シモン・ボリバル

伊阪証

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ミランダ

第六話

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紙が机の上にあるだけで、部屋の空気は変わる。紙は臭いがしない。臭いがしないのに、人間の呼吸を少しずつ薄くする。薄くなる呼吸は、恐怖の形をしている。恐怖は声を小さくし、声が小さくなるほど言葉は綺麗になる。綺麗な言葉は、血を隠す。
評議会の部屋は明るかった。昨日より蝋燭が増えたわけではない。人が増えた。人が増えると、席が増える。席が増えると、席順が生まれる。席順はただの礼儀ではない。誰が最初に口を開くか、誰が最後に署名するか、誰が沈黙を担当するか――その並びが、外へ出た時に“正しい顔”になる。正しい顔は盾になる。盾は必要だ。必要なのが、腹立たしい。
窓の外では、昨日の「望まぬ!」の余韻がまだ街に残っていた。残っているのは勝利の熱ではない。勝利に似た高揚の匂いだ。高揚は酒に似ている。酒は喉を通る時に甘い。甘いものは腹に溜まらない。溜まらないから、もっと欲しくなる。もっと欲しくなった時、人は次の敵を必要とする。敵がいなければ、隣の人間が敵になる。
議長格の男が咳払いをして、言葉を整え始めた。整えた言葉ほど危険だ。危険なのに必要だ。必要な危険は、政治の本体みたいな顔をしている。
「我々は陛下に忠誠を誓う。だが、陛下が不在である以上、秩序を維持するために――」
秩序、忠誠、維持。盾の単語が並ぶ。盾は矢を防ぐ。矢を防ぐと同時に、盾は視界を狭める。視界が狭くなると、盾を持っていることに安心して、足元の穴を見なくなる。足元の穴は配給に繋がり、配給は腹に繋がり、腹は政治を噛む。
机の上には書簡の写しが並んでいた。欧州から届いた噂を、噂のままにしておくと致命傷になる。だから噂は紙になる。紙になった噂は、すぐに“報”へ姿を変える。報は命令の前段階だ。命令の前段階には、もう兵の影がある。
「フランスの皇帝がスペインに干渉している」
皇帝。その単語は、シモンの胸の奥で金属みたいな音を立てた。パリの戴冠の熱と、熱の裏側にあった冷たさが、皮膚の内側に戻ってくる。自分で冠を置くことができる男がいる。男は世界を形にできる。形にできる欲は、必ず他人の骨を踏む。踏む音が静かなほど、後で大量の血が出る。
「スペイン本国が揺れているなら、こちらも備えねばならん」
備える。備えるという言葉が嫌だった。備えるは、言い訳の前置きにされることが多い。備えると言った人間が、いつも備えた責任を取るわけではない。責任を取らない備えは、ただの時間稼ぎになる。時間稼ぎの先で、腹が先に飢える。
議長は続ける。
「まず外へ、我々が反逆ではないことを示す必要がある。――使節団を派遣する」
使節団。外交。紙の匂いが濃くなる。紙の匂いが濃いほど、現場が遠ざかる。だが現場が遠ざかっている間に、敵は現場で先に動く。
シモンは黙って、羽ペンの並びを見た。新品の羽ペンは、よくインクを運ぶ。よく運ぶインクは、よく死者を運ぶ。命令書、徴発令、逮捕状。紙が増えるほど、死者の数は計算しやすくなる。計算しやすい死は、政治の中では軽く扱われる。軽い扱いは、現場で重い恨みになる。
「ボリバル」
呼ばれて、視線が一斉に集まる。目は歓迎ではない。評価だ。評価の目は、本人の目ではなく役割の目だ。役割の目は冷たい。冷たいのに、冷たい自覚がない。そういう冷たさが、最も人を殺す。
「君は欧州を見てきた。状況をどう見る?」
問いは鋭い。鋭い問いは答えを求めていない。答えの責任を求めている。ここで答えれば、その答えは“君が言った”になる。君が言ったは、君が背負うになる。背負うのは望んだことだ。だが背負うなら、背負い方を選ばなければならない。
シモンは一呼吸置いてから、短く言った。
「名分を固める必要があります」
名分。言い換えれば盾の中心。盾を中心で支えなければ、盾は重さで落ちる。落ちた盾は味方の足を折る。味方の足が折れると、敵は矢を撃たなくて済む。敵は待つだけで勝てる。
議長が頷く。
「その通りだ。陛下への忠誠を明記した文面を添える」
忠誠、忠誠、忠誠。盾が厚くなる。厚い盾は疲れる。疲れた人間は、盾を手放したくなる。盾を手放した瞬間に矢が刺さるなら、人は盾を憎む。憎んだ盾を叩き壊すと、次に出てくるのは盾ではなく鎖だ。鎖は盾よりも簡単に人を守るふりができる。ふりができるから、鎖は長生きする。
書記が新しい紙を広げ、議長の言葉を整った文章に変えていく。整った文章は安心する。安心は危険だ。安心した瞬間、誰も“外の声”を聞かなくなる。外の声を聞かない政治は、必ず外から殴られる。
殴られる前に、叩く場所を変えなければならない。
シモンは机の端を見た。倒れない机。倒れないように作られた机。その机の上で、国が作られていく。机を倒すと気持ちはいい。気持ちいいが短命だ。短命の気持ちよさは、後で一番弱い人間を噛む。噛まれるのは嫌だ。だから倒さない。倒さないで進める方法を探す。
「使節団の文面だけでは足りません」
言った瞬間、空気がほんの少し硬くなる。硬くなるのは正しい。硬い空気は、今から刃が出る合図だ。刃を出すなら、刃の向きを決めなければならない。
「何が必要だと?」
議長の声は丁寧だった。丁寧な声は、反対の準備ができている声だ。反対は論理の形で来る。論理は便利だ。便利な反対は、現場を殺す。
シモンは、紙ではなく窓の外を一瞬見た。市場の方向。そこには腹がある。腹は条文を読まない。腹は署名を見ない。腹は匂いで判断する。匂いが腐れば、旗はすぐに燃やされる。
「運用です」
運用と言った瞬間、数人が眉を動かした。運用は泥の言葉だ。泥の言葉は上品ではない。上品ではない言葉を上品な部屋に持ち込むと嫌われる。嫌われる言葉ほど必要だ。
「徴税。配給。治安。命令系統。――その見取り図を作らないと、名分の盾は腹に負けます」
“腹に負ける”という表現が、場を一瞬だけ黙らせた。黙りは否定ではない。計算だ。計算している間に、時間が流れる。流れた時間は敵に落ちる。時間はいつも、先に動いた側の味方をする。
議長が咳払いをし、話題を戻そうとする気配を見せた。戻すのが政治の癖だ。癖があるから政治は長生きする。長生きする政治は、時に国を殺す。
「運用の話は追って。まずは外へ向けた声明が先だ」
正しい順番だ。正しいが、それだけでは足りない。足りないことを知っているのに、正しさの盾を掲げて前へ進む。この気持ち悪さが政治だ。気持ち悪いからといって投げ出すと、次はもっと気持ち悪いもの――暴力が来る。
シモンは頷いた。頷いたのは服従ではない。合図だ。今の段階で必要な盾を認め、次の段階で必要な骨を要求するための合図。
議長は文面を読み上げた。「陛下に忠誠を誓う我々は――」と始まる文章。文章は整っていた。整っているほど、戦争の匂いが消える。匂いが消えると人は油断する。油断は死ぬ。
読み上げが終わり、署名が回る。ペンを持つ手が次々に紙の上を滑り、曲線が増えていく。曲線は美しい。美しい曲線は、責任の角を丸める。丸まった責任は、あとで尖って戻ってくる。
シモンの前に紙が来た。署名欄。線。線の上に名前を書く動作は、幼いころと同じだ。だが意味が違う。同じ動作で意味が違うなら、これは檻ではなく鍵になり得る。なり得るのが怖い。鍵は開く。開いた先には外がある。外は自由だ。自由は危険だ。危険だから、自由は守る価値がある。
ペン先を置く。インクが滲む。滲みは音を立てない。音を立てないからこそ、滲みは決定になる。決定は、後から分岐点だったと気づく。気づいた時には戻れない。戻れないのは望んだ。望んだなら、責任は自分の側に置くしかない。
署名を終え、ペンを戻すと、議長が言った。
「よし。これで外へ示せる。――次は内部だ」
内部。次は内部。内部の話をする時、最初に割れるのはいつも“味方”だ。味方が割れた時、敵は矢を撃たなくて済む。敵は笑う。笑う敵の顔は見たくない。見たくないなら、割れ方を先に決めなければならない。
会議が散り始める。散り方が早い。早い散りは、誰も責任を抱えたくない散り方だ。責任を抱えたくない者ほど、戦争を招く。戦争は責任を曖昧にしてくれるからだ。曖昧になった責任の下で死ぬのは、いつも紙に載らない人間だ。
廊下に出ると、屋敷の空気に似た匂いがした。良い布、良い革、良い石鹸。だが、その下に焦りの汗が混じっている。汗が混じるとき、人は本気だ。汗は嘘をつかない。汗の匂いは、紙より正直だ。
窓際で立ち止まり、シモンは遠い市場の方向を見た。声が届かない距離でも、腹の動きは見える気がした。今日の声明は盾になる。盾になって時間を稼ぐ。稼いだ時間で何をするかが、今後を決める。盾を厚くするだけなら簡単だ。簡単な道は鎖に繋がる。
鎖に繋がらないための道は、地味で、退屈で、嫌われる。
運用。徴税。配給。規律。兵站。
言葉は硬い。硬い言葉は冷たい。冷たい言葉は人を傷つける。だが冷たい言葉を避けると、後で鉄と火が来る。鉄と火は、冷たい言葉より多くの人を傷つける。
シモンは、胸の中で短く決めた。
盾は必要だ。だが盾は目的ではない。
盾で時間を稼ぎ、その時間で――剣を握る手を整える。
扉の向こうから、また呼ばれる声がした。
次の紙が来る。次の紙が来る前に、外の匂いを一つだけ吸い込んでおく。
港の匂い。出発の匂い。戻れない匂い。
戻れない匂いの中で、彼は歩き出した。

朝の光は、勝利の顔をしていた。勝利の顔は白い。白い顔は清潔に見える。清潔に見えるものほど、汚れた現実を隠すのが上手い。窓から差す光が机の上の書類を照らすたび、紙は一瞬だけ“正しいもの”に見えたが、その正しさは胃に落ちる前に喉で止まった。
評議会の部屋は、昨日より整っていた。整っている空気は、誰かが安心した空気だ。安心は必要だが、安心はたいてい最初に間違える。安心すると、人は「もう終わった」と錯覚する。終わったと錯覚した瞬間、現実は「今からだ」と言って殴ってくる。
議長格が咳払いをして言った。
「声明は出した。使節団の準備も進める。——次は、市内の安定だ」
安定。便利な言葉だ。便利だから危険だ。安定という言葉は、石の上に家を建てた気にさせる。だがこの国の足元は、まだ石じゃない。濡れた土だ。濡れた土の上で安定を口にすると、靴が沈む。
「市場が荒れているらしい」
誰かが言い、別の者が「噂だ」と言い、別の者が「放っておけば沈む」と言った。放っておけば沈む、という発想は正しい。正しいが、その“沈む”の中身が何かを言わない時点で、すでに政治の負けが始まっている。沈むのは噂ではない。沈むのは、腹だ。
シモンは椅子の背に指を置いた。椅子の背は木でできている。木は紙より正直だ。木は座ると軋む。紙は座っても軋まない。軋まない紙の上で決まったことほど、現場で急に折れる。
「見に行きます」
その一言で、部屋の視線が少しだけ動いた。動き方が嫌だった。心配ではない。期待だ。期待の視線は、誰かを道具にする視線だ。だが今は、その道具であることが“必要”でもある。必要な道具ほど、後で恨みを買う。
議長が頷く。
「君は外の匂いに慣れている。…頼む」
頼む、という言葉の形をした命令だった。命令が嫌なら、拒否すればいい。拒否すれば、次はもっと雑な命令が来る。雑な命令は、血を増やす。血を増やしたくないなら、嫌でも“丁寧な命令”を引き受けるしかない。政治は、そういう嫌さの積み重ねでできている。
部屋を出ると、廊下の空気が一段軽かった。軽い空気は危ない。軽い空気は、誰かが「まだ大丈夫」と思っている空気だ。まだ大丈夫と思っている間に、街は先に壊れる。
外へ出ると、熱があった。湿った熱だ。肌に張り付く熱は、呼吸を急がせる。呼吸が急ぐと、心も急ぐ。心が急ぐと、口が先に動く。口が先に動くと、言葉が刃になる。刃になった言葉は戻らない。戻らない刃は、必ず誰かに刺さる。
市場へ向かう道は、普段より音が多かった。足音、車輪、鍋の鳴る音、犬の吠え声。生活の音は平気で続く。続く生活の音の中に、たまに混じる“切れ目”が怖い。切れ目は、急に静かになる。静かになった瞬間、人は次の一撃を待つ。
市場の入口で、最初に目についたのは値札だった。値札は紙だ。紙は軽い。軽い紙が、今日の人間の機嫌を全部決めている。腹の中の熱が、紙の小さな数字に引っ張られて揺れているのが見えた。
「塩が二倍だぞ!」
「米はどこだ、昨日まであった!」
「貯めてるんだろ、上の連中が!」
上の連中。便利な言葉だ。便利だから危険だ。便利な言葉は、矢の方向を決める。方向が決まった矢は、次に飛ぶ。飛んだ矢は、たいてい当たるべき場所ではなく、当たりやすい場所に刺さる。
シモンは群れの中へ入らない。だが離れすぎない。距離の取り方は、剣術に似ている。近すぎれば刺される。遠すぎれば届かない。政治は剣術より厄介だ。相手が剣を持っているかどうかが、最後までわからない。
商人の一人が叫んでいた。顔が赤い。赤い顔は怒りの顔だが、怒りの中に恐怖が混じると、赤は濁る。濁った赤は、次に嘘をつく。
「俺たちだって仕入れが来ねえんだ! 船が——」
「嘘だ!」
「紙を見せろ!」
紙を見せろ、という叫びが飛ぶ。紙は証拠になる。証拠は便利だ。便利だから、紙は奪い合いになる。奪い合いになった紙は破れる。破れた紙の代わりに出るのが、拳だ。拳は破れない。破れない拳は、人の骨を折る。
シモンは声を張った。張ったが、叫ばない。叫ぶと熱が勝つ。熱が勝つと、後で冷えた時に恨みが残る。恨みは紙より長生きする。
「——名前を言え」
短い言葉にすると、周囲が一瞬止まる。止まるのは、言葉が強いからではない。言葉の出所が“綺麗な服”だからだ。綺麗な服の言葉は殴り返しにくい。殴り返しにくいから、いったん聞く。その隙に、現実を差し込む。
「誰が止めた。誰が流した。誰が貯めた。…ここで言え」
怒号が減り、ざわめきが増える。ざわめきは情報の形だ。情報は刃になる前はただの素材だ。素材の段階で拾えば、刃になるのを遅らせられる。遅らせれば、その間に手続きが追いつく。追いつけば、血が減る。血を減らすのが席順の目的だと、昨夜の男は言った。ならば、今は席順ではなく“言葉の順番”で血を減らす。
商人が歯を食いしばって言った。
「港だ。港の検印が止まってる。検印がないと荷が動かせねえ。…役所が、止めてる」
検印。紙の匂いがする単語だ。印が止まれば、物が止まる。物が止まれば、腹が鳴る。腹が鳴れば、旗が飛ぶ。飛んだ旗は、誰かの手の中で武器になる。武器になった旗は、最初に市場を燃やす。
「役所がなぜ止めた」
シモンが問うと、別の声が割り込んだ。女の声だ。声が乾いている。乾いた声は、腹が減っている声だ。
「役所じゃない。役所の“役人”よ。賄賂だ。印を押す手が止まるのは、金が足りないとき」
賄賂という単語は裸だ。裸の単語は屋敷では嫌われる。嫌われる単語ほど現実だ。現実は裸で歩く。服を着ているのは嘘の方だ。
商人が言い返そうとしたが、言い返せなかった。言い返せない沈黙は、半分は肯定だ。肯定した瞬間、群れの空気が“敵”を一つ手に入れる。敵を手に入れると、群れは強くなる。強くなった群れは、次に押し寄せる。押し寄せる場所が港で済めばまだいい。次は評議会の扉になる。
シモンは女を見た。女の腕は細い。細いが、腕の動きが早い。働く腕だ。働く腕は、政治の言葉より正直だ。正直な腕を敵に回すと、国は折れる。
「名前は?」
女は一瞬だけ躊躇した。躊躇は恐怖ではない。計算だ。名前を言うと、名前が紙になる。紙になった名前は、どこかで首に縄になる。縄を恐れて黙るのは正しい。正しい沈黙が増えると、腐るのは制度だ。
「…言えない。でも港の列を見れば分かる。印の前で止まってる箱がある。あれが“止められた飯”よ」
止められた飯。言い方が痛い。痛い言い方ほど刺さる。刺さる言葉は、政治を動かす燃料になる。燃料は便利だ。便利だから、燃料は火も呼ぶ。
シモンは頷いた。頷いて、群れに向けて言う。
「港へ行く。——ここに戻る。印の理由を持って戻る」
約束はしない。約束は紙になる。紙になった約束は破れた時に暴徒を生む。だから約束の代わりに、行動の宣言をする。行動の宣言は嘘をつきにくい。嘘をつくなら、足が止まるからだ。足が止まった嘘は見抜ける。
群れの中で、子どもが咳をした。乾いた咳だ。乾いた咳は飢えの咳だ。飢えの咳は、政治に対する最終通告みたいな音をしている。最終通告は紙では来ない。最終通告は喉から来る。
港へ向かう道は、汗の匂いが濃かった。荷運びの男たちが、普段なら流れるように動く場所で立ち止まっている。止まっている荷は、国家が止まっているのと同じだ。国家が止まっていると、誰かが必ず勝手に動かす。勝手に動かす者は、たいてい“法の外側”の者だ。
印の場所は、想像より小さかった。小さい窓口。小さい机。小さいインク壺。小さい封蝋。小さいものが、街の腹を全部握っている。握っている手が小さいほど、握られた側は腹を立てる。腹を立てる腹は、次に殴る。
役人がいた。顔色は悪い。悪い顔色は、寝ていない顔色だ。寝ていないのは働いているからとは限らない。寝ていないのは、怯えているからかもしれない。怯えている役人は、規則にしがみつく。規則にしがみつく手は、賄賂も掴む。
「検印が遅れている」
シモンが言うと、役人はまず肩書を確認する目をした。目が肩書を探す時点で、仕事は紙の仕事だ。紙の仕事は、人間より紙を守る。
「規則通りです」
規則通り。規則通りは盾だ。盾を出した瞬間、話は長くなる。長くなる話は腹に負ける。腹に負ける話は拳に負ける。拳に負ける規則は燃える。燃えた規則の灰の上に、次に生えるのは鎖だ。
シモンは、役人の机の上を見た。印の隣に、別の紙がある。申請書ではない。帳面だ。帳面の端が黒い。指で擦った跡だ。黒い端は、よく触られている紙だ。よく触られている紙は、金の匂いがすることがある。
「その帳面は何だ」
役人の目が一瞬動いた。一瞬動く目は嘘だ。嘘を突く目は、次に言い訳を出す。
「…業務の記録です」
「見せろ」
短く言った。短く言うと、拒否が難しくなる。拒否すると、その拒否が“特別”になる。特別は紙になる。紙になった特別は、役人の首を絞める。首が絞まると人は折れる。折れた人は、次に誰かを売る。
役人は帳面を差し出した。差し出した手が震えている。震えは罪悪感ではない。恐怖だ。恐怖は正しい。正しい恐怖を無視すると、人は嘘で自分を守り始める。嘘で守った制度は、あとでまとめて崩れる。
帳面には、印を押した箱の番号と、押さなかった箱の番号が並んでいた。押さなかった箱の横に、小さな印が付いている。印の意味を、役人は言わない。言わないものほど臭いがある。臭いがあるものほど、正体は単純だ。
「——この印は?」
役人は口を開きかけ、閉じた。閉じる口は、誰かの名前を守っている口だ。守っているのは忠誠ではない。共犯の糸だ。共犯の糸は切れにくい。切るには刃が要る。刃は最後の手段だ。最後の手段を先に使うと、次がなくなる。
シモンは帳面を戻し、役人の目を見て言った。
「今日、港で血を出させたくない。——だからここで言え。誰が止めた」
役人の喉が鳴った。喉が鳴る音は、紙の擦れる音より正直だ。正直な喉は、最後には言う。最後に言わせる前に、逃げ道を一つだけ用意する。逃げ道がない言葉は、逆に嘘を生むからだ。
「…“上”です。上から、印を遅らせろと」
上。便利な言葉が出た。便利な言葉は責任を薄くする。薄い責任は、次に同じことを繰り返す。繰り返さないためには、上という言葉を“具体”にしなければならない。
「誰だ」
役人は目を閉じた。閉じる目は、名前を言う準備だ。準備ができた目は、後で恨む。恨まれても、港が燃えるよりはましだ。
「…税務官の——」
名前が出る直前、外で怒号が上がった。港の方からだ。怒号は波だ。波は遅れてやってくる。遅れてやってきた波は、止めにくい。止められるのは波が立つ前だけだ。今はもう、波が立っている。
シモンは役人に短く言った。
「その名前は、今は飲み込め。代わりに、印を押せ。今日の分だけでいい。——今押せ」
命令だ。命令を出すのは嫌だ。嫌だが、命令を出さなければ拳が先に出る。拳が出た後の命令は、銃になる。銃になる命令は、もう止まらない。
役人は震える手で印を押した。印が紙に落ちる音はしない。音がしないのに、港の空気が少しだけ変わった気がした。変わった気がしただけで、現実はまだ変わっていない。だが現実を変える最初の一手は、いつも“気がする”程度でしか始まらない。
荷が動き始める。動き始めた荷は、ほんの少しだけ、怒りを遅らせる。遅らせた間に、次の手を打てる。打てるなら、今は戻る。戻って、評議会の机に現場の匂いを持ち込む。
評議会へ戻る道で、シモンは自分の手を見た。インクは付いていない。だが“印を押させた責任”が指に残っている気がした。残る責任は、紙より重い。紙より重い責任を持ったまま、あの整った部屋へ戻るのが嫌だった。嫌だが戻る。戻らなければ、港の拳が先に部屋へ来る。
扉を開けると、部屋はまだ整っていた。整っているのに、空気は少しだけ薄い。薄い空気は、誰かが“外”を恐れている空気だ。恐れているなら、話は通る。恐れていないなら、話は詩になる。詩は腹を満たさない。
議長が問う。
「どうだった」
シモンは短く答えた。
「旗が軽い。腹が重い。——港の印が止まってました」
一言で、何人かの顔が歪んだ。歪む顔は、現実を嫌う顔だ。嫌っても現実は来る。来た現実を嫌う政治は、次に誰かを生贄にして延命する。延命は嫌だ。延命の先は、必ず独裁になる。独裁の匂いは、あの戴冠の日に嗅いだ。
「理由は?」
「賄賂の匂いがします。…でも今は犯人探しより、流通を動かす方が先です」
議長が眉を動かす。「犯人探しを後回しにする」という判断は、正しいが苦い。苦い正しさは嫌われる。嫌われる正しさほど、国を救うことがある。
「では、どうする」
“どうする”は罠だ。どうする、と言わせた時点で、責任をこちらへ渡している。渡された責任は重い。重い責任は、言葉を慎重にする。慎重な言葉は長くなる。長い言葉は腹に負ける。腹に負けないように、短く、しかし運用語で言う。
「暫定の流通規程を作る。検印の窓口を増やす。監督を置く。——そして、今日中に公示する」
公示。紙だ。結局、紙に戻る。戻るが、これは“檻の紙”じゃない。腹を待たせる紙だ。腹を待たせるのは、腹を騙すことじゃない。腹が納得できる順番を見せることだ。順番を見せれば、拳の速度が落ちる。落ちれば、次が打てる。
議長が口を開きかけ、止まった。止まるのは、別の問題が喉に引っかかったからだ。別の問題とはだいたい、軍か金だ。軍と金は、革命の胃袋を直で殴る。
「…監督を置くなら、誰が守る」
来た。守る、は軍だ。軍は最後の柱だ。柱を先に立てると、家が人を押しつぶす。だが柱がない家は、風で倒れる。風は今、港から吹いている。
シモンは一拍だけ置いてから言った。
「守るのは軍じゃなくていい。——まずは“見張り”でいい。武器より先に、目を置く」
目。目は安い。目は数で勝てる。数で勝てる目は、群衆にも理解できる。理解できる監督は、正当性の材料になる。正当性は盾だ。盾ができれば、次に剣を握る時間が稼げる。
議長は息を吐いた。吐いた息は、少しだけ現場の匂いに近かった。
「分かった。今日中に動かす。…ボリバル、君が窓口を見ろ。現場の線が切れないように」
現場の線。良い言い方だ。線が切れると、拳が出る。拳が出ると、次は銃だ。銃になる前に線を繋ぐ。地味な仕事だ。地味な仕事ほど尊い。尊いが、褒められない。褒められない仕事だけが国を作る。
シモンは頷いた。頷いて、机の上の紙を見た。紙は軽い。軽い紙を、今は“腹のため”に使う。腹のために使った紙が、後で“自由のため”に回るかもしれない。回らなければ、今日の紙はただの延命になる。延命は嫌だ。嫌だから、次の手も必要になる。
港が動いた。だが港が動いただけでは足りない。
次は、港を“止められない仕組み”を作らなければならない。
そして、その仕組みの話は、必ず最後に同じ単語へ辿り着く。
金。規律。命令系統。——そして、軍。
机は倒さない。だが机の上に置くものの重さは、ここから先で変わる。
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【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
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