ロンギヌス

伊阪証

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先ず、計画の概要である。主導は西池啓悟で、詳細は彼のチームが取り決める。
スペースデブリ問題を大前提として、宇宙開発は途絶え気味である。最終的には人工衛星が維持出来ず、地球のインフラは1980年代まで後退するだろう。
しかし現実を見れば少し上がったロケットが墜落、北朝鮮の軍事ミサイルですら打ち上げ成功の一方でこのザマだ。
「・・・まぁ、そんな事言ったら失敗するやろなぁ。
大学の就活センターで商社に入れなかった大学生が一人。
「学歴フィルターですよ、何やっても。」
「まぁ、そうね。私も一回全く同じ内容で学歴だけ変えて履歴書送ったら通った事あるわ。でもそれ抜きで社会的体裁が取れてないのはアウト!」
ただ・・・この人間は少し違う。諦めるタイプではない。同時に・・・。
「じゃあ全部滅ぼします。」
「分かった抑えろ。」
「それじゃないとアイデアが取られるんで。」
「落ち着け、採用されない理由がある筈だ。既にあるか。」
「それは無い。経営ばかりやって改良もせず失敗し続ける輩だぞ?金も無駄にして・・・。」
「・・・根本的にバカにし過ぎじゃ?」
「いいや、こっちは危機感抱えて全力で挑んでるんだ。真面目で一途で一直線な人間の方が理想と言ったではないか!!」
「社会経験ない教師の感覚なんて一番鵜呑みにすべきじゃねぇだろ。」
言葉を否定してまで、彼は己の中にある焦燥と正義感を握っていた。
それは衝動とは違う。もっと冷たく、もっと整然とした確信だった。
社会は壊れている──その前提を認めたうえで、何を壊して何を残すか、彼は既に決めていた。
もはや議論ではなく、計算だった。
残された時間、投下できる資金、確保できる人材。
どれも不足していたが、最低限の勝算だけは確かに浮かび上がっていた。
そして導き出された、最も非現実で、最も現実的な結論。
「スパゲッティ型ロケットと女子高生宇宙飛行士計画。」
二人の間に一瞬だけ静寂が落ちた。
そのあとに放たれた言葉は、冗談のようでいて、芯のあるものだった。
「・・・聞こうじゃないか、君は毎回良い案を出すからね。」
スパゲッティ型ロケットとは、特殊相対性理論に基づいた最もスペースデブリを回避し易い方法である。
結果だけ言うなら高さよりも底面積の方が命中率に影響する。同時に、女子高生は体積・質量共に軽く学習習慣があるので優秀だ・・・という仕組みでこうなった。
聞き返した側も、真顔だった。彼には、過去何度も“本当に通す”プランを目の前で見せつけられている。その上で、今回ばかりは一世一代。
「・・・なるほど、今回の志望理由は・・・素材か。」
「そうです、重要なので。」
「企業としてはリスキーだろうな、面白くもあるが。」
「堅実な事やっても沈むだけですよ、いや、失敗したリスキーな行為は大体浅慮で、一発逆転ばかりを目指していて、打開策として使おうとするからダメなんですよ。」
「人手不足なんて教育サボって子作りサボって金払いサボった体質のツケみたいなもんだからな、堅実な経営なんて実態見たら身を削ってるだけだろう。」
「・・・だから、コイツで逆転出来なければ国家は丸ごと沈没する。」
「まぁ、憂うのも仕方ないな。」
「だろ?」
「どうせ国の倒壊もそう遠くない。少なくとも先進国を名乗れる先進国なんて世界にないだろ。」
「計算式の方は?」
「工学部に味方がいる。」
そこからは、ただの理屈の塊だった。
特殊相対性理論、投影面積、軌道重心、質量の分布、心理的順応速度。
どれもロマンではなく、“現実に成立する最適解”として語られた。
「その計画はどれほど費やすつもりだ?」
「どうせ失敗したら死ぬので、命を懸けます。」
「なるほど?・・・それは・・・。」
しかし具体的だ、これで通らないとなれば人事という人事にセンスが無かったか、経営者の脅威か。
「・・・まぁ、正直単体だと壮大過ぎて使えないな。」
・・・一つ言えるのは、学歴フィルターが大損する結果になると見えた。この計画には数千億の金が動いて然るべきだ。
「・・・私の親、実は学長でね。」
ならばこれは端金である。
「面白いから三億用意してやる。返済義務は緩い。AT1債みたいなもんだ。先に事業で成功せずとも返しきって問題無い。」
コイツにはどの道価値がある、利用するだけ利用する。
「・・・うちの学園を使って最適な人物を探すのもアリだ、どうだ?」
「・・・ああ、やってやるさ。」
そうして計画は、現実の枠内に落ちてきた。
机上の空論にすぎなかった案が、十桁程度の数字を聞くという、急に重力を持ち始める。
金がついた。ならば次は人材だ。
ロケットの設計はチームがあるから良い、誰を乗せるかを決める必要がある。
学園を使う。これは彼にとっても予想外の提案だった。だが合理的だ。日本という国の縮図として、最も平均的なサンプル群が揃っている。
必要なのは、特別な才能ではない。
“軽くて"
“従順で”
“一定以上に賢く”
“統計的に制御可能”
それを証明するデータを、最も手軽に揃えられる場所だった。

先にチームの一人を紹介する。
複数の大学から募った人間だが、大抵進学か研究所行き、国がアレなのでアメリカか中国に行った方が金銭的に儲かると判断して見捨てる前提らしい。
その中でも言語的に秀でた文学部、識字障害がある為多数の言語を使いこなすことで抑制する、そんな人間だ。
「・・・待ってホントに座ってる?」
「彼女は身長220cmだからな、そこまで気にしなくてもいい。」
「どうも~。」
「本来は彼女が宇宙飛行士の予定だったが・・・三年でここまで伸びてしまってな。」
「・・・細胞でテトリスやったのかって位伸びてるな。」
成長の理由は未だにはっきりしない。
体質、ストレス、栄養管理、遺伝的な交差、それとも・・・。
いずれにせよ、人類が宇宙に適応していく一歩手前で逸れてしまった存在。
使いどころは難しいが、切り札ではある。
彼女は静かに、そして確実に場を制していた。
座っていても誰よりも高く、話さずとも誰よりも印象を残す。
言葉は要らない。言葉を解す彼女が、言葉以上の存在になっているのだから。
「・・・話し掛けるのは良いが、YESかNOで答えれるようにしてやってくれ。障害で苦しんだ人間は理解力というか、察する力が上がってしまうものだ。」
「・・・大丈夫だ、私も変な文章書くやつが多いせいでそっちの方がありがたい。頭良い奴程その対応に需要があるのさ。」
「・・・うん。」
「結構可愛い声してんな。」
「声帯が小さいからな、チーターみたいな感じに声が可愛くなるのさ。名前は古宮咲。」
「うん!」
「私は・・・紹介すべきか?」
「名前は記号だから気にするな。」
「美禅叶だ、なうなうとでも読んでくれ。」
「30にもなって学生時代に縋るのか?」
「親父は50になって学生時代に縋ってるぞ?」
「そうだった。」
「んで他のは?」
「開発者が数人・・・まぁ、今はトイレだ。」
「・・・あれ、待てよ?」
叶が確認したのは、とてもとても、大事な部分である。
「計画の要である宇宙飛行士は?」
「いない。」
即答に対し嫌な目をした。
「計画する割にサボり癖あるよなお前。」
「仕方ないだろ、忙しいんだから。」
「・・・仕方ない、近い内に内部進学と推薦の高校生が来る、そこからだな。オープンキャンパスはまだ三ヶ月後だし。」
叶は一度だけため息をついた。即答には呆れたが、すぐに悟る。焦っていないのではない、計画はすでに進行中なのだ。啓悟の顔には曇りがなかった。準備をしていない顔ではない。むしろ、全てを任せろという顔だった。叶は椅子の背に身を預ける。任せるとは決めていない。ただ、見届ける価値だけはある。それだけで十分だった。
「・・・無駄な自信が折れてくれなかったのは、残念でもあるけど喜ばしい事でもあったかな。」
開発者に顔を合わせる事はしなかった、計算式を無駄に聞いた所で理解出来る話題ではないだろう。
啓悟は結局何をするか、休日中にリストから成績上位者を手当り次第に探す。媚びを売って得た奴はナシだ。

翌日の事だ。
叶は普通に出勤していたし、啓悟に結果を聞くべく待機を・・・待機を・・・。その結果、馬に蹴られ血塗れで倒れていた。
「待て待て待てぇー!!」
「分からない。」
「そうか咲ちゃん、あれがバカか。」
「元から。」
「・・・それもそうだな、こんな大学来る位だ。咲はこの大学のじゃないだろ?」
「どの道寿命短いから、稼ぐ必要が無い。」
「・・・そりゃ悲しいな。」
「彼と一緒。」
「いやー、アイツの一族とか死因事故死で埋まってそうだが。」
「・・・ん。」
「事実だったか・・・そりゃ仕方ないな。らしいっちゃらしいが。」
「うん。」
「そんな事はどうでも良いから助けてはくれないのか?」
「生き延びてそうだし後回しでいいかなって。」
「生き延びるというのは生存確認から来るものではなく治療行為を重ねて言うべきものだ。」
「重ねてなくても生き延びたら問題ない。」
「でも社会的には見殺しにしたって言うんだぜ?」
「見殺しって責任押し付けんなよな?」
「被虐者の気持ちも知らずによく言えたものだな。」
既に固定はされていた、馬の方は落ち着いているが・・・多分、虫がいて暴れて偶然被弾した。
「・・・はぁ、何本かは折れたが些細な犠牲だ。」
「・・・と言うと?」
「さっきの数分間で確保したのさ、宇宙飛行士の候補筆頭を。」
「・・・マジか。誰だ?知ってるヤツか?」
「多分知ってる。今は水を買ってきて貰っている。」
ゆっくりと口を開き、名を出す。
「・・・岸間蕾、小さくて、賢くて、何より・・・冷静な女だ。」
その名前に、咲は眉を動かした。
短い沈黙の中、叶が時計を確認する。おそらく啓悟が倒れた時間と、今現在の行動から逆算して、すべてを整理しているのだろう。
だが、それでもなお、蕾という存在には慎重な色が残る。
岸間蕾──その名を聞いた者の反応が、啓悟の中では既に織り込み済みだった。
評価の分かれる存在であり、目立たぬが確かに異質。
だが、啓悟にとっては最初から候補の筆頭だった。

彼女との出会いは、数時間前のことだった。
啓悟は、特に期待する事こそ無かったが、咲の様な逸材が一人いれば、良いと思いながら見ていた。
肩までの髪をまとめて片側に編み込んでいるのが目に入った。見た目より実用性の処理だ。顔は小さく、瞳が無駄に動かない。まばたきの回数も平均より少ない。動作のテンポと照らせば、無意識に余計な視覚情報を遮断してる。
小柄。だが重心が低すぎない。筋肉の付き方が均整取れてるせいで、リュック背負って走った時の接地音もブレなかった。全体的に、整ってるが主張がない。標準服すら目立たない。
最初に気づいたのは、距離を詰めないことだった。視線も、歩幅も、声のトーンも、相手に対して“踏み込む動き”が存在しない。あれは無意識じゃない。そういう風に、生きてるだけだ。
必要なら飛び込むが、言われなければ立ち止まる。そういう個体だった。
髪は灰に近い銀で、編み込みでまとめている。染めていないとすれば、色素量が異常に少ない。肌は血色に波がない分、外光の反射で硬質に見える。かなり手の込んだ素肌につい笑ってしまう。
顔立ちは整っている。端正というより、破綻がない。皺を寄せないまま話せる構造の顔は珍しい。目は丸くも細くもないが、奥行きがある。光彩が薄く、瞳孔が迷わない。そのせいで、静止していると人形みたいだ。
見た目の良さはある。だが、いわゆる「顔が良い」とされる評価軸とは異なる。自己主張がないのに、視界から逃げない。存在感ではなく、処理すべき対象として目に残る構造をしている。
ここで切る理由がない。見た目で整いすぎていれば任務に不安が出るが、それもない。運動能力・神経応答・心理耐性に関する疑念を差し引いても、使える。
咲とは違う。咲は実力者だが、“使われる側”としての適応が抜けていた、正直それですら強みではある。彼女一人を扱える人間がいれば食い扶持には困らないだろう。蕾には、最初からその気配がない。割り切るべき所を、既に割り切っている・・・だが、手は抜かないタイプだ。説得の指針は決めた、彼女は逆に完璧過ぎて手を挟みやすい。だから決めるまでにそう時間はかからなかった。
説明会は終わったばかりだった。掲示板の前には学生が数人、どれも集団行動に慣れた動きで帰路につこうとしている。啓悟はその中の一人を見ていた。
「岸間蕾、だな。」
声をかけると、彼女は振り返った。訓練服のまま、整った姿勢でこちらを見てくる。疲れも焦りも、何も表に出していない。
「・・・何か?」
「さっきの説明、聞いてたか?」
「ええ。論理としては整ってたと思います。」
「ただの夢には、見えなかったか?」
「むしろ逆です。夢を見てる人間ばかりの中で、あなたは・・・夢を“使ってる”ように見えました。」
啓悟は僅かに眉を動かした。それは意外というより、見込み通りという確認の動きだった。
「宇宙飛行士になる気はあるか?」
「・・・あると答えればどうします?」
「即採用だ。条件は既に揃ってる。あとは君が乗るかどうかだけだ。」
「・・・どうして私を?」
「理由は三つ。軽い、聡明、従順。」
「従順?」
「違ったか?」
「いえ。・・・でも、“従順”って言葉を真面目に使う人、初めて見ました。」
「俺はいつも真面目だ。」
「それも、分かります。」
彼女はそこで初めて微かに笑った。啓悟がその微表情を拾ったかは分からない。ただ、会話はすでに成立していた。
「・・・どこまでが現実で、どこからが夢ですか?」
「それを区別しないと動けない。君はどっちを選ぶ?」
「私は・・・区別しません。ただ、見たものを組み立てます。あなたの言う“夢”に私が必要ならば。」
実の所、彼女は惚れ込んでいた。夢を気に入ったし、実力を気に入った。それはそれとして詐欺に引っかからないかは心配すべきだろう。
・・・そう、油断していたのは彼だけではない。
・・・そして、彼は馬に蹴られた。
「・・・ああ!ごめん!つい気を抜いてる内に・・・!」
「アブが居たらしい、クソ、普通に立つのが辛い、二日酔いの前に伏見稲荷行ってもこうはならねぇ・・・。」
「怪我・・・怪我・・・よし、固定しますから動かないで!」
「背中かくなって言われてかかない奴がどこにいる!」
「規模が違うんですよ規模が!!」
「骨折は体積的には大きいが面積的には肌より少ないぞ!?」
「臓器売買の値段で考えなさい!」
「・・・分からんけど心臓より肝臓の方が高いのは聞いたことがある。」
彼女のマッチポンプを一身で受け止めた彼は、少しダメージを残しながら彼女に改めて問う。
「星が見えるか?今は青く見える空の奥、夜なら簡単に見えるが・・・。」
「ぶたれた事ですか?」
「違う!・・・自分は明確な目標と使命を抱えて星を目指している。これが目指すべき場所であると信じている。」
「・・・それは探っても問題無い?」
「まぁ、次会う時に説明した方が良い。というのと君の夢次第というのもある。」
「・・・夢次第・・・ですか。」
「君にとってはスタートラインなんだろう?」
「・・・そうですね。」
「だから、自分も手を貸すよ。騎手の為のコネ作り。」
「・・・いいですよ。」
その外見は、銀河の様に美しい。星雲の様に輝き、奥深く、その上で確かな形をしている。
・・・今、蹴られてぼやけて見えているのが、そう背中を押しているだけだ。

西池は手帳の端に、呪文のように数字を書き連ねていた。 三億二千万。 一人の人間が一生を遊んで暮らすには十分な山脈に見えるが、重力という絶対的な物理法則を振り切り、衛星軌道まで鉄の塊を押し上げるための「授業料」としては、あまりにも標高が低い。 燃料の調達コスト、真空チャンバーのレンタル料、そして航空宇宙産業の利権を潜り抜けるための裏工作費。一円単位の誤差を削り落とす西池の筆圧で、鉛筆の芯が悲鳴を上げた。
「三億二千万。これが俺たちの全財産だ。一円の無駄も、一秒の迷いも、計画の破綻に直結する」
独り言のような呟きは、競馬場のスタンド裏にある安食堂の喧騒に飲み込まれていった。吹き抜ける風には、馬の汗と砂埃の匂いが混じっている。その荒々しい生命の気配は、西池の計算機のような思考とは対極にあるものだった。
「西池、鉛筆の音がうるさい。計算は後にして、先に食べて。咲があなたの分のカロリーまで計算に入れ始めてる」
蕾の声は、冷たい水のように西池の意識を現実に引き戻した。 彼女は目の前に置かれた特盛の牛丼を、まるで精密機械のメンテナンスでもするかのような手つきで眺めている。隣では、二百二十センチメートルの巨躯を持つ咲が、既に二杯目の丼を空にしていた。彼女が動くたびに安っぽいパイプ椅子が軋み、食堂の空間を圧迫する。
「俺はいい。咲、お前はもっと食え。お前の筋肉を維持することは、計画における出力の維持と同じ意味を持つ。俺は燃費がいいから、少しでいい」
西池は自分の器にある肉を、当然の作業工程として咲の器へ移し始めた。だが、その箸の動きを蕾が無言で遮った。
「分け過ぎ」
蕾は西池の箸を強引に止めると、レンゲ一杯の牛丼を、彼の口へ突き刺すように放り込んだ。米粒が唇を打ち、甘辛いタレの匂いが強制的に鼻腔を支配する。不意を突かれた西池が反射的に咀嚼を始めると、彼女は満足そうに頷いた。
「肉は多く、一方で玉葱に米。野菜ばかりでヘルシーだ」
牛丼を健康食として定義する飛躍した論理。蕾の瞳にあるのは冗談ではなく、徹底した「効率」への信頼だった。西池は喉を鳴らして笑いそうになり、ようやく人心地ついた。
「……サラダ、か。お前の父親も、そういう面白い理屈を言うタイプだったのか?」
咲が三杯目の注文を済ませ、店員が驚愕の表情で厨房へ消えるのを見届けてから、彼女は静かに口を開いた。
「父はローレンスという名前でしたが、日本に来てからは蓮(れん)と名乗っていました。元々は馬産関係の仕事で来日したんです。彼は新しい文化や技術に、子供のように目を輝かせる人でした。常に『今いる場所』を全力で愛そうとしていた。私のこの言葉も、父の好奇心の残骸ですよ」
咲の言葉には、亡き父への深い敬愛が滲んでいた。西池はその背景が、今の咲の「人類からの逸脱」を支えているのだと納得する。しかし、彼の思考回路はすぐに情緒を離れ、冷酷な工学の世界へと舞い戻った。
手帳に刻まれた数字の羅列が、西池を現実という壁へと押し付ける。 国際情勢の悪化により、タングステンの調達は絶望的だ。スパゲッティ型ロケットの重心を維持するために不可欠な重金属は、今やあらゆる商社が軍需優先で囲い込んでいる。一介の大学生が三億持っていたところで、国家レベルの需給バランスの前では、その札束はただの紙屑に等しかった。
西池は、静かに牛丼を口に運ぶ蕾を、食い入るように見つめた。その視線は、もはや人間に対するものではなく、実験機に搭載する高精度のセンサーを確認するエンジニアのそれだった。
「蕾。お前という個体は、今のロケット設計において最大の資源だ。その小ささ、その軽さ、そしてその聡明さ。お前がこのサイズであるからこそ、俺の無茶な設計は成立する。だが、それは数年で崩れうる不安定な数値でもあるんだ」
西池は何度も、隣に座る咲の巨大な肩幅を、呪いを見るような目で見つめた。咲の存在は人類の可能性を示す一方で、西池にとっては「巨大化というリスク」の具現化でもあった。蕾が第二次性徴という不可逆な演算を終え、その体躯が変貌してしまえば、全ての計算は灰塵に帰す。
「急がなきゃな。世界が、あるいは君の身体が、俺たちの計算を追い越していく前に」
「分かっています。私は、私が使えるうちに、空へ行きたいですから」
蕾の返答は、短く、確固たる意志に満ちていた。彼女は自分がロケットを構成する最も重要な「部品」であることを、静かに受け入れている。
「三億二千万で足りないなら、残りのパーツはどうするつもり?」
咲の問いに、西池は冷たく、しかし確信に満ちた視線を返した。
「正規ルートが死んでいるなら、死体から剥ぎ取るしかない。システムの隙間を狙う。幸い、この国には『使われないまま腐っている贅沢品』が山ほどあるからな」
西池は手帳を閉じ、立ち上がった。競馬場のファンファーレが、遠くのスピーカーから不協和音のように響く。それは彼らにとっての出発の合図であり、猶予がもう残されていないことを告げる警告でもあった。
西池は一歩を踏み出し、食堂の暖簾を潜った。そこには、午後の陽光に照らされた、広大で乾いた砂のコースが広がっていた。彼らが走るべきレースは、まだ始まったばかりだった。
ゲートが開く音は、乾いた銃声にも似た衝撃となってスタンドに響き渡った。 群青の空の下、一斉に蹴り出された十数頭の塊が、砂煙を巻き上げながら視界の端へと消えていく。 西池はその一団を、馬券を買うファンの熱狂とは無縁の、冷めた視線で追っていた。蕾と咲も手すりに身を乗り出し、土を噛む蹄の音を全身で受け止める。三人の視線が射抜いているのは馬の美しさではなく、群れが描く流体力学的な軌跡と、初動におけるエネルギーの損失だった。
「始まったな。蕾、出遅れた三番を見ろ。あれは意欲の欠如ではない。ゲート開放の瞬間、重心移動にコンマ数秒の誤差が生じた。工学的には、あれを『外乱』と呼ぶ。どれほど完璧な設計でも、初動の確率設計で弾かれる個体は必ず出るんだ」
西池は手帳を開き、砂煙の向こう側に仮想の射出台を描き込んだ。 第一の選択肢は、斜め射出だ。 出遅れた馬が圧倒的な加速で内側へ潜り込もうとするように、初動から最高速度で大気を引き裂く。水中翼船を土台とした「アルバトロス改良型」を用い、スーパーキャビテーションとアクティブ制御で水面の抵抗を極限まで殺す。ドラッグマシンでローとリバースを同時に解放するような、暴力的な初動。だが、これならば大気圏突破のエネルギー効率は劇的に向上する。
西池の言葉を、蕾は瞬きもせずに聞いていた。彼女の脳内では既に、その射出の際に身体へかかる加速度の波形がシミュレートされていた。
「でも、外周を回る馬もいます。あれは損失ではないのですか?」
蕾が指差したのは、大きな弧を描きながら先頭を追う一頭だった。
「案二、ストラト・ローンチに近い思想だ。巨大な航空機で高高度まで運び、そこから放つ。移動距離は伸び、機体維持という名の『外周のリスク』は増大する。有人計画において、運用後の巨大機体がただの粗大ゴミになるリスクは看過できない。今の俺たちの予算規模では、この標高は越えられないな」
西池は冷酷に、手帳のその案へ横線を引いた。 咲は、内側の柵ぎりぎりを走る一頭を注視していた。逃げ切りを図るその馬は疲労し、脚取りが踊っている。
「西池、あの一頭はどうなの? 最短を走っているけど、すごく揺れてる」
「案三、ドローン・シップからの垂直射出だ。利得は大きいが、土台となる船自体の揺れが設計を最悪にする。ロケット内部の振動は、あそこで馬が感じている負荷の比ではない。蕾、お前がその震動の中で精密な操作を維持できるかが鍵だ。まあ、お前なら吐きながらでも完遂するだろうが。適性は十分だ」
「……その評価の仕方は、一度きりにしてください」
蕾が冷たく言い放つと、西池は鼻を鳴らした。
「結論を出すには早すぎる。材料のタングステンが確保できない以上、特定の方式に全賭けするのは戦略的ミスだ。システムの死体の中から、新たな供給ルートが見つかるのを待つ。最適解を他人に奪われるほど、俺は甘くない」
西池は手帳を閉じ、二人に背を向けた。「決めないという判断」が、三人の沈黙の中に重く置かれた。 レースが最終直線に入り、スタンドの声援が最高潮に達した頃、西池はしれっと一枚の紙切れをポケットから取り出した。
「よし。これで明日からの食費は、牛丼から少しだけグレードアップできるな」
「西池、まさか馬券を買っていたんですか?」
蕾の瞳が鋭く細められた。咲が背後から無言で西池の肩を掴む。その巨大な握力が、彼の逃げ道を物理的に封鎖した。
「おい、予算は一円も無駄にできないんじゃなかったのか!」
「これは俺の私財だ。確率設計の検証だよ! あ、痛い、咲、脱臼する! 分かった、還元するから! 肉だ、今日の夕飯はいい肉を食わせるから離せ!」
西池の情けない叫びが、勝ち馬を称えるファンファーレにかき消されていく。 三億二千万という巨額を背負いながら、彼らは数百円の払い戻しに一喜一憂し、互いの肩を掴み合いながら夕暮れの競馬場を後にした。 砂埃の舞う風の中に、有能さと、それゆえの危うさが混ざり合った奇妙な温度感だけが残されていた。


事務室の空気は、前日の夕暮れをそのまま凍結したように動かなかった。書類は整然と積まれているが、余白はない。資金計画も、工程表も、どれもが「成立」はしている。しかし、成立しているだけだ。どれか一つを強く押せば、別の一つが沈む。薄氷の上に引かれた幾何学模様のように、均衡は保たれているが、強度は保証されていなかった。啓悟は椅子に深く腰掛けることなく、机の端に腰を預けて資料を眺めていた。視線は紙面を追っているが、そこに書かれている数字そのものを信用している様子はない。数字は結果であって、原因ではない。原因はもっと手前にあり、もっと不確かだった。「順調、とは言わない。」啓悟は独り言のように言った。蕾は頷きもしなければ、否定もしなかった。彼女は資料の端に引かれた鉛筆の線を指でなぞりながら、その沈黙を受け取る。「成立はしている。でも成功は保証しない。ここを混同すると、必ず壊れる。」啓悟の声には昂りも自嘲もなかった。ただ、長く同じ計算を繰り返してきた人間の、乾いた断定だけがあった。「努力は、報酬じゃない。」唐突に、啓悟はそう言った。「努力は確率を上げるための素材だ。積めば必ず報われると思った瞬間に、努力は嘘になる。積んでも消える。積んでも使われない。積んでも、たまたま外れることはある。」蕾はその言葉を、身体感覚に照らして処理した。力を入れれば必ず立てるわけではない。重心が合っていなければ、どれだけ筋力があっても崩れる。それと同じだと、彼女は理解する。「でも、積まないと始まらない。」蕾が静かに返す。「はい。積まなければ、確率はゼロです。」啓悟は一瞬だけ視線を上げた。理解が早いことに驚いた様子はない。ただ、話が先に進むことを確認しただけだ。「ロケットは、最初からロマンじゃない。」啓悟は資料の一枚を指で弾いた。「最初に作った奴は、メディアから笑われた。孤独だった。狂人扱いだった。それでも基礎を作った。あとから軍が拾って、スポーツマン社会が乗って、最後に美談にした。」蕾は、その順序を頭の中で反転させる。今、自分たちがどこに立っているかが、自然と見えてくる。「つまり、今は一番最初の位置ですね。」「そうだ。笑われる側だ。」啓悟は否定しない。「でも、そのあとが続くことを知っている側でもある。そこが違う。」蕾は小さく息を吐いた。恐怖はある。しかし、それは未知の恐怖ではない。構造を持った恐怖だ。「人工衛星が止れば、社会は後退する。」啓悟の言葉は淡々としていた。「1980年代までだ。通信、測位、金融、物流。全部だ。これは挑戦じゃない。維持だ。維持のために、浪漫を燃料にしているだけだ。」蕾は、その言葉を否定しない。むしろ、その冷たさに安心を覚える。「忠誠心と野心、両方が必要ですね。」「どちらかだけだと、途中で折れる。」啓悟は即答した。「忠誠だけだと、自己を犠牲にして終わる。野心だけだと、漏れて破綻する。だから両方いる。怖さも、欲も、全部計算に入れる。」二人の間に、短い沈黙が落ちた。それは不安ではなく、確認のための間だった。「最悪のケースは想定していますか。」蕾が問う。「当然だ。」「そのとき、何を捨てますか。」啓悟は少しだけ考えた。「成功。」即答に近かった。「成立を捨てた瞬間に、全部が無意味になる。成功はあとでいい。」蕾は、その答えを聞いて、初めてわずかに笑った。悪ノリに近い感覚が、二人の間に生まれる。「薄氷ですね。」「割れる前提だ。」「それでも進む。」「止まる理由がない。」空気が少し軽くなる。盛り上がっているのに、浮ついてはいない。二人の思考速度が揃っただけだった。蕾は資料から目を離し、啓悟を見る。これまで整理してきた条件の中で、一つだけ、どうしても座標に落ちない点が残っていた。「一つ、確認があります。」「言え。」蕾は躊躇しなかった。「ここまで理解していて、なお。」一拍置く。「なぜ、そこまでして有人に拘るんですか。」その問いは責めでも反論でもない。純粋な、成立条件の外側にある疑問だった。啓悟は答えなかった。答えないまま、視線を机上に戻す。事務室の静けさが、再び薄く張り詰める。氷はまだ割れていない。ただ、その下を流れる水の音だけが、確かに聞こえていた。
啓悟は資料を押さえていた指を、ゆっくりと離した。紙が僅かに跳ね、微かな乾いた音が室内に響く。彼は窓の外、学園の向こう側に広がる歪な地平を見つめた。
「無人機は、計算が間違っていたときに責任を取らない。」
啓悟の声は、今まで以上に低く、それでいて重い確信を伴っていた。
「センサーが壊れれば、それはただの『機能不全』というデータだ。だが人間がそこにいれば、それは『生存』か『死』という絶対的な二択になる。俺が求めているのは、計算が裏切る瞬間、その限界の向こう側でも『成立』を維持しようとする意志だ。機械にはそれができない。」
彼は机から離れ、壁に貼られた、まだ名前も付いていない機体図面の前に立った。
「無人機は歴史の一部にはなっても、座標の主人にはなれない。俺は、俺たちの計算が正しいことを、数字ではなく、生身の肉体が呼吸を続けることで証明したいんだ。確率の果てにある、唯一の特異点としてな。」
蕾はその背中を見て、彼が自分を搭乗員として選んだ理由を、恐怖よりも深い納得感と共に噛み締めた。彼はロマンチストではない。誰よりも「計算」を信じているからこそ、その計算を完成させるための最後の部品として、不確定なはずの「人間」を要求しているのだ。
「・・・それが、あなたの『野心』ですか。」
蕾の問いに、啓悟は初めて、薄く、ナイフのような鋭い笑みを浮かべた。
「いいや、これは俺の『復讐』だ。」
言い切った瞬間、事務室の換気扇が大きな音を立てて回り始めた。停滞していた空気が吸い込まれ、新しい風が窓の隙間から滑り込む。氷の下を流れていた水が、今、静かに氷を押し上げ始めていた。
「咲、次の広報工作の原稿を持ってこい。学園内の観測者を、そろそろ本気にさせる時間だ。」
啓悟は再びモニターに向き直った。その横顔には、もはや迷いも、前日の夕暮れの残滓も残っていなかった。

事務室の窓から差し込む夕陽は、埃の舞う空間を不透明なオレンジ色の帯で切り取り、床の上に置かれた二脚の回転椅子を、残酷なほど鮮明な影と共に照らし出していた。
西池はモニターの青白い光に顔の半分を埋めるようにして、キーボードを叩き続けている。画面の中で踊っているのは、投資家の目を眩ませるための精密な資金調達グラフと、学園の権威を盾にした「スパゲッティ型ロケット」の宣伝資料だ。彼は一度も背後を振り返らない。それは信頼という甘い言葉ではなく、各自がそれぞれの持ち場で「成立」を維持していることへの、冷徹なまでの機能的な不干渉だった。
西池にとってこのPC作業は、自分たちの存在を社会という巨大なシステムの隙間にねじ込むための唯一の延命処置であり、一秒でも打鍵が止まれば、自分たちはただの学歴フィルターに詰まった塵に戻ることを、彼は誰よりも深く熟知していた。
その背後では、蕾が二脚の椅子の座面に跨がるようにして、静かに宙に浮いていた。 彼女にとってこれは義務的な訓練ではなく、朝に水を飲むのと変わらない、極めて日常的な身体の愉悦だった。左右に滑ろうとする椅子の不安定さを、彼女は足裏の神経と内耳が司る平衡感覚だけで制御し、重力という絶対的な支配に対して自分の肉体がどの地点で均衡を保てるかを測っている。
蕾の瞳はどこも見ていないようでいて、自らの内側の筋肉が放つ微細な熱量と、関節が刻む重心の揺らぎだけを、熱心に観測していた。負荷を負荷として扱わず、ただの物理現象として処理する彼女の適性の異常さが、静まり返った事務室の中に異様な純粋さを放っていた。
その傍らで、咲は二百二十センチメートルの身体を折り曲げるようにして、西池が書き残した手帳を手にしていた。 彼女はそれを「読む」前段階として扱っている。紙面に視線を落とす前に、そこに書かれているであろう内容を、西池の癖と過去の判断から逆算する。その上で、どうしても必要な箇所だけを拾い上げる。
咲の脳内には、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語が、互いに境界を侵さないまま積層している。彼女にとって言語とは意思疎通の道具ではなく、世界を分解するための異なる測定器だった。
咲は、蕾の不安定な姿勢を横目に見ながら、声だけで語り始める。一文ごとに、言語を切り替えながら。
「He trusted numbers too much.」
蕾の身体が、わずかに揺れる。
「La précision peut se retourner contre toi.」
椅子の脚が、床を擦る。
「Ein einziges Detail. Das allein hat die Reihenfolge festgelegt.」
最後に、咲はほんの一拍だけ間を置いた。
「Ad astra. Via non parata erat.」
蕾は椅子の上で均衡を保ったまま、咲の声を受け取っていた。
 (困難を越えて星へ、か。でも、最初から通れる道じゃなかった。――なるほど。順番の話ね) 彼女の中で、言葉は意味になる前に構造として整理されていく。誰が一番だったかではなく、なぜ順番が固定されたのか。その条件だけが、感覚の中に残る。
だが、咲が手帳の紙面に視線を落とした瞬間、空気が変わった。 文字という二次元の記号が、彼女の脳内に流れ込む。
「The internal digestion of the right-handed ritual.」
場違いな言葉が、静かな事務室に落ちた。咲自身は違和感に気づかない。 RightとRite、DesignとDigestion。似た音、似た形、似た語源が、脳内で衝突し、最も手近な出口から零れ落ちただけだった。 蕾は逆さまに近い体勢まで重心を落としながら、即座に処理する。 (右利きの儀式じゃない。右開き。内側。配置の問題)
「今の、文字ですね」 蕾は淡々と言った。 「方向と配置の話だと分かってます。続けてください」
咲は一度だけ瞬きをし、呼吸を整える。
「配置が先に決まった。あとは、順番が固定された。それだけの話」
蕾は椅子から降り、床に静かに着地する。
 「一度決まった条件を、二度と外さないための癖ですね」
咲は小さく頷いた。それ以上は付け足さない。だが、文字を追うたびに、言語は再び滑る。 「計算の帰結」が「運命の算盤」になり、「観測の拘束」が「巡礼の監禁」に変わる。読むほどに、咲の出力は歪む。それでも蕾は遮らない。必要な部分だけを拾い、不要な比喩は切り捨てる。そのやり取りが、日常の範囲で続いていた。
キーボードの音が止まったのは、その時だった。
「そこまで」 西池の声は、振り返らずに投げられる。 
「余計な履歴は要らない。今も再現される条件だけ残せ」
咲は手帳を閉じる。 蕾は再び椅子に跨がり、重心を預ける。
「次へ行く。咲、入力を止めろ。蕾、自分の限界だけ把握しておけ」
事務室に、再び静かな緊張が戻る。夕陽は沈みかけ、三人の影が床の上で重なっていく。それはまだ、破綻でも決断でもない。ただ、いつもの日常だった。

事務室に満ちる夕闇は、啓悟の背中を飲み込むようにして深まっていた。咲は手帳を閉じなかった。閉じれば楽になることを知っているからこそ、あえて指先に力を込め、開かれたページを視界の端に留め続けている。文字という記号が網膜を焼くたびに、彼女の脳内では数多の言語が火花を散らし、文脈という名のレールが激しく歪み始める。跳躍は意志ではなく、高負荷に耐えかねた神経の反射に近い。
​「—The longer you live, the fewer variables you should carry.」
​咲の口から放たれた英語は、低く、冷徹な響きを持って空間に落ちた。彼女は即座に、自分の吐き出した音の温度に違和感を覚えたように首を振る。
​「Non. Trop brutal.」
​蕾は椅子の縁に片足を引っかけ、体重を預け直す。重心が一瞬、宙に迷う。迷ったまま、彼女の身体は落ちることを拒絶し、物理法則の隙間に静止していた。蕾はその不安定な均衡を愉しみながら、咲の言葉を待っている。咲にとって、この多言語の衝突は、啓悟という人間の「仕様」を正しく出力するための、避けられない摩擦だった。
​咲は、文字という呪縛に抗いながら、再び言葉を紡ぎ出した。
​「In certain courts, longevity was・・・ ensured.」
​言い切りにならない。語尾が曇る。文字を追うほどに、彼女の知性は記号の迷宮へと迷い込んでいく。咲はその曇りを嫌って、より深い、あるいはより極端な概念の層へと潜り込んだ。
​「Eunuchs were trusted.」
​ラテン語へ移行しようとした彼女の思考が、途中で凍りついた。
​「—Non, pas ‘trusted’.」
​彼女の舌先で、音だけが残る。
​「Longévité.」
​蕾の眉が、ほんのわずかに動いた。彼女の思考回路は、咲の口から出た「去勢された者たち」という、本来の文脈から決定的にズレたはずの単語を、即座に工学的な「変数(バリアブル)の切除」として逆算し、受理する。蕾は意味を拾おうとする前に、拾わないという選択肢が自分の中に存在しないことを自覚していた。椅子がきしむ音で、事務室の空気の密度が微かに変わる。
​咲は、何もなかったかのように頁をめくった。彼女にとって、今の言語事故は単なる出力の揺らぎに過ぎない。
​「設計の話に戻るわ。」
​戻る、という言葉だけが先に出て、戻る先は示されない。彼女の視線が、啓悟が書き残した「右開きのドア」の記述をなぞる。
​「If you reduce・・・ exposure, you reduce risk.」
​蕾は内心で数を数える。露出、削減、リスク。どれも文脈としては正しい。正しいからこそ、今の単語列に居場所がないことが、蕾の平衡感覚にははっきりと伝わっていた。咲は啓悟の「原罪」に触れようとして、再び言語の中枢を滑らせた。
​「Die Geschichte kennt viele Wege, die・・・」
​止まる。息を吸い直す。
​「・・・die Menschen wählen, um länger zu bleiben.」
​“länger”の音が、必要以上に長く伸びる。それは、時間を稼ごうとする本能的な叫びのようにさえ聞こえた。蕾は足先で床を探り、見つける。接地。均衡。今は落ちない。今は、この意味不明な言葉の裏側に潜む「仕様」を聞き逃さない。
​(合ってる? 合ってない? 聞き返したら、意味が確定する。確定したら、この事務室を支えている奇妙な安定が壊れる・・・。)
​咲は、蕾の視線が自分に向いていないことを確認するように、一歩下がった。彼女にとって文字を読むことは、啓悟という巨大な情報の海に溺れることと同じだった。
​「Ce n’est pas un sujet pour・・・ aujourd’hui.」
​“今日ではない”という逃げ道だけが提示される。代わりに、別の話題が投げ込まれた。
​「重量配分。」
​唐突だが、正しい。咲の脳が、文字の呪縛から逃れて純粋な概念へと回帰した瞬間、彼女の有能さが再びその輪郭を現す。
​「You balance what you keep. You discard what you don’t need.」
​蕾は小さく頷く。捨てる、という語が、さっきまでの曖昧な塊を押しのける。押しのけられた「去勢」や「長寿」の残滓は、床に落ちることなく、事務室の空気に溶けていった。咲は続ける。
​「昔の制度は極端だった。でも発想は単純。」
​一瞬、言葉を選ぶ。彼女の知性が、啓悟の「判断の癖」を最も残酷な形で要約した。
​「—生き残るために、未来を減らす。」
​蕾の内耳が、わずかに抗議した。未来を減らす、という表現が、彼女が愉しんでいる重心の移動と、致命的に合わない。未来を削ることでしか得られない安定など、彼女の肉体は求めていない。彼女は体勢を変え、その抗議を無音で処理した。
​「だから彼は、」
​咲は主語を出しかけて、飲み込む。その視線の先には、モニターの青白い光に照らされた、啓悟の動かない背中があった。
​「—だから、計算が好きなの。」
​主語が消え、性質だけが残る。そのとき、背後でキーボードの音が止まった。打鍵音が消えたこと自体が、事務室に沈黙の終わりを告げる合図になる。啓悟は振り返らない。
​「要点だけでいい。」
​低い声。短い。その声には、彼女たちのシュールな会話をすべて「ノイズ」として処理した上で、必要な「数値」だけを抽出しようとする冷徹な合理性が宿っていた。咲は手帳を閉じる。今度は迷いなく。
​「要点は三つ。」
​英語で始めて、日本語で終える。
​「余分を持たない。確率を上げる。生き残る。」
​蕾は椅子から降りる。着地は静かだ。床は鳴らない。彼女は自らの肉体が、啓悟の言う「余分を持たない」という仕様にどこまで近づいているかを、着地の衝撃の中で確認していた。
​「さっきの話、」
​言いかけて、止める。蕾は、咲が滑らせた「去勢(Eunuchs)」という言葉の意味を、啓悟の核心に結びつけるのを、本能的に拒絶した。
​「—いえ。続けてください。」
​咲は一瞬だけ、蕾を見る。見るが、何も確認しない。彼女もまた、文字から解放された直後の静寂を、ただ享受しているようだった。
​「続けるわ。」
​それ以上、戻らない。過去は未来のための部品庫であり、一度取り出した部品は、今の仕様の中に組み込まれなければ意味をなさない。
​啓悟の指が再び動き出す。キーボードを叩く音は、三人の影を正確に切り分け、それぞれが独立した「部品」であることを告げていた。床に落ちた影は交わらない。宙に残ったものだけが、曖昧なまま、事務室の空気に溶けていく。啓悟が生き残るために削り捨てた「未来」の残骸が、事務室の埃と共に舞っているような気がした。
​蕾は深く息を吸い、吐く。
(辞書を引いたら、終わるやつだ。)
​だから引かない。引けば、啓悟という人間の「計算」の中に、自分が耐えられないほどの「絶望」を見つけてしまうかもしれない。
​今日ではない。

事務室の空気は、先までの張り詰め方とは違っていた。緊急でもなく、平穏でもない。計算が一段落したとき特有の、宙ぶらりんな静けさが、部屋の四隅に澱のように沈殿している。ブラインドの隙間から差し込む光はもはや力を持たず、室内には液晶モニターの青白い残光と、古びた蛍光灯の微かな唸りだけが漂っていた。
改めて聞きに赴こう。
啓悟はホワイトボードの前に立ち、消しきれなかった数式の端を指でなぞっている。それは何かを修正しようとする動きではなく、消すでもなく、書き足すでもなく、ただそこに刻まれた論理の痕跡を確認するような、無機質な動作だった。指先に残るホワイトボードマーカーの黒い粉が、彼が積み上げてきた時間の積み重ねを象徴しているようだった。
蕾は冷たい床に直接腰を下ろし、壁にもたれて脚を投げ出していた。身体の力を抜いて休めてはいるが、彼女の感覚は一秒たりとも閉じていない。むしろ、静寂の中で彼女の知覚はより鋭敏に研ぎ澄まされていた。背中から伝わるコンクリートの硬質で底冷えする感覚、衣服の繊維が肌を擦る微かな音、そして部屋の主である啓悟の、一定の、それでいて僅かに重苦しさを孕んだ呼吸の間隔。彼女はそれらすべてを「重心」の一部として拾い上げ、自分という存在が今、物理法則のどの座標に位置しているのかを無意識に観測し続けていた。
「有人は続行だ。」
啓悟の声は、沈黙を切り裂くような鋭利さはなく、むしろ独り言に近い調子で空間に放たれた。報告でも宣言でもない、自分自身の中に既に固まった結論を、ただ確認するための音。蕾はその声を聞きながら、足先の感覚を研ぎ澄ませた。
「無人にすれば、楽になる点はいくつもある。リスクも、世論も、資金も。全部軽くなる。設計の冗長性も、生命維持装置に割くべき膨大な質量も、すべてを削ぎ落とせる。計算上は、その方が圧倒的に成立しやすい。」
啓悟はそこで言葉を切り、初めてゆっくりと振り返った。しかし、彼の視線は蕾を捉えるのではなく、壁に貼られた、無数のピンが刺さった色褪せた世界地図のほうへ向かっていた。
「でも、それをやった瞬間、この計画は意味を失う。俺たちがやろうとしているのは、効率的なデータ収集の自動化じゃない。人工衛星の話でもなければ、純粋な工学の進歩の話でもないんだ。人が“行った”という事実。その一点だけが、次の予算を、次の協力者を、そして次の世代の技術を強制的に引きずり出すための、唯一のトリガーになる。肉体がそこに到達したという物語がなければ、社会という巨大な質量は決して動き出さない。」
蕾は床に転がっていた一本のペンを、足の甲で器用に止めた。彼の言葉は、理屈としては冷酷なまでに理解できる。感情としても、彼らしい筋は通っていると感じる。しかし、彼女の内耳の奥に潜む「観測者」としての本能が、何かが決定的に欠落していると告げていた。
「・・・人が行かなきゃ、駄目?」
それは問いの形を借りた、ただの音に近い呟きだった。蕾は自分の重心を壁に預け、啓悟の背中に視線を投げる。
「駄目だ。」
啓悟の返答は、迷いの入り込む隙など微塵もない、即答だった。
「人が行かない宇宙開発は、ただの贅沢な趣味で終わる。趣味は個人の充足にはなっても、沈滞していく社会を救う力にはなり得ない。俺たちは、その『趣味』という名の逃げ道を、最初から塞いでおかなければならないんだ。」
救う、という言葉が啓悟の口から出た瞬間、蕾の内耳がわずかにざわついた。彼が最も忌み嫌うはずの、独善的で曖昧な言葉。だが彼女は、その揺れを感情に変換することなく、ただ一つの現象として処理した。
「救う、って言葉は嫌いだろ。」
「嫌いだ。」
啓悟は即座に、自分の発言を否定するように言い切った。
「嫌いだからこそ、俺が使う必要があるんだ。救う、なんて言葉は、本来なら無責任な楽観主義者の専売特許だ。だが、嫌いな言葉ほど、正確に扱わないと意味が歪み、最終的には計画そのものを食い破る。俺はそれを、俺たちの計算式の中に無理やり閉じ込めておくつもりだ。」
蕾は、その言い方に不自然な既視感を覚えた。どこかで、これとよく似た、歪で、それでいて潔癖なまでの理屈を聞いた気がする。誰かが、自分という個体を削り取り、他者のためにその身を供出する理由を、同じように“言葉の管理”や“役割の完遂”という冷たい論理で説明していた。だが、その輪郭は霞んでいて、具体的に誰だったかを思い出すことはできない。
「・・・犠牲になる気は?」
蕾の問いに、啓悟の眉が、ほんの一瞬だけ反応した。それは怒りではなく、計算外のノイズを耳にしたときのような、純粋な違和感の現れだった。
「犠牲になる気があるなら、こんな回りくどい計画は立てない。自己犠牲という安っぽいドラマに逃げるのは、思考を停止した人間のやることだ。死ぬ覚悟がある人間は、計算を詰めない。俺は、まだ詰めている。一円の狂いも、一ミリの誤差も許さないために、俺の脳はまだ回転を止めていない。」
“まだ”という単語が、蕾の意識に深く引っかかった。その言葉は、彼がいつか計算を止める時が来ることを示唆しているようにも聞こえた。だが、それを言語化して指摘することは避けた。彼は虚無を抱えている。それは確信に近い。けれど、その虚無は彼が動く理由そのものではない。少なくとも、今この場で共有されるべき性質のものではない。
蕾は立ち上がり、軽く身体を伸ばした。関節が小さく鳴り、床から離れた足の裏に、再び自重がかかる。
「分かった。」
それだけ言って、彼女はそれ以上、彼の内面へ踏み込もうとはしなかった。理解したのではない。完全に納得したのでもない。ただ、今は彼という観測対象を、そのままの状態で見守るべき段階だと判断しただけだった。啓悟もそれ以上、自分を正当化するような説明はしなかった。彼にとって説明とは、理解を得るための手段ではなく、条件を確定させるための作業に過ぎないからだ。
二人の間に、短い沈黙が再び落ちる。その沈黙は極めて不安定で、いつ崩れてもおかしくない危うさを孕んでいたが、かろうじてその形を保っていた。
蕾は思う。
——これは、美しい自己犠牲などではない。
——でも、誰もが手放しで安心できるような、健全な計画でもない。
——どこかで、必ず歪みが生まれる。その歪みは、いつか計算そのものを飲み込んでしまうだろう。
ただし。
——今は、まだそれを指摘すべき時じゃない。
彼女はその判断を、啓悟にも、自分自身の意識の表層にも共有しなかった。ただ、重心を整え、次の一歩を踏み出す準備をするだけだ。蕾は深く息を吸い、吐き出した。
(辞書を引いて、言葉の意味を確定させたら、そこですべてが終わってしまう。)
だから彼女は、問いかけを止める。
今日ではない。その時は、まだ先にある。

事務室の静寂を切り裂いたのは、電子機器の無機質な振動音だった。それは啓悟のポケットの中で、まるで生き物のように不気味に蠢き、彼に決断を迫る。啓悟がスマートフォンを取り出し、その液晶画面に視線を落とした瞬間、彼の思考回路は物理的に凍結した。三秒。たった三秒の沈黙が、事務室の空気の組成を完全に変えてしまった。彼はもう一度、食い入るように画面を見つめる。瞳孔が微かに開き、青白い光が彼の網膜に「あり得ないはずの現実」を焼き付けていた。
「・・・アー。」
啓悟の口から漏れたのは、言葉以前の、掠れた吐息のような音だった。蕾はその異様な気配を察し、訓練用の椅子からしなやかに身体を翻して彼を見た。
「どうした?」
「・・・ザイリョウ、ホボ、ソロッタ。」
啓悟の声は掠れ、平仮名とカタカナが混濁したような、極めて不安定な響きを持っていた。膨大な情報の濁流が彼の脳内を駆け抜け、言語を構成するためのリソースを食いつぶしている。
「・・・は?」
「ホボ、ゼンブ。」
一拍。事務室の換気扇の音が、不意に遠のいたような錯覚に陥る。
「・・・マジで?」
蕾の声が、驚愕によって一段跳ね上がった。彼女は啓悟のそばに歩み寄り、彼の手の中で微かに震えるスマートフォンを覗き込もうとした。
「んで何をしたんだ?」
啓悟は視線を蕾から逸らし、取り憑かれたような手つきで画面を操作し始めた。彼の指先は正確に目的のアイコンを叩いているが、その動きにはどこか機械的なぎこちなさが混じっている。
「・・・センソウガ、イッカイ、トマッタ。」
「は???」
「コウショウ、トマッテ、ナガレ、ズレタ。」
「だからって・・・材料が一気に来るのおかしくない?」
「フハイ、シテタ。」
蕾は一瞬、言葉を失った。啓悟が何を言い、何を引き起こしたのか。その輪郭が、最悪な形で脳裏に結実していく。国際情勢の澱み。軍需物資の停滞。そして、その隙間を縫うようにして蠢く巨大な不正の連鎖。
「・・・横流し?」
「マトメテ、ヒロッタ。」
「いや待て待て待て!」
蕾は、笑いと混乱が混ざり合ったような、歪な表情を浮かべた。彼女の持つ鋭敏な身体感覚が、この状況がどれほど「薄氷の向こう側」へ突き抜けてしまったかを敏感に察知していた。
「それ・・・ヤバいやつじゃない?」
「オレ、アイデア、ダケ、ダシタ。」
「実行された?」
「・・・サレタ。」
蕾は思わず、乾いた声を上げた。
「すげーな!」
啓悟は笑顔のまま、その全身を微かに震わせていた。それは歓喜というよりも、自分の放った一石が、計算を遥かに超えた巨大な波紋となって世界を揺らしたことへの、根源的な恐怖に近い震えだった。
「イマ、ソウイウ、ヒョウカ、ムリ。」
彼はスマートフォンで次々と海外口座の決済を済ませ、物流のネットワークを自らの計算式の中に固定していく。指の動きは正確だが、その一つ一つが、後戻りのできない奈落への階段を下りているようだった。
「フネ・・・チャーター・・・コレ・・・。」
「ちょっと待って、落ち着け。」
「オチツイテナイ。」
啓悟はそのまま、重心を崩すようにして蕾へと距離を詰めた。まるで、自分が引き起こした現実の重みに耐えきれなくなったかのように。
「・・・チョット。」
「え?」
啓悟の額が、軽く蕾の肩に当たった。冷たい汗の感触と、過熱したエンジンのような彼の体温が、蕾の薄い服越しに伝わってくる。
「イマ、アタマ、オイツイテナイ。」
「・・・知らんがな。」
そう言いながらも、蕾は彼の身体を支えるように足を広げ、重心を落とした。彼女は、彼という精密機械が今、どれほど致命的な高負荷に晒されているかを、その重みから直接観測していた。
「でもさ、これ・・・一気に進みすぎじゃない?」
「ソウ。」
「怖くない?」
「コワイ。」
即答だった。計算を信じ、確率を支配しようとする男の口から出た、あまりにも純粋な「恐怖」の表明。
「じゃあなんでやってるんだよ。」
少しの間があいた。事務室の古い壁時計が刻む音が、秒針の重みを持って響く。
「・・・トマッタラ、オワル。」
蕾はそれ以上、何も言えなかった。止まれば、彼という存在を形作っている虚構の城は、瞬時に崩壊して塵に戻る。彼は生き残るために、加速を続ける以外の選択肢を持ち合わせていないのだ。そこに、事務室の奥から咲の静かな声が響いた。
「啓悟、これ以上寄りかかると蕾のバランスが崩れます。」
咲はいつの間にか彼らのそばに立ち、その二百二十センチの巨躯で、事務室の夜闇を背負うようにして二人を見下ろしていた。
「・・・ジャア、サキ、モ。」
咲は何も言わず、啓悟の反対側に立ち、その大きな掌を彼の肩に添えた。啓悟は二人の異質な肉体に挟まれた状態で、ようやく荒い呼吸を整え始めた。それは、三人の影が床の上で歪に重なり合い、一つの特異な構造体を形成した瞬間だった。
「・・・コレデ、アンテイ。」
啓悟の呟きに、蕾は苦笑を漏らした。
「なにそれ。世界を動かしてる人間の姿か?」
「ミホン、ニ、スルナ。」
咲が淡々と補足する。彼女の知性は、啓悟の精神状態を正確に数値化していた。
「精神的な負荷が臨界を超えています。文字の読み込みを停止し、物理的な接触によるフィードバックで神経系を冷却する必要があります。」
蕾は冗談めかして言った。少しでも、この場を支配している重苦しい現実を追い払うために。
「去勢とかしてるせいじゃないの?」
一瞬。啓悟の身体が微かに強張った。彼は視線を逸らし、蕾の肩から顔を離さないまま、小さく答えた。
「・・・ソレハ、ゴヤク。」
その言い方が、逆に否定になっていないことを、蕾は見逃さなかった。彼女は内心で、自らの平衡感覚の中に生じた奇妙なノイズを反芻する。
(・・・今の、合ってた? いや、聞き間違いだよな。咲さんのさっきの滑った言葉が、彼の中で何か別の意味を持って響いただけだ。)
咲は何も言わなかった。彼女はただ、啓悟を支え続ける柱として、そこに静かに存在していた。啓悟は二人に挟まれたまま、子供が秘密を打ち明けるような幼い声で、ぽつりと漏らした。
「・・・キョウ、ハ、モウ、ムズカシイ、ケイサン、シナイ。」
「珍しいな。」
「・・・ニンゲン、ヤッテル。」
蕾はその言葉に、堪えきれずに吹き出した。
「それ、今言う?」
世界は確実に、彼らの計算を飲み込みながら、危険で、不確かな方向へと進み始めている。腐敗した物流、一時の停戦、そして横流しされた材料。それらすべてが、彼らのロケットという名の「槍」の先端を研ぎ澄ませていく。だが、この事務室に流れる、この奇妙に壊れた時間の中だけは。啓悟だけが、完璧な設計図を捨てた、一人の少し壊れた人間だった。
蕾は、自分を支えにする彼の重みを感じながら、窓の外を見つめた。夜の帳はどこまでも深く、彼らがこれから挑むべき虚空の暗さを予感させていた。
蕾の呟きは、啓悟の震えを止めるための、ささやかな凪となった。事務室の光は弱く、三人の交わらないはずの影だけが、床の上で一つに溶けていた。

朝のキッチンは、前日の熱を完全に失って静まり返っていた。窓は半分だけ開けられ、湿り気を帯びた外の空気が、室内の停滞した空気を少しずつ削り取っていく。彼女が窓を完全に閉じないのは、長年の習慣だった。閉じ切った空間では、二酸化炭素の濃度と共に判断の精度が微かに鈍る。そう教えられ、その教えを自らの生存戦略として身体に刻み込んできた結果が、この数センチの隙間だった。
コーヒー豆を挽く音だけが、無機質なキッチンに規則的なリズムを刻む。豆は前日の夜に正確に計量され、密閉容器に収められていたものだ。今朝はその重さを指先の感覚で再確認し、沸騰直前で止めた湯を注ぎ、カップを温める。手順は変えない。変えないことが、不確定な未来を制御するための唯一の儀式だった。湯気が白く立ち上がるのを待つあいだ、彼女は壁の時計に目をやった。八時十二分。
「・・・まだ早いわね。」
だが、彼女の脳内では既に、今日の裁判に向けた最初のシミュレーションが完了していた。
彼女にとって裁判とは、法廷の重い扉を開けた瞬間に始まるものではない。
朝、最初の一口のコーヒーを嚥下する時点で、勝敗の九割は既に「成立」の可否として決着している。争点は何か。証拠のどの部分を強調し、どの部分を影に沈めるか。
相手の弁護士がどの言葉で躓き、自分がどのタイミングで声を落として沈黙を支配するか。それらすべての座標を、コーヒーが冷めるまでの数分間で、彼女は冷徹に固定していく。

一口目のコーヒーは、期待通りに苦かった。砂糖もミルクも入れない。味覚を刺激して覚醒を促すためではなく、思考の純度を濁らせる余計な不純物を、最初から自らのシステムから排除するためだ。温かい液体が食道を通り、胃に落ちる感触を確かめると、彼女の意識は完全に「弁護士」という職能へと同期される。

十時。法廷の椅子に腰を下ろすころには、彼女の頭の中は設計図のように固定されていた。この時間帯、彼女は負けない。
「問題ない。」
それは慢心ではなく、積み重ねた調査と検証がもたらす、物理的な必然だった。
十時から十七時。この七時間は、彼女にとっての「戦闘時間」だ。集中力は一定の出力を保ち、感情はノイズとして意図的に削ぎ落とされる。相手がどれほど感情的に怒鳴り、証人がどれほど悲痛に泣き崩れようと、彼女の網膜にはそれらがただの「事象」としてしか映らない。進行は進行として処理し、法理は法理として接続する。
決まった裁判ですら支配する。信念と意志は、中世的な裁判に似つかわしい。露悪的で感情的な法律より幾分マシだが、社会機能を著しく止めてしまっているのも事実である。
「異議はありません。」
だが、十七時を過ぎると、その鉄の規律に微かな変化が生じる。判決が出るわけでも、すべての業務が完了するわけでもない。ただ、一日を支え続けてきた張り詰めた糸が、夕闇の訪れと共に一瞬だけ緩む。その、ほんの僅かな「揺らぎ」の瞬間を、彼女は恐怖に近い感覚で熟知していた。
「記録に残してください」
相手が怒鳴ろうと、泣こうと、彼女は動じない。それは裁判長の決めることだ。
だから、彼女は晩御飯を用意する。まな板に包丁が当たる高い音を立て、鍋の底で出汁が震える様子を眺め、料理の匂いを家中に漂わせる。一見すれば家庭的な母親の行為に過ぎないが、それは彼女にとっての「次なる戦場」への準備だった。匂いと音で相手の警戒を解き、集中力を削ぎ落とすための、最も原始的で強力な戦術。
十七時三十分。テーブルに皿を並べる動作は、法廷で資料を揃える時と同じほど正確だった。十八時ちょうど。彼女は、静かに声をかける。ここから先は、論理の突き合いではない。泥臭く、しかし逃げ場のない「家庭」という名の論争だ。そして彼女は、最初から理解していた。この論争において、自分は決して勝つことができないのだということを。
「話す時間、ある?」
「・・・どうしたの?蕾。私の顔に何か?」
相手は、かつての夫と同じように理論だけで世界を構築している。計算で未来を決め、不確かな感情を最初から変数に含んでいない。自分は弁護士で、母親で、そして何よりも「止める側」に立っている。その属性が、論理的な優位性を最初から奪い去っていた。勝てる要素は、どこにもない。
それでも、彼女は言葉を発する。止めるためではなく、勝つためでもない。「言わなかった」という取り返しのつかない事実を、未来という名の法廷に残さないために。声は荒げず、理屈を並べすぎず、ただ動かしようのない「事実」だけを食卓に置く。この宇宙計画がいかに不安定な均衡の上に成り立っているか。人が関わる以上、想定外の破損は必ず起きるということ。そして、娘である蕾が、その中心に立たされているということ。
返ってくる言葉は、計算され尽くしたように冷静で、整っていた。構築された論理には穴がなく、彼女の指摘さえも既に「織り込み済み」であるかのように処理されていく。
――負ける。
「これは忠告よ。命令でも、感情でもない」
一拍置く。
「人が関わる以上、想定外は起きる」
さらに一拍。
「蕾は・・・その中心にいる。」
「・・・そう。」
彼女はその結論を、十八時五分の時点で、冷たい水でも飲むように受け入れた。だから次に考えるべきは、勝敗の行方ではない。敗北が確定した後の更地に、何を「責任」として残すかだった。テーブルの上の料理が、外気と同じ温度まで冷め始めている。それを見つめながら、彼女は自らの内耳に届く呼吸の乱れを静かに整えた。
こうなる予感はしていたのだ。

私の父は、既に死んでいる。
スペースシャトルに乗らない立場の人間が、乗る側に向かって強行した結果だった。
安全係数は削られ、工程は短縮され、確認は「問題ない」の一言で押し流された。
そして、壊れた。
空で、墜落した。
私はその映像を、何度も見た。
ニュースとしてではなく、解析対象として。
燃料の流れ、機体の姿勢、通信の断絶。
どれもが「起きるべくして起きた」事故だった。
それでも母は、父を英雄として語らなかった。
殉職とも、犠牲とも言わなかった。
「無茶だったわね」
それだけだった。
母は、普段はもっと子供っぽい人間だ。
流行り物にすぐ飛びつき、面白そうだと思えば深く考えずに首を突っ込む。
旅先では予定を壊し、寄り道を増やし、笑って失敗する。
本来は、そういう人だ。
けれど、私の前でだけは違った。
父が死んでから、母は一度も泣かなかった。
代わりに、父が生前にしていた表情や仕草を、丁寧に拾い上げて身に纏った。
冗談の言い回し。
頷く角度。
話を聞くときの、わずかな間。
亡き夫の無邪気を模倣し、それを「母親の顔」として固定した。
私は、それをずっと見てきた。
母は、私に何かを強制したことはない。
進路も、価値観も、選択肢として提示するだけだった。
だがその選択肢は、常に「正解」に近い場所に並べられていた。
だから私は、聞いてしまう。
聞いて、理解して、納得してしまう。
それがどれほど不利でも、危険でも。
私は、母を否定した。
声を荒げたことはない。
理屈で、静かに、正確に。
「それは最適ではない」
「その判断は遅い」
「そのリスクは過小評価されている」
母は、何も言い返さなかった。
ただ、聞いた。
その沈黙が、私には耐えられなかった。
だから私は、母を超えるために、チームを連れ出した。
誰かの判断を待たない場所。
聞くだけで終わらせない場所。
理解したうえで、なお進む人間たちの集団。
啓悟は、その中心にいた。
彼は、説明しない。
説得もしない。
ただ、前提と結果だけを置く。
「出来るか」ではなく、「やるか」。
「安全か」ではなく、「成立するか」。
私は、その冷たさに安心した。
感情を挟まれない。
期待も、同情もない。
だから、聞いてしまった。
母の声も。
啓悟の言葉も。
どちらも、等しく。
――それが、私の弱点だと知りながら。
このあと母が、契約という形で介入してくることを、
この時の私は、まだ知らなかった。
ただ、理解してしまっただけだった。
聞いてしまっただけだった。
それが、すべての始まりだった。

扉が開く音は、思っていたよりも軽かった。
重たい金属音でも、躊躇いの軋みでもない。日常の室内ドアが、規則正しく可動しただけの音だった。
蕾は反射的に立ち上がり、次に来る言葉を待った。
彼女は聞いていた。――説得は確実にできる。
理由は教えられていない。だが、啓悟が「確実」と言い切るとき、それは論理ではなく結果を指す。だから蕾は、言葉の配置や資料の順序、あるいは母の集中が切れる瞬間を突くような、そういう“賢いやり方”を無意識に想像していた。
来るのは、いつもの彼だと思っていた。
だが、扉の向こうから現れたのは、予測のどの座標にも存在しない姿だった。
啓悟は立っていた。
立ってはいるが、均衡が一つ足りない。
右肩から先が、無かった。
衣服は乱れていない。血の匂いも、床に落ちる赤もない。切断は乱暴ではなく、過去形として処理されている。まるで、不要な部品を事前に外してきたかのようだった。
蕾の呼吸が一拍遅れる。
「……え?」
声になったのは、それだけだった。
質問にも、叫びにもならない。単なる空白。
啓悟は視線だけで彼女を制し、次に母の方を見た。
その目は、いつもの計算中のそれだった。焦点は合っている。恐怖も、痛みも、既に処理済みだ。
「話は通っている。時間を使わない」
短い宣言だった。
許可も、謝罪も含まれていない。
母は立ち上がらなかった。
視線は一度だけ、啓悟の肩の切断面に落ち、すぐに戻る。表情は崩れない。だが、机の上に置かれた指先が、ほんの数ミリだけ内側に寄った。
「……それが、あなたの説得?」
啓悟は頷かなかった。否定もしない。
「説得じゃない。前提の更新だ」
蕾は、その言葉を理解できなかった。
更新? 何を?
彼女の中で、言語が意味を結ぶ前に、別の事実が割り込んでくる。
――彼は、先に切ってきた。
その場で衝動的にやったのではない。
今日この時間、この場所に来る前に、既に“成立後の自分”を用意してきた。
「……どうして」
蕾の声は、思ったよりも低かった。
怒りではない。恐怖でもない。純粋な欠落。
啓悟は彼女を見なかった。
代わりに、母へ向けて言葉を投げる。
「条件を固定したがっていたな。失敗時の責任。想定外の遮断。成功の帰属」
淡々と、項目を並べる。
「全部、間違っている。だから、先に減らした」
母の視線が、再び肩に落ちる。
「……自分を?」
「道具としての自由度を」
啓悟は、残った腕で椅子を引き、座った。
動作に無駄はない。バランスは既に再計算されている。
「これで“想定外”は一つ減った。俺が現場に出られない。改良に口出しできない。責任を取る速度も落ちる」
母は、そこで初めて沈黙した。
反論が見つからない沈黙だった。
蕾は、遅れて理解し始めていた。
説得できると言った理由。
言葉で押すのではない。条件を飲ませるのでもない。
交渉の前に、選択肢を潰す。
彼は、自分自身を削って、盤面を単純化してきたのだ。
「……それで、何をしに来たの」
母の声は、静かだった。
怒りはまだ表に出ない。だが、これは問いだ。逃げ道の無い。
啓悟は一拍置き、初めて蕾の方を見た。
「聞いていろ」
それは命令ではない。
彼女の弱点を、正確に把握した上での指定だった。
「これから条件を出す。君が理解した時点で、交渉は成立する」
蕾は、何も言えなかった。
彼女は、聞いてしまう。
そして今、彼が何を差し出すのかを、理解してしまう直前に立っていた。
――ここからが、本当の交渉だ。

静かな部屋だった。
時計の針の音だけが、裁判所の控室よりも正確に時間を刻んでいる。

ドアが開いた瞬間、母は理解した。
理解してしまった。

啓悟の左肩から先が、無い。

一瞬、呼吸が止まる。
だが声は出ない。弁護士は、ここで声を出さない。
彼は椅子に座らない。立ったまま、淡々と始める。
「先に条件を言う」
母は視線を上げる。
条件提示。交渉だ。
身体が自動でその形式に入る。
「私が成功した場合、蕾は実験系には乗せない」
母の眉が、わずかに動く。
「既存の帰還系を使う。ソユーズだ。成功率は九十九・七パーセント。
ISSからの帰還をそれに切り替えれば、実験的リスクは分離できる」
——数字。
母は心の中で即座に照合する。否定できない。
「宇宙に失敗は付き物だ、という言い訳は使わない。
失敗は負債になる。私はそれを知っている」
知っている人間の声だった。
母は、そこで初めて拳を握る。
「だから成功もまた、リスクになる」
ここで母が口を開く。
「リスク?」
問いは短い。
感情を挟まない。法廷での癖だ
啓悟は頷く。
「成功は次を呼ぶ。次は必ず、より大きな期待と、より大きな無茶を連れてくる」
母は理解する。
そして、嫌なほど理解してしまう。
「選択肢は二つだ」
啓悟は続ける。
「成功から得られる幸運なデータで進むか。
失敗から得られる欠陥だらけだが、誤魔化しのないデータで進むか」
「・・・やらない、という選択は?」
母が差し込む。
ここが最後の防波堤だ。
啓悟は首を振る。
「無い、それを続けた結果人類は窮地にある。知らない内に通信技術は無茶苦茶になり、滅ぶ。」
即答だった。
「やらないことは、緩やかな滅びを選ぶことだ」
母の喉が鳴る。
それでも、職業が先に出る。
「その腕に、価値があると言うの?」
啓悟は、切り落とされた肩を一度だけ見下ろす。
「無いと思うなら、そう主張すればいい」
母の背筋が、凍る。
「この腕に価値はない。
ロケットにも奇跡にも価値はない。
軍事技術も、歴史も、金も、社会的意義も。
明日の希望の礎も——無価値だと」
法廷で言え、と言っている。
母は悟る。
これは感情の議論ではない。職業倫理への直撃だ。
「娘を守るために、それら全てを切るのか」
「守った結果、何が残る」
啓悟の声は低い。
「名前が出なければ、何に巻き込まれるか分からない。
検察ですら扱えない事件になる」
母の脳裏に、処理不能案件が浮かぶ。
書類に出来なかった死。
裁けなかった構造。
「・・・想像が、つかない?」
最後の一言は、責めではなかった。
「それとも、理解を拒むか」
母は、目を閉じる。
裁判ではやらない仕草だ。
——負けた。
論理で。立場で。時間で。
「私が失敗した場合」
啓悟が続ける。
「その時は、蕾に委ねる」
母が顔を上げる。
「成功したら、彼女を行かせない。
失敗したら、彼女に行かせる」
工学的な欠陥が、そこにある。
改良、変更、想定外——確率は跳ね上がる。
母は、その穴を見つけた瞬間に、理解する。
——この男は、勝ちに来ている。
「・・・あなたは」
言いかけて、母は止める。
感情の言葉は、ここでは敗北を確定させるだけだ。
啓悟は、淡々と締める。
「私の行動は、全て決めた」
沈黙。
契約書は、まだ無い。
だが交渉は、ここで終わっていた。
母は、弁護士としてではなく、
止められなかった人間として、深く息を吐く。
——蕾は、ちゃんと聞いてしまう。
その弱点を、母は誰よりも知っていた。
だからこそ、ここで負けたのだと。
「・・・馬鹿親子ね、ホント。」
ただ一つ、翠は違和感があった。
それは聞くことは無かったが・・・。
行方不明事件の子供の名前に、彼の名があった。そして探偵伝てに話を聞いたところ解決はしていた・・・。つまり、家出が酷かっただけだ。
・・・面倒臭い男に出会うのも、親子の縁だろうか。

ホワイトボードに描かれた図は、ただの無機質な棒だった。棒の先に小さな丸がついていて、その横には「A」とだけ記されている。蕾はパイプ椅子に浅く腰をかけ、重心を微調整するように脚を組み直した。視線だけはボードに置いてあるが、その焦点は数式の奥にある空虚な空間を漂っている。
​啓悟がマーカーのキャップを、使い慣れた仕草で歯を使って抜いた。
「当たる回数 N は、空間の密度 \rho と、航行距離 D、そして投影断面積 A で決まる。」
「・・・面積。」
「底面積だ。進行方向から見える面だけを考えろ。」
啓悟は棒の先の丸を、コツコツと二回叩いた。乾燥した事務室に、乾いた音が響く。
「長さは関係ない。先頭が開けた穴を、後ろの長い胴体が通るだけだ。だから、細ければ細いほどいい。」
蕾は小さく頷いた。脳の片隅で、啓悟の言う「幾何学的な穴」を別の身近なイメージに変換して処理する。細いほどいい。なるほど。それはつまり、乾燥した麺と同じだ。
「つまり・・・スパゲッティ?」
「そうだ、ここでその呼称に到達する。」
啓悟は淡々と肯定した。その肯定が、あまりにも軽く、私情を排しているのが逆に恐ろしかった。蕾は安心してしまいそうになる心を、慌てて表情ごと引き締めた。今のは「理解した」のではない。ただ「例えが一致した」だけに過ぎない。
​啓悟がボードに次の図を描き足した。棒が不自然に伸びるが、先端の丸は同じ大きさのままだ。
「特殊相対性理論下では、速度が上がれば進行方向の長さ L はローレンツ収縮で縮む。」
蕾は反射的に頷く。
「だが、進行方向に垂直な断面 A は収縮しない。」
蕾の頷きが、不自然に空中で止まった。
「・・・縮むのに、縮まないの?」
「長さは縮むが、幅は縮まない。だから、移動速度を上げても細さは『勝手に増えたり』はしないんだ。最初から物理的に細く作っておく以外に道はない。」
蕾は口を開けて、それからゆっくりと閉じた。脳が「分かった」の領域へ辿り着く前に、生存本能としての「待て」が割り込んでくる。
「えっと・・・つまり・・・どれだけ速くしても、避けやすくなるわけじゃない、ってこと・・・?」
「そうだ。宇宙に希望的観測は通用しない。」
希望的観測、という言葉だけが今の蕾にはやけに分かりやすくて、彼女はそこだけを必死に握りしめた。
​啓悟はさらに淡々と、逃げ場を塞ぐように続ける。
「加えて、装甲も無意味だ。」
「え、装甲って・・・こう、ガン! って耐えるための・・・。」
蕾が拳で机を叩くと、啓悟が一瞬だけ目を細めた。叱責ではない。不確定な振動を一つ計算に加えたような顔だ。
「速度が光速 c に近づくほど、衝突エネルギー E_k = (\gamma - 1)mc^2 は無限に近づく。厚くして耐えるという旧来の発想は、相対論的領域では消滅する。」
蕾は乾いた笑いで、背中の冷えを誤魔化そうとした。
「じゃあ・・・当たったら終わり、ってこと?」
「当たったら終わりだ。サイズ次第では核兵器級のエネルギーを放出する。元より、確率をゼロにする必要があるものだ。宇宙を漂うデブリの速度は、当然ながら速い。」
「レーザーやテーザーで迎撃する案もあるが、今の我々には技術が不足している。大きなデブリはカタログ登録されているから回避可能だが、問題は捕捉できない微細な破片だ。」
「最近開発されたスペースバブルによるクッションの実装も進めている。太陽光を緩和するシリコンのバブルだが、これを壊さずに受け止めるための便利ツールとして転用する。」
蕾の背中を、本格的な寒気が通り抜けた。その冷えが、話を「理解した気」にさせる。理解ではない、これはただの恐怖だ。
​啓悟は最後に、ボードに描いた棒を横に倒し、側面を黒いマーカーで太く塗りつぶした。
「最大の問題はこれだ。設計上のボトルネック。」
蕾はボードを凝視した。棒の側面が、無慈悲に黒い。
「迎え角 \theta がわずかにズレた瞬間、膨大な面積を持つ側面が『前面』にさらされることになる。 A_{eff} = A_{base} \cos \theta + A_{side} \sin \theta だ。」
蕾は眉を寄せ、その「ズレ」の正体を探ろうとする。
「・・・迎え角?」
啓悟は、ペン先を「0.0001^{\circ}」という数字の上に置いた。
「この程度のズレであっても、だ。」
蕾は、あまりの非現実さに反射で笑いそうになった。小数点以下四桁の世界で人が死ぬという話が、滑稽なほどに恐ろしい。面白いと感じてしまう自分が、何より最悪だった。
「え、じゃあ・・・私が気を付けるのって・・・吐かないことじゃなくて・・・。」
啓悟が、彼女の言葉を無機質に引き継いだ。
「ブレないことだ。」
蕾は口を閉じた。笑いという名の逃げ道が、完全に塞がれた。
「吐くのは後でいい。ブレたら終わる。」
啓悟はキャップを戻し、ボードの前から一歩下がった。その動作一つにさえ、無駄な揺らぎは存在しなかった。
「分かったか。」
蕾は、小さく頷いた。頷くことしかできなかった。
論理を理解したわけではない。だが、自分が何をすべきか、その一点だけは確定した。
「・・・分かった。細くして、当てない。そして、絶対にズレない。」
啓悟は、その返事だけで十分だと言わんばかりに、視線を再びモニターの青白い光へと戻した。蕾はボードに描かれた黒い側面を見つめたまま、心の中で小さく付け足した。
​――でも、縮むのに縮まないのは、やっぱりまだ納得してない。
だが、彼への信頼と同時に、蕾は確かに底知れない恐怖を感じていた。

発射管制室の空気は、奇妙なほど乾いていた。
緊張していないわけではない。ただ、積み上げられた手順があまりにも身体に染みついていた。感情が入り込む余地を、秒単位のチェックリストが塗り潰していく。
「T マイナス十」
声は平坦で、個人の色を持たない。ここでは感情は「誤差」であり、排除すべきノイズだ。
「九、八、七」
各卓のモニターに並ぶ数値は、すべて緑。
推力、姿勢制御、燃焼圧。どれも「問題が起きる余地がない」値を示している。
「三、二、一」
点火。
振動が床を伝って、映像よりも先に身体に届く。
推力が設計通りに立ち上がり、スパゲッティのように細長い機体が拘束を外れる。
「リフトオフ確認」
拍手はない。歓声もない。ここまでは「出来て当たり前」の計算通りだ。
機体は異様なほど真っ直ぐに昇っていく。第一段燃焼、安定。姿勢角の誤差は 0.0001^\circ 以下。誘導系は教科書のように働いている。
「第一段分離」
分離衝撃、許容内。予定軌道、完全一致。
誰かが小さく息を吐いた。だが、それ以上は誰も何も言わない。成功に酔うには、まだ早すぎる。
問題が起きたのは、すべてが上手くいきすぎている時間帯だった。
「未登録反射、検知」
咲の声が、ほんのわずかに揺れた。
モニターの一角に、ノイズのような点が現れる。宇宙ではノイズは日常だが、次の更新が、来ない。
「カタログ照合、該当なし。再計算、不可。軌道要素が揃いません」
その時点で、管制室の空気が変わった。
「知らないもの」がある。それだけで、状況は危険域に入る。
「破片群散布型です、十cm以上」
誰かが言った言葉で、全員が理解した。
衛星攻撃兵器-ASAT。
人工衛星破壊実験の残骸。政治的には処理済み、軍事的には成果。だが、軌道力学的には――今も牙を剥いて生きている破片だ。
問題は、この機体の設計そのものにあった。極小断面積 A を前提に、既知デブリを「確率的に薄める」設計。だが、今検知している破片は登録されていない。速度も、分布も、密度 \rho も、すべてが想定外。
「スペースバブル、吸収限界に近い」
演算結果がゆっくりと黄色に変わる。太陽光緩和用のシリコンバブルが、デブリの連撃に悲鳴を上げている。
「迎え角、微小ズレ!」
誰かが叫んだ。
ほんのわずか。0.001^\circ にも満たないズレ。
だが、極細の機体にとって、その瞬間――側面が前面になった。
理論通りの最悪
「衝突――!」
一発ではない。連続だ。
破片が当たり、剥離し、その剥離片が次の破片を呼ぶ。ケスラー・シンドロームの縮図が、機体表面で猛烈に展開される。
「回避ベクトル、再設定!」
操作は完璧だった。判断も早い。だが、破片は一つではない。一つを避けた瞬間、別の影が進路に滑り込む。
「・・・接触、判定」
その言葉の直後、通信が乱れた。
『――こちら、聞こえてる』
ノイズ越しだが、確かにリーダーの声だ。戦火の中で急ぎ、自らその座席に座った男の声。
『計器が一部、見えなくなった』
管制側は理解していた。もう、帰還計算は成立しない。それでも通信は続く。
『今……何か、光が』
カメラは生きているが、姿勢情報が壊れている。映るのは白、黒、時々、星。
『これ・・・デブリか? いや・・・違う』
答えられない。
それは、破壊された構造材がランダムに回転しながら太陽光を跳ね返している「死の反射光」だ。それを伝える意味はない。意味のある情報だけが、削り取られていく。
十二時間の沈黙
三時間後。
管制室は交代制に入っていたが、誰も帰らない。通信はまだ生きている。
『静かだな』
声は妙に落ち着いている。恐怖を通り越した先の、極限の静寂。
『計器、もう見えない。けど体は大丈夫だ』
与圧は保たれているが、温度制御が壊れている。それが嘘だと分かっていても、掛ける言葉はどこにも無い。
六時間。
通信は断続的になる。
『もし』
言葉の途中でノイズが入る。
『成功、だった?』
成功だった。
発射も、設計も、理論も。失敗したのは、この「世界の在り方」の方だ。
九時間。
カメラは意味を失い、光と闇が交互に流れるだけになる。
『何の光だ・・・』
十二時間。
通信はまだ、繋がっている。
だが、もう誰も喋らない。
管制室には、「助からないと分かっている側」だけが残されていた。
誰も「失敗」とは言わない。誰も「事故」とも言わない。
ただ、宇宙は、そういう場所だという事実だけが、室内に沈殿していく。
確実に言えるのは、リーダーを予想外の形で失った。
戦火の中、急ぎすぎた代償。
彼は、死んだのだ。
これから死ぬ人間は、やがて通信だけを繋ぎ続けた。信号だけは拾えた。無音の、眠る様な呼吸だけは。やがて尽きるまで。

発射管制室のモニターが映し出していたのは、完全な消失ではなく「残骸の静止」だった。
爆散も、霧散もない。通信断絶の直前、極細の船体を襲った構造破断は、予測されうる最悪の崩壊ではなく、回収を想定し得る最小限の損傷に留まっていた。しかし、物理的な事実は残酷だ。生命維持装置の停止と温度制御の崩壊により、船内のパイロットは既に凍結している。生きてはいない。それはもはや、救助の対象ではなく「回収すべき質量」という冷徹なデータへと格下げされていた。
地上では、感傷に浸る間もなく次の段階へ移行する。原因究明でも、責任追及でもない。行われているのは、純粋な「回収可能性の評価」だ。宇宙空間に残された構造体、燃焼を終えた推進部、意図せず放出された補助材。それらは既に失敗の証拠ではなく、次期モデルの再設計に必要な実物データとして扱われていた。
設計図を引き直す必要はない。むしろ、残された残骸の軌道要素に合わせて設計を寄せていく。帰還用の別機体を想定し、速度、姿勢、再突入角を再計算する。有人機としての操縦性も快適性も捨て、ただ「拾うこと」だけに最適化された最低限の構成。
ここでようやく、スパゲッティ型という異様な形状の真価が発揮される。細く、長く、部位ごとに分解されやすい構造は、破損時においても各パーツの同定と回収を容易にする。成功のための形状が、失敗後にも機能する。それは偶然ではなく、啓悟が最初から織り込んでいた前提だった。
地上の技術者たちは淡々としていた。反省はする。修正もする。だが感情は一滴も挟まない。彼らにとって重要なのは、次に同じ失敗をしないという確率の更新だけだ。
驚くべきことに、支援は減るどころか、むしろ増大していた。小型で、低コストで、再現性が極めて高いこと。軍事転用を前提としないクリーンな設計思想。そして何より、失敗しても「データが残る」構造。このプロジェクトは既に、一人の天才の私物ではなく、誰もがアクセス可能なオープンソースの基盤へと変質しつつあった。「管理者が不在であること」自体が、投資判断における障害にならない。誰のものでもないからこそ、誰でも使える。その皮肉を、誰も口にしなかっただけだ。
岸間蕾は、その変質していく指揮系統の中央に立っていた。
腹の奥に燃えるような怒りはあった。だがそれを表に出すことはない。結果を見る人間は、感情を最後尾に回すしかないのだ。古宮咲は、その少し後ろにいた。彼女はまだ、自分が何を引き継ごうとしているのかを完全には理解していない。ロケットが作り直され、回収計画が現実的な数値として並び、世界が「西池啓悟」という個人の死を乗り越えて次へ進もうとしている。その圧倒的な速度の前に、立ち尽くすしかなかった。
ただ一つだけ、彼女の端末には不可解なものが残されていた。未整理のログデータの中に紛れ込んでいた、見慣れない形式の、一本の音声テープ。それが何かを確認するのは、もう少し後でいいと思っていた。
今はまだ、世界が再始動する地鳴りのような音の方が、ずっと大きかった。

準備は、誰にも邪魔されることなく静かに整っていった。
再設計された機体は、啓悟が遺した以前のモデルよりもさらに細く、さらに単純な構造を呈していた。不要な生命維持の冗長性は極限まで削られ、失敗地点で得られた無慈悲な数値だけが、新たな設計図の上に正直に反映されている。地上側の技術者たちは、誰一人として反省や感傷を口にすることはなかった。ただ、壊れた箇所を機械的に直し、条件を書き換え、計算が再び「成立」するかどうかだけを、無機質なモニター越しに確認し続けていた。
帰還時に別機体を用いて軌道上の残骸を回収する計画は、今や最も現実的な選択肢として、当然のように机の上に残された。宇宙という沈黙の海に、かつてのリーダーと材料は漂っている。問題は回収の確率と、それに要する時間。ただそれだけだ。議論は短く、決定は常に早かった。
咲はその場にいたが、進行する計画の歯車には深く関わってはいなかった。今の彼女には、成すべき仕事がどこにも見えず、何も言えないまま、ただ背後で状況の推移を聞いていることしかできなかった。この段階の計画は、もはや彼女の知性を必要としていないように見えたし、物理的な数値を積み上げるだけのプロセスにおいては、実際その通りだった。
​発射準備完了の報告が、事務室に響く。
地上の操作卓は各方面からのデータ処理で慌ただしく動き回っていたが、対照的に宇宙側にいる搭乗者の周辺は驚くほど暇だった。制御の九割九分は地上からの遠隔操作によって完遂され、中にいる人間は規定の確認事項をなぞるだけの、肉体を持った観測装置に過ぎなかった。窓の外に広がる、漆黒と群青が混ざり合う景色も、あの「失敗地点」を越えるまでは、ただの静止した背景でしかなかった。
カウントダウンが静かに終わりを告げ、機体は重力に抗って上昇を開始した。一度目の臨界を越え、二度目の軌道補正を終え、スパゲッティのような細い機体は何の滞りもなく規定の軌道に乗る。啓悟が越えられなかった「あの地点」を、今回は皮肉なほどあっさりと、何事もなかったかのように通過した。警告音は鳴らず、通信は水晶のように安定している。客観的に見れば、それは「成功」と言って差し支えない完璧な状態だった。
​その後、宇宙側でやるべきことは、文字通りほとんど無くなった。
計器のチェックは定時で行われ、表示される数値はすべて規定の範囲内に、美しく収まっている。歪な沈黙を埋めるように時間だけが余り、そして地上の誰もそれを急ごうとはしなかった。
蕾が虚空を見つめ、機体の微かな振動に身を委ねている傍らで、咲は自らの端末の片隅に、ある未整理のデータが紛れ込んでいることに気づいた。それは、先ほどの「成功」した打ち上げプロセスの中では一度も参照されなかった、特異な形式の音声ログだった。
「・・・何、これ。」
誰に聞かせるでもない呟きが、静かな船内に落ちる。
彼女の指先が、その見慣れないデータへと、吸い寄せられるように触れた。

静寂が支配する船内で、咲の指先が端末の再生アイコンに触れた。一瞬のノイズ。そして、スピーカーから漏れ出してきたのは、聞き慣れた、それでいて決定的に「温度」の違う男の声だった。
「テープの記録は出来ているな?・・・よし。」
「私の名前はケイゴ・サイチ、もう既に死んだ人間だ。」
「この声は私の計画の成功を以て再生されまた、全てはここから始まる。」
咲の指が、停止ボタンの上で凍りついた。
目の前のモニターに映る「成功」の文字が、その声によって急速に色褪せていく。記録の中の男は、自分たちが知る「西池啓悟」の仮面を剥ぎ取り、その下に隠されたドス黒い怨恨の塊を吐き出し始めた。
「私の父と母は撃ち殺された。父は戦争に、母はある貴族に。」
「遊びで殺されたのだ。東欧や東南アジアに存在する、殺しの娯楽だ。観光旅行に行った大御所芸人が撃ち殺す遊びに誘われたが、断ったという話もあるし、東欧の話はドキュメンタリー映画にもなっている。」
「老人は無料で、若い女性が高く、子供もそこそこ高い。私は命からがら逃げたとも。」
「その復讐の気持ちを片手に日本へ渡った。ここまで安全な国はない。トップだけを殺すなら日本が一番やり易い。」
「人を一人殺した、そして成り代わった。」
咲は呼吸を忘れていた。
「成り代わった」という言葉が、事務室での啓悟の不可解な言動、翠が感じていた違和感、そして彼が「以前のデータ」として自らを切り捨て続けた理由を、最悪な形で接続していく。
「その罪はきっと注がれはしない、だが、多くはその知識と集積を以て尚知り得ないのだ。」
「もし犯罪者ならどうするか、詐欺や強盗ごときで満足か。」
「戦争の時代で歪んだ、嘗ての自己犠牲の精神。」
「課題の解決において犠牲となった人物を見捨てない為の例外である殉教。それを戦争で自殺と何ら変わらず大量に引き起こす。」
「自殺と自己犠牲の見分けすら出来なくなったのだ、人は。」
声は淡々と、しかし確実に咲の精神を削り取っていく。それはかつての戦争の時代に「殉教」という名で大量生産された死の連鎖を、現代の「合理性」という名の暴力で再定義する告発だった。
「・・・私は復讐を果たせなかった。」
「もう居場所は無い。」
「私の復讐は果たす以前に生きるだけで精一杯だ。」
「生き残った結果平和を味わって、動かない体に鞭を打つ。」
「知っているのに助けれない。」
「知っていても助けれない。」
「自分は浪漫に逃げた、この技術が彼等に与えられる訳がない。」
咲は、モニター越しに宇宙の暗闇を見た。そこには、復讐を捨てきれず、かといって救済も信じられず、ただ「浪漫」という名の宇宙へ逃げ込んだ一人の壊れた人間の姿が、血の跡のようにこびりついていた。
「ストレスを理由に悪と向き合わなくなった。悪もシンギュラリティ上に存在する、そして、自国以外の悪を見ない。知らないのだ。」
「娯楽で撃ち殺す、誘拐し稼ぎにする、使い捨てる。」
「もしかしたら遺体を食べたこともあるかもしれない。」
「ああ、私は逃げたかったのだ。」
「或いは壊したかった。」
「・・・救いは無い、手網を切られ、追い込まれる。」
記録は、現代社会が目を逸らし続けている「血」の匂いへと踏み込んでいく。技能実習生の搾取、ロシア政府との契約、戦火に転用されるゲーム機のアカウント。知に溢れた時代が、その知の源泉にある凄惨な現実を黙殺していることへの、死者からの呪詛。
「・・・私の父を頭から撃ち抜いた、1.2tの邪魔を打ち砕くクラスター爆弾に、大半を占める爆薬。」
「私の母を撃ち抜いた、0.5インチは頭から肩にかけて原形を無くし、私の母は私を見続けて、段々と爛れ、壊れていった。」
「そして、私の兄と弟、姉と妹、娘と妻、従兄弟と叔父に叔母、どれだけ生き残ったか、もう数えることは出来ない。」
「この技術はどうせ私以外の家族を救わない。」
「だからせめて、私だけは死ぬことにした。」
咲は、自らの震える両手を握りしめた。西池啓悟――彼を演じたこの男は、最初から自分を「救う」つもりなどなかったのだ。ただ、一族が消し飛ばされた後に残った、呪われた技術と知識の集積を、どこかへ叩きつけて終わらせたかっただけなのか。
「・・・蕾が、全うせよ。」
「蕾は、私のような怨恨を抱えていないだろう。」
「私の持つべき技術で無ければ、私の作るべき技術ではなかった。」
「この技術が下手をすれば私の故郷を滅ぼすかもしれないのに。」
「アメリカでは軍人の大統領が多く、軍人に限って穏やかだそうだ。」
「・・・私は、軍人にもなれず、銃も握れず、挙句の果てに、手を下した西池啓悟という人間を騙し、斧で砕き、解体現場に混ぜ込んだ。証拠も残らなくなるまで。」
「・・・その際、手伝った悪人は言っていたなぁ。」
「『指全て切り落として団子だ、まるで国民的マスコットだな!』『斧と鉞は違う、人間を切るのにはどっちでもいいぞ、殺すような相手は貧しかろうが金があろうが骨は細る。自ら骨を削るんだ。』『オフショア奴隷の価値も随分跳ね上がったものだ。貧困層は年五十円で済んだのが今や年五千円かかる。』」
「知れた上で知らなかった内容だろう?」
「知に溢れた時代は血を知ることなく、欲に溢れた時代は翌を考えることなく。」
男の声は、最後に「神」の不在へと辿り着く。それは科学という宗教を極めた者が、その極北で見出した、絶望に満ちた確信だった。
「私は天国を証明する為にここにいる。天国という虚構と、欺瞞を。」
「私には、天国は無かった。蕾、君にはどうだろうか。」
「私は、天国なんて無いと思っている。」
「何故なら、神はこの世界を人に託したからだ。」
咲は、宇宙ステーションの無機質な隔壁を見つめる。そこに広がるのは無限の虚無であり、神の慈悲などというものは、計算式のどこにも存在しなかった。
「調査し、検証し、解析すること――。」
「科学という名の無神論的宗教を聖典とし、人は『特異点の一刺し』に、すべてを設計し切った運命を作り上げようとした。」
「だが、宗教の薄れと共に、邪悪は蔓延った。」
「知識が血の温もりを忘れ、効率が命をただの一行に書き換えるとき、世界は、静かに終わりへ向かう。」
「特異点の一刺しに、すべてを設計し切ったはずの運命の上で、人は、互いを数値として扱うことに慣れてしまった。そして、宗教の薄れと共に、邪悪は、より合理的に、より巧妙に蔓延る。」
「・・・それでもだ。」
「それでも、私は思っている。」
「神が存在しないのだとしても、神が沈黙したのだとしても、神がこの世界を人に託したのだとすれば――神がごとき偶然と、神がごとき運命を、人は起こせるのではないかと。」
記録の最後、男の声は蕾への、祈りとも呪いともつかない託宣へと変わった。
「計算を使い切り、絶望を使い切り、特異点の、そのさらに先で。君だけが描ける軌道が、そこに残されているかもしれない。私は、それを証明するためだけに、この『西池啓悟』という虚構を、最後まで演じ切ったと。」
音が途絶えた。
事務室の、いや、宇宙の静寂が再び戻ってくる。
だが、咲が見ている景色は、もはや先ほどまでと同じものではなかった。
「成功」したはずの機体。
「成立」したはずの理論。
そのすべての底辺には、解体現場で混ぜ込まれた人間の骨と、復讐さえ果たせなかった男の乾いた血が流れている。
「・・・人間、やってる。」
咲は、啓悟が最後に漏らした言葉を反芻した。
その意味を、咲はまだ、完全には理解できていない。
だが、蕾だけには、この声を届けなければならない。
たとえそれが、彼女の信じていた「正解」をすべて破壊することになるのだとしても。
窓の外では、太陽の光を跳ね返す地球が、無言のまま自転を続けていた。

南極の空は、音がしなかった。風はある。だが、それは轟音ではなく、地表を撫でるように流れているだけだった。空気が薄く、乾き、すべての輪郭が必要以上にくっきりしている。
「仕事は、無事に終わった。」
それだけが、地上局から送られてきた最終報告だった。評価も称賛もなかった。成功の理由も、失敗の詳細も、そこには含まれていない。結果だけが、簡潔に置かれていた。
蕾は、返事をしなかった。返す必要がないと理解していた。
スパゲッティ型ロケットは、予定通り減速し、予定通り進路を修正した。ポイント・ネモは捨てられた。海は、この形状にとって敵だ。細すぎる構造は、波を受け止めない。理論上可能なことと、実務で成立することは違う。
南極。最初から、最終地点はそこに設定されていた。
着陸の衝撃は、想定内だった。構造は耐えた。だが、重力が戻る。それだけで、蕾の意識は沈んだ。体は無事だ。骨も、内臓も、問題はない。それでも、思考が動かない。瞼を開ける力すら、今は残っていなかった。
眠るしかない。それが最適解だと、彼女は理解していた。
機体が完全に停止し、外部ハッチが開く音がした。冷気が入り込む。だが、それを寒いと感じる余裕もない。
誰かが、彼女を抱え上げた。乱暴ではない。だが、慎重すぎもしない。手慣れた動作だった。
基地の前まで、運ばれる。雪の上に、そっと下ろされる。その間、言葉はなかった。
蕾が、かろうじて目を開けた時、視界に入ったのは白と、鉄と、そして一人の男だった。
右腕がなかった。代わりに、肩口から伸びるワイヤーとスプリングが、露出したまま固定されている。義手というより、機構だ。精密さはない。だが、掴むことはできる。
男は、蕾の顔を覗き込むと、何の前置きもなく、その義手で彼女の肩に触れた。確認するように。生きているかどうかを確かめるように。満足したのか、少しだけ口角が上がる。
説明はない。謝罪もない。再会を祝う言葉もない。
基地の扉が開く。中から、支援員が駆け出してくる。
「連絡は受け取ってるぜ、心配すんな。」
「おうよ、じゃ、私は観光行ってくるからよ。」
「結構楽しそうだな、名所ほぼねぇのに。」
男は、蕾から手を離すと、何事もなかったように踵を返した。それだけを残して。
南極の風の中へ、歩いていく。腕の機構が、わずかに音を立てる。
蕾は、眠り続ける。呼び止めもしない。
仕事は、無事に終わった。それだけで、十分だった。
白い世界の中で、すべては既に配置されている。あとは、それぞれが、自分の役割を生きるだけだった。


基地の前で、啓悟は蕾を雪の上に下ろした。
担架も車輪も、ここでは全部が遅い。だから最初から、置く場所だけ決めていた。
蕾はまぶたを上げようとして、上がらなかった。重力が、意識より先に勝っている。衝撃は痛みにならない。痛みになる前に、体が諦める。
啓悟は自分の義手をいじった。
スプリングの張りと、ワイヤーの遊びを確かめる。好きな玩具を触るみたいな指の動きだった。
その指が、次に胸元へ行く。内ポケットを一度だけ押さえる。落とし物の有無を確認するだけの、癖のような動作。
革の角が覗いて、すぐ隠れた。
啓悟は開かなかった。
読む気配も、掲げる気配もない。
ただ、持っている。
「終わった。次だ。」
彼は振り返らない。
雪を踏む音が一歩ぶん遅れて届き、風がその音を薄く削っていく。
蕾は半開きの目で、白い息だけを見送った。
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