考えが頭をよぎった。言葉にするのも恐ろしい。が、きっとこの発想は正しい。ルキウスも同じ事を考えているだろう。
「…彼らが取り引きをしたと言いたいのだろう」
「そう。互いの頭に王冠を被せるつもりだ」
突然に早まったギエリへの侵攻も、その制圧の迅速さも、その後の不気味な静けさも、その理由を説明できるとしたら、これしかない。
何かが計画されている。今までエギノルフ王の影に隠れていたフレデガルがとうとう玉座への執着を顕し始めたとしたら、一番危険なのは王太子である弟のイゾルフだ。
「家族が心配だろ。オルフィニナ」
オルフィニナは静かにルキウスの緑色の目を見上げた。分かりきったことを聞くなと言ってやりたい。が、言わなかった。きっと言葉にしたら不安に押しつぶされそうになる。今も、不安で喉がヒリヒリする。
まるでそれを見透かしたように、ルキウスが喉元に右手で触れ、噛み付いた。
びくりと身体が震えた。
指が喉元を下り、鎖骨に触れ、柔らかい胸の丘を登っていく。同時にルキウスの唇が喉を這い上がり、耳朶に触れた。
「助けてやるよ。いい考えがある」
まるで悪魔の囁きだ。と思った。そうでなければ、説明がつかない。身体の奥に感じる、奇妙な疼きが何なのかも。――
ルキウスの低い声が誘惑を続けた。
「対価は君の協力だ。互いに助け合おう」
「…っ」
ルキウスの手がガウンの上から胸を覆い、唇が首に触れる。自分より高い体温が、冷え切った肌へ火をつけるように熱を灯していく。
「わたしをどう使う気だ」
オルフィニナが声を絞り出したとき、ルキウスは顔を上げ、孔雀石のような瞳を妖しく輝かせて彼女の顔を覗き込んだ。オルフィニナの肌をぶるりと震わせたのは、濡れたままの髪から伝う雫だったか、夜気だったか、それともこの男の暗い愉悦に光る瞳だったか、わからない。
確かなのは、この後ルキウスが発した言葉が、あまりに非現実的だったことだ。
「君をレーヌにする」
自分の耳を疑う他なかった。
「それはどういう意味で言ってる」
‘レーヌ’の意味するところは、王の妻、即ち‘王妃’であり、女性君主、即ち‘女王’でもある。曖昧な言葉だ。それを、オルフィニナはどちらかと訊いたのだ。そして、ルキウスの返答は更にオルフィニナを混乱させた。
「まずは君主。次に王の妻」
ますます意味が分からないというように琥珀色の目を見開いたオルフィニナを、ルキウスは愉快そうに見下ろした。
「結婚しよう、オルフィニナ。エマンシュナの王太子妃となった君は、夫の勢力を得てアミラの女王となり、アミラを俺たちの共同統治下に置く。俺は、その功績と女王の支持を得て次期エマンシュナ王となる。君はアミラの女王で、エマンシュナの王妃だ」
時が止まったかと思った。やがて驚愕は笑いとなって喉から吐き出され、自分でもどうにかしてしまったのではないかと思うほど高らかな笑い声を上げていた。何も可笑しくなどない。あまりのことに脳が笑う以外の行動を選べなくなったと言う方が正しい。
「おかしいだろ。でも本気だ」
ルキウスが凍り付くような目をして言った。
「エマンシュナの軍門に降ったドレクセンにそんな力があるとでも思っているのか?わたしがアミラ女王になれるとでも?それに、あなたの妃になる?全てが有り得ない」
「そんなことないさ」
ルキウスは目を細めて唇に弧を描かせ、オルフィニナの右手の人差し指に嵌まった指輪にキスをした。
「アミラが君と俺の共同統治下に置かれれば、事実上の和睦だ。双方にとって十分な功績になる。ドレクセンの影響力は強いよ。古代エメネケア皇帝の末裔というだけで、威光は大きい。とりわけ民衆には」
「だが重大なことを忘れている。わたしは王位に就けない。王冠、指輪、血統のうち、絶対に手に入れられないものがある。血統だ。わたしは嫡出ではない時点で、王位継承権を永遠に持つことができない。持ちたくもない。王冠など欲しくない」
「じゃあ指輪はどう説明する?」
ルキウスは一笑した。
「なぜ君が王の指輪を持っているか、当ててやるよ。王位を望まない君が盗み出したとは考えられない。それなら、君が前に言った通り、先代の王から引き継がれたんだ。王冠は持ち出せなくても、指輪なら簡単だ」
オルフィニナの顔色が変わった。
寝室の中は誰もいない。
左の壁側にある続き部屋の浴室の扉から灯りが漏れているから、恐らく入浴中だろう。騎士や女中さえいないのは、他でもないルキウスがこの階から人払いをしたからだ。
マントルピースの上に置かれた燭台の火がユラユラと揺れて書き物机の上に積み上がった本の影を躍らせた。サイドテーブルには絹地の栞が挟まれた冒険小説の分厚い本が置かれ、その横に放置された飲みかけの紅茶は、すっかり冷めてカップの内側に茶色い輪を描いている。
天蓋のカーテンが開け放たれたベッドは裳抜けの殻だ。五つある草花の刺繍が美しいふかふかのクッションは非情にも邪魔くさそうに脇に追いやられているが、それらと揃いの筒状の長い枕は横を向いて寝る時にしがみ付くのにちょうど良い場所に転がっているから、女公の睡眠に相伴する栄誉を与えられた数少ない寝具の一つなのだろう。ベッドの上部中央には、この部屋のクッションの中で一番厚みが少なく小さい枕が一つきちんと置かれ、毛布と布団はベッドの足元に畳まれている。
彼女らしい、こざっぱりした部屋だ。誰かを寝室へ招く気配など、微塵もない。
いつも彼女の肌から漂うジャスミンのような香りが空気中に漂い、胸をざわつかせる。なぜこんな気分になるのか、わからない。
普段は誰かと子供じみた口論なんかしないし、敵方の人間だからと言って相手を傷つけたり無体を働いたりはしない。相手が女性なら、尚更だ。
それなのに、オルフィニナには感情を乱される。
オルデン城主がオルフィニナ・ドレクセンでなければ、さっさと身柄をアストレンヌへ送って、その処遇を国王の判断に委ねていただろう。それが通常の手続きだ。
しかし、オルフィニナがオルデン城主としてツークリエン山の陣営へ現れた時、そんな考えは元から存在しなかったもののように消失した。自分を痛めつけた女を掌中に収めることで、傷付けられた自尊心を奪い返そうとしたのかもしれない。
それは今も続いているのか。
この感情は不可解だ。とても言葉では表せない。
だから、アルヴィーゼに彼女をどうする気かと問い詰められた時、自分の中にさえ確たる答えを見つけることができなかった。今も同じだ。
彼女の生活様式を覗いたところで答えが見つかるわけはないとわかっていても、彼女の香りが漂うこの空間を観察せずにはいられなかった。
書き物机の後ろの壁にはオルデンの子供たちが描いた赤い髪のオルフィニナ女公と白いオオカミの肖像画がいくつも掛かっている。
(そういえば、バルタザルが壁に穴を開けていいかとか訊きに来たな)
そんなもの、許可など取らずに勝手にしてしまえば良いものを、生真面目なことだ。ルキウスはおかしくなった。
オルデン城ではオルフィニナの観察に忙しかったから、絵をじっくり眺めるほどの余裕はなかった。が、今は違う。
子供たちの肖像画は、どれも小さいながらも植物模様の浮き彫りの美しい立派な額に飾られている。絵よりも額縁の面積の方がよほど大きいものもある。筆致の幼さや描かれた紙の粗末さを考えると、全く不釣り合いという他ない。よほど大切にしているのだろう。オルデンという町とともに、彼女は子供たちや若い家族を育ててきたのだ。統治者よりも、もしかしたら教育者の方が彼女の性に合っているのではないか。
この時、一つの絵から目が離せなくなった。理由は判然としない。
が、他の絵と、何かが違う。
(髪かな)
ルキウスはその絵をまじまじと見た。
他の女公が赤い髪を一束の三つ編みや丸いまとめ髪にしているのに対して、この絵の女公だけは長い髪を下ろしているのだ。
五、六歳くらいの子供が描いたような絵だから、想像で描いたものかもしれない。が、何か気になる。
ルキウスはその絵を手に取り、壁から外した。
――からり。と、音がした。
「…?」
額縁の中から小さく固いものが当たっているようだった。何かが意図的に隠されている。ルキウスは続き部屋の浴室で湯浴みをするオルフィニナに気づかれないようにそっと裏板を外し、絵を取り出して書き物机に置き、耳のそばで額縁を振ってみた。カラカラと音がするのは、鳥や木の実や葉の浮き彫りが施された額縁の木枠の中からだ。
バキ!と何かが壊れる音で、オルフィニナは目を開いた。
いつの間にか浴槽の縁に頭を預けたまま眠っていたらしい。辛うじて湯はまだ温かいから、寝入ってしまってからそれほど時間は経っていないはずだ。
「クイン?…エデンか?」
返答はない。頭が次第にはっきりすると、夕食の後でルキウスが人払いをしていたことを思い出した。
なんだか嫌な予感がする。
オルフィニナはラベンダーとマジョラムの香る浴槽から出て、身体も長い髪も濡れたまま、籐の衝立に引っ掛かっていた綿織物のガウンだけを身に纏い、帯を結びながら足早に部屋へ戻った。
予感は、当たっていた。
子供たちの絵を掛けた壁の前に、ルキウスが立っている。後ろを向いているから、表情はわからない。――が、顔を見るまでもない。背中からでもその怒りが伝わって来る。
床に散らばった額縁の無惨な木片を目にしたとき、オルフィニナは大きく息をついた。諦めの溜め息だ。
こちらを振り向いたルキウスの手には、指輪が握られている。黄金の環に微細な線で吠える狼の頭が彫られ、石座には透き通った楕円の琥珀が燭台の灯りを受けて輝いている。
オルフィニナは確信した。
それが何か、ルキウスは正しく理解している。
「強かな女だな、オルフィニナ・ドレクセン」
ルキウスは冷笑し、指輪を長い指先で弄んだ。緑色の目が鈍く怒りに燃えている。
「大事なのは絵じゃなくて額縁の方だったわけだ。重大な秘密を、こんなところに隠していたとはね」
ルキウスの靴の下で、木片が砕けた。
「…絵の方がよほど価値がある。それはただの骨董品だ」
「そう。ただの骨董品だ。君の父親の死に際に消え、フレデガル・ドレクセンが血眼になって探している、ただの指輪。そして、アミラ王となるのに必要な指輪だ。そうだろ?」
髪から落ちる雫が氷のように冷たく肌を伝う。オルフィニナは言葉を発することができなかった。
ルキウスが捕食者の足取りで近づいてくる。オルフィニナは本能的に足を後ろへ引いたが、すぐに壁にぶつかった。もう退路はない。
「髪が濡れてる。風邪をひくぞ」
ルキウスはそう言ってオルフィニナの右手を取り、その人差し指に指輪を通した。オルフィニナの細い指には大き過ぎ、すぐに抜けてしまいそうなほどだが、ルキウスは構わずにそれがあるべき場所に嵌めた。ひやりと冷たい感触が指にまとわりつく。
「――ルドヴァンで俺が得た情報は、陰謀についてのことだ。父の従弟ヴァレル・アストルが俺を失脚させようとしてる」
「興味がない」
オルフィニナはにべなく言って指輪を外そうとしたが、ルキウスがオルフィニナの手首を掴んで壁に押し付け、それを阻んだ。
「ギエリで起きていることも調べた。知りたいだろ?」
オルフィニナはルキウスの形の良い唇が歪に吊り上がるのを見た。美貌が、その表情をいっそう暗く見せる。
「エギノルフ王の死を、ギエリを制圧したヴァレルは把握していた。それなのにアミラ国民にも俺の父にも公表していない。これがどういうことか解るよな」
最悪の考えが頭をよぎった。言葉にするのも恐ろしい。が、きっとこの発想は正しい。ルキウスも同じ事を考えているだろう。
「…彼らが取り引きをしたと言いたいのだろう」
「そう。互いの頭に王冠を被せるつもりだ」
突然に早まったギエリへの侵攻も、その制圧の迅速さも、その後の不気味な静けさも、その理由を説明できるとしたら、これしかない。
何かが計画されている。今までエギノルフ王の影に隠れていたフレデガルがとうとう玉座への執着を顕し始めたとしたら、一番危険なのは王太子である弟のイゾルフだ。
「家族が心配だろ。オルフィニナ」
オルフィニナは静かにルキウスの緑色の目を見上げた。分かりきったことを聞くなと言ってやりたい。が、言わなかった。きっと言葉にしたら不安に押しつぶされそうになる。今も、不安で喉がヒリヒリする。
まるでそれを見透かしたように、ルキウスが喉元に右手で触れ、噛み付いた。
びくりと身体が震えた。
指が喉元を下り、鎖骨に触れ、柔らかい胸の丘を登っていく。同時にルキウスの唇が喉を這い上がり、耳朶に触れた。
「助けてやるよ。いい考えがある」
まるで悪魔の囁きだ。と思った。そうでなければ、説明がつかない。身体の奥に感じる、奇妙な疼きが何なのかも。――
ルキウスの低い声が誘惑を続けた。
「対価は君の協力だ。互いに助け合おう」
「…っ」
ルキウスの手がガウンの上から胸を覆い、唇が首に触れる。自分より高い体温が、冷え切った肌へ火をつけるように熱を灯していく。
「わたしをどう使う気だ」
オルフィニナが声を絞り出したとき、ルキウスは顔を上げ、孔雀石のような瞳を妖しく輝かせて彼女の顔を覗き込んだ。オルフィニナの肌をぶるりと震わせたのは、濡れたままの髪から伝う雫だったか、夜気だったか、それともこの男の暗い愉悦に光る瞳だったか、わからない。
確かなのは、この後ルキウスが発した言葉が、あまりに非現実的だったことだ。
「君をレーヌにする」
自分の耳を疑う他なかった。
「それはどういう意味で言ってる」
‘レーヌ’の意味するところは、王の妻、即ち‘王妃’であり、女性君主、即ち‘女王’でもある。曖昧な言葉だ。それを、オルフィニナはどちらかと訊いたのだ。そして、ルキウスの返答は更にオルフィニナを混乱させた。
「まずは君主。次に王の妻」
ますます意味が分からないというように琥珀色の目を見開いたオルフィニナを、ルキウスは愉快そうに見下ろした。
「結婚しよう、オルフィニナ。エマンシュナの王太子妃となった君は、夫の勢力を得てアミラの女王となり、アミラを俺たちの共同統治下に置く。俺は、その功績と女王の支持を得て次期エマンシュナ王となる。君はアミラの女王で、エマンシュナの王妃だ」
時が止まったかと思った。やがて驚愕は笑いとなって喉から吐き出され、自分でもどうにかしてしまったのではないかと思うほど高らかな笑い声を上げていた。何も可笑しくなどない。あまりのことに脳が笑う以外の行動を選べなくなったと言う方が正しい。
「おかしいだろ。でも本気だ」
ルキウスが凍り付くような目をして言った。
「エマンシュナの軍門に降ったドレクセンにそんな力があるとでも思っているのか?わたしがアミラ女王になれるとでも?それに、あなたの妃になる?全てが有り得ない」
「そんなことないさ」
ルキウスは目を細めて唇に弧を描かせ、オルフィニナの右手の人差し指に嵌まった指輪にキスをした。
「アミラが君と俺の共同統治下に置かれれば、事実上の和睦だ。双方にとって十分な功績になる。ドレクセンの影響力は強いよ。古代エメネケア皇帝の末裔というだけで、威光は大きい。とりわけ民衆には」
「だが重大なことを忘れている。わたしは王位に就けない。王冠、指輪、血統のうち、絶対に手に入れられないものがある。血統だ。わたしは嫡出ではない時点で、王位継承権を永遠に持つことができない。持ちたくもない。王冠など欲しくない」
「じゃあ指輪はどう説明する?」
ルキウスは一笑した。
「なぜ君が王の指輪を持っているか、当ててやるよ。王位を望まない君が盗み出したとは考えられない。それなら、君が前に言った通り、先代の王から引き継がれたんだ。王冠は持ち出せなくても、指輪なら簡単だ」
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