シモン・ボリバル

伊阪証

文字の大きさ
2 / 5
出自と覚醒

第二話

しおりを挟む
幸福は、音が小さい。
勝利みたいに太鼓を鳴らさないし、正義みたいに旗を振らない。
ただ、朝に水が落ちる音がして、窓から光が入って、誰かが笑う。
それだけだ。

だからシモンは、幸福を“外側”に置いた。
屋敷の内側では息ができない。
ならば外に行けば息ができる。

外で、泥を踏んで、風を吸って、机を倒して笑えるなら、
きっと外には——紙ではないものがあると思った。

彼は旅に出た。
旅は自由の形をしている。
だが自由の形をしたものほど、だいたい“何かの手続き”に似ている。

手続き。
紹介状。
名刺。
金。
許可。
家名。

それでも、外へ行く価値はある。

ロドリゲスに点火された頭は、熱を持ったまま冷えなかった。
欧州の空気は、屋敷より冷たいのに、息が楽だった。

理由は単純だ。
ここでは、彼の檻がまだ完璧に機能していない。

彼の名前を知らない人間がいる。
家名にひれ伏さない人間がいる。
ひれ伏さないのに礼儀正しい人間がいる。

その中に、彼女がいた。

彼女の声は、短かった。
刃を隠さず、布にも包まれていない。
ただ、日常だった。

それがシモンには眩しい。
眩しいものは、目に刺さる。
刺さるのに、欲しくなる。

彼は彼女と話した。
世界を変える計画ではない。
思想の引用でもない。
今日の食事。
明日の行き先。
窓の外の天気。

どうでもいい話が、彼を救った。
救われるたびに、怖くなる。
こんなものが、人生にあっていいのか。

彼は恋をしたというより、逃げ込みたかった。
だが同時に、守りたいと思った。
家名でも制度でもなく、自分の手で。

結婚の準備は、屋敷の儀式に似ていた。
紙が増え、署名が増え、祝福が増える。

だがここでの紙は、檻の鍵ではなく、扉を開ける札に見えた。

式の日、彼は胸の中で確認する。
これは檻じゃない。
これは外だ。

誓いの言葉を口にする。
言葉は紙に残る。
この日は、怖くなかった。

彼女の指が、彼の指に触れたからだ。

その瞬間、理解する。
世界を変えるより難しいことがある。
人と一緒に暮らすことだ。

毎日が戦いになる。
勝ち負けじゃない。
相手の呼吸に、自分の呼吸を合わせる戦いだ。

彼はできる気がした。
そう思えただけで、自分を少し許せた。

「帰ろう。
僕の国へ」

「あなたの家へ?」

「家じゃない。
……僕たちの場所へ」

彼女は笑った。
背中の鎖が一本外れるような笑いだった。

帰国の船で、海が揺れていた。
檻がないから、怖い。
だが手を握り、誤魔化さなかった。

その時は、乗り越えられると思った。

カラカスの空気は濃かった。
湿り気と熱と土の匂い。

屋敷の壁は高い。
だが今日は息ができる。

彼女は屋敷を歩く。
侍女が固まる。
家の空気を吸う者は、外の人間に肺が痛む。

だが彼女は平気だった。
笑っていた。

短い幸福が始まった。

朝の光。
湯気。
パンをちぎる手。
水を注ぐ手。

それだけが、世界より大事だった。

だから罰は残酷だった。

彼女の咳。
小さな咳。
笑ってごまかせる咳。

大丈夫だと言われる。
休めばいいと言われる。
布で包まれ、現実が遅れる。

だが現実は遅れない。

熱が上がる。
水でも下がらない。
風も熱い。

彼女は微笑む。
呼吸が苦しいのに。

「大丈夫だ。
僕がいる」

言うほど、言葉は薄くなる。
紙みたいに。

彼は怒りたくなる。
壊したくなる。
だが意味がない。

意味がないことが、狂わせる。

世界は規則より残酷だ。
破れないからだ。

夜、彼女が手を探す。
握る。
熱い。
軽くなる。

「ごめんね」

その一言で、崩れる。

「謝るな。
……僕が、どうにかする」

「どうにか、なる?」

答えられない。
握るだけで、どうにかした気になる。

朝が来る。
世界は続く。

呼吸が止まる。
音はしない。
空気が軽くなる。

揺らしても、戻らない。

幸福は死ぬ。
英雄も家名も関係なく。

守るには何が必要だ。
——世界を変えることだ。

結論は恐ろしい。
だが他に手段がない。

葬儀の後、庭に出る。
水は落ちる。
水は死なない。

「僕は、落ちたものを拾いたい」

拾えないなら、落ちないようにしたい。

門の向こうに丘がある。
町がある。
世界がある。

彼は歩く。
止まらない。

二度と、幸福に逃げない。
欲しいなら、土台を作る。
世界を相手にする。

門の前で振り返る。
屋敷は小さく見えた。

檻の外にも、別の檻がある。
それでも出る。

不運にしたくない。
その感情が、政治になる。

「……もう一度、外へ」

誓いではない。
決定だ。
決定は、足を動かす。

海は、何も言わない。
海は慰めないし、責めもしない。
だから海は、逃げ道にも見える。
逃げ道に見えるからこそ、海は危険だ。

港の匂いは、屋敷の匂いと違った。
磨かれた銀の匂いではない。
塩と木と油と汗の匂いだ。

人間の匂いがする場所は、正直で、乱暴だ。

シモンは船へ乗り込む前に、一度だけ足を止めた。
躊躇ではない。
確認だ。

この旅が「忘れるため」ではなく、
「忘れないため」になっているかを確かめる。

ポケットの中には小さな品が入っている。
指輪でも手紙でもない。
紙の記録は怖い。
紙は残る。
残るものは檻になる。

彼女が触れていた布の切れ端。
香りが薄く残る。
薄いからこそ、呼吸に混ざる。

船員の声。
荷が動く。
ロープが軋む。
世界が動く。

世界が動くなら、シモンも動ける。

甲板へ上がる。
風が叩く。
手加減はない。
その乱暴さが、ありがたい。

「……行く」

声に出す。
決定が現実になる。
現実になった決定は戻らない。
戻らないから進める。

船が港を離れる。
カラカスが遠ざかる。
屋敷の壁が、山が、街が縮む。
縮むものを見ていると、
胸の中の檻も少し小さくなる気がした。

ヨーロッパの空気は乾いている。
乾いた空気は感情を保存しない。
蒸発するのは楽だ。
楽だから怖い。

シモンは街を歩く。
拍手を聞く。
熱の拍手。
だが熱は冷える。
冷えた後に残るのは紙だ。

布告。
勅令。
名簿。
裁判記録。
契約。
戦争の計画書。

紙は臭いがしない。
だが人間を動かす。
動かされた人間は死ぬ。

社交の笑い。
整った笑い。
血を見せない刃。

上手く息をする自分が嫌になる。
上手くなるほど、屋敷に戻る気がした。

夜。
石畳。
眠れない。

静かな夜は、彼女の死を鮮明にする。
結論が増える。
結論は増えるほど弱くなる。
紙と同じだ。

窓を開ける。
冷たい空気。
余計な結論が消える。

「意味が欲しい」

彼女の死に。
自分の生に。

意味がなければ、世界は残酷なままだ。

その欲望が、街へ押し出す。
生きている場所へ。

そこで、再会が起きる。

「おい、坊ちゃま!」

振り向く。
ロドリゲス。

「死んだ顔をしてるな」

「……先生は、相変わらずだ」

「当たり前だ」

肩を掴まれる。
許可はない。
だが振りほどけない。

「欧州はどうだ。自由か」

「……檻の種類が増えた」

笑い声。
汚い笑い。
救う笑い。

「逃げ道も増えたってことだ」

人の匂いが濃い通り。
ここでは家名は通じない。
人間のサイズに戻れる。

「何をしに来た」

「……意味を探しに」

「意味は作る」

作るなら責任が生まれる。
重い。
だが飾りよりいい。

「悲しみは持ってていい。
だが悲しみで寝るな」

許せない。
だから世界に手を突っ込む。

「行くぞ」
「どこへ」
「ローマだ」

誓いは紙に書かない。
歩いて向かう。

ローマの空は広い。
石が沈黙している。
嘘をつかない沈黙だ。

話は殴り合いだ。

「自由は旗じゃない。
杭だ」

商品。
契約。
未来の匂い。

夜。
丘を指さす。

モンテ・サクロ。

聖なる名。
だが利用する。

登る。
息が切れる。
頭が静かになる。

頂上。
灯り。
生活。
残酷で、救い。

「誓え」

「……誓う」

「この腕を休ませない」

短い。
肉体の誓い。

「いい誓いだ。
臭いがする」

「腕は折れるぞ」

「折れても、動かす」

驚き。
笑い。

使命は病だ。
だが壊れ方は選べる。

「戻れない。
だから進める」

背中を叩かれる。
熱い。

灯りを見る。
続く世界。
変えられる世界。

彼女の死を、不運で終わらせない。

——そう信じる。
それが誓いだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

焔と華 ―信長と帰蝶の恋―

歴史・時代
うつけと呼ばれた男――織田信長。 政略の華とされた女――帰蝶(濃姫)。 冷えた政略結婚から始まったふたりの関係は、やがて本物の愛へと変わっていく。 戦乱の世を駆け抜けた「焔」と「華」の、儚くも燃え上がる恋の物語。 ※全編チャットGPTにて生成しています 加筆修正しています

処理中です...