ニコラとヨエル

春里和泉

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 ――今日から、お前のものだよ。

 三年前のある日、前触れもなく父が連れ帰ったのが、ヨエルである。

 その幼い少年は、見目麗しいので市場で高値がついていたらしい。ニコラの父がこの奴隷を買ったのは、その明らかな高価さを見せびらかすためだ。

 奇しくも、サンソン家の一人息子とこの異国の奴隷とは、同じ年ごろだった。

 かたや、白い肌の、黒い髪とはしばみ色の瞳の少年。
 かたや、金髪碧眼の、褐色の肌の少年。
 あつらえたように対照的である。そうした対照性が人目を引くだろうことも、父にはわかっていたのだろう。

 ――なんて美しいんだろう!

 はじめて会った時に、ニコラはこの美しい奴隷にびっくりして、次に夢中になった。
 早速着飾らせると、物語でしか知らない砂漠の王子のようになったので、ますます気に入った。

 しかし、最初の数日を過ぎて、それから一週間が過ぎ、最後に一か月経ったころ――。

 めったに口を開かず、表情を動かさず、なにを言っても、どう話しかけても、反応が薄い。
 ヨエル――この名前も、物語の本からニコラがつけた名前だが――は、生きる人形なのだと、ニコラは悟った。

 彼は彼なりに、必死にヨエルを笑わせようとしたし、あまりに笑わないので癇癪を起した後、気まずくなって謝ったりもした。しかし、そのすべてに、奴隷は反応を示さなかった。
 正確には、反応は示したものの、「はい」とか「いえ」とか、ともかくそれに類する、ごくごく薄い受け答えだけ。

 ニコラは、最初に奴隷に夢中になったのと同じ分だけ、失望した。

 そして、一年経ったころには、彼なりにヨエルの扱い方を覚えていた。つまり、この異国の少年は人形と同じなのだから、同じように扱えばいい。

 好きに話しかけ、着飾らせ、気まぐれに残酷な仕打ちをするためのものなのだ。

 三年経った今では、ニコラにはこの奴隷に果たして感情というものがあるのかどうか――それを疑うようになっていた。



「ドミニク、来ていたのか」
「お父様が、きみのお父上に話があるとかで、一緒に連れてこられたんだ」

 ある日、ニコラはサンソン家の屋敷の中庭の長椅子ベンチで、友人に出くわした。
 ドミニクは控えめに――しかし、すべてわかっている顔で――微笑んでいるだけだった。

 彼の言う『話』とは、きっと、借金の話に違いないとニコラは思った。

 ドミニクの生家は由緒正しい侯爵家だ。それだけに、彼らは彼らに相応しい・・・・暮らしをしなければならない。
 屋敷には使用人が満ちていなければならないし、祝い事には派手な宴を設けなければならないのだ。

 つまり、侯爵家は金に困っていた。

 聡いニコラは誰に聞くともなく、その事実をよく知っていた。ドミニクと彼との友情は大人たちの危うい駆け引きのもとに成り立っていることも、わかっている。
 もちろんニコラだけでなく、ドミニクもそのことはよくわかっていただろう。
 少年は、大人たちが思うより、はるかに多くのことを知っているものだ。

「来ていたなら、呼べばよかったろうに」

 ニコラは言いながら、ドミニクの横に腰掛けた。

「きみの家の庭を見るのが好きなんだ。いろいろな植物があるからね」
「ふうん」
「興味がないって顔をしてるね。こんなにも魔法に満ちていて、素晴らしい庭なのに。見てよ、これは、本当は南の国でしか咲かない花なんだ」

 そばに咲いている、赤い大輪の花をうっとりと眺める。
 ニコラはそれでも興味がわかず、花は花だし、どれも同じように見えると思った。

「そこにあるのは、遠い東の国の木だよ。それから、あの実は本当は秋になるものだし、あれは冬に芽吹く植物――夢のようだよ。魔法を贅沢に使ってなければ作れない庭だ」
「気に入ったなら、持っていけばいい」

 ドミニクは少し寂しそうに微笑んだ。

「持ち出しても、すぐに枯れてしまうよ。ここでしか生きられないだろうからね」
「すぐに枯れてしまうとしても、二、三日は飾っておけるだろう」
「別に、僕はそういうつもりで庭を褒めたわけじゃ――」

 ニコラは友人の話を聞かずに、立ち上がった。
 庭を見回す。
 浅く作られた池の中からすっくと背を伸ばし、白い花を咲かせている植物がいいだろうと勝手に目星をつけた。

「あれがいい。あれを持って帰れよ」
「ニコラ、こんなに見事な庭から勝手に花を手折るなんてよくないよ」

 慌てたようなドミニクの声が追いかけてくる。
 ニコラは返事をせず、池を覗き込んだ。

「ああ、服が濡れる!」
「乾かせばいいだろ!」

 言い返しながら、池に踏み入った。
 冷たい水があっという間に長靴ちょうかになだれこんでくる。
 その不快な感覚をものともせず、一番立派な花はどれだろうと探した。

「これがいいか」

 池の中ほどに大きな白い花を見つけて、彼はそれを手折ろうと池の中に手を突っ込んだ。
 強靭な茎が手に触れる。思ったより、引っこ抜くのに力が要りそうだ。

 ドミニクが呆れたような、困ったような顔でニコラを見ていた。

「そのアドルナート織の上着、すごく高いだろうに。水につかってだめになってしまうよ……」
「なに織の上着だって?」
「……」

 ドミニクが黙り込んだので、ニコラもそれ以上訊かなかった。
 彼にとって服とは、自然にそこにあるもので、勝手に見繕われているものだ。
 その服がどこのなにだとか、流行のあれそれだとか、高価な舶来品だとか――稀に憧れや嫉妬の目を向けられることがあったが、少年はそうしたもののすべてに無関心だった。

 上着の裾が水面に触れ、水を吸っていく。ニコラは名前も知らない植物の茎と思しきものをつかんで、引っ張った。
 抜けない。
 そもそも彼の力で引っこ抜けるようなものではないのかもしれない。

 そのことに思い至った時には、すべてが遅かった。派手な音を立てて、ニコラは池の中に尻もちをついていた。

「ニ、ニコラ! 大丈夫かい?」

 ドミニクが、かわいそうなぐらいうろたえている。彼自身が池に落ちた方がまだ落ち着いていられただろう狼狽ぶりに、普段のニコラであったら吹き出していたかもしれない。
 しかし、今はそれどころではなく、彼は怒って叫んだ。

「この池、底がすべるぞ!」
「それはすべるだろうよ、池ってそういうものだよ」
「そうか」

 その通りだ。ニコラは妙に納得し、あっさり機嫌を直した。
 彼は二度と滑らないように慎重に立ち上がり、池から上がった。服どころか全身がずぶ濡れである。

「あの花はおれには引っこ抜けないな。持っていけばいいと言ったが、無理そうだ……待てよ、切ればいいのか」
「いや、いいよ。そんなこと、最初から望んでないんだから。きみは本当に人の話を聞かないんだな。とにかく、風呂に入った方がいい。風邪を引くよ」

 ドミニクの助言に従うことにして、二人は庭から屋敷の中に入った。

「ヨエル! どこだ!」

 ニコラが呼ぶと、どこからともなく、奴隷があらわれた。

 ヨエルが普段なにをしているのか、ニコラはよく知らない。
 そばにいる時はなにくれとなく働いているが、それが鬱陶しくなって追い払うこともよくあったので、暇な時間は結構あるはずだ。
 あいている時間の奴隷がいったいなにをしているのか、以前は興味をいだいていたように思うが、近頃ではどうでもよくなっていた。

「池で転んだ。風呂に入るぞ」
「はい」

 どういったわけで池に入り、転んだのか――ヨエルは訊かなかった。ただうなずいてきびすを返し、姿を消しただけだ。

「彼はどこへ行ったの?」
「風呂の用意をしに行ったんだろ。お前も来いよ。何人で入ったって、減るものじゃない」

 ドミニクが不安そうな顔になったのに気づいた。いつものように、ニコラはそのことを気にかけなかった。

 誰がなにを考えていようと、彼にとってはあまり関係のないことだ。

 ただ、相手が友人で、彼は彼なりに気を使っていたので、ひとりにして寂しい思いをさせるよりは、一緒に話でもしながら入った方がいいだろうと考えたのであった。



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