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【第12話】王に捧げる密計の香り
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あの夜、リアンが去った後も、部屋に満ちる新しい香りは、私の心を静かに満たし続けていた。
〝氷の王〟の鎧と、その下に隠された彼の魂。二つの側面を表現した香りは、試作品でありながら、確かに彼自身を映し出していたように思う。そして、彼がそれを受け入れ、感謝し、私に新たな役割を託してくれたという事実。
『私の、力になってほしい』
その言葉が、私の心の中で、温かな光を灯していた。囚われの姫ではない。愛玩されるだけの鳥でもない。私は、彼の隣で戦う、ただ一人の香薬師。
その夜は、十年ぶりに、本当に穏やかな気持ちで眠りにつくことができた。
翌朝、私が目を覚ますと、すでにエルアが朝食の準備を整えてくれていた。
「おはようございます、ルシエル様。昨夜は、よくお眠りになれたご様子ですね」
「ええ。ありがとう、エルア」
「陛下からも、ルシエル様の疲労が回復するよう、滋養に富んだ食事を用意するようにと、改めて言いつかっております」
エルアはそう言って微笑むが、その言葉の端々に、リアンの過保護とも言える心遣いが感じられた。
私が食事を終えるのを見計らったように、エルアは一枚の羊皮紙を、恭しく私に差し出した。それは、王家の紋章が刻印された、上質なもので、厳かに蝋で封がされている。
「陛下からです」
「リアンから……?」
私が封を解くと、中には、彼の流麗な筆跡で書かれた手紙が入っていた。
『ルシエルへ
昨夜は、素晴らしい香りをありがとう。あの香りは、私の心を、十年ぶりに本当の意味で解き放ってくれた。
君の才能を、ただ過去の再現のためだけに使わせようとしていた私の不明を詫びたい。
そして、君が私の力になると言ってくれたこと、感謝する。
早速で申し訳ないが、君の力を借りたい局面が訪れた。
本日午後、私は中立派貴族の筆頭である、マーグレイヴ辺境伯との会談に臨む。
兄上――第二王子が、彼らを取り込もうと、活発に動いている。この会談は、今後の国の安定を左右する、極めて重要なものだ。
辺境伯は、老獪(ろうかい)で、決して本心を見せぬ男だ。交渉は、困難を極めるだろう。
そこで、君に頼みたい。
この会談の場を、支配する香りを作ってはくれないだろうか。
私の精神を、氷のように冴えわたらせ、同時に、相手の心を、少しでも和らげるような。
交渉を、優位に進めるための、〝密計の香り〟を。
無理にとは言わない。だが、君の力が、今の私には必要だ。
リアンより』
手紙を読み終えた私は、ごくりと喉を鳴らした。
これが、彼が私に託す、最初の「戦」だ。
王の執務室でも、玉座の間でもない。この小さな「店」から、私は、香りを武器に、この国の政治に関わるのだ。
恐怖はなかった。むしろ、私の全身を、香薬師としての武者震いが駆け巡っていた。
「エルア」
「はい、ルシエル様」
「陛下に、お伝えして。『謹んで、お受けいたします』と」
私の言葉に、エルアは力強く頷いた。
私は、再びあの「店」に足を踏み入れた。
昨日とは違う。明確な目的を持って、私は香料の棚を見渡す。
(会談の場を、支配する香り……)
ただ、心を落ち着かせるだけでは足りない。リアンの精神を研ぎ澄まし、同時に、相手の警戒心を、気づかれぬように、ほんの少しだけ解きほぐす。そんな、相反する効果を両立させなければならない。
まず、基調となるのは、リアンのための香りだ。
彼の思考を冴えわたらせるために、ローズマリーの清冽な香りは必須だろう。記憶力を高め、精神を明晰にする効果がある。
そして、王としての威厳と、交渉の場における主導権を確立するために、**フランキンセンス(乳香)**が最適だ。古来より、神聖な儀式で使われてきたこの香りは、場の空気を浄化し、人の心を厳粛なものにする。嘘や欺瞞が入り込む隙を与えない、「真実の香り」とも呼ばれる。
この二つを軸に、リアンの精神を守り、そして強化する。
次に、相手に作用する香り。これは、より繊牲さが求められる。
相手を操ろうという意図が少しでも見えれば、香りはただの不快な匂いとなり、逆効果になるだろう。
必要なのは、警戒心を和らげ、心を「開かせる」香りだ。
私は、柑橘系の棚へと向かった。グレープフルーツの、爽やかで、僅かに苦味のある香り。この香りは、人の心の鬱屈(うっくつ)を取り払い、前向きで、素直な気持ちにさせる効果がある。
そして、もう一つ。花の香りから、ネロリを選んだ。ビターオレンジの花から抽出されるこの香りは、不安や緊張を和らげ、幸福感をもたらすと言われている。老獪な辺境伯の、凝り固まった心を、赤子のそれのように、柔らかく解きほぐすために。
これらの香りを、どう調和させるか。
リアンを強化する、神聖で、厳かな香り。
相手の心を開かせる、明るく、幸福な香り。
相反する二つの世界を、一つの空間で成立させる。
私は、試行錯誤を繰り返した。何度も配合を変え、ほんの一滴の差で、香りの印象ががらりと変わるのを、肌で感じていた。
そして、数時間が経った頃、私はついに、一つの完成形に辿り着いた。
それは、一見すると、ただ清涼で、荘厳なだけの香り。だが、その奥に、ほんの僅かに、陽だまりのような明るさと、優しい幸福感が隠されている。相手は、気づかないだろう。だが、その香りを吸い込むうちに、無意識のうちに、心が和み、目の前の王に、誠実な印象を抱くはずだ。
私は、完成した香油を、王宮の職人に作らせた、白磁の小さな香炉に数滴垂らした。これならば、会談の場に置いても、悪目立ちすることはないだろう。
準備を終えた私が、エルアと共に会談の行われる部屋の前まで香炉を運ぶと、ちょうど、壮麗な正装に身を包んだリアンが、宰相と共に現れた。
「ルシエル」
「リアン。……できました」
私は、彼に小さな香炉を差し出す。
「これが、〝密計の香り〟……」
「ええ。あなたを悪意から守り、そして、真実を語らせるための香りよ」
リアンは、香炉から立ち上る、複雑で、しかし完璧に調和した香りを一嗅ぎすると、その金色の瞳を、確かな信頼の色で輝かせた。
「……素晴らしい。これがあれば、どんな相手だろうと、恐れるものはない」
彼はそう言うと、私の手を取り、その甲に、昨日よりも、もっと自然に、そして深く、口づけを落とした。
「行ってくる」
「はい。……武運を」
王としての彼にかける言葉ではないかもしれない。けれど、私には、そう言うことしかできなかった。
リアンは、私の言葉に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、柔らかく微笑むと、固い表情に戻り、会談室の重い扉の向こうへと消えていった。
扉が閉まると、私はその場に立ち尽くす。
私の作った香りが、今、この国の運命を左右する場で、静かに、その効能を発揮し始めている。
私の戦いが、始まったのだ。
そう思うと、体の奥から、不思議な力が湧き上がってくるのを感じた。
〝氷の王〟の鎧と、その下に隠された彼の魂。二つの側面を表現した香りは、試作品でありながら、確かに彼自身を映し出していたように思う。そして、彼がそれを受け入れ、感謝し、私に新たな役割を託してくれたという事実。
『私の、力になってほしい』
その言葉が、私の心の中で、温かな光を灯していた。囚われの姫ではない。愛玩されるだけの鳥でもない。私は、彼の隣で戦う、ただ一人の香薬師。
その夜は、十年ぶりに、本当に穏やかな気持ちで眠りにつくことができた。
翌朝、私が目を覚ますと、すでにエルアが朝食の準備を整えてくれていた。
「おはようございます、ルシエル様。昨夜は、よくお眠りになれたご様子ですね」
「ええ。ありがとう、エルア」
「陛下からも、ルシエル様の疲労が回復するよう、滋養に富んだ食事を用意するようにと、改めて言いつかっております」
エルアはそう言って微笑むが、その言葉の端々に、リアンの過保護とも言える心遣いが感じられた。
私が食事を終えるのを見計らったように、エルアは一枚の羊皮紙を、恭しく私に差し出した。それは、王家の紋章が刻印された、上質なもので、厳かに蝋で封がされている。
「陛下からです」
「リアンから……?」
私が封を解くと、中には、彼の流麗な筆跡で書かれた手紙が入っていた。
『ルシエルへ
昨夜は、素晴らしい香りをありがとう。あの香りは、私の心を、十年ぶりに本当の意味で解き放ってくれた。
君の才能を、ただ過去の再現のためだけに使わせようとしていた私の不明を詫びたい。
そして、君が私の力になると言ってくれたこと、感謝する。
早速で申し訳ないが、君の力を借りたい局面が訪れた。
本日午後、私は中立派貴族の筆頭である、マーグレイヴ辺境伯との会談に臨む。
兄上――第二王子が、彼らを取り込もうと、活発に動いている。この会談は、今後の国の安定を左右する、極めて重要なものだ。
辺境伯は、老獪(ろうかい)で、決して本心を見せぬ男だ。交渉は、困難を極めるだろう。
そこで、君に頼みたい。
この会談の場を、支配する香りを作ってはくれないだろうか。
私の精神を、氷のように冴えわたらせ、同時に、相手の心を、少しでも和らげるような。
交渉を、優位に進めるための、〝密計の香り〟を。
無理にとは言わない。だが、君の力が、今の私には必要だ。
リアンより』
手紙を読み終えた私は、ごくりと喉を鳴らした。
これが、彼が私に託す、最初の「戦」だ。
王の執務室でも、玉座の間でもない。この小さな「店」から、私は、香りを武器に、この国の政治に関わるのだ。
恐怖はなかった。むしろ、私の全身を、香薬師としての武者震いが駆け巡っていた。
「エルア」
「はい、ルシエル様」
「陛下に、お伝えして。『謹んで、お受けいたします』と」
私の言葉に、エルアは力強く頷いた。
私は、再びあの「店」に足を踏み入れた。
昨日とは違う。明確な目的を持って、私は香料の棚を見渡す。
(会談の場を、支配する香り……)
ただ、心を落ち着かせるだけでは足りない。リアンの精神を研ぎ澄まし、同時に、相手の警戒心を、気づかれぬように、ほんの少しだけ解きほぐす。そんな、相反する効果を両立させなければならない。
まず、基調となるのは、リアンのための香りだ。
彼の思考を冴えわたらせるために、ローズマリーの清冽な香りは必須だろう。記憶力を高め、精神を明晰にする効果がある。
そして、王としての威厳と、交渉の場における主導権を確立するために、**フランキンセンス(乳香)**が最適だ。古来より、神聖な儀式で使われてきたこの香りは、場の空気を浄化し、人の心を厳粛なものにする。嘘や欺瞞が入り込む隙を与えない、「真実の香り」とも呼ばれる。
この二つを軸に、リアンの精神を守り、そして強化する。
次に、相手に作用する香り。これは、より繊牲さが求められる。
相手を操ろうという意図が少しでも見えれば、香りはただの不快な匂いとなり、逆効果になるだろう。
必要なのは、警戒心を和らげ、心を「開かせる」香りだ。
私は、柑橘系の棚へと向かった。グレープフルーツの、爽やかで、僅かに苦味のある香り。この香りは、人の心の鬱屈(うっくつ)を取り払い、前向きで、素直な気持ちにさせる効果がある。
そして、もう一つ。花の香りから、ネロリを選んだ。ビターオレンジの花から抽出されるこの香りは、不安や緊張を和らげ、幸福感をもたらすと言われている。老獪な辺境伯の、凝り固まった心を、赤子のそれのように、柔らかく解きほぐすために。
これらの香りを、どう調和させるか。
リアンを強化する、神聖で、厳かな香り。
相手の心を開かせる、明るく、幸福な香り。
相反する二つの世界を、一つの空間で成立させる。
私は、試行錯誤を繰り返した。何度も配合を変え、ほんの一滴の差で、香りの印象ががらりと変わるのを、肌で感じていた。
そして、数時間が経った頃、私はついに、一つの完成形に辿り着いた。
それは、一見すると、ただ清涼で、荘厳なだけの香り。だが、その奥に、ほんの僅かに、陽だまりのような明るさと、優しい幸福感が隠されている。相手は、気づかないだろう。だが、その香りを吸い込むうちに、無意識のうちに、心が和み、目の前の王に、誠実な印象を抱くはずだ。
私は、完成した香油を、王宮の職人に作らせた、白磁の小さな香炉に数滴垂らした。これならば、会談の場に置いても、悪目立ちすることはないだろう。
準備を終えた私が、エルアと共に会談の行われる部屋の前まで香炉を運ぶと、ちょうど、壮麗な正装に身を包んだリアンが、宰相と共に現れた。
「ルシエル」
「リアン。……できました」
私は、彼に小さな香炉を差し出す。
「これが、〝密計の香り〟……」
「ええ。あなたを悪意から守り、そして、真実を語らせるための香りよ」
リアンは、香炉から立ち上る、複雑で、しかし完璧に調和した香りを一嗅ぎすると、その金色の瞳を、確かな信頼の色で輝かせた。
「……素晴らしい。これがあれば、どんな相手だろうと、恐れるものはない」
彼はそう言うと、私の手を取り、その甲に、昨日よりも、もっと自然に、そして深く、口づけを落とした。
「行ってくる」
「はい。……武運を」
王としての彼にかける言葉ではないかもしれない。けれど、私には、そう言うことしかできなかった。
リアンは、私の言葉に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、柔らかく微笑むと、固い表情に戻り、会談室の重い扉の向こうへと消えていった。
扉が閉まると、私はその場に立ち尽くす。
私の作った香りが、今、この国の運命を左右する場で、静かに、その効能を発揮し始めている。
私の戦いが、始まったのだ。
そう思うと、体の奥から、不思議な力が湧き上がってくるのを感じた。
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