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第257話:亡国の皇女、そして聖域の邂逅
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聖域に保護された帝国近衛騎士団の団長補佐、クラウス。彼の意識が完全に回復するまでには、さらに丸一日を要した。アキオとシルヴィアが、生命樹の実の力を込めた特別な滋養スープを飲ませ続けた結果、彼はようやく、ベッドの上で体を起こせるまでに回復した。
「アキオ殿…このご恩、言葉もない…」
「礼はいい。それより、皇女殿下のことだ。今、どこに?」
アキオのその問いに、クラウスの表情が再び絶望に曇る。
「我らは、殿下を逃がすための最後の戦いで、追手の目を引きつけるため、二手に分かれました。殿下には、最も信頼できる侍女と、数名の騎士だけをつけ、『東の森、暁の光が射す聖域を目指せ』と…。殿下が向かわれたのは、この聖域の南に広がる、『嘆きの湿地帯』を抜ける道のはずです。そして、これが、殿下が身につけておられるはずの、皇帝陛下から賜ったお守りのペンダントの写しです…」
クラウスは、震える手で、一枚のスケッチをアキオに手渡した。
その日のうちに、アキオの町から、二つの精鋭部隊が、密かに出発した。
一つは、カイが率いる、町の防衛隊を中心とした陽動兼捜索隊。彼らは、クラウスたちが通ってきたであろう街道筋を、あえて大々的に捜索することで、もし追手がいれば、その注意を自分たちに引きつける役目を担う。
そして、もう一つが、キナと三体の聖獣、そして護衛としてアルトが同行する、本命の極秘救出部隊だった。彼らは、獣道にも満たない森の奥深くを抜け、「嘆きの湿地帯」へと向かう。
それから、二日が経過した。
湿地帯の、木々が鬱蒼と生い茂る、ぬかるんだ沼地のほとり。キナは、聖獣の鼻先が示す、微かな人間の匂いを辿っていた。そして、巨大な倒木の影に、何かがいることに気づく。
それは、獣だった。いや、獣のように、鋭い警戒心をむき出しにして、泥と葉にまみれてうずくまる、一人の若い女性だった。
その手には、血に濡れた小さな短剣が固く握られ、首元には、クラウスが描いたスケッチと寸分違わぬ、鷲の紋章が刻まれたペンダントが、鈍い銀色の光を放っている。
彼女が、ガルニア帝国の第一皇女、リリアーナ・レグルス・ガルニアであった。
腰まで届くほどの美しい銀髪は、今は見る影もなく汚れ、その理知的な美貌には、疲労と、そして誰も信じないという、深い絶望の色が浮かんでいた。
「…誰だ」
リリアーナは、キナたちの姿を認めると、か細く、しかし氷のように冷たい声で問いかけた。その紫水晶(アメジスト)色の瞳には、敵意と、そして諦めが宿っている。
「追手か。好きにするがいい。だが、この命、安くくれてやるつもりはない」
キナは、武器を収め、両手を上げて敵意がないことを示した。
「あんたを迎えに来た、リリアーナ殿下。クラウスの旦那に頼まれてな」
「クラウスが…? 生きていたのか…」
忠臣の名を聞き、リリアーナの瞳が、わずかに揺らぐ。しかし、その警戒心は、まだ解かれない。
「…信じられるものか。お前たちが、奴らの手の者ではないと、どう証明する」
「証明ねえ…。そんなもんはねえよ」
キナは、肩をすくめると、懐から、アヤネが持たせてくれた、まだ温かいパンと、水筒を取り出した。
「だがな、腹が減ってちゃ、戦も、疑うこともできやしねえだろ。食いな。毒は入ってねえよ。あたしらが食ってやってもいいが、その間に、あんたの体力が持つかねえ?」
キナは、パンと水筒を、リリアーナと自分の間に、そっと置いた。
リリアーナは、そのパンと、キナの、そして彼女の後ろにいるアルトや聖獣たちの、全く裏表のない、不思議なほどに穏やかな佇まいを、じっと見つめていた。
長い、長い沈黙。
やがて、彼女は、震える手で、そのパンを掴んだ。そして、獣のように、しかし、どこか気品を失わない仕草で、それを夢中で口へと運んだ。その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちたのを、キナは見逃さなかった。
アキオの町へと保護されたリリアーナは、当初、その心を固く閉ざしていた。清潔な部屋と、温かい食事を与えられても、その警戒心は解けない。彼女は、この聖域の、一見すると非合理的で、性善説に基づいたかのような共同体のあり方に、強い疑念を抱いていた。
しかし、アキオや、その妻たち、そして町の住民たちの、ただひたすらに真っ直ぐな善意と、彼女を「皇女」としてではなく、一人の「仲間」として扱おうとする、その温かさに触れる中で、彼女の凍てついた心は、少しずつ、しかし確実に、溶かされ始めていく。
敗れた理想を抱く、現実主義の皇女。
彼女が、この聖域で何を見つけ、そして、どう変わっていくのか。
アキオの町の、そして彼女自身の、新しい運命の歯車が、今、静かに、そしてゆっくりと、回り始めた。
「アキオ殿…このご恩、言葉もない…」
「礼はいい。それより、皇女殿下のことだ。今、どこに?」
アキオのその問いに、クラウスの表情が再び絶望に曇る。
「我らは、殿下を逃がすための最後の戦いで、追手の目を引きつけるため、二手に分かれました。殿下には、最も信頼できる侍女と、数名の騎士だけをつけ、『東の森、暁の光が射す聖域を目指せ』と…。殿下が向かわれたのは、この聖域の南に広がる、『嘆きの湿地帯』を抜ける道のはずです。そして、これが、殿下が身につけておられるはずの、皇帝陛下から賜ったお守りのペンダントの写しです…」
クラウスは、震える手で、一枚のスケッチをアキオに手渡した。
その日のうちに、アキオの町から、二つの精鋭部隊が、密かに出発した。
一つは、カイが率いる、町の防衛隊を中心とした陽動兼捜索隊。彼らは、クラウスたちが通ってきたであろう街道筋を、あえて大々的に捜索することで、もし追手がいれば、その注意を自分たちに引きつける役目を担う。
そして、もう一つが、キナと三体の聖獣、そして護衛としてアルトが同行する、本命の極秘救出部隊だった。彼らは、獣道にも満たない森の奥深くを抜け、「嘆きの湿地帯」へと向かう。
それから、二日が経過した。
湿地帯の、木々が鬱蒼と生い茂る、ぬかるんだ沼地のほとり。キナは、聖獣の鼻先が示す、微かな人間の匂いを辿っていた。そして、巨大な倒木の影に、何かがいることに気づく。
それは、獣だった。いや、獣のように、鋭い警戒心をむき出しにして、泥と葉にまみれてうずくまる、一人の若い女性だった。
その手には、血に濡れた小さな短剣が固く握られ、首元には、クラウスが描いたスケッチと寸分違わぬ、鷲の紋章が刻まれたペンダントが、鈍い銀色の光を放っている。
彼女が、ガルニア帝国の第一皇女、リリアーナ・レグルス・ガルニアであった。
腰まで届くほどの美しい銀髪は、今は見る影もなく汚れ、その理知的な美貌には、疲労と、そして誰も信じないという、深い絶望の色が浮かんでいた。
「…誰だ」
リリアーナは、キナたちの姿を認めると、か細く、しかし氷のように冷たい声で問いかけた。その紫水晶(アメジスト)色の瞳には、敵意と、そして諦めが宿っている。
「追手か。好きにするがいい。だが、この命、安くくれてやるつもりはない」
キナは、武器を収め、両手を上げて敵意がないことを示した。
「あんたを迎えに来た、リリアーナ殿下。クラウスの旦那に頼まれてな」
「クラウスが…? 生きていたのか…」
忠臣の名を聞き、リリアーナの瞳が、わずかに揺らぐ。しかし、その警戒心は、まだ解かれない。
「…信じられるものか。お前たちが、奴らの手の者ではないと、どう証明する」
「証明ねえ…。そんなもんはねえよ」
キナは、肩をすくめると、懐から、アヤネが持たせてくれた、まだ温かいパンと、水筒を取り出した。
「だがな、腹が減ってちゃ、戦も、疑うこともできやしねえだろ。食いな。毒は入ってねえよ。あたしらが食ってやってもいいが、その間に、あんたの体力が持つかねえ?」
キナは、パンと水筒を、リリアーナと自分の間に、そっと置いた。
リリアーナは、そのパンと、キナの、そして彼女の後ろにいるアルトや聖獣たちの、全く裏表のない、不思議なほどに穏やかな佇まいを、じっと見つめていた。
長い、長い沈黙。
やがて、彼女は、震える手で、そのパンを掴んだ。そして、獣のように、しかし、どこか気品を失わない仕草で、それを夢中で口へと運んだ。その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちたのを、キナは見逃さなかった。
アキオの町へと保護されたリリアーナは、当初、その心を固く閉ざしていた。清潔な部屋と、温かい食事を与えられても、その警戒心は解けない。彼女は、この聖域の、一見すると非合理的で、性善説に基づいたかのような共同体のあり方に、強い疑念を抱いていた。
しかし、アキオや、その妻たち、そして町の住民たちの、ただひたすらに真っ直ぐな善意と、彼女を「皇女」としてではなく、一人の「仲間」として扱おうとする、その温かさに触れる中で、彼女の凍てついた心は、少しずつ、しかし確実に、溶かされ始めていく。
敗れた理想を抱く、現実主義の皇女。
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