ニコラとヨエル

春里和泉

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「きみの奴隷が迎えに来ているよ」
「ああ……」

 ニコラ・サンソンは、友人の声に顔をあげた。
 侯爵家の図書室には、窓からオレンジ色の光が斜めに差し込んでいる。



 そこから身を乗り出すようにして覗き込むと、確かに、ニコラの奴隷が立っていた。



「あの奴隷はいつ見ても風変りだね」

 穏やかに言ったのは、侯爵の次男坊にして、ニコラの友人であるドミニク・ド・クレランボーだ。
 この、少し病弱だが心優しい少年は、本来ならニコラごときが気軽に話しかけられる相手ではない。
 しかし、縁あってそれなりに親しくしていて、今もクレランボー邸、つまりドミニクの家に遊びに来ているところだった。

「風変りか」

 ずいぶんと控え目な表現だな、と、ニコラはそう思った。

 クレランボー邸の馬車回しにたたずんでいるのは、格好だけなら、どこぞの貴族の御曹司と言っても通用しそうな少年であった。

 年のころは、ニコラやドミニクと同じぐらいか、あるいは少し年上だろう。正確な年齢は、生年が不明なのでわからないらしい。
 年の割には上背があり、大人びたたたずまいだ。
 しかし、そうした平凡な特徴で彼を語るのは間違っていると言えた。
 褐色の肌。蜂蜜色の金髪。青い瞳――。

 彼は遠い蛮族の地で幼いころにとらわれ、そのまま売られてきた奴隷だ。

「いつの間にか、奴隷が迎えにくる時間になっていたみたいだね。きみと過ごす時間は、楽しいせいか短く感じるよ」

 主の帰りを待つ奴隷を窓から見下ろしながら、ドミニクが言った。
 ニコラはそれに応えて、鼻を鳴らす。

「なら、もう少しここにいようか」
「え? でも……」

 奴隷が待っているじゃないか、と、その善良な緑色の瞳に不思議そうな色を浮かべる。

「待たせておいたらいい」

 ニコラはぷいと顔をそむけた。

「かわいそうだよ、待たせちゃ」
「待たされたって、あいつは――ヨエルはなんとも思わないだろうよ」

 賭けてもいい。
 あの奴隷は、感情のない人形のようなものなのだ。



 ニコラの生家であるサンソンは、金貸しの家系だ。
 貴族の称号はないが、それ以外のすべてのものを持っている。

 ドミニクの家であるクレランボー侯爵家とサンソンが親しいのは、そもそもが金を――かなりクレランボーに有利な条件で――貸しているからだ。
 金貸しの息子風情がドミニクと友人でいられるのは、そうしたわけであった。
 クレランボーだけではない。他の貴族たちだって、大なり小なり同様に、サンソンから金を借りている。
 そうした事情から、サンソンはただの商人の一族にもかかわらず、貴族社会の一員のようにふるまうことができた。

 こうしたサンソン家の専横を快く思わない貴族たちも多い。
 もっともその彼らさえ表向きには、歓迎していないという態度をあからさまにすることはできなかった。なにしろ、サンソンは彼らにも金を貸しているのだから……。

 そんな環境で、ニコラ・サンソンは傲慢に育った。

 なにしろ、周囲の大人とくれば、この年端もゆかぬサンソン家の一人息子の機嫌を取ることしかしない。
 本来彼をしつけるべき両親は、息子にあまり関心を持たなかった。なので、彼は誰にいさめられることもなく、そのまま野放図に成長してきたのである。

 とはいえ、ニコラは悪童ともいえない。確かに気位は高いし、気難しい。しかし、優しいところもあり、召使いや従僕には――彼なりにではあるが――親切にしてやることも多かったので、それなりにかわいがられていた。



 日が完全に沈んだ後になってクレランボー邸の外に出ると、先ほどまでの夕日が嘘のように、雨が降っていた。
 ざあざあという激しい音を背後に、ポーチのひさしの下にたたずんだニコラは年に似合わぬ皮肉な笑みを浮かべた。

 その視線は、馬車の横にたたずんでいる奴隷ヨエルに向けられる。

「お迎えに上がりました」

 ヨエルは、主人の辛辣な視線をものともせず、たった今現れたばかりだし、雨など降っていないとでもいうように、そう言った。
 実際にはかなり前から待たされており、ずぶぬれになっているのにも関わらずだ。

「それだけか?」
「はい」

 ニコラの問いにも、短い返事があるだけだ。
 奴隷は決して恨み言を言わない。どうして遅くなったのかを訊くこともしない。
 そして、笑うこともしない。

 この奴隷は、彼がニコラのもとに来た三年前から、いつもこうだった。
 寡黙な性質でめったに口を開かない。最初は、蛮族なので言葉がわからないのかと思ったが、単にそういう性格なのだと悟るのに時間はかからなかった。

 ヨエルが馬車の扉を開いた。乗れということらしい。

 ニコラはしばし黙っていた。
 不自然な間が開いた後、かぶっていた流行りの羽根帽子を、土砂降りの中の奴隷の足元へと放り投げた。

 この光景を、ヨエル以外のものが見ていたとしたら驚いたことだろう。
 羽根帽子には遠い異国の珍しい鳥の羽根が使われていたので、とても――本当に――高価だったからだ。
 もちろん、ヨエルは黙っていたし、表情を変えなかった。単に、石かなにかの軌跡でも追うように、目線を動かしただけだ。

「拾え」

 ニコラは言った。帽子は、ぬかるみの中に落ちていた。

 奴隷は、従順に主の言葉に従った。躊躇もしない。どうしてそんなことをするのだと訊ねることすらしなかった。

 ニコラは一歩、雨の中に踏み出した。
 重たい雨粒が全身を叩き、タフタのコートをあっという間に色濃く変色させる。
 そして迷わず、帽子を取ろうとかがみこんだ奴隷の足を蹴飛ばした。

 横から足を払われ、当然だが、奴隷はぬかるみの中にころんだ。彼のために仕立てられた美しい衣装が、あっという間に泥にまみれる。

「……」

 それでもヨエルは別になにも言わなかった。驚きもしなかったようだ。
 ゆっくり、なにごともなかったかのように、主の帽子を拾いながら立ち上がった。

「痛かったか」
「いえ」
「なら、ぐずぐずしていないで御者席に戻れ」

 そう言い捨てて、雨で張り付く黒髪を払い、ニコラは馬車に乗り込んだ。
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