ニコラとヨエル

春里和泉

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 そこに触れると、ヨエルがわずかに眉をひそめた。
 表情を動かしたところを見るのは、何年ぶりだろうか?――ここに来てまもないころ、戯れにってやった時以来だろうか。

 ニコラは奴隷を観察しながら、指先に触れるものをどうもてあそぼうか考えた。

 男のに触れたあげく、それ以上のことをしようなど、普段の彼であれば絶対にしなかっただろう。考えることすら、汚らわしいと思ったに違いない。
 それでも、不思議なほど抵抗感がなかった。
 相手を乱す手段だと割り切っているからだろうか? あるいは、ヨエルがあまりに近く、そして理解しがたい存在だからだろうか……。

 なんであれ、ニコラはそれを握った。自分にも同じものがついているので、力加減は大体わかっている。
 やさしく――彼は自覚していなかったが、臆病に。

 急所を手づかみにされているという不安からか、奴隷が息を呑んだのがわかった。

「洗うだけだ。別に、痛いことなんかしない」
「……」
「普段、自分だっておれに同じことをしているだろう」

 ニコラのまっすぐな強い視線にさらされて、ヨエルはそれを見返してきた。感情の色はない。

「逃げたいと思うなら、逃げればいい。だが、逃げてみろ、おれは絶対にお前を許さない」

 普段はどんな命令にでも唯々諾々と従う人形のくせに、ヨエルはその言葉に一瞬迷ったらしかった。

 逃げてしまおうかと考えたのだ。

 ニコラに許されなかったところで、それがなんだというのか。つらく当たられるのは今にはじまったことではないし、それに、背中にある鞭打ち跡のようなものに比べれば、どんな仕打ちでもましだ。
 ……そう思ったに違いない。

 しかし、彼は結局、逃げなかった。

 そうした一連の逡巡は、わずかな身体の強張りにあらわれていた。これほど近くにいなければ、そして、裸でなければ、決してわからなかっただろう。
 この無表情な少年の内心にある、平坦ながら確実に存在する感情の動きに、ニコラは不思議な思いが湧き上がってくるのを感じた。生ける人形であると思っていたが、どうやら違うらしいとわかったからだ。
 その思いは、侮蔑に似ていた。
 どうしてそんな風に感じたのかは、わからなかった。

 そのまま手を動かす。

 せっけんのぬめりが、ちょうどいい具合に潤滑液となって、妙な音を立てた。
 洗うと言いながら、あきらかに違う目的を持って性器をいじられ、ヨエルはますます困惑したようだった。それは、この奴隷の少年が、わずかに身体を逸らして逃げるようなそぶりをしたことからもわかる。

 ニコラはぐいと片方の手で肩をつかんだ。

「別に痛くはないだろう。逃げるなよ、ヨエ、ル……」

 少年は薄く笑っていた表情をこわばらせて、思わず言葉を飲み込む。
 わずかに、手の中でそれが膨れ上がったからだ。

 どうしてそんなことになったのかわからず、ニコラは一瞬ぽかんとそこに視線を走らせた。完全に勃っているとは言い難いが、確かに、大きくなっている。気のせいではなかった。

 もちろん、触った時点でそうした反応があるかもしれないのは当然だ。
 しかし、それは普通の場合の話であって、ヨエルは絶対にそんな風にはならない――と、心のどこかで思っていたらしかった。

「お前、なんで……」
「……」

 ヨエルは目を逸らした。
 それで、ニコラは彼がそれを恥じているのを知った。

 どうしてと問われれば、刺激されたから、としか答えようがないに違いない。しかし奴隷は言い訳をせず、黙って床を見つめるばかりだった。

「……もういい。気持ちが悪い」

 ニコラは吐き捨てるようにつぶやいて、手を離した。

 理不尽だとは自分でも思った。そんな風に触られれば、いやでも大きくなってしまうことだってあるのは知っている。
 それでも、ヨエルのそんな無様な姿を見て湧き上がってきたのは、怒りだった。

 先ほどから感じていた複雑な思いの正体に、ようやく気付く。

 ヨエルは物語の中の砂漠の王子だった。頭のてっぺんからつまさきまで美しい、人間の醜さとは無縁の、生ける人形だった。
 それがどうだ。
 男根が足の間についていて、刺激にびくびくと反応して、肉体を持ち、体温があり、呼吸をするたびに胸が上下している。

 浅ましい、現実の存在だった。

 表情がないのは、それがヨエルの処世術だからに過ぎない。なにも感じないのではなく、なにも感じない振りをしていただけだ。
 何度も鞭打たれた末に、そうすることを学んだだけだったのだ。

 ヨエルに感情があるのか知りたいと、先ほどまで高揚していたが、あの時までは、彼に隠されたものがこんなにもつまらないものだとは思っていなかった。
 もっと――いや、自分がなにを期待していたのか、言葉にはできない。単純に、その正体がわからないからだ。
 しかし、今のようなものではなかったことだけは、確かだった。

 幻想が霧のように晴れて、ニコラは憤りと、そしてなぜか、わずかに虚無感を感じた。

「もう、風呂はいい。お前の顔を見るのもたくさんだ。二度と顔を見せるな」
「はい」

 ヨエルの返事を待たず、ニコラは手に持ったせっけんを投げ出し、足音荒く風呂から出た。



 顔を見たくもないとは言ったものの、ヨエルはニコラにとってなくてはならない存在だ。
 いくら遠ざけたところで、いざないとなると困るのは明らかだった。だから、ニコラは翌日ヨエルが顔を見せた時に、追い返さなかった。

 その代わり、一言も口をきかなかった。
 ヨエルの方が寡黙なのはいつものことだが、ニコラが黙り込んでいるのは、とても珍しいことだ。

 その日は数学の勉強の予定だったが、あらわれた家庭教師を追い返し、ヨエルを相手に剣の稽古をした。
 奴隷は――主にけがをさせないよう――攻めの型を習っていなかったので、一方的な防戦のあげく、木剣でしたたかにあちこちを打ち据えられた。その苦痛にも顔色を変えずに平然としているヨエルに、ニコラは、つまらなくなって稽古を切り上げた。

 それは、そうだろう。心の中で思う。矢を射かけられ、鞭打たれた過去を持つ彼には、そんな痛みなどなんでもないに違いない。

 ヨエルはいつも通りで、少なくともニコラには普段との違いがわからなかった。昨日は理解したと思ったものが、こうもあっさりわからなくなると、昨日のあれも、理解というほどのことでもなかったのかもしれない。

 次第に、あれはもしかして夢か幻だったのではないかという気もしてきた。
 館にはふんだんに魔法が巡っていた。風呂を温めて水を循環させているのもそれだ。
 だから、どこかから魔法が漏れ出して、あらぬ幻覚を見たのではないかと、そうであればいいのにと思った。

 本当に、そうだったらよかった。

 肩の大きな矢傷、そして鞭打たれた跡。
 目に焼き付いた記憶が、ニコラを現実逃避から引き戻す。
 幻覚ではない。幻覚ではなかった。
 だとしたら、あれが本当のヨエルなのだ。

 ニコラの気まぐれで残酷な仕打ちにただ耐えるヨエルも、無様な姿を見せてしまったことを恥じるヨエルも、全部偽物に違いない。
 その日の夜、ニコラは自室のベッドの上で天井を見上げながら、そんな偽物のヨエルを憎んだ。



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みんなの感想(1件)

5375神威
2019.07.09 5375神威

続き楽しみにしてます、
頑張ってください。

解除

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