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第259話:皇女の警戒、そして揺れる心
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リリアーナ・レグルス・ガルニアは、まだ信じてはいなかった。
いや、信じることなど、とうに忘れていた。
裏切り、謀略、そして血塗られた戦い。それこそが彼女が歩んできた日々であり、亡国の皇女として生き延びるための唯一の術であった。
だが今――。
彼女は、清潔な布団に身を横たえている。窓の外には朝日が差し込み、草木の香りが漂っていた。
暖かい湯で身体の汚れを洗い流され、疲れ切った心身を癒やす薬草茶を与えられた。
すべてがあまりに整いすぎていて、かえって不安を募らせる。
【……甘い言葉と笑顔に惑わされるな。奴らが何者であろうと、結局は利用する気に違いない】
寝台の上で膝を抱えながら、リリアーナはそう自らに言い聞かせていた。
昼下がり、彼女の部屋を訪れたのはアヤネだった。
木盆の上に置かれた、まだ湯気の立つスープと焼きたての黒パン。
「どうぞ、口に合うといいんですけど」
アヤネはにこやかに言い、机の上へとそれを置いた。
リリアーナは無言のまま、紫水晶の瞳でじっとそれを睨みつける。
「毒が怖い?」
アヤネは肩をすくめ、ためらいなくスープを匙で掬うと自分の口へ運んだ。
「ほらね。普通の野菜スープよ。私も同じものを食べてるし」
あまりにも自然な仕草に、リリアーナの胸がわずかにざわめいた。
だが、それを表に出すことはせず、静かに顔を背けた。
「……下がれ」
「ええ、分かったわ。でも食べなさい。身体を壊したら元も子もないでしょう?」
アヤネは微笑みを残し、部屋を出ていった。
残されたリリアーナはしばらく動けず、やがて小さく吐息をついた。
震える手を伸ばし、黒パンをひとかけ口に運ぶ。
その素朴な味わいは、かつて宮廷で口にした豪奢な料理よりも、不思議なほど心に沁み渡った。
翌日。
キナが訪ねてきた。彼女は聖獣を伴い、どこか無骨で飾らぬ雰囲気を纏っている。
「よう、調子はどうだ?」
「答える義務はない」
「まあそう言うな。腹は減ってるだろ。ほら、鹿肉の干し肉だ。あたしらが食った残りで悪いけどな」
そう言ってキナは、包みを机に放り投げた。
リリアーナは険しい目を向けるが、キナはまるで気にしていない。
「殿下だろうが何だろうが、腹が減ってちゃ戦えねえ。……食うも食わねえも、あんた次第だ」
聖獣が鼻をひくつかせ、彼女の傍らに座り込む。その澄んだ瞳に敵意はなく、ただ親しみの光が宿っていた。
リリアーナは思わず視線を逸らす。
【……何だ、この者たちは。脅しも取引もせず、ただ与えるだけとは】
日々が過ぎていく。
リリアーナは、町の人々の営みを窓越しに眺めていた。
子どもたちが笑いながら木の枝を組んで小屋を作り、兵士上がりの男たちが不器用に板を削り、女たちが歌いながら衣を織る。
どこにも強制や恐怖はなく、ただ生活を共にする喜びがあった。
侍女のマリアが、小声で囁く。
「殿下……あの方々は、本当に殿下を害する気はないように思えます」
「……信じるな。人は皆、己の利益のために微笑むのだ」
そう答えながらも、リリアーナの胸には微かな温もりが芽生え始めていた。
ある日、町の子どもが部屋の前で転んだ。小さな手から果物が転がり、彼女の足元に止まる。
拾い上げて差し出すと、子どもは目を輝かせて言った。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
その無垢な笑顔に、リリアーナは息を呑む。
彼女の心に張り巡らされた氷の壁に、ひびが入った瞬間だった。
夜。
月明かりの下で、リリアーナは一人つぶやいた。
【……私は、間違っているのかもしれない】
信じることを捨てたはずの心が、ほんの少しだけ揺らぎ始めていた。
この町には、策略ではなく真実の温かさがあるのかもしれない――。
いや、信じることなど、とうに忘れていた。
裏切り、謀略、そして血塗られた戦い。それこそが彼女が歩んできた日々であり、亡国の皇女として生き延びるための唯一の術であった。
だが今――。
彼女は、清潔な布団に身を横たえている。窓の外には朝日が差し込み、草木の香りが漂っていた。
暖かい湯で身体の汚れを洗い流され、疲れ切った心身を癒やす薬草茶を与えられた。
すべてがあまりに整いすぎていて、かえって不安を募らせる。
【……甘い言葉と笑顔に惑わされるな。奴らが何者であろうと、結局は利用する気に違いない】
寝台の上で膝を抱えながら、リリアーナはそう自らに言い聞かせていた。
昼下がり、彼女の部屋を訪れたのはアヤネだった。
木盆の上に置かれた、まだ湯気の立つスープと焼きたての黒パン。
「どうぞ、口に合うといいんですけど」
アヤネはにこやかに言い、机の上へとそれを置いた。
リリアーナは無言のまま、紫水晶の瞳でじっとそれを睨みつける。
「毒が怖い?」
アヤネは肩をすくめ、ためらいなくスープを匙で掬うと自分の口へ運んだ。
「ほらね。普通の野菜スープよ。私も同じものを食べてるし」
あまりにも自然な仕草に、リリアーナの胸がわずかにざわめいた。
だが、それを表に出すことはせず、静かに顔を背けた。
「……下がれ」
「ええ、分かったわ。でも食べなさい。身体を壊したら元も子もないでしょう?」
アヤネは微笑みを残し、部屋を出ていった。
残されたリリアーナはしばらく動けず、やがて小さく吐息をついた。
震える手を伸ばし、黒パンをひとかけ口に運ぶ。
その素朴な味わいは、かつて宮廷で口にした豪奢な料理よりも、不思議なほど心に沁み渡った。
翌日。
キナが訪ねてきた。彼女は聖獣を伴い、どこか無骨で飾らぬ雰囲気を纏っている。
「よう、調子はどうだ?」
「答える義務はない」
「まあそう言うな。腹は減ってるだろ。ほら、鹿肉の干し肉だ。あたしらが食った残りで悪いけどな」
そう言ってキナは、包みを机に放り投げた。
リリアーナは険しい目を向けるが、キナはまるで気にしていない。
「殿下だろうが何だろうが、腹が減ってちゃ戦えねえ。……食うも食わねえも、あんた次第だ」
聖獣が鼻をひくつかせ、彼女の傍らに座り込む。その澄んだ瞳に敵意はなく、ただ親しみの光が宿っていた。
リリアーナは思わず視線を逸らす。
【……何だ、この者たちは。脅しも取引もせず、ただ与えるだけとは】
日々が過ぎていく。
リリアーナは、町の人々の営みを窓越しに眺めていた。
子どもたちが笑いながら木の枝を組んで小屋を作り、兵士上がりの男たちが不器用に板を削り、女たちが歌いながら衣を織る。
どこにも強制や恐怖はなく、ただ生活を共にする喜びがあった。
侍女のマリアが、小声で囁く。
「殿下……あの方々は、本当に殿下を害する気はないように思えます」
「……信じるな。人は皆、己の利益のために微笑むのだ」
そう答えながらも、リリアーナの胸には微かな温もりが芽生え始めていた。
ある日、町の子どもが部屋の前で転んだ。小さな手から果物が転がり、彼女の足元に止まる。
拾い上げて差し出すと、子どもは目を輝かせて言った。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
その無垢な笑顔に、リリアーナは息を呑む。
彼女の心に張り巡らされた氷の壁に、ひびが入った瞬間だった。
夜。
月明かりの下で、リリアーナは一人つぶやいた。
【……私は、間違っているのかもしれない】
信じることを捨てたはずの心が、ほんの少しだけ揺らぎ始めていた。
この町には、策略ではなく真実の温かさがあるのかもしれない――。
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