ニコラとヨエル

春里和泉

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 ヨエルはのろのろと服に手をかけた。
 躊躇することも手を止めることもなかったが、やけに緩慢だ。

 そう言えば――裸身をさらしこそすれ、ヨエルの裸を見たことはなかったのではないだろうか。

 風呂に入る時にも、必ず奴隷は薄手の服を身に着けていた。それは今も同じで、麻の白いシャツと、膝下までのブリーチズという姿だ。腕はまくって、足元は裸足であったが、到底裸と言えるような格好ではない。

 ニコラは好奇心を隠すことができず、奴隷に無遠慮な視線を向けた。

 ヨエルの肌は、彼のものと違う。飴色をしていて、ずっとなめらかだ。
 奴隷はまずシャツのぼたんをすべてはずして、脱いだ。
 あらわれたのは、しなやかな身体だった。
 同じ年ごろのはずだが、ニコラより筋肉が発達している。細く危うげな雰囲気は、きっと、年月が経てばあとかたもなく消えてなくなってしまうたぐいのものだろう――そう予感した。

 その肩に、矢傷があった。ひきつれて大きな古創になっている。
 ニコラはやさしい主ではないが、奴隷に傷跡が残るようなことはしてこなかった。しかし、痛ましいはずのそれに覚えたのは、哀れみや同情ではなく単純な興味だ。

「この矢傷はなんだ? 奴隷になる前の傷だろう」
「はい」
「へえ。痛かったか?」

 奴隷は答えなかった。

 奴隷に身を落とすものは、たいていが尋常の状況でそうなったわけではない。
 たとえば、戦火の中捕虜として。たとえば、貧しさのために売られて。あるいは、武装した奴隷商人に集落を襲われ、そうなるものだ。

 特に、ヨエルのような蛮族はそうだった。
 矢傷は奴隷として捕らわれた時についたものに違いないと、ニコラは直観した。

 彼は湯舟を上がって奴隷の背後にまわった。背中にも傷痕があるのではないかと思ったのだ。
 果たしてその通りで、複数の鞭打ち跡があった。
 傷は大きなものから小さなものまでたくさんあったが、一度につけられたものでないことは想像ができた。

「矢傷は、奴隷になる前のものと言ったな。だがこの鞭打ち跡は違う。奴隷になってからのものだ」

 ニコラは背中に走る、一際大きい跡をなぞった。
 奴隷が身を硬くしたのが、指先から伝わってくる。それで、ニコラはさらにいい気になった――そうだ、どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。

 ヨエルとて、最初から人形だったわけではないに違いない。
 この鞭打ち跡は、だ。

 商品である幼い少年にする仕打ちとしては、苛烈を極める。きっとそうされるだけの理由があったのだ。

 だとしたら、ニコラの知らないヨエルがいたことになる。
 理不尽に激しく立ち向かい、服従せず、繰り返し鞭打たれてもしぶとく怒りを滾らせた少年のことを想像した。この奴隷がそうだったとは、にわかには信じがたい。

 それでも――。

 それでも結局のところ、ヨエルは心折られてしまったのだろう。暴力は彼から気力を奪い、矜持を奪い、そして尊厳を奪ってしまったのだ。

 そう思うと、ニコラは急につまらなくなった。

「おい、なにをぼうっとしてるんだ。下も脱げ――全部」

 ニコラは思い出したように、そう言った。

 ヨエルは主の言うままに、ブリーチズに手をかけた。腰のぼたんをはずして、躊躇うことなく服を脱いでいく。

 奴隷は言われた通りにすべて脱いだので、文字通り一糸纏わぬ裸だった。

 贅肉がほとんどないせいで、鞭打ち跡があってさえ、背中から腰にかけての複雑な筋肉の流れがうかがえる。大人の男のような屈強さはどこにもないが、弱さやはかなさと言ったものとも無縁な背中だ。

 均整の取れた美しい身体だった。

 その見た目が、彼の奴隷としての商品価値だった。頭のてっぺんから、つま先まで美しい――そんな触れ込みで売られていたと聞く。
 傷痕のことを知った今となっても、その売り文句が嘘を孕んでいたとは思わない。

 ニコラはその優美さに圧倒されながら、それでも一瞬で自分を取り戻した。
 見とれていたのを認めまいとして、視線を床に落とす。、奴隷は真正面を向いていて、後ろにいる主を振り返る気配もなかった。

 そうだ。身体を、洗うのだった――少年は思い出した。

「……それで、このせっけんはどう扱うんだ?」

 ニコラは自分を落ち着かせるかのように、落ちていたせっけんをゆっくりと拾った。

 使い方がよくわからないのは、本当だった。
 泡立たせる――それは知っている。
 しかし、その方法がわからない。
 手にこすりつけてみたが、ろくに泡立たなかった。なにやら特別なやり方があるのかもしれない。

「まあいい、これで洗えばいいのか」

 彼はぬるぬるするてのひらで、ヨエルの身体に触れた。
 最初は調子よくすべったが、水気がないのですぐにせっけんが取れてしまう。ニコラはいらいらとてのひらを見つめた。

「おい、どうすればいいんだ?――そうか、お前が水に濡れればいいんだな」

 聞いておいて、すぐに思いつく。
 ニコラは近くにあった手桶を片手に奴隷の背中を押し、湯の中へ踏み入れた。
 一歩、二歩……湯殿の真ん中まで来たところで、ようやく足を止める。

 手桶に湯を汲んで、ヨエルに頭からかけた。
 短く整えられた金色の髪が濡れて、ぴったりとうなじにくっつく。毛先からぽたぽたとしずくがしたたった。

 これでようやく、洗う準備が整った。

 たかが身体を洗うだけなのに、やたらと面倒だ。ニコラは、先ほどまでの浮かれた気持ちが沈んでいくのを感じた。
 ヨエルもすでに平静さを取り戻していた。
 これでは、単に彼の身体を洗ってやるだけになる。当然だがそれは主人の仕事ではなかった。

 それでも、ここでやめるわけにはいかない。

 ニコラは意地になって、ヨエルの前にまわった。
 後ろからでは見えなかった場所が、あきらかになる。
 発達途上にあるらしい腹筋の下からなだらかに続くそこ。ニコラにもついているそれ――男性器があった。

 見るという行為自体にはなんの感慨もなかった。

 そして、今もそうであるように、みずからのものを見せることだって、なんとも思っていない。
 ずいぶん昔からそうしてきたし、それに、同性だ。意識する方がおかしい。

 ただちょっと意外なような気がして、思わずまじまじと見つめてしまう。
 というのは、つまり――それがヨエルについている、という、単純だが当たり前の事実を意識したことがなかったからだ。

 なんとなくだが、ヨエルはそうした俗っぽいものとは無縁のような気がしていた。
 もちろん、彼にそれがついているとは思わなかったなどと言うつもりはない。
 しかしこの奴隷の浮世離れした美しさとたたずまいは、ニコラにそんな感想をいだかせていたらしい。

 冷静に考えれば、ヨエルだって男なのだから、宦官でもない限りそれがついているだろうし、用足しやなんかに日常的に使っているに違いない。
 だがそれでも、ニコラは不思議な気分だった。

 奴隷は主の視線にも動じることはなく――少なくとも、そのような様子をあらわにはしなかった――、ただ静かに立っていた。その青い目は、わずかにうつむき加減のどこかを見ている。

「……身体を洗うなら、ここも洗わないとな」

 ニコラは、わかりやすい理由からそう口にした。

 他の部分よりは、洗うのが面白いだろうと思ったのだ。普段、自分のそこを洗ってもらうときにはあまり意識したことがないが、それも、ヨエルの洗い方が丁寧で洗練されているからだ。

 乱雑にせっけんをこすりつけただけの手でそこをいじられるのには、さすがの奴隷も困惑するだろう。

「……」

 思った通り、奴隷が言葉を詰まらせたのがわかった。
 表情が変わったわけではない。唇もぴたりと閉じられたままだ。ただ、わかる――この少年の身体に入った、ほんのわずかな力が。

 ニコラは暗いよろこびを覚えた。
 もちろん、そこまでひどいことをするつもりはなかった――なにも、奴隷の肉体を傷つけてやりたいわけではないのだと、彼の身体にある傷痕を見ながら考える。

 はじめて会った時に、ヨエルの笑顔を見たくてあれこれと話しかけた時のことを思い出す。それと同じだ。
 なんでもいい、この奴隷に感情と呼べるものがある証拠がほしかった。

 もし、感情があるのだとしたら、今までニコラの仕打ちをどう思っていたのか、どうしてそれを秘めていたのか、暴いてやりたかった。

 ニコラは、ヨエルのそこへと手を伸ばした。



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