シモン・ボリバル

伊阪証

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出自と覚醒

第四話

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扉を閉める音は、銃声より小さい。
小さいのに、銃声より戻れない時がある。
屋敷の応接室は、夜になると呼吸が遅くなる。
昼は「品格」が空気を張り詰めさせるが、夜は「本音」が空気を張り詰めさせる。張り詰め方が違うだけで、息苦しさは同じだ。
シモンは扉の外で、靴音を殺して立っていた。
招かれているのに、まだ入らない。
入る前に聞こえる声の温度を測りたかった。
部屋の中から聞こえるのは、怒鳴り声ではない。
怒鳴り声は下品だ。屋敷の男たちは、下品なことを“上品にやる”。
「……つまり、正当性が空いた」
「空いた、ではない。揺らいだ、だ」
「揺らいだなら、誰が支える?」
声は落ちている。
落ちているから危険だ。
危険な言葉ほど、声が小さくなる。
シモンは息を吸った。
吸った息が湿って重い。
その重さが、ここが“祖国”だということを思い出させる。祖国の空気は、甘いのに重い。重いから、吸うたびに覚悟がいる。
扉の向こうで、誰かが言った。
「ボリバルの坊やも来ている」
坊や。
その呼び方は、甘えでもあるが油断でもある。
油断の中に入るのは怖い。怖いから、シモンは扉を叩いた。
叩く音は小さい。
小さいのに、室内の会話が一瞬止まった。
「入れ」
短い。
短い言葉は、すぐ命令になる。
命令は紙になる前から人を動かす。
シモンは扉を開ける。
室内にいる男たちは、みな同じ匂いをしていた。
良い布、良い革、良い酒、良い石鹸。
そしてそれらの下に、薄く混じる汗の匂い。汗の匂いが混じっている時,大人は本気だ。
テーブルの上には紙がある。
地図ではない。帳簿でもない。
書簡と写し。欧州からの報せ。王の名、皇帝の名、軍の名、行政の名。
紙の上で世界が崩れている。
男たちの目がシモンに集まる。
目は「歓迎」ではなく「評価」だ。
歓迎は酒でやる。評価は沈黙でやる。
シモンは椅子に座る前に、まずテーブルを見た。
紙の配置。インク壺の位置。羽ペンの本数。封蝋の欠け具合。
それだけで、この部屋が何のためにあるかがわかる。
——これは、話し合いの部屋ではない。
——これは、署名の部屋だ。
男の一人が言った。年上で、声が低く、言葉の端が丸い。丸い言葉は、角を隠す。
「坊や。君は欧州を見てきた。状況をどう見る?」
坊やと言いながら、質問は鋭い。
鋭い質問は、答えを引き出すためではなく、答えの責任を押しつけるために使われる。
シモンは息を吸って言う。
「王が機能していないなら、権威は空きます。空いた権威は、誰かが埋める」
男たちがわずかに頷く。
頷きが同意なのか、利用の準備なのか、まだ判別できない。
別の男が続けた。
「だが我々は反逆者ではない。——忠誠はある。忠誠の対象が不在なだけだ」
忠誠。
その言葉が臭い。
臭いのに、必要だ。
必要なのが腹立たしい。
シモンは言い返す衝動を飲み込む。
飲み込む衝動が、政治の入り口だとロドリゲスが言いそうだと思ったからだ。
男が言う。
「つまり、我々は“王の名において”自治をする」
王の名において。
それは盾だ。
盾は必要だ。
盾が必要な時点で、すでに戦争が始まっている。
シモンはテーブルの端にある、もう一枚の紙に目を止めた。
白紙ではない。
罫線が引かれている。署名欄がある。座席表のように。
シモンは思う。
革命の最初の戦場は、戦場じゃない。署名欄だ。
男の一人が笑った。笑いは綺麗だが、目が笑っていない。
「若い君には退屈な話かもしれん。だが政治は手続きだ。手続きは席順だ」
席順。
屋敷で散々叩き込まれた言葉だ。
革命の場で席順が出てくる。
笑いたくなるほど皮肉だ。
だが笑わない。
笑うと、これは芝居になる。芝居になると、本気が死ぬ。
本気が死ぬと、彼女の死がただの不運に戻ってしまう。
シモンは尋ねた。
「席順がそんなに重要ですか」
男は答える。
「重要だ。席順が正しければ、紙が正当になる。紙が正当なら、人が従う。人が従えば、血を減らせる」
血を減らす。
その発想は正しい。
正しいから、余計に怖い。
——血を減らすためなら、嘘もつける。
——嘘をつくためなら、誰かを切れる。
ミランダの名前が頭の端を掠める。
今はまだ出ていない。
だが「切る」という行為が、この部屋にはすでにある。
男が続けた。
「明日、評議会を動かす。市参事会を——」
言葉が少しだけ濁る。濁るとき、そこに危険がある。
「“開く”。だが、開き方が肝心だ。公に見せる必要がある。見せ方を誤ると——」
別の男が引き取る。
「反乱になる。反乱になれば潰される。潰されれば我々だけでなく、この街が焼かれる」
焼かれる。
突然、言葉が生々しくなる。
生々しくなった瞬間、室内の空気が冷える。
シモンは理解する。
今、彼らは“独立”を語っていない。
彼らが語っているのは“生存”だ。
生存のために、手続きと席順と紙の盾が必要になる。
その時、年長の男がシモンを見て言った。
「坊や。君は何がしたい?」
質問は簡単だ。簡単だから危険だ。
ここで「独立」と言えば、反逆者になる。
ここで「忠誠」と言えば、何も起きない。
ここで沈黙すれば、使われる。
ロドリゲスがいれば言っただろう。
“わかったふりが檻だ”。
なら、誤魔化さずに言うしかない。
シモンは言った。
「……戻れない一手を打ちたい」
部屋が静かになった。
静かになると、全員の呼吸が聞こえる。
呼吸が聞こえる距離は、戦場だ。
男の一人が、ゆっくり頷いた。
「良い。若い者の言葉は極端で助かる。極端は、我々の曖昧さを炙り出す」
褒められたのに気持ち悪い。
褒め言葉は鎖を光らせる。
だが今夜は、その鎖が必要でもある。
会議は続いた。
続くほど、言葉が短くなっていく。
短くなるのは、結論が固まり始めた証拠だ。
「誰を表に立てる」
「誰が最初に話す」
「誰が“忠誠”を口にする」
「誰が沈黙する」
沈黙まで役割になる。
役割になる時点で、もう芝居だ。
芝居なのに、失敗すれば本物の血が出る。
本物の血が出る芝居ほど、悪趣味なものはない。
シモンは紙の上の“署名欄”を見た。
線が引かれている。
線の横に、肩書を書く欄がある。
肩書は鎧だ。鎧があると人は戦える。戦えるが、鎧は人間を中身から遠ざける。
「君は署名するか」
突然、問われた。
シモンは顔を上げる。
問うた男の目は、柔らかい。柔らかい目ほど怖い。柔らかい目は責任を笑顔で押しつける。
シモンは答える前に、自分の手を見た。
あの、彼女を看取った夜、彼女の手が軽くなっていった感触が、なぜか戻る。
手が軽くなるのは、終わりの予告だ。
今、ここで署名すれば、終わるものがある。
終わるのは“安全”だ。
終わるのは“曖昧さ”だ。
終わるのは“帰れる可能性”だ。
だが終わらせないと、もっと酷い終わり方になる。
終わらせないで流れに任せれば、最初に死ぬのは紙に載らない人間だ。泣き声の子どもだ。暗闇にいる人間だ。
紙に載らないものは、紙に殺される。
ロドリゲスの声が頭で鳴る。
——紙に使われるな。紙を使え。
シモンは息を吸い、言った。
「署名は、剣ですか」
男が微笑む。
「盾だ。剣ではない。だが盾は時に人を殺す。盾で押しつぶせるからな」
正直すぎる。
正直すぎて、信用できる。
信用できるから、なおさら危険だ。
シモンは椅子から立ち上がった。
立ち上がると、部屋の中の視線が一段上がる。
上がった視線の中で、彼は言う。
「なら、盾を持ちます」
その瞬間、部屋の空気が一つ決まった。
決まった空気は戻らない。
戻らない空気は、味がする。鉄の味だ。血の前の味。
男の一人が羽ペンを差し出す。
羽ペンの先が光る。
光っているのに、刃物ほど怖くない。怖くないのが怖い。
刃物なら避けられる。だがペンは避けにくい。ペンは正当化の服を着るからだ。
シモンはペンを受け取る。
指が少し汗ばむ。
汗があるということは、生きているということだ。
生きているなら、手は震える。震えるのは臆病ではない。手が現実を理解しているだけだ。
紙に署名欄がある。
線の上に名前を書けばいい。
かつて、あの長すぎる姓名の檻を書かされた時と同じ動作だ。
同じ動作。
同じ動作なのに、意味が違う。
意味が違うなら、今度は檻ではなく鍵になる可能性がある。
シモンはペンを紙に置いた。
インクが滲む。
滲む音はしない。
音がしないのに、胸の中で何かが「カチ」とはまる。
——自分の名前に、初めて自分で意味を塗った気がした。
書き終えた瞬間、彼は気づく。
署名は自分の意思で書いた。
だがこの署名は、自分だけのものではない。
この署名は、誰かを巻き込む。
誰かを救い、誰かを危険に晒す。
その重さが、ペンの軽さと釣り合っていない。
釣り合っていないから、政治は気持ち悪い。
男が言った。
「明日だ。明日、我々は——」
言葉がまた濁る。濁るのは慎重さであり、恐怖でもある。
「……“開く”。王の空席を,こちらで扱う」
シモンは頷いた。
頷くと自分の首に縄がかかる気がする。
だが縄を嫌って逃げると、幸福に逃げる。幸福は死んだ。もう逃げない。
会議は散る。
散り方が早い。
早く散るのは、彼らが“夜の男”だからだ。夜の男は朝に弱い。朝は公の場で、言い訳が効かない。
シモンは最後に部屋を出た。
廊下に出ると、屋敷は静かだ。
静かすぎて、世界が止まっているみたいに見える。
止まっている世界ほど、次の瞬間に荒れる。
彼は窓の外を見た。
遠くに街の灯りがある。
灯りの下に、紙に載らない人間がいる。
その人間は明日も生きる。
生きるなら、明日の席順と署名が、その呼吸に触れる。
シモンは小さく呟いた。
「……王の空席は、ただの空席じゃない」
空席は真空だ。
真空は、何かを吸い込む。
吸い込まれたくないなら、先に手を入れるしかない。
彼は窓を閉め、部屋に戻る。
ベッドに横たわるが、眠れない。
眠れないのは悲しみのせいではない。
悲しみは胸にある。だが今夜は胸の上に紙が乗っている。
紙は軽いのに、呼吸を邪魔する。
モンテ・サクロの誓いが、また喉に戻る。
腕を休ませない。
明日は、腕ではなく、名前を動かす日だ。
名前を動かすことが、腕を動かすことより怖いと知ってしまった。
知ってしまった以上、戻れない。
朝は残酷だ。
夜の密談は、闇に紛れるから成立する。朝は光の中で言い訳ができないから成立しない。
成立しないのに、朝は来る。来た以上、成立させるしかない。
シモンは眠れなかった。眠れないまま目を閉じ、目を閉じたまま息を数え、息を数えながら「紙は軽いのに重い」と何度も思った。紙は軽い。軽いから持てる。持てるから配れる。配れるから広がる。広がるから人が死ぬ。
その連鎖を止めるには、逆に紙を“正しく広げる”しかない。正しく広げる、という言葉がもう嫌だった。正しさはいつも誰かの顔をしている。顔のない正しさが欲しい。だが顔のない正しさは、だいたい誰も従わない。
夜明け前、彼は起き上がった。起き上がって水を飲み、水が喉を通るのを感じ、通った水が胃に落ちるまで待ってからコートを掴み、扉を開ける。廊下の空気が冷たい。冷たい空気は、余計な感情を削る。削れた感情の下から、行動だけが出てくる。
彼はそれでよかった。今日は行動の日だ。感情は足手まといになる。だが感情がなければ、彼女の死がただの不運に戻る。戻したくない。戻したくないから、感情を“燃料”にして、表には出さない。
屋敷を出ると、街が起きていた。
人は起きる。店は開く。犬は吠える。鍋は鳴る。馬車は軋む。
世界は平気で続く。続くからこそ、今日の“異常”が浮く。
市庁舎へ向かう道で、シモンは何度も同じ顔を見た。昨日の夜にいた男たちだ。男たちは互いに声をかけない。声をかけないのが合図だ。声をかけると紙になる。紙になると証拠になる。証拠は必要な時もあるが、今日みたいな日は邪魔だ。
彼らはただ、同じ方向へ歩く。歩くだけで、もう隊列だ。
市庁舎の前は人が多い。多い人間の塊を見ると、屋敷の男たちは「民意」と言いたがる。民意は便利な言葉だ。便利だから危険だ。民意という言葉は、誰の手にも収まる形をしている。
シモンは群れを群れとして見ないようにした。一人一人の顔を見ようとして、すぐ諦める。多すぎる。多すぎるのが世界だと、ロドリゲスが言った。多い世界は檻を小さくする、とも言った。なら、今日は檻が小さくなる日だ。小さくなるなら、檻の外へ腕を伸ばせる。
建物の中へ入ると、空気が変わる。外は汗と土の匂いが混じるが、中は紙と木と封蝋の匂いが濃い。匂いが濃いほど、誰かが支配している。
支配は暴力ではなく、手続きの匂いをする。
部屋に入った瞬間、視線が刺さる。昨日の夜の視線と同じだ。だが昨日と違う。昨日は「密」だった。今日は「公」だ。公の視線は、本人の目ではなく“役割の目”になる。役割の目は冷たい。冷たいのに、自分では冷たいと思っていない。
それが怖い。
議長格の男が喉を鳴らし、言葉を整える。
「……陛下に忠誠を誓う我々は——」
陛下。忠誠。誓う。
昨日も聞いた盾の言葉だ。盾は必要だ。盾がなければ矢が刺さる。矢が刺されば血が出る。血が出れば全てが早くなる。早くなると手続きが追いつかない。追いつかない手続きは暴走する。暴走は焼ける。焼けると泣き声が増える。
盾は必要だ。必要なのが腹立たしい。腹立たしいが、今は飲み込む。
議長が続ける。続けるほど言葉が丸くなる。丸い言葉は角を隠す。角を隠すと決断が見えなくなる。決断が見えないと、誰も責任を取らなくて済む。
責任を取らない革命ほど、血を呼ぶ。
シモンは、その場で立ち上がりそうになる衝動を飲み込む。衝動は正義の顔をしているが、衝動の正義はだいたい短命だ。短命の正義は、死んだ後に腐って臭う。
彼は息を吸って、息の音が落ち着いてから、椅子の背を掴む。掴んだまま、立つ。
立つと、部屋の空気が少し固まる。固まる空気は「次に何が起きるか」を待つ。待たれると、言葉は紙に近づく。紙に近づくと、もう戻れない。
戻れないのは怖い。怖いのに、それが目的だと昨日言った。戻れない一手を打つ。なら、今だ。
シモンは短く言った。
「開かれていません」
議長が眉を動かす。
「……何がだ」
「この場が」
ざわめきが走る。
ざわめきは波だ。波は人を運ぶ。運ばれた言葉は、勝手に拡大する。拡大した言葉は、誰かの手から離れる。離れた言葉は、暴力になる。
だから言葉は短く、短く、短く。
シモンは続ける。
「これは“内輪”です。今必要なのは内輪の会議ではない。——公の評議会です。開放評議会を」
部屋がさらに固まる。
議長が言う。
「ボリバル。君は何を求めている」
シモンは答える。答えは長くできる。だが長くすると檻になる。短くする。
「正当性です」
その一言が、部屋の温度を一段下げた。
正当性。
それは盾の中心であり、剣にもなる言葉だ。
誰もが欲しい。欲しいのに、誰も触りたくない。触ると手が汚れるからだ。
シモンは、手が汚れるのを選ぶしかない。ここで汚れないなら、暗闇の泣き声はずっと紙に載らないままになる。載らないものは、ずっと殺される側に置かれる。
それが嫌だ。嫌だから、汚れる。
議長が息を吐き、言った。
「……よろしい。開放評議会を“要求する”」
要求。
この言葉を紙にした瞬間、彼らは“反乱の入り口”に立つ。
入口に立つと決めた以上、次は誰がその扉を開けるかだ。
そして扉の鍵は——総督にある。
総督(権威の顔)が現れた時、部屋の空気が分かりやすく変わった。
権威は空気を整える。整えるから息がしやすくなる。息がしやすいのに、肺が勝手に縮む。縮むのが権威だ。
男は姿勢が良い。姿勢が良いのは鍛えたからではなく、姿勢が制度そのものだからだ。制度は猫背にならない。
彼は周囲を見回し、冷静な声で言った。
「……何の騒ぎだ」
騒ぎ。
騒ぎと言うだけで、彼はこの場の正しさを自分の側に寄せている。
寄せ方が上手い。上手い権威は、怒鳴らない。
怒鳴る権威は弱い。弱い権威は殴る。殴る権威は燃える。
シモンは、その男が弱くないことを理解する。弱くない相手は、倒すのが難しい。難しい相手ほど、倒した時に紙が残る。紙が残るなら、後の戦争が増える。
増える戦争は嫌だ。嫌だから、今日の手続きが重要になる。
だからこそ、あの席順だった。
議長が言葉を選びながら説明する。王が不在であること、権威が揺らいでいること、それでも忠誠を誓っていること、だから自治の暫定機構が必要なこと。
言葉が全部盾でできている。盾の上に盾を重ねると、盾の重さで自分が潰れる。
だが潰れる前に一回だけ剣を出さないと、盾は盾として機能しない。
総督は聞き、軽く頷き、そして部屋の中の“空気の角度”を変える言葉を言った。
「では、民は私を望むのか」
望む。
その言葉は便利だ。便利な言葉は、刃になる。
総督は刃を投げた。投げた先にいるのは、議長でも紙でもない。外の群れだ。
群れに刃を投げるのは、合法的な賭けだ。
勝てば正当性を取れる。負ければ正当性を作れる。
総督は立ち上がり、窓の方へ向かう。向かった先にはバルコニーがある。バルコニーは、制度が“民”に見せる顔だ。
民の前に出た制度は、今度は民の声を使う。民の声は紙より強い。
紙より強い声が出た瞬間、紙が正当化される。
シモンは理解する。
——これは“芝居”だ。
——だが芝居が成功すれば血が減る。
血が減るなら、芝居を成功させる必要がある。
成功させるための方法が一つしかないのが、最悪に皮録だ。
総督がバルコニーへ出ると、外のざわめきが増幅した。
群れが群れのまま声になる瞬間の圧力が、建物の中まで押し込んでくる。
誰かが叫ぶ。誰かが応える。声が重なる。重なった声は、もう個人のものではない。
個人のものではない声は、正当性の素材になる。
総督が外へ問いかける。
「民よ。お前たちは、私がこのまま統治することを望むか」
その問いは、答えが一つしかない問いだ。
望むと言えば、今の不満は嘘になる。望まないと言えば、反乱になる。
反乱を反乱にしないために、彼らは昨日盾を積んだ。
盾を積んだなら、今日の答えは——「望まない」が“忠誠の形”になる。
沈黙が一瞬だけ落ちる。
その沈黙の長さが、世界の呼吸みたいに長く感じる。
そして、その沈黙を割るように、声が上がった。
「望まぬ!」
一つの声が言うと、他の声が追従する。追従すると大きくなる。大きくなるると事実になる。
事実になると、総督の肩から権威が滑り落ちる。
権威が滑り落ちる音は、王冠が落ちる音と同じくらい静かだ。
総督はバルコニーで、ほんの少しだけ表情を変えた。
怒りではない。驚きでもない。
“計算が外れた”顔でもない。
もっと冷たい表情だ。
「制度が自分を手放した」顔。
総督は振り返り、議長たちを見て言う。
「……ならば、辞する」
その一言で、部屋の中の紙が全部、別の意味を持ち始める。
紙が“計画”から“現実”へ変わる。
現実に変わった紙は、もう消しゴムが効かない。
消しゴムが効かない以上、戻れない。
シモンは息を吸い、吐いた。吐いた息が震えないのが怖い。震えないのは慣れたからではない。
震えるべきものが、もう彼女と一緒に死んだからだ。
総督が去ると、部屋の空気が少しだけ軽くなる。軽くなった瞬間が一番危ない。軽くなると、人は「成功した」と勘違いする。成功したと思った瞬間、次の失敗が生える。
政治は失敗の連鎖だ。失敗の連鎖を減らすために手続きがある。手続きがあるのに、人は軽くなると手続きを飛ばしたくなる。
飛ばしたら焼ける。焼けたら泣き声が増える。
議長が咳払いをし、言う。
「……暫定評議会を設置する。王の名において」
また盾だ。
盾がないと始まらない。始まらないなら終わる。終わるよりは盾で始める方がいい。
シモンはその現実に腹が立つ。腹が立つのに、頷く。頷くしかない。
署名が回る。
昨日と同じ羽ペンが、今日は“公”の羽ペンになる。
ペンが滑るたび、インクが滲み、滲みが線になり、線が命令になる準備をする。
準備という言葉が嫌だ。準備の先にいつも血がいる。
署名欄がシモンの前に来る。
彼はペンを握り、昨日より短い時間で書いた。
短くなったのは迷いが減ったからではない。
迷いが“固定された”からだ。固定された迷いは、決意と同じ顔をする。
書き終えると、議長が言った。
「今日で終わりではない。今日が始まりだ」
始まり。
その言葉は熱い。熱い言葉は危険だ。
だが熱がなければ、人は動かない。
熱と手続きの間でバランスを取るのが政治なら、今日の彼らはギリギリの綱渡りをしている。
部屋を出ると、外の声がまだ残っていた。
声の主は喜んでいる者もいれば、怯えている者もいる。
怯えは正しい。
今日は勝った。だが勝ったからこそ、明日から矢が飛ぶ。
矢が飛ぶなら、盾を厚くしなければならない。盾を厚くすると檻も厚くなる。
檻を厚くして自由を作る。
この矛盾が、革命の最初の味だ。
シモンは市庁舎の階段を降りながら、小さく呟いた。
「……頭を下げなかったのは、誰だ」
答えは知っている。
外の声だ。
だが外の声は自然に出たわけではない。
あの声が出るように、昨日の夜の男たちが席順を作り、盾を積み、問いを選んだ。
つまり“頭を下げない朝”は、偶然ではない。
偶然でないものは、責任になる。
責任は重い。重い責任は人を壊す。
壊れるなら、壊れ方を選べ。
モンテ・サクロの夜に決めたことだ。
彼は空を見上げた。
空は青い。
青い空は綺麗だ。綺麗なものは嘘をつく。
だが今日の青は、嘘ではない気がした。
嘘ではないと信じたい気持ちが、彼の中でまた“政治”になる。
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