ニコラとヨエル

春里和泉

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 サンソン邸には、広い風呂がある。

 風呂は富の証しだ。
 それも、気が向いた時に入れるよう常に適温を保っているものとなれば、王侯貴族だってなかなか持てるものではない。
 この広い風呂の他、一族のものの私室と客室には個人用の小さな風呂までついている――そう聞けば、誰だってサンソンが王国一の金持ちであることを否定できないはずだ。

 ニコラは脱衣所に駆け込んだ。
 彼の通った跡には、水滴と足跡がついている。その始末を誰がするにせよ、彼でないことは確かだった。

「脱いだ服はその辺りに置いておくといい。出るころには、誰かが着替えを用意している」

 ニコラは、乱暴に上着を脱ぎ放り投げた。
 同じように、胴着も袖口にレースのついたシャツもブリーチズも脱ぎ捨てる。
 放り投げられた服がばさばさと無造作に床に落ちていった。

 あっという間に裸になっていくニコラに、後ろからついてきたドミニクは、居心地が悪そうだった。

「ええと……僕は。別に、いいよ、やっぱり外で待っているから……」
「一人だと退屈だろう」
「そんなことは――」

 突然脱衣所の扉が開いて、ドミニクがびくりと身体を震わせる。

 入ってきたのは、ヨエルだった。手にたくさんの浴布ティレールを持っている。
 奴隷の少年は、ドミニクどころかニコラのことも存在しないかのように浴布を片隅に置くと、無言で散らばった服を集めはじめた。

「……僕、やっぱり遠慮するよ。父がいつ帰ると言い出すかわからないし」

 ドミニクは、裸のニコラに目をやって、赤くなった。慌てて目を逸らす。

「ふうん。そういうことなら、無理に引き留めない方がいいかもな……」
「ごめんね。中庭には、一人でも戻れるから」

 ドミニクはうつむいたまま、気まずそうに言った。
 ちらりと目線を上げても、正面に立っているニコラが目に入ると、さっと首を垂れてしまう。

 そして、ヨエルを押しのけ、逃げるように外へ出て行った。

「なんだ、あいつ……変なやつ」

 ニコラはつぶやいた。
 彼にとって、誰かに裸身をさらすことは変なことではない。
 常に奴隷のヨエルが彼の面倒を見ていたし、ヨエルが来る前はメイドたちが同じことをしていたからだ。

 ドミニクだって似たようなものだろう。
 上流階級の人間とは、誰かにかしずかれて風呂に入るものだ。
 でなければ、誰が身体や髪の毛を洗ってくれるというのだろうか。

 ニコラはさっさと風呂へ踏み入れて、ざぶんと湯舟に飛び込んだ。
 湯舟は広かった。たとえ、五、六人で入ったところで余裕があるだろう。床のタイルに四角く切られた湯殿には、出入りや腰掛けるのに便利な段差が取り付けられている。

 少し遅れて、シャツとブリーチズだけになったヨエルがやってきた。その手には、主の身体を洗うための手布とせっけんサボンを持っている。

「ドミニクのやつ、なんだろうな。ちょっと引っ込み思案なところがあるから、もしかして裸になるのが恥ずかしかったのか」

 ニコラはつぶやいた。
 独り言だ。
 ヨエルは聞いているだろうが、返事はしない。そもそも奴隷がこの台詞に対してなにか意見を持っているとも思えなかった。

 やさしい手つきで、ヨエルはニコラの頭髪にお湯をかけた。
 それから、丁寧に泡立てたせっけんを手に、髪の毛に指を差し込む。
 この上なく柔らかな手際は、思わずニコラへの親愛を勘違いさせるほどだ。しかし、この奴隷はそう教育されたからそうしているに過ぎず、振り向いても、湖面のように静かな瞳が見返してくるだけなのは知っている。

 かつて、何度それで失望したことだろう。
 今となっては失望も擦り切れてしまった。

 ニコラはヨエルの手には無関心に、独り言を続けた。

「それとも、ヨエル、ドミニクはお前に裸を見られたり、触られたりするのがいやだったのかもしれないな」

 いくら裸を見せることに慣れていると言っても、その相手はであって、奴隷ではない――そう思ったのだろうか。
 ドミニクはニコラよりはるかに高貴な身分だ。だから、そうした嫌悪感に耐えかねてもおかしくはないだろう。

 そう思うと、それが正しいような気がしてきた。

 ヨエルは主のつややかな黒髪を洗い終えると、お湯をかけてきれいに泡を流した。
 ニコラはその場で立ち上がった。頭の次は、身体を洗う番だからだ。

 奴隷の前に裸身をさらすこと――ニコラの感覚では、それは別に恥ずかしいことではない。
 誰が人形や犬猫に裸を見せることを恥じるだろうか? それと同じだ。

 ヨエルは再びせっけんを泡立て、優しく主の全身に塗布しはじめた。
 ニコラにとって身体を洗うこととは、棒立ちすることとほぼ同義だ。突っ立っているだけで勝手にすべてが終わるからだ。
 
 ニコラの白く伸びやかな裸身を目の前にしても、奴隷はドミニクよりはるかに堂々としていた。
 それも当たり前で、毎日やっていることなのだから、おどおどしていては話にならない。
 ただし、堂々としているというよりは、そこにいるのはニコラではなく、精緻な彫刻のほどこされた廊下の柱かなにかなのだという態度ではあった。

 そう、犬猫に裸を見られて恥じるものもなければ、廊下の柱を洗うのに臆するものもいないに違いない。

 ニコラは急に、興覚めした。
 上機嫌とはいかないまでも、決して不機嫌ではなかったものが、すうっと冷えていく。

 すべるように、全身にヨエルの手が触れていく。
 白くふんわりと泡立てられたせっけんを、飾りつけでもするようにのせていた。それが終わると、濡らした絹の手布でそれをやさしくぬぐい取っていく――それが、いつもの手順だ。

 ニコラは、突然、ヨエルから手布を奪った。
 渡すまいとする抵抗はなかった。ただ、予想外の動きだったらしく、一瞬ヨエルは動きを止めた。

「たまにはおれがお前を洗ってやろうか。脱げよ」

 どうしてそんなことを言ったのかと問われれば、ニコラは答えを持たなかっただろう。
 ただ冷たい怒りが湧いてきて、気づくとそうしていたのだ。

「……」

 奴隷ははいともいいえとも言わなかった。
 それはつまり、どう答えていいか迷っていることを示している。
 本当は、拒絶したいのだろう。だが、そうすることを躊躇しているのだ――なぜなら、それが主の命令だからである。

 相変わらず表情こそ静かだったが、その奇妙な間から、ニコラは敏感に奴隷の動揺を察した。

「……はい」

 奴隷は一瞬の間ののち、返事をした。
 返事をするまでのわずかな間で狼狽から立ち直ったのか、あるいはそれを隠しているだけなのか、それはわからない。

 ヨエルがわずかでも感情を表に出したことに、ニコラは自分でも意外なほど昂ぶった。
 



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