5 / 5
出自と覚醒
第五話
しおりを挟む
勝った朝の空気は、甘い。
甘いものは腹に溜まらない。溜まらないから、もっと欲しくなる。
もっと欲しくなると、足が速くなる。足が速くなると、頭が遅れる。頭が遅れると、手続きが遅れる。手続きが遅れると、紙が追いつかない。
紙が追いつかない時、世界は剣で追いつく。
市庁舎の前はざわざわしている。
昨日のざわめきと似ているのに、匂いが違う。昨日は恐怖の匂いが混じっていた。今日は勝利の匂いが混じっている。勝利の匂いは、酒の匂いに似ている。
酒の匂いは危険だ。酔うと人は自分を大きく見積もる。自分を大きく見積もると、相手を小さく見積もる。相手を小さく見積もると、相手が刃を持っていることを忘れる。
シモンは勝利の匂いに酔わないように、わざと息を深く吸った。
深く吸うと、甘さの下に別の匂いが見える。汗の匂い。焦りの匂い。紙の匂い。
それらは昨日より濃い。濃いということは、誰かが動いているということだ。誰かが動くなら、こちらも動かなければならない。
動くために、まず旗を“重く”しなければならない。軽い旗は風に飛ぶ。飛んだ旗は誰かの手の中で商品になる。
ロドリゲスの声が頭の端で笑う。
——ほらな、坊ちゃま。旗は飛ぶだろう?
シモンは笑わない。笑う余裕はない。
今日から、旗には重りが必要だ。
暫定評議会の“机”は、倒れないように作られている。
評議会の部屋は昨日より整っていた。
整っているのに、気持ち悪い。整っている空気は支配の匂いを強める。
机は真ん中に置かれ、椅子の数が揃い、書類が整理され、羽ペンが新しくなっている。
羽ペンが新しいと、インクがよく出る。
インクがよく出ると、言葉が増える。
言葉が増えると、責任が増える。
責任が増えると、誰かが死ぬ。
議長格の男が言った。
「成功した。だが成功は脆い。——秩序を作らねばならん」
秩序。
また出た。
秩序は必要だ。必要だから怖い。
昨日の総督辞任は、紙の上では勝利だ。だが現実では“空席が増えた”だけだ。空席は真空だ。真空は、外から何かを吸い込む。外から吸い込まれるものは大抵、スペインの軍か、スペインの金か、スペインの正当性だ。
別の男が言う。
「まず民兵の編成を」
民兵。
言葉が急に剣に寄る。
剣に寄るのは正直だ。
正直なのに、遅い。民兵を作るには時間がいる。時間がいる間に、敵は動く。敵は動く。敵は動く。
この三回の反復が、シモンの胸を落ち着かなくさせる。
シモンは尋ねた。
「何が最優先ですか」
男たちが互いに見る。
ここで「軍」と言えば反乱になる。
ここで「紙」と言えば現実が追いつかない。
ここで「金」と言えば、誰かが口元を歪める。
この部屋は、どれも言いたい。どれも言いにくい。言いにくいのが政治だ。
議長が答える。
「正当性だ」
またそれだ。
正当性は盾だ。盾がないと剣を握れない。盾がないと民兵もただの暴徒になる。
暴徒になると焼ける。焼けると泣き声が増える。
議長は続ける。
「王の名において自治した。だがこのままでは、王の名が戻った瞬間に我々は反逆者になる。——だから“王の名”の代わりがいる」
代わり。
その言葉が喉に刺さる。
代わりは王冠だ。王冠は見た。王冠は欲と結びつく。
それでも代わりがいる。いらない世界なら良かった。だが世界はそうできていない。
男の一人が、言葉を丸めながら言った。
「国王が不在なら、国王の“代理”を」
代理。
紙の世界の言葉だ。
紙の世界の言葉は、血の世界の刃より冷たい。
シモンは机の端を見た。
新しい机。倒れない机。
ロドリゲスが倒した古い机を思い出す。
倒れない机ほど、人は倒れる。
彼は言った。
「代理の席順は誰が決めます?」
議長が眉を動かす。
「……議会だ」
「誰が議会を守ります?」
その問いは早すぎる。
早すぎる問いは、嫌われる。
嫌われる問いは、だいたい正しい。
部屋が一瞬沈黙する。
沈黙の中で、遠くから太鼓の音が聞こえた。
太鼓ではない。街の喧騒の中の何かが、太鼓みたいに聞こえただけだ。
だがシモンの耳はそれを「予告」に変える。
予告は怖い。怖いから、行動が必要になる。
議長が言った。
「君は軍の話を急ぎすぎる」
シモンは答える。
「急がないと、急がされます」
言い切った瞬間、自分でも息が詰まった。
詰まった息の中で、彼女の呼吸が止まった瞬間を思い出す。
呼吸が止まるのは突然だ。突然に備えるのが、政治の役目だ。
備えない政治は、ただの言い訳になる。
旗は、人の腹に乗る。
評議会の議論が続く中、外で声が上がる。
昨日の「望まぬ!」とは違う声だ。
昨日の声は方向があった。今日は方向がない。方向がない声は不満だ。不満は素材だ。素材は誰かに加工される。加工されると刃になる。
部屋の窓が開けられ、外の匂いが入る。
汗。熱。酒。興奮。
そしてもう一つ。
飢え。
飢えは匂いを持つ。甘い匂いではない。乾いた匂いだ。
乾いた匂いは、紙より強い。
使者が駆け込んでくる。息が荒い。
息が荒い人間は、紙の外側の人間だ。
紙の外側の人間が荒い息で入ってくる時、紙の内側はだいたい負ける。
使者が言う。
「市場が——揉めています」
揉める。
揉めるのは当然だ。勝利の翌日は、誰もが“自分の取り分”を思い出す。
思い出すと、腹が鳴る。腹が鳴ると、旗が必要になる。旗が必要になると、誰かが旗を持つ。旗を持つ者は、腹を満たす約束をする。約束は紙になる。紙は人を殺す。
この流れが、速すぎる。
議長が顔を顰める。
「またか。——配給の管理が追いつかん」
追いつかない。
追いつかないと言った瞬間、政治の負けが見える。
追いつかないなら、追いつくまで時間を稼ぐ必要がある。
時間を稼ぐには、言葉がいる。
言葉だけでは足りない。
言葉を支える“力”がいる。
シモンは立ち上がった。
「私が行きます」
議長が睨む。
「君が? 君は——」
「この部屋にいるより、外の声を聞く方が今は必要です」
外の声を聞く、という言葉は綺麗だ。
綺麗な言葉は嘘をつきやすい。
だがシモンの言葉は、綺麗に見せかけた実務だ。
彼は外へ行き、腹の動きを測りたい。
腹を測らない政治は、必ず負ける。
議長は渋々頷いた。
渋々頷く承認ほど、後で責任を押しつけてくる。
だが今はそれでもいい。押しつけられる責任があるなら、その分だけ旗が重くなる。
市場は熱い。
人の匂いが濃い。
怒りの声が飛び、泣き声が混じり、笑い声が混ざり、売り手の怒鳴りが重なる。
ここには席順がない。
席順がない場所は自由だ。
自由は美しいはずなのに、ここでは自由が刃を持っている。
シモンは群れの中へ入らない。
だが離れすぎない。
距離を間違えると、言葉が届かない。
言葉が届かないなら、剣が届く。剣が届くのは最後だ。
彼は見つける。
パンを抱える女。
魚の切れ端に群がる子ども。
荷車を押す男の肩。
ここには政治がある。
政治は議会にあるのではなく、腹の中にある。
誰かが叫ぶ。
「評議会は何をしている!?」
その叫びは、正当性への要求だ。
人は飯だけを求めているわけではない。
飯を配る理由を求めている。
理由がなければ奪うしかない。
奪うしかない時、街は焼ける。
シモンは声を張った。
声を張ると、周囲が少し静かになる。
静かになるのは、彼がボリバルだからではない。
彼が“綺麗な服を着た側”だからだ。
綺麗な服の人間の言葉は、殴り返せない時がある。
殴り返せないから、聞く。
聞くから、言葉が通る。
シモンは短く言った。
「今、ここを見に来た。——言ってくれ」
言ってくれ。
命令じゃない。
頼みでもない。
事実の要求だ。
人が口々に言う。
「パンだ」「塩だ」「価格だ」「兵だ」「治安だ」
言葉が飛ぶ。飛ぶ言葉は刃になる前の素材だ。
素材のうちに拾えば、刃にならずに済む。
シモンは一つだけ、繰り返した。
「わかった。——わかった。——わかった」
三回言うと軽くなる。
軽くなると嘘になる。
だから四回目は言わない。
代わりに言う。
「約束は今日できない。だが手続きは今日始める」
群れがざわつく。
約束が今日できないのは不満だ。
だが手続きが今日始まるのは希望だ。
希望は軽い。軽い希望は危ない。
だからシモンは、希望に重りをつける。
「——評議会を、ここへ連れてくる」
その言葉は重い。
重いから、群れが静かになる。
静かになった瞬間、シモンは自分の発言の重さに胃が痛くなる。
連れてくる。
つまり、机を外へ持ち出す。
倒れない机を、倒れる場所へ置く。
それは政治の自殺に近い。
だが自殺をしない政治は、誰かを殺して延命する。
延命よりましだ。
市場を離れる帰り道、シモンは空を見た。
空は青い。
青い空は嘘をつく。
だが今日の青は、嘘より先に「時間がない」と言っている気がした。
評議会の部屋へ戻る。
扉を開けた瞬間、議長が言った。
「どうだった」
シモンは短く答える。
「旗が軽い。腹が重い」
議長が息を呑む。
その一言で、彼らは理解する。
正当性は紙で作れる。
だが旗の重さは、腹で決まる。
腹に負けた政治は、紙の勝利を一晩で燃やす。
シモンは机を見た。
倒れない机。
倒れない机を倒したくなる衝動が湧く。
だが倒さない。倒したら気持ちよくなるだけだ。
気持ちよさは短命だ。短命の気持ちよさは革命を腐らせる。
彼は言う。
「決めましょう。旗に装飾を」
議長が問う。
「何を重りにする」
シモンは答えるまで一呼吸だけ置いた。
一呼吸置かないと、答えが刃になって飛び出す。
刃になった答えは戻れない。
戻れないのは、もう慣れた。
慣れたのが怖い。
シモンは言った。
「……軍です」
言った瞬間、部屋の空気が硬くなった。
硬くなるのは正しい。
軍は硬い。硬いものは人を折る。
折らないために、硬いものを先に握る。
それが政治の最悪の現実だ。
決断には音がない。
音がないから、後から「あれが分岐点だった」と気づく。
分岐点だと気づいた時には、もう戻れない。
評議会の部屋は静かだった。
静かすぎて、窓の外の市場の喧騒が、遠い海の音みたいに聞こえる。
海の音は落ち着く。落ち着くものほど危ない。落ち着きは、判断を遅らせる。
机は、昨日と同じ場所にある。
倒れない机。
倒れないように作られた机。
倒れない机の上で、国が動く。
シモンは机を見て、ロドリゲスの机が倒れる音を思い出す。
あの音は解放だった。
だが今、机を倒しても解放にはならない。
今の机を倒すのは、ただの癇癪になる。
癇癪は短命だ。短命の正義は腐る。
腐った正義は、いちばん弱い人間を噛む。
弱い人間が噛まれるのは嫌だ。
嫌だから、机は倒さない。
その代わりに——剣を握る。
軍の話は、誰もしたがらない
議長格の男が口を開いた。
「昨夜、君は“軍”と言った。……本気か」
本気。
この部屋で一番重い単語だ。
本気を出すと血が出る。血が出ると戻れない。
戻れないことを昨日までずっと積み上げてきたのに、いざ本気を出す段になると、みんな急に戻りたくなる。
それが人間だ。
シモンは短く答える。
「本気です」
男たちの顔が硬くなる。
硬くなるのは正常だ。
軍は、言った瞬間に世界が現実になる。
現実は臭いがする。汗と鉄と土と血の臭いがする。
屋敷の空気は、それを嫌う。嫌うが、嫌っても来る。
別の男が言う。
「民兵か? だが民兵は暴徒になりうる」
「暴徒になる理由を消します」
シモンの声は平坦だった。平坦なのが怖い。
平坦な声は、すでに結論を持っている声だ。
議長が問う。
「理由とは何だ」
シモンは答える。
答えは一つではない。だが一つにしないと、紙になる。
紙になると責任が薄まる。薄まった責任は血を増やす。
だから一つにする。
「腹です」
腹。
既に出した答えだ。
腹が満たされないなら、旗は軽いまま飛ぶ。
飛んだ旗は商品になる。
商品になった革命は、最初に貧しい者を裏切る。
裏切りは血を呼ぶ。血を呼ぶなら、軍の前に腹だ。
議長が苦い顔をする。
「金が要る」
金。
出た。
出た瞬間、全員の目がほんの少し曇る。
金は現実だ。現実は嫌だ。
だが現実を避ける政治は、詩になる。詩は腹を満たさない。
シモンは言う。
「徴税を整えます」
男たちがざわめく。
徴税は“痛み”だからだ。
痛みを先に引き受ける者は嫌われる。
嫌われるのに必要だ。
必要だから、ここで誰が痛みを引き受けるかが、革命の正体になる。
別の男が声を落とす。
「痛みが先に来れば、民は離れる」
シモンは答える。
「痛みが先に来ても、理由が見えれば耐えます。——理由が見えない痛みは、暴徒を生む」
理由。
正当性。
紙。
声。
腹。
全部つながっている。
つながっているのに、つなぐのが難しい。
難しいものほど、手続きがいる。
手続きほど退屈で、退屈ほど血を減らす。
シモンは続ける。
「軍は“最後の柱”です。先に柱を立てると、家が柱になります。家が柱になると、家が人を押しつぶします。だから順番が必要です」
議長が眉を動かす。
「順番……君は席順を覚えているな」
シモンは頷く。
「席順は、血を減らす技術です」
その言葉が部屋を黙らせた。
黙るのは、誰も否定できないからだ。
否定できないのに、受け入れたくない。
受け入れたくない現実を受け入れるのが、大人の役目だ。
使者がまた入ってくる。
息が荒い。
荒い息は、紙の外からの報せだ。
「……反対派が集会を始めました。『評議会は貴族の遊びだ』と」
貴族の遊び。
その一言が刺さる。
刺さるのは、半分正しいからだ。
屋敷の空気は、どうやっても“遊び”に見える。
遊びに見える空気で政治をやれば、政治も遊びに見える。
遊びに見える革命は、腹に負ける。
議長が苛立ちを隠さず言う。
「……だから軍が必要だと言ったのだ」
シモンは首を横に振った。
「違う。だから“言葉”が必要です」
議長が睨む。
「言葉で腹は満たせん」
「言葉で腹を“待たせる”ことはできます。待てない腹は、剣を生みます。剣を生んだ後に軍を作っても遅い」
この言葉は冷たい。
冷たいのに、現実だ。
現実は冷たい。冷たい現実を温めるのが政治だ。
温められないなら、燃やすしかない。
燃やすのは嫌だ。
シモンは机の上の地図を指さす。
地図の外側に、海がある。
海の向こうに、スペインがある。
だが今日の敵は、海の向こうではない。
「今の敵は、この街の中です。——“勝利に酔った者”と、“勝利に届かない者”の間に溝ができます」
溝。
溝は血になる前の形だ。
溝を埋める方法は二つ。橋を架けるか、溝ごと燃やすか。
燃やすのは簡単だ。簡単だから危険だ。
橋を架けるのは退屈だ。退屈だから尊い。
議長が息を吐く。
「橋を架けるには、何が要る」
シモンは答える。
答えは紙にしない。紙にすると檻になる。
だから短く言う。
「顔です」
顔。
顔が必要だ。
顔がなければ、正当性は紙の上でしか生きない。
紙の上の正当性は、腹の前で死ぬ。
議長が言う。
「君がその顔になるのか」
その問いは罠だ。
顔になると言えば、野心になる。
顔にならないと言えば、責任放棄になる。
沈黙すれば、使われる。
シモンは一呼吸置いた。
彼女の「どうにか、なる?」が胸の奥で鳴る。
どうにかする、と言った自分が無力だった記憶。
無力だったから、今ここにいる。
なら、無力を繰り返さないために、顔を引き受けるしかない。
シモンは言った。
「……顔は私でいい。だが、王冠の顔にはしない」
議長が目を細める。
「どう違う」
シモンは答える。
「私は“代理の王”にはならない。——“手続きを代表する顔”になります」
手続きを代表する顔。
それは地味だ。
地味だから、信じられる。
派手な顔はすぐ神になる。神になると、次の皇帝が生まれる。
王冠の音が、また鳴る。
鳴るなら、同じ道は踏まない。
その日の夕方、評議会は市場へ出た。
シモンが言った通り、机を外へ持ち出した。
机の脚が石畳を擦る音がする。
その音を聞いた瞬間、シモンは笑いそうになった。
——机は倒さない。だが机は動かす。
動かすだけで、屋敷の空気が少しだけ裂ける。
市場の人々は最初、信用しない。
信用しないのは当然だ。信用は腹の後に来る。
だが彼らは“来た”。来たことが事実だ。事実は紙より強い。
シモンは大声で叫ばない。
叫ぶと熱が先行する。熱が先行すると、後で冷えた時に反動が来る。
反動は暴力になる。
だから彼は、届く範囲の声で言った。
「今日は約束を配れない。だが——今日から手続きを見せる」
手続きを見せる。
退屈な言葉だ。
退屈だから効く。
彼は続ける。
「税も配給も、ここで順番を決める。順番は、席順と同じだ。——最初に助けるのは、最初に倒れる人間だ」
最初に倒れる人間。
飢えた子ども。
働いても働いても腹が鳴る者。
泣き声が紙に載らない者。
群れの中で、誰かが泣いた。
泣いた理由はわからない。
わからないが、その泣き方は“怒りの泣き”ではない。
少しだけ、息が戻る泣き方だ。
その瞬間、シモンは理解する。
旗の重りは軍ではない。
軍は最後の柱だ。
旗の最初の重りは——信頼だ。
信頼は、手続きの地味さでしか作れない。
派手な英雄譚では作れない。
作れないなら、地味にやるしかない。
地味にやるのは嫌だ。嫌なのに、必要だ。
必要だから、やる。
評議会の男たちは、顔をしかめながらも従った。
彼らは“英雄”をやりたがる。
英雄は気持ちいいからだ。
気持ちいい革命は腐る。
腐る前に、気持ちよさを奪う。
それがこの瞬間の政治の仕事だ。
夜、屋敷に戻る。
シモンは一人で窓を開け、湿った風を吸った。
風の匂いは港の匂いに似ている。
港は出発の匂い。
出発は戻れない匂い。
彼は呟く。
「……机は倒さなかった」
それは自分への確認だ。
倒さないで済むなら、まだ人間でいられる。
倒さずに剣を握るなら、剣を振る前に止められる可能性が残る。
可能性が残るなら、彼女の死は“ただの不運”ではなく、“ここから先の責任”に変わる。
ロドリゲスの机が倒れた音が、まだ耳に残っている。
音が残っているなら、支えになる。
支えがあるなら、次で剣を握っても、自分が剣にならずに済むかもしれない。
彼は最後に、モンテ・サクロの誓いを思い出す。
腕を休ませない。
だが今は、もう一つ付け足したい衝動がある。
——腕を休ませない。
——ただし、心臓を捨てない。
付け足すと長い。長いと檻になる。
だから口には出さない。
出さないまま、胸の中で燃料として残す。
第一章『出自と覚醒』完
次回は世界史屈指の頭のおかしい詐欺師が出てきます。架空の国作って市民権売って結構な数を犠牲にした野郎です。
甘いものは腹に溜まらない。溜まらないから、もっと欲しくなる。
もっと欲しくなると、足が速くなる。足が速くなると、頭が遅れる。頭が遅れると、手続きが遅れる。手続きが遅れると、紙が追いつかない。
紙が追いつかない時、世界は剣で追いつく。
市庁舎の前はざわざわしている。
昨日のざわめきと似ているのに、匂いが違う。昨日は恐怖の匂いが混じっていた。今日は勝利の匂いが混じっている。勝利の匂いは、酒の匂いに似ている。
酒の匂いは危険だ。酔うと人は自分を大きく見積もる。自分を大きく見積もると、相手を小さく見積もる。相手を小さく見積もると、相手が刃を持っていることを忘れる。
シモンは勝利の匂いに酔わないように、わざと息を深く吸った。
深く吸うと、甘さの下に別の匂いが見える。汗の匂い。焦りの匂い。紙の匂い。
それらは昨日より濃い。濃いということは、誰かが動いているということだ。誰かが動くなら、こちらも動かなければならない。
動くために、まず旗を“重く”しなければならない。軽い旗は風に飛ぶ。飛んだ旗は誰かの手の中で商品になる。
ロドリゲスの声が頭の端で笑う。
——ほらな、坊ちゃま。旗は飛ぶだろう?
シモンは笑わない。笑う余裕はない。
今日から、旗には重りが必要だ。
暫定評議会の“机”は、倒れないように作られている。
評議会の部屋は昨日より整っていた。
整っているのに、気持ち悪い。整っている空気は支配の匂いを強める。
机は真ん中に置かれ、椅子の数が揃い、書類が整理され、羽ペンが新しくなっている。
羽ペンが新しいと、インクがよく出る。
インクがよく出ると、言葉が増える。
言葉が増えると、責任が増える。
責任が増えると、誰かが死ぬ。
議長格の男が言った。
「成功した。だが成功は脆い。——秩序を作らねばならん」
秩序。
また出た。
秩序は必要だ。必要だから怖い。
昨日の総督辞任は、紙の上では勝利だ。だが現実では“空席が増えた”だけだ。空席は真空だ。真空は、外から何かを吸い込む。外から吸い込まれるものは大抵、スペインの軍か、スペインの金か、スペインの正当性だ。
別の男が言う。
「まず民兵の編成を」
民兵。
言葉が急に剣に寄る。
剣に寄るのは正直だ。
正直なのに、遅い。民兵を作るには時間がいる。時間がいる間に、敵は動く。敵は動く。敵は動く。
この三回の反復が、シモンの胸を落ち着かなくさせる。
シモンは尋ねた。
「何が最優先ですか」
男たちが互いに見る。
ここで「軍」と言えば反乱になる。
ここで「紙」と言えば現実が追いつかない。
ここで「金」と言えば、誰かが口元を歪める。
この部屋は、どれも言いたい。どれも言いにくい。言いにくいのが政治だ。
議長が答える。
「正当性だ」
またそれだ。
正当性は盾だ。盾がないと剣を握れない。盾がないと民兵もただの暴徒になる。
暴徒になると焼ける。焼けると泣き声が増える。
議長は続ける。
「王の名において自治した。だがこのままでは、王の名が戻った瞬間に我々は反逆者になる。——だから“王の名”の代わりがいる」
代わり。
その言葉が喉に刺さる。
代わりは王冠だ。王冠は見た。王冠は欲と結びつく。
それでも代わりがいる。いらない世界なら良かった。だが世界はそうできていない。
男の一人が、言葉を丸めながら言った。
「国王が不在なら、国王の“代理”を」
代理。
紙の世界の言葉だ。
紙の世界の言葉は、血の世界の刃より冷たい。
シモンは机の端を見た。
新しい机。倒れない机。
ロドリゲスが倒した古い机を思い出す。
倒れない机ほど、人は倒れる。
彼は言った。
「代理の席順は誰が決めます?」
議長が眉を動かす。
「……議会だ」
「誰が議会を守ります?」
その問いは早すぎる。
早すぎる問いは、嫌われる。
嫌われる問いは、だいたい正しい。
部屋が一瞬沈黙する。
沈黙の中で、遠くから太鼓の音が聞こえた。
太鼓ではない。街の喧騒の中の何かが、太鼓みたいに聞こえただけだ。
だがシモンの耳はそれを「予告」に変える。
予告は怖い。怖いから、行動が必要になる。
議長が言った。
「君は軍の話を急ぎすぎる」
シモンは答える。
「急がないと、急がされます」
言い切った瞬間、自分でも息が詰まった。
詰まった息の中で、彼女の呼吸が止まった瞬間を思い出す。
呼吸が止まるのは突然だ。突然に備えるのが、政治の役目だ。
備えない政治は、ただの言い訳になる。
旗は、人の腹に乗る。
評議会の議論が続く中、外で声が上がる。
昨日の「望まぬ!」とは違う声だ。
昨日の声は方向があった。今日は方向がない。方向がない声は不満だ。不満は素材だ。素材は誰かに加工される。加工されると刃になる。
部屋の窓が開けられ、外の匂いが入る。
汗。熱。酒。興奮。
そしてもう一つ。
飢え。
飢えは匂いを持つ。甘い匂いではない。乾いた匂いだ。
乾いた匂いは、紙より強い。
使者が駆け込んでくる。息が荒い。
息が荒い人間は、紙の外側の人間だ。
紙の外側の人間が荒い息で入ってくる時、紙の内側はだいたい負ける。
使者が言う。
「市場が——揉めています」
揉める。
揉めるのは当然だ。勝利の翌日は、誰もが“自分の取り分”を思い出す。
思い出すと、腹が鳴る。腹が鳴ると、旗が必要になる。旗が必要になると、誰かが旗を持つ。旗を持つ者は、腹を満たす約束をする。約束は紙になる。紙は人を殺す。
この流れが、速すぎる。
議長が顔を顰める。
「またか。——配給の管理が追いつかん」
追いつかない。
追いつかないと言った瞬間、政治の負けが見える。
追いつかないなら、追いつくまで時間を稼ぐ必要がある。
時間を稼ぐには、言葉がいる。
言葉だけでは足りない。
言葉を支える“力”がいる。
シモンは立ち上がった。
「私が行きます」
議長が睨む。
「君が? 君は——」
「この部屋にいるより、外の声を聞く方が今は必要です」
外の声を聞く、という言葉は綺麗だ。
綺麗な言葉は嘘をつきやすい。
だがシモンの言葉は、綺麗に見せかけた実務だ。
彼は外へ行き、腹の動きを測りたい。
腹を測らない政治は、必ず負ける。
議長は渋々頷いた。
渋々頷く承認ほど、後で責任を押しつけてくる。
だが今はそれでもいい。押しつけられる責任があるなら、その分だけ旗が重くなる。
市場は熱い。
人の匂いが濃い。
怒りの声が飛び、泣き声が混じり、笑い声が混ざり、売り手の怒鳴りが重なる。
ここには席順がない。
席順がない場所は自由だ。
自由は美しいはずなのに、ここでは自由が刃を持っている。
シモンは群れの中へ入らない。
だが離れすぎない。
距離を間違えると、言葉が届かない。
言葉が届かないなら、剣が届く。剣が届くのは最後だ。
彼は見つける。
パンを抱える女。
魚の切れ端に群がる子ども。
荷車を押す男の肩。
ここには政治がある。
政治は議会にあるのではなく、腹の中にある。
誰かが叫ぶ。
「評議会は何をしている!?」
その叫びは、正当性への要求だ。
人は飯だけを求めているわけではない。
飯を配る理由を求めている。
理由がなければ奪うしかない。
奪うしかない時、街は焼ける。
シモンは声を張った。
声を張ると、周囲が少し静かになる。
静かになるのは、彼がボリバルだからではない。
彼が“綺麗な服を着た側”だからだ。
綺麗な服の人間の言葉は、殴り返せない時がある。
殴り返せないから、聞く。
聞くから、言葉が通る。
シモンは短く言った。
「今、ここを見に来た。——言ってくれ」
言ってくれ。
命令じゃない。
頼みでもない。
事実の要求だ。
人が口々に言う。
「パンだ」「塩だ」「価格だ」「兵だ」「治安だ」
言葉が飛ぶ。飛ぶ言葉は刃になる前の素材だ。
素材のうちに拾えば、刃にならずに済む。
シモンは一つだけ、繰り返した。
「わかった。——わかった。——わかった」
三回言うと軽くなる。
軽くなると嘘になる。
だから四回目は言わない。
代わりに言う。
「約束は今日できない。だが手続きは今日始める」
群れがざわつく。
約束が今日できないのは不満だ。
だが手続きが今日始まるのは希望だ。
希望は軽い。軽い希望は危ない。
だからシモンは、希望に重りをつける。
「——評議会を、ここへ連れてくる」
その言葉は重い。
重いから、群れが静かになる。
静かになった瞬間、シモンは自分の発言の重さに胃が痛くなる。
連れてくる。
つまり、机を外へ持ち出す。
倒れない机を、倒れる場所へ置く。
それは政治の自殺に近い。
だが自殺をしない政治は、誰かを殺して延命する。
延命よりましだ。
市場を離れる帰り道、シモンは空を見た。
空は青い。
青い空は嘘をつく。
だが今日の青は、嘘より先に「時間がない」と言っている気がした。
評議会の部屋へ戻る。
扉を開けた瞬間、議長が言った。
「どうだった」
シモンは短く答える。
「旗が軽い。腹が重い」
議長が息を呑む。
その一言で、彼らは理解する。
正当性は紙で作れる。
だが旗の重さは、腹で決まる。
腹に負けた政治は、紙の勝利を一晩で燃やす。
シモンは机を見た。
倒れない机。
倒れない机を倒したくなる衝動が湧く。
だが倒さない。倒したら気持ちよくなるだけだ。
気持ちよさは短命だ。短命の気持ちよさは革命を腐らせる。
彼は言う。
「決めましょう。旗に装飾を」
議長が問う。
「何を重りにする」
シモンは答えるまで一呼吸だけ置いた。
一呼吸置かないと、答えが刃になって飛び出す。
刃になった答えは戻れない。
戻れないのは、もう慣れた。
慣れたのが怖い。
シモンは言った。
「……軍です」
言った瞬間、部屋の空気が硬くなった。
硬くなるのは正しい。
軍は硬い。硬いものは人を折る。
折らないために、硬いものを先に握る。
それが政治の最悪の現実だ。
決断には音がない。
音がないから、後から「あれが分岐点だった」と気づく。
分岐点だと気づいた時には、もう戻れない。
評議会の部屋は静かだった。
静かすぎて、窓の外の市場の喧騒が、遠い海の音みたいに聞こえる。
海の音は落ち着く。落ち着くものほど危ない。落ち着きは、判断を遅らせる。
机は、昨日と同じ場所にある。
倒れない机。
倒れないように作られた机。
倒れない机の上で、国が動く。
シモンは机を見て、ロドリゲスの机が倒れる音を思い出す。
あの音は解放だった。
だが今、机を倒しても解放にはならない。
今の机を倒すのは、ただの癇癪になる。
癇癪は短命だ。短命の正義は腐る。
腐った正義は、いちばん弱い人間を噛む。
弱い人間が噛まれるのは嫌だ。
嫌だから、机は倒さない。
その代わりに——剣を握る。
軍の話は、誰もしたがらない
議長格の男が口を開いた。
「昨夜、君は“軍”と言った。……本気か」
本気。
この部屋で一番重い単語だ。
本気を出すと血が出る。血が出ると戻れない。
戻れないことを昨日までずっと積み上げてきたのに、いざ本気を出す段になると、みんな急に戻りたくなる。
それが人間だ。
シモンは短く答える。
「本気です」
男たちの顔が硬くなる。
硬くなるのは正常だ。
軍は、言った瞬間に世界が現実になる。
現実は臭いがする。汗と鉄と土と血の臭いがする。
屋敷の空気は、それを嫌う。嫌うが、嫌っても来る。
別の男が言う。
「民兵か? だが民兵は暴徒になりうる」
「暴徒になる理由を消します」
シモンの声は平坦だった。平坦なのが怖い。
平坦な声は、すでに結論を持っている声だ。
議長が問う。
「理由とは何だ」
シモンは答える。
答えは一つではない。だが一つにしないと、紙になる。
紙になると責任が薄まる。薄まった責任は血を増やす。
だから一つにする。
「腹です」
腹。
既に出した答えだ。
腹が満たされないなら、旗は軽いまま飛ぶ。
飛んだ旗は商品になる。
商品になった革命は、最初に貧しい者を裏切る。
裏切りは血を呼ぶ。血を呼ぶなら、軍の前に腹だ。
議長が苦い顔をする。
「金が要る」
金。
出た。
出た瞬間、全員の目がほんの少し曇る。
金は現実だ。現実は嫌だ。
だが現実を避ける政治は、詩になる。詩は腹を満たさない。
シモンは言う。
「徴税を整えます」
男たちがざわめく。
徴税は“痛み”だからだ。
痛みを先に引き受ける者は嫌われる。
嫌われるのに必要だ。
必要だから、ここで誰が痛みを引き受けるかが、革命の正体になる。
別の男が声を落とす。
「痛みが先に来れば、民は離れる」
シモンは答える。
「痛みが先に来ても、理由が見えれば耐えます。——理由が見えない痛みは、暴徒を生む」
理由。
正当性。
紙。
声。
腹。
全部つながっている。
つながっているのに、つなぐのが難しい。
難しいものほど、手続きがいる。
手続きほど退屈で、退屈ほど血を減らす。
シモンは続ける。
「軍は“最後の柱”です。先に柱を立てると、家が柱になります。家が柱になると、家が人を押しつぶします。だから順番が必要です」
議長が眉を動かす。
「順番……君は席順を覚えているな」
シモンは頷く。
「席順は、血を減らす技術です」
その言葉が部屋を黙らせた。
黙るのは、誰も否定できないからだ。
否定できないのに、受け入れたくない。
受け入れたくない現実を受け入れるのが、大人の役目だ。
使者がまた入ってくる。
息が荒い。
荒い息は、紙の外からの報せだ。
「……反対派が集会を始めました。『評議会は貴族の遊びだ』と」
貴族の遊び。
その一言が刺さる。
刺さるのは、半分正しいからだ。
屋敷の空気は、どうやっても“遊び”に見える。
遊びに見える空気で政治をやれば、政治も遊びに見える。
遊びに見える革命は、腹に負ける。
議長が苛立ちを隠さず言う。
「……だから軍が必要だと言ったのだ」
シモンは首を横に振った。
「違う。だから“言葉”が必要です」
議長が睨む。
「言葉で腹は満たせん」
「言葉で腹を“待たせる”ことはできます。待てない腹は、剣を生みます。剣を生んだ後に軍を作っても遅い」
この言葉は冷たい。
冷たいのに、現実だ。
現実は冷たい。冷たい現実を温めるのが政治だ。
温められないなら、燃やすしかない。
燃やすのは嫌だ。
シモンは机の上の地図を指さす。
地図の外側に、海がある。
海の向こうに、スペインがある。
だが今日の敵は、海の向こうではない。
「今の敵は、この街の中です。——“勝利に酔った者”と、“勝利に届かない者”の間に溝ができます」
溝。
溝は血になる前の形だ。
溝を埋める方法は二つ。橋を架けるか、溝ごと燃やすか。
燃やすのは簡単だ。簡単だから危険だ。
橋を架けるのは退屈だ。退屈だから尊い。
議長が息を吐く。
「橋を架けるには、何が要る」
シモンは答える。
答えは紙にしない。紙にすると檻になる。
だから短く言う。
「顔です」
顔。
顔が必要だ。
顔がなければ、正当性は紙の上でしか生きない。
紙の上の正当性は、腹の前で死ぬ。
議長が言う。
「君がその顔になるのか」
その問いは罠だ。
顔になると言えば、野心になる。
顔にならないと言えば、責任放棄になる。
沈黙すれば、使われる。
シモンは一呼吸置いた。
彼女の「どうにか、なる?」が胸の奥で鳴る。
どうにかする、と言った自分が無力だった記憶。
無力だったから、今ここにいる。
なら、無力を繰り返さないために、顔を引き受けるしかない。
シモンは言った。
「……顔は私でいい。だが、王冠の顔にはしない」
議長が目を細める。
「どう違う」
シモンは答える。
「私は“代理の王”にはならない。——“手続きを代表する顔”になります」
手続きを代表する顔。
それは地味だ。
地味だから、信じられる。
派手な顔はすぐ神になる。神になると、次の皇帝が生まれる。
王冠の音が、また鳴る。
鳴るなら、同じ道は踏まない。
その日の夕方、評議会は市場へ出た。
シモンが言った通り、机を外へ持ち出した。
机の脚が石畳を擦る音がする。
その音を聞いた瞬間、シモンは笑いそうになった。
——机は倒さない。だが机は動かす。
動かすだけで、屋敷の空気が少しだけ裂ける。
市場の人々は最初、信用しない。
信用しないのは当然だ。信用は腹の後に来る。
だが彼らは“来た”。来たことが事実だ。事実は紙より強い。
シモンは大声で叫ばない。
叫ぶと熱が先行する。熱が先行すると、後で冷えた時に反動が来る。
反動は暴力になる。
だから彼は、届く範囲の声で言った。
「今日は約束を配れない。だが——今日から手続きを見せる」
手続きを見せる。
退屈な言葉だ。
退屈だから効く。
彼は続ける。
「税も配給も、ここで順番を決める。順番は、席順と同じだ。——最初に助けるのは、最初に倒れる人間だ」
最初に倒れる人間。
飢えた子ども。
働いても働いても腹が鳴る者。
泣き声が紙に載らない者。
群れの中で、誰かが泣いた。
泣いた理由はわからない。
わからないが、その泣き方は“怒りの泣き”ではない。
少しだけ、息が戻る泣き方だ。
その瞬間、シモンは理解する。
旗の重りは軍ではない。
軍は最後の柱だ。
旗の最初の重りは——信頼だ。
信頼は、手続きの地味さでしか作れない。
派手な英雄譚では作れない。
作れないなら、地味にやるしかない。
地味にやるのは嫌だ。嫌なのに、必要だ。
必要だから、やる。
評議会の男たちは、顔をしかめながらも従った。
彼らは“英雄”をやりたがる。
英雄は気持ちいいからだ。
気持ちいい革命は腐る。
腐る前に、気持ちよさを奪う。
それがこの瞬間の政治の仕事だ。
夜、屋敷に戻る。
シモンは一人で窓を開け、湿った風を吸った。
風の匂いは港の匂いに似ている。
港は出発の匂い。
出発は戻れない匂い。
彼は呟く。
「……机は倒さなかった」
それは自分への確認だ。
倒さないで済むなら、まだ人間でいられる。
倒さずに剣を握るなら、剣を振る前に止められる可能性が残る。
可能性が残るなら、彼女の死は“ただの不運”ではなく、“ここから先の責任”に変わる。
ロドリゲスの机が倒れた音が、まだ耳に残っている。
音が残っているなら、支えになる。
支えがあるなら、次で剣を握っても、自分が剣にならずに済むかもしれない。
彼は最後に、モンテ・サクロの誓いを思い出す。
腕を休ませない。
だが今は、もう一つ付け足したい衝動がある。
——腕を休ませない。
——ただし、心臓を捨てない。
付け足すと長い。長いと檻になる。
だから口には出さない。
出さないまま、胸の中で燃料として残す。
第一章『出自と覚醒』完
次回は世界史屈指の頭のおかしい詐欺師が出てきます。架空の国作って市民権売って結構な数を犠牲にした野郎です。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
焔と華 ―信長と帰蝶の恋―
幸
歴史・時代
うつけと呼ばれた男――織田信長。
政略の華とされた女――帰蝶(濃姫)。
冷えた政略結婚から始まったふたりの関係は、やがて本物の愛へと変わっていく。
戦乱の世を駆け抜けた「焔」と「華」の、儚くも燃え上がる恋の物語。
※全編チャットGPTにて生成しています
加筆修正しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる