白いスープと死者の街

主道 学

文字の大きさ
上 下
33 / 41
白いスープ

33話

しおりを挟む
 後ろを振り向くと、小型のエレベーターが上へ向かっていた。
 ぼくは小首を傾げて少し考えた。
 大原先生?

 エレベーターは一階で止ったようだ。しばらくするとゆっくりとこの階へと降りだしてきた。
 どうしようか?
 大原先生だと味方だし、今では心強い理解者だと思う。
 でも、硬質な声の人たちだとしたら、大変だ。

「ほれほれ、ほれほれ」
「ほれほれ、ほれほれ」
 小型のエレベーターが地下一階に到着した。

「やばい!」

 ぼくは悲鳴を上げて、カルテ室へと走り出した。
 体の感覚が何か変だ。走りづらい。
 カルテ室まで埃だらけの通路を走ると、看護婦さんがカルテを携えて出て来た。

「どうしたの? ……なんなの? あの変な人達? まるで……」
「逃げよう!」
「今は使ってない小型のエレベーターがT字路の左にあるわ……」

 ぼくは真っ白で不思議そうな顔の看護婦さんの手を掴むと、一目散にT字路の左へと向かった。硬質な声が走り出した。
 大人たちの素足で走る音が聞こえる。
「あっちよ!」
 体がなかなかいうことを聞かなくなったぼくに優しい看護婦さんが叫ぶ。真っ暗になった通路には検査室や薬品室などがあり、突当りに小型のエレベーターの入り口があった。埃を被っていて、何年も使っていないのだろうと思える。いっぱい走ってぼくは強い吐き気を催した。

 看護婦さんが先頭に立ち急いでボタンを押した。
 その時、何かが飛んできた。
 扉が開くと、エレベーター内の弱い赤いランプが灯った。
 看護婦さんがぼくを引っ張って、すぐに中へ押し込んだ。ぼくはたまらなくなってエレベーターの床に吐き出した。今度は透明な液体だけだった。

「ぼく! 大丈夫! 上へあがるわね!」
 狭いエレベーター内で看護婦さんがぼくの手を握りながら、一階へのボタンを押した。
 ぼくは虚ろな目で辺りを見回していた。
 何か体が……。

 まるで、死んでしまったかのようだ。
 ぼくの瞳は濁り出し、扉が閉まったのも相まって、硬質な声の相手を確認できなかった。
 大勢の大人たちのぼやけた輪郭が脳裏に映った。
 ゆっくりとエレベーターが上昇する。

 点滅する赤いランプで看護婦さんのマスクが血塗れなので、ぼくはギョッとした。
「大丈夫?」
「うん……。でも、ちょっと具合が悪いの……」
 優しい看護婦さんは力なくストンと地面に座った。
 蒸し暑いエレベーター内に毒々しいキノコの臭いが充満し、看護婦さんは少しも動かなくなった。でも、目だけはキョロキョロとしていたので、ぼくは看護婦さんの耳元に囁いた。
「大丈夫さ。二階へ行ったら、すぐに助けてあげるからね。嘘を吐いてごめんね……。今度はぼくが助ける番だ」
 動けなくなった看護婦さんからカルテを取り、読んでみてもサッパリ解らなかった。仮死状態以外は難しい漢字が多い。今になって看護婦さんに嘘を吐いたことに後悔している。
 ぼくは大原先生を探すことにした。


 エレベーターの二階のボタンを迷わず押した。ガクンと振動した後に一階で扉は開かずにエレベーターが上昇する。優しい看護婦さんはピクリとも動かなかったが、よく見ると目から溢れる涙が血塗れのマスクを濡らしていた。

 苦しいのかな?

 ぼくは早めに大原先生を探すことにした。
 扉が開くと動きにくい体を引きずるようにして、廊下を進む。
 真っ暗で蒸し暑い廊下は点滅しだした明かりで、濁り出した目では見えにくいけど、廊下で倒れている複数の患者やクワが投げ出されていた。

 ぼくは静かに窓の外を見つめた。
 か細い明かりで厚い雲が病院全体を覆っていた。
「大原先生? どこ? この患者さんたちはどうしたの?」
 ぼくの声はいつの間にか小声になり、聞き取りにくくなっていた。硬くなりだして動かない足を両手で揉んでいると、奥の病室から大原先生が歩いてきた。

 片手に持った鉈のような形状の刃物は血だらけだった。
 その顔は真っ青だけど、学校での優しさがある顔だった。
「村の人たちは一人だけど説得しました。歩君? 動きが変よ。まだ飲んでないの?」
 大原先生が渡した白いスープを思い出した。
 慌ててズボンのポケットをまさぐり、瓶を取出し蓋を開けた。
 匂いは、なんだか豆乳みたいにあまりしない。
 ぼくは味は知りたくもないので一気に飲むことにした。
 喉を固い液体が通る。

「うげっ!」
 ぼくは吐き出しそうな喉をすぐに叱咤して飲み込んだ。

 味はしない。
「我慢して飲んで。村の人たちはかなり怖い人たちだから、早めに一階へ行きましょう。歩君のご両親が危ないわ」
 ぼくはハッとして後ろを振り向くと、優しい看護婦さんが扉の開いたエレベーター内で座ったままだった。
 そうだ!
 この白いスープはまだ残っているんだ。
 だから、看護婦さんにも飲ましてみよう。
 ぼくは急いで看護婦さんの元へ走ると、自然に体に力が戻り。普通に走れた。視界も広がり、生き返ったかのように体が元に戻った。

 お腹がギュウと鳴って、物凄い空腹感を覚えた。
 我慢してエレベーター内の看護婦さんのマスクを外していると、大原先生もエレベーターに乗ってきた。
「その人も……。子供たちの血はまだ残っているのね」
 ぼくは一瞬。解らなかった。子供たちの血?
 この白いスープは子供たちの血?

 涙がでそうだったけれど、ぼくは力強く右足で床を踏んで地団駄して我慢した。
「さあ、看護婦さん。飲んでね。大原先生もいるから……もう大丈夫だよ」
 看護婦さんの口に残りの白いスープを少しだけど流し込んだ。
 看護婦さんは、首を少しだけ動かして目を瞬いている。
 少しだからあまり効かないんだ。
 ごめんね。

 大原先生は外の様子を見つめていたけど、ゆっくりとエレベーターの一階のボタンを押した。
 赤いランプで疲れ切ったように見えるボロボロの服装の大原先生は、今までどこにいたの? それと、床の上の患者さんたちは? 酷い話だけれど、村で殺されている子供
たちは? そんなことを聞きたかった。けれど、今は一階の父さんと母さんとも無事にこの病院から出ることを考えた方がなによりも大切だった。
 エレベーターがゆっくり開くと、そこは一階。
 しんと静まり返っている。
 ぼくの父さんと母さんも寝ているんだ。
 なんだか不気味だけれど、大原先生が率先して角の多い父さんと丸っこい母さんを探してくれる。
 キビキビと歩く大原先生は今までよりも先生らしい。
 無言なその行動には、少し迷いがあるけれど、今となっては心強い味方だと思うんだ。
 ぼくにはわかるんだ。

 大原先生は根はいい人だと。
 この事件はわからないことばかりだけど、味方になってくれる人がいて、紛れもない現実と空想の入れ替わりのように、ぼくには思えるんだ。
 カタン。とロビーの奥から何かが倒れた小さな音が聞こえた。
 誰か起き出した人がいるんだろう。
 大原先生と一緒に出会うとまずいけれど、この際仕方がないんじゃないかな。
 説明するのは難しいから放っておいてほしいけど、気にせずに父さんと母さんを探していよう。
 空調が壊れているような暑さの病院の総合受付には誰もいない。けど、ガラス窓を挟んだ奥には明かりのついたナースステーションがある。ぼくは汗を掻いて、その隣には色々な診療室が並んでいるのを見回した。おかしな病院だけど、やっぱり病院だ。大きい薬局は病院の外にあるみたいだね。

 大原先生は教師のようにぼくの前に立ち、キビキビと薄暗いロビーの広い待合室を探してくれている。
 ぼくも父さんと母さんを探していたけど、空っぽの椅子が並んでいた。
 誰もいない空間だった。
「大原先生! 父さんと母さんは!」
 ぼくは涙を流していつの間にか叫んでいた。
「歩君……慌ててはいけません。途中で家に帰ったのかも知れないし。……確かに村の人たちに連れて行かれたのかも知れないけど。基本的には村の人たちは大人は殺しません……大丈夫よ歩君。でも、確かに例外はあるけど……。きっと、大丈夫」
 大原先生は恐ろしい形相のまま悲しい顔から苦悶の顔をした。
 何かを飲み込む音と関係もしているんだろうけど、ぼくには感情によるものとも思えた


 大声で叫びたい気持ちがぼくの中で膨らんできた。
しおりを挟む

処理中です...