陸上部vs美術部 〜トップスピードと一本線の物語〜

伊阪証

文字の大きさ
1 / 1

本編

しおりを挟む
作品の前にお知らせ

下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。

https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069

他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。


放課後の美術室に差し込む光は、既に斜めに傾いていた。窓枠の形をくっきりと床に焼き付け、部屋の隅に置かれたダビデ像の腹筋や、わずかに浮かび上がったふくらはぎにまで、鋭い陰影を刻み込んでいる。空気は重く、石膏粉の乾いた匂いと、画材の木が持つ独特の香りが混じり合い、部長が集中する静寂を強調していた。
部長は、デッサン用鉛筆を寝かせ、クロッキー帳の上で何度も何度も線を重ねる。彼の視線は、像の左脚、特に重力に抗うように緊張して盛り上がる腓腹筋のラインに固定されていた。鉛筆の芯が画用紙の粗い表面をザラリと掻き、微細な摩擦音が、部屋の静けさを切り裂く。
部長の机の上は、その特異な探究心を示していた。普通の美術部員なら置かないような、精密な筋肉解剖図が広げられている。その隣には、彼が授業外で制作したらしい、粘土でこねられたムキムキの腕の試作品が、血管の膨らみまでリアルに再現されていた。そして、今描いているダビデ像のデッサンは、まるで筋肉の解説図のように、顔の造形よりも脚と胴体の構造に異常なまでの熱量が注ぎ込まれている。
「部長、またダビデですか?しかもまた顔じゃなくて腹筋のデッサンですか。」
美術室の奥で自分の作品に取り組んでいた部員Aが、少し呆れたような声を上げた。声の主は、筆の動きを止めずに、顔だけを部長の方に向けた。
部長の指先には、鉛筆から移った黒い粉と、石膏の粉末が混ざり合い、まるでグラデーションのように層を作っている。彼は返事をせず、無言でふくらはぎのS字カーブに沿って、鉛筆を走らせた。その動きは、一瞬の躊躇もなく、対象の構造を完全に把握しきっている者の確信に満ちていた。
止まったポーズは、部長にとってすでに視覚的なパズルではない。それは、光と影の層、厚みと奥行きを、自分の知識と技術の延長線上で完全に解読済みの対象だった。彼は、この静止した形を描き切ることで、その構造を支配することと同義だと無意識に信じ込んでいた。
ここまで描ければ、動く人間だっていずれ描けるはずだ。美術の技術は「静」を積み重ねて「動」を表現するのだ。動いているモデルも、一瞬を切り取れば必ず止まっている。その一瞬を逃さず捉える観察力こそ、自分の持つ最大の武器であり、傲慢寄りの自信の根拠だった。描けないはずがない、と、彼は内心で固く信じていた。その信念こそが彼の行動の軸だった。
「このクロッキー、全部ランナーとかレスラーですよね?これ、なんでこんなにふくらはぎだけガチなんですか。」
別の部員Bが、部長の積み重ねられたクロッキー帳の山を指して言った。表紙が開かれたままになっている一冊には、力強く地面を蹴り出すスプリンターの脚のデッサンが、何ページにもわたって描き込まれていた。
部長は、ようやく口を開いた。彼の声は静かだが、反論を許さない重さがある。
「ふくらはぎこそ、重力に抗う力の象徴だ。大地を蹴り、身体を押し上げ、前に進むための、最も原始的で、最も雄弁な筋肉だ。」
彼は真顔でそう答えた。それは、単なる返答というよりも、彼の芸術の哲学を示していた。人間の魅力を描くということは、すなわち筋肉に宿る力を描くことだ。彼の目には、顔の表情や風景よりも、収縮と弛緩を繰り返す筋繊維の動きの方が、よほど雄弁に映っていた。
部員Aは、その真剣さに思わず口をつぐんだが、机の上の粘土細工を見て再び尋ねた。
「この、粘土で作ったムキムキの腕、完成したら何を握らせるんですか?剣とか、リンゴとか?」
部長は、粘土の試作品をちらりと見た。粘土はまだ湿り気を保っており、彼の指紋がうっすらと残っている。
「何も握らせない。ただ収縮と弛弛の形をそのまま残す。」
彼はそう言い切った。静止した形そのものに、彼は絶対的な価値を見出していた。彼の得意なことの一つは彫刻であり、それは「止まったポーズの描写精度は校内トップ」という自負を裏付けていた。
部員Bは、少し引き気味ながらも、部長の技術には敬意を払っていた。
「なんか、筋肉ゴリ押し芸術に引いてはいるんですけど、でも止まったポーズの精度は校内トップっすよね。顧問も誰も文句言えないレベルで。」
部員Bの言葉は、部長の自負を再び補強した。彼の描くデッサンは、単なる形を写し取ったものではなく、構造を理解し尽くした証だった。この自信こそが、次の敗北をより強烈なものにする。
部長は、ダビデ像のふくらはぎの線を最終的に一本引き、満足気に静かに息を吐いた。そして、部員たちに向けて、今回の会話の目的となる、傲慢寄りの自信を最終的に言語化した。
「止まってくれれば、誰の身体も描けるさ。静止した形は、私にとってすでに解読済みの構造だ。」
彼の声が、石膏粉の匂いが支配する美術室の静けさの中で、次の嵐の前の静けさのように響いた。静寂は、彼の技術の完成度を証明する。彼は、この自信が次の瞬間に、トップスピードという名の現実によって脆くも晒されることを、まだ知らなかった。
部長は、描き上げたふくらはぎの線をチェックするため、作品から少し距離を取ろうと、美術室の重いドアを押した。放課後の廊下には、夕方の太陽が差し込み、オレンジ色の光の帯を作っている。遠くからは、運動部員のざわめきと、スパイクがグラウンドを噛むような鈍い音が、規則的に聞こえてきていた。
ドアの蝶番がギィと鈍い音を立て、彼の身体が半身だけ廊下に出た。まさにその一瞬。
風と、金属音だけが、彼の目の前を横に走った。
まるで、見えない壁が目の前を通り過ぎたような感覚。一瞬、部長の髪が強く揺れ、制服の袖が何かに引かれたような気配が残った。その動きはあまりに速く、部長の視覚神経がそれを捉える前に、物体そのものが消滅したかのようだった。
彼の視界に残されたのは、ただの「残像一瞬」。
それは人影だったのか、動物だったのか、それすら定かではない。だが、地面すれすれで靴底の金属が床をたたいた高い音が、その場に響き、直後に廊下の遠くまで弾け飛んだ。風の通過によって、美術室の掲示板に貼られていた連絡事項の紙切れが、ふるりと遅れて震えた。
部長は、ドアにもたれかかるようにして、誰もいない廊下の遠方を凝視した。
彼の内心で、ある直感が強い光を放った。「今のフォーム、すごく綺麗だった」。ほとんど何も見ていない。見たのは、重力を完全に捨て去ったかのような、低い重心の「影」だけだ。それなのに、部長の全身のセンサーが、その一瞬の動きを「美しい」と判断した。
その一瞬は、彼がこれまでに完璧に描き切ってきたダビデ像の静止した美とは、全く異なる種類の、生き物としての力を内包していた。
「――っ、今は、誰?」
部長は、廊下の虚空に向かって思わず呟いた。彼の声は、静寂を取り戻しつつある廊下に虚しく響いた。
その直後、遠くのグラウンドから、部員たちの興奮した歓声が波のように届いた。
「速っ!マジで○秒台!?ありえねぇだろ!」
その歓声と、誰かがタイムを読み上げる声が、先ほどの風と金属音の主を間接的に示唆していた。あれは人間であり、今、途方もない速度で走っていたのだ。
美術室の中から、用具の片付けを終えた部員Aが、ひょっこり顔を出した。
「どうかしましたか、部長?」
部長は、まだ遠くのざわめきの方を見たまま、問いかけた。
「今の、廊下を走って行ったの、誰だ。陸上部の生徒か?」
部員Aは、その問いに何の疑問も持たなかったように、簡単に答えた。
「ああ、あれは多分、陸上部の新しい一年生ですよ。最近入った子ですけど、顧問が毎日タイム読み上げて、部内が騒がしいんです。」
「新しい一年生・・・」
部長は、その言葉を繰り返した。彼の脳裏には、先ほど描いた完璧な静止したふくらはぎのデッサンと、今、視界から逃げていった残像一瞬が、強烈なコントラストを成して焼き付いていた。
「やばいですよ、あの子。中学時代から記録保持者で、走る才能がゴリラって言われてますけど、フォームが本当にクリーンです。」部員Aは面白がって続ける。「誰もあんな速い奴、描こうとしないですよ。」
「誰も描こうとしない」。その言葉が、部長のプライドを刺激した。彼は、止まっている筋肉の構造を完全に理解しているという自負がある。しかし、今、彼の技術は、その最高の美を前にして、観察すら成立しなかったという現実を突きつけられた。
「ちゃんと見られなかった」
その事実に、言いようのない悔しさが腹の底から湧き上がってきた。彼の得意分野は「観察」だ。その観察力が、速すぎて敗北したのだ。彼の内心には、言語化しきれない「今の、ちゃんと見たかった」「あれを描けなきゃ、私の描く意味がない」というモヤモヤが、熱い塊のように残った。
彼の手は、気づかぬうちにクロッキー帳を強く握りしめ、手のひらには鉛筆の芯が食い込む寸前だった。
部長は、廊下に残された風の名残と、遠くで響く歓声を、睨みつけるように見つめた。その表情は、先ほどの美術室での傲慢な自信とはかけ離れた、驚きと挑戦意欲が混じったものだった。
部長は、グラウンドの隅、鉄柵の影に身を潜めるように立っていた。練習着に着替えた陸上部員たちが、トラック上でウォーミングアップを始めていた。遠くから聞こえる砂の弾ける音や、顧問の指示を待つ部員たちの低いざわめきが、静かな日常を構成している。
しかし、その中で、一人だけ明らかに空気を変えてしまう存在がいた。
新星だ。
彼がスターティングブロックに足をかける瞬間、周囲の音は一瞬で遠のく。ブロックにスパイクのピンがゴツと噛み合う鈍い感触の音が、部長の立つ場所まで伝わってくる。そして、顧問が握るストップウォッチの「ドン」という、金属の鈍い響きの号砲。
空気が破裂するような、あの廊下で感じた風の暴力が、今、目の前で再現された。
部長は、硬く握りしめた鉛筆を、クロッキー帳の紙に叩きつけるように走らせた。狙うのは、新星の走り出しの前傾姿勢、地面を低く捉える力強い一歩目だ。彼は自分の持つ、静止モデルの完璧な構造知識を総動員して、その瞬間を解読しようとした。
しかし、彼の視覚は、彼の指先に追いつかなかった。
新星の足が地面に触れる時間は、他の部員と比べて明らかに短い。その接地は、まるで地面を優しく撫でているようでありながら、全身の力を一点に凝縮して爆発させる瞬間でもあった。その複雑な運動の流れを、部長の観察眼は捉えられない。
輪郭を描こうとすれば、新星の身体はすでに次の位置へ移動している。腕の振り、膝の高さ、腰の捻り。どこか一点に集中した瞬間、全体の形が崩壊する。
クロッキー帳の上で、線は途中で途切れ、短い破片のような線の羅列が増えていくだけだった。まるで、高速で回転するプロペラを写真に撮ったときのように、形が霧散してしまっている。
部長は、ページを苛立たしげにペラリと捲った。新しいページに移り、もう一度、新しい試みをする。木炭で描けば、スピードを線ではなく影の塊として捉えられるのではないか。だが、黒い塊は、新星の持つ洗練されたフォームの美しさとはかけ離れた、ただの埃っぽいシミにしかならない。
――止まってくれれば、描けるのに。
部長の心の奥底から、この弱音が本音となって喉までせり上がってきた。止まってさえくれれば、彼はダビデ像と同じように、光と影の理屈でその身体を完璧に解体し、再構築できる。
しかし、彼はその言葉を、固く噛み締めた奥歯の裏で押し留めた。
それを口にした瞬間、美術における自分のプライドが死ぬと直感的に理解していた。自分は「止まっている誰の身体も描ける」と自負している。だが、「止まらないと描けない」と言ってしまったら、それは静止した対象を描く技術者にとどまり、「動く身体の真の美」を捉えようとする芸術家ではいられない。
彼は、自分の観察力と技術が、今、このトップスピードという名の現実に負けていることを実感せざるを得なかった。
グラウンドでは、流しを終えた陸上部員たちが集まって、熱を帯びた会話を交わしていた。
「また記録伸びたぞ!なんだありゃ、本当に高校生かよ!」
「マジでやばい。あいつ、地面と喧嘩してないんだよ。なんか軽く、触れてるだけみてえな。」
顧問がタイムを読み上げる声が、風に乗って微かに聞こえてくる。「11秒01!」。驚くべき数字が耳に入ってくるが、部長の意識は、その数字には全く向かわなかった。彼の頭の中にあるのは、「描けない」という悔しい事実だけだ。
部長は、誰もいない柵の影で、鉛筆を握りしめたまま、小さく独り言を口にした。それは、誰かに聞かせるための言葉ではない。
「……もう一回……ちょっとだけ、止まって……くれ」
言いかけた瞬間、彼は自分の唇を強く噛んだ。
ダメだ。止まってもらって描いたものは、「彼」ではない。
あの廊下で感じた「綺麗だった」という直感は、彼がトップスピードで走り抜けたからこそ生まれたのだ。その速度こそが、彼の持つ真の姿であり、それを描けないのなら、静止した筋肉図を描いているのと何ら変わりはない。
彼は、中途半端な線で埋め尽くされたスケッチブックを、力任せにバタンと閉じた。その衝撃で、鉛筆の芯が折れて、土のついた指の横を転がった。
部長は、この「観察の技術が通用しない」という初めての敗北を、体中の細胞で認識した。この時、彼の心の中には、まだ「止まってくれたら楽」という誘惑が、諦めという名の逃げ道として微かに残っていたが、次の決意がその誘惑を打ち砕く準備を整えていた。
時刻は既に遅く、美術室は重い静寂に包まれていた。窓の外は濃い藍色に沈み、校庭の隅にあるナイター灯の白線だけが、ぽつんと光源となって窓ガラスに反射していた。冷え始めた室温とは対照的に、部長の指先は熱を持っていた。
机の上には、鉛筆の線が乱雑に走ったクロッキー帳が何冊も広げられている。全て、昼間に見た新星の残像を、どうにか形にしようとした試みの痕跡だ。しかし、どのラフも中途半端に終わり、彼の求める生命力を帯びていない。
彼は、ふと目を上げ、部屋の隅に立つダビデ像を見た。いつ見ても完璧な、静止した筋肉の造形。今日の彼には、その完璧さがどうにもピンとこない。それは彼の技術をもってすれば、既に解読され尽くした絵であり、今はただ、描けない現実から目を逸らすための言い訳にしかならないように感じられた。
――止まってくれたら、こんな苦労はしない。
今日一日の敗北と、無駄になった紙の山を見て、その安易な考えが一度、部長の頭にしっかり浮かび上がった。もし彼に「モデルとして、一瞬だけ止まってくれ」と頼んだら、彼は最高のポーズを取ってくれるだろう。そうすれば、自分はいつものように完璧なデッサンを描き上げられる。
それを想像した、その瞬間。
部長の全身に、冷たい水が浴びせられたような感覚が走った。
「それをやったら、一生『止まった人間』しか描けなくなる」
彼は確信した。静止を強要した時点で、彼は動く身体の真実から目を背けたことになる。自分が求めていたのは、「静止したポーズ」の描写精度ではない。“生きている身体”を自分の絵で証明したい、という最初からの欲求を、その一言で裏切ることになるのだ。
「止まってポーズを取ったあんたは、あんたじゃない」
部長は、誰にも聞こえない、低い声で呟いた。その怒りは、新星の速さではなく、弱音を吐きかけた自分自身に向けられていた。
彼は苛立ち、鉛筆を強く握りすぎた。
パキリ。
硬質で乾いた音が響き、デッサン用鉛筆の芯が根元から折れた。折れた真っ黒な先端は、消しゴムのカスと石膏の粉が散らばった机の上に、ぽつんと残された。まるで敗北の象徴のように。机の上は、白と黒の粒でザラザラとしており、部長の混乱を視覚的に示していた。
部長は、折れた鉛筆を机に置き、深く息を吐いた。そして、窓の外のナイター灯に照らされ、静かに佇む空のトラックを見た。
「止まれって言えば簡単なんだよ。でもそれじゃ、面白くないでしょ。」
彼は、静寂の空間で、もう一度、自分に問いかけるように声を出す。誰も返事をする者はいない。
「動いているまま描けなきゃ、私がやる意味がない。」
彼の声は、もはや弱音ではなかった。それは、「動いたままを描く」という、彼の芸術家としてのプライドの向きを完全に決める宣言だった。「形を止めて写す」という過去の自分から、「動きそのものを線にする」という未来の自分への、強い決意だ。
止まらないなら、止まらないまま描く。
この結論は、冷静な理屈から生まれたものではなく、意地と敗北の悔しさという熱い感情の収束点だった。
これで、部長の目標は明確に定まった。彼の描きたいものは、新星の「トップスピード」そのものだ。
彼はこの意地を賭けて、「トップスピードで走らせたまま描く」という、無茶な交渉を新星に持ちかける必然性が生まれた。部長は、折れた鉛筆の隣に、次の制作に使うための針金をそっと置いた。彼は既に、静止したポーズを描くための木炭や鉛筆とは違う、新たな道具を探し始めていた。
放課後のグラウンドに、橙色に傾き始めた太陽が、長い影を落としていた。
部長は、昨日の柵の外ではなく、今日はトラックの脇、砂場近くのベンチの影に立っていた。スケッチブックと、黒く鈍い光を放つ木炭を詰めた道具袋を足元に置いている。これは、彼の行動が「単なる覗き見」から「当事者としての接近」へ変わった、明確な一歩だった。
陸上部の練習は、既に佳境を過ぎ、メニューの終盤に入っていた。トラックを走る部員たちの足音は、ウォーミングアップの時とは異なり、疲労の色を帯びながらも、最後まで力を振り絞る義務感を含んでいた。
その中で、新星はラストのダッシュを終えたばかりだった。彼はゴール付近で立ち止まり、深く膝に手をつき、荒い呼吸を整えている。彼の肩や背中からは、体内の熱が放出されるかのように微かな湯気が立ち上っているのが見えた。その姿は、まるで激しく燃焼し尽くした後の鉄の塊のような、圧倒的な存在感を放っていた。
部長は、手元のスケッチブックの白い紙と、熱を帯びた新星の背中とを、何度も往復して見比べる。
「話しかけないと、何も始まらない」、頭では十分に理解していた。昨夜、自らの手で固めた「動いたままを描く」という強烈な決意を、今、この場で行動に移さなければ、それはただの空虚な口先になってしまう。
しかし、足が動かない。部外者が、熱を持った部活の空間にズカズカと入り込むことを嫌う空の空気と、彼らが持つ独特の緊張感を知っているからだ。新星が今放っている、「誰にも邪魔されたくない」という集中力と疲労のオーラが、部長の接近を拒絶しているように感じられた。
部長は、タイミングを計ろうと、呼吸の回数や周囲のざわめきを何度も測った。「今なら迷惑にならないか」「もう少し待った方がいいか」。その躊躇は、彼の観察者としての癖であり、同時に行動者としての未熟さを示していた。
一方、新星は呼吸を整えながらも、視界の端で、同じ場所に立っている影が動かないことに、なんとなく気づいていた。練習中、集中している間は意識をそちらへ向けなかったが、ダウンに入り、集中が解け始めた今、その観察の視線の存在を認識していた。
「さっきから、あのベンチの影にいるのは誰だろう。何の用だ」
彼はまだ、その影が昨日の柵越しにいた人物と同じか、また美術部の部長であるかを知らない。ただ、「タイムを読む顧問でも、カメラを持った保護者でもない、ただ見ているだけの影」が、自分に向かっているという認識だけがあった。その視線は、彼にとってまだ無害だが、違和感を伴っていた。
グラウンドの向こうでは、顧問が「よし、今日はここまで。片付けろ」と、やや疲れた声で部員たちに指示を出した。部員たちが一斉に散らばり、雑然としたざわめきと共に片付けを始める。この瞬間が、部長にとって、行動の窓だった。
部長の足元に伸びる影は、夕日の光を受けて、ベンチの影から長く、新星の方へ向かって伸びていた。
「ここで声をかけられないなら、私の“描く”なんて、口先だけだ。」
彼は、自分自身に向けて、そう結論付けた。この一歩は、描くことのプライドを守るための、避けては通れないステップだった。
部長は、手元の道具袋を強く握りしめ、ベンチの影から一歩、踏み出した。砂利と土の境目を踏み越え、新星のいるゴール付近へと向かっていく。
新星は、その微かな足音を捉え、ようやく顔を上げた。荒い呼吸の中に、見知らぬ人物の接近という新しいノイズが入り込んできた。二人の視線が交差する手前で、このブロックは終わりを迎える。
部長がベンチの影から踏み出し、トラックの砂利を踏みしめる音が、片付けのざわめきの中に混ざった。新星は、タオルで額の汗を拭きながら、正面からまっすぐ向かってくる部長の姿を、目線だけで捉えた。
彼の視界に入った部長は、制服の袖口や頬に、僅かに石膏粉を付けている。そして、脇に抱えたクロッキー帳の端から、黒く鈍い光を放つ木炭の粉が漏れ出ているのが見えた。新星は、その手の汚れと道具を一瞥し、「美術部だな」と即座に推測した。勧誘か、または単なるファンからの挨拶か、といったところだろう。彼は軽く身構えながら、汗で濡れた髪をタオルで押さえた。額からまだ、粒になった汗が地面の土に落ちている。
部長は、新星の正面、彼がわずかに見上げる位置で立ち止まった。部長の胸は、緊張で細かく脈打っていたが、それ以上に、「あの動きを描きたい」という純粋で強い欲求が彼の声帯を動かした。
彼は遠回しな挨拶を全て削り、昨日から自分の中で固めてきた結論をストレートに投げつけた。
「あなたの走りを描かせてほしい。」
新星は、一瞬だけ、目を細めた。あまりに唐突な切り出しだった。彼は肩にかかったタオルの端を指先で弄りながら、軽く、そして少し探るような調子で返した。
「……ファンクラブでもできたんですか。それか、美術部のモデル勧誘?」
新星の言葉には、軽口と、相手の真意を探るための距離感が半分ずつ含まれていた。彼は、部長が単なる「速いね」と褒めるだけのファン目線かどうかを測っている。彼の目には、部長の持つスケッチブックの白さが、ただの暇つぶしではないかという疑念が映っていた。
部長は、その軽口に動揺せず、一歩も引かなかった。彼の目は、熱心に筋肉の構造を追いかけているときと同じように、新星の瞳の奥を真っ直ぐ見つめていた。その視線に、新星は一瞬だけ真の熱意を感じ取り、それまで浮かべていた皮肉めいた笑みを半分引っ込めた。
部長は、ここで遠回しにしても、このトップスピードを持つ相手には伝わらないと知っていた。彼の「描きたい」という欲求は、もはや「描くべき」という使命感に近かった。
「ファンクラブじゃない。私は、あなたの身体の動きを、私の手で線にしたい」部長は言葉を継いだ。「静止したダビデ像を描くのと同じくらい、本気で。」
新星の呼吸は、すでに落ち着きを取り戻しつつあったが、部長の放つ「静止したダビデ像と同じくらい」という言葉に、再び意識的な緊張が走った。彼は、美術部の人間にとって、それがどれほどの集中と技術を意味するかを知っていた。
新星は、少し興味を持ったように、部長の身体の汚れ――石膏粉の白と木炭の黒――を見つめた後、尋ねた。
「じゃあ、止まってポーズを取ればいいんですか?よくある、腕組んで、力んで、みたいな。」
新星は、そう言われるだろうと想定していた。ほとんどの美術の授業で求められるのは、決まったポーズを取る「静止モデル」だ。そう言えば、この対話もすぐに終わる。
しかし、部長は即座に、迷いなく首を振った。彼の動作は素早く、考える余地も与えない。
「違う。」
新星は、その一瞬の否定に、少しだけ驚きの感情を滲ませた。
部長は、昨日喉まで出かかった弱音を、今度は誇りとして新星の目の前で言語化した。
「止まってたら、あなたじゃないでしょ。」
その言葉は、彼が昨日、夜の美術室で自らのプライドを守るために下した結論そのものだった。止まってポーズを取った新星は、廊下を風のように通り過ぎた「あの美しさ」ではない。
周囲では、片付け中の部員たちの視線が、遠巻きに二人を捉えていた。その視線は、「何が起こっているんだ?」という好奇心を含んでいたが、二人の間の会話には介入しなかった。
新星は、部長の「止まってたら、あなたじゃない」という言葉を、顎のラインで受け止めた。彼は、この人が「俺の走っているところ」を、本気で見たいと思っているらしい、と理解した。二人のプライドの方向性が、ここで初めて互いの口から明示されたのだ。
片付け中の部員たちは、二人の間の張り詰めた空気を察し、自然と距離を取り始めていた。トラック脇は、まるで舞台の袖のように、周囲のざわめきが少し遠のき、二人の声だけが近く感じられる空間となっていた。
新星は、部長の「止まってたら、あなたじゃないでしょ」という強い拒絶を受けて、初めて真剣にこの美術部の人間と向き合おうと決めた。彼は、まだ半分残っていたタオルを首にかけ直し、部長をじっと見据えた。
「ねぇ。本気で俺の走りを描くって言うならさ、ちょっと試させてよ。」
新星の目は、先ほどのからかい半分の視線から、一気に探るような真顔へと変化していた。彼は、過去に何度も「速いね」「すごいね」という漠然とした言葉だけで、フォームの癖や、走り出す瞬間に抱えていたわずかな迷いを、誰にも見抜いてもらえなかった経験がある。だから、「ちゃんと見てる人」かどうかを、ここで見極めたいのだ。部長が曖昧なことしか言わなければ、その時点でこの話は終わりだ、と心の中で決めていた。
部長は、その挑戦的な視線に、わずかにムッとした。自分の観察力が試されている。しかし、それは同時に、彼のプライドを真正面から肯定された瞬間でもあった。
「どうぞ」部長は短く返した。彼の全身には、「なめられたくない」という静かな対抗心が漲っていた。
新星の問いは、シンプルで核心を突いていた。
「さっきの流し、どこが良かったと思ってる?速さとかタイムじゃなくてさ。」
部長は、一瞬の沈黙の中で、脳裏に焼き付いた残像の断片を猛スピードで再生した。「漠然と『綺麗だった』だけではダメだ」と彼は分かっている。だが、彼は解説者ではない。美術部の人間として、技術用語をベラベラ並べるのではなく、見えたものをそのまま、形として言葉にする必要がある。
彼は、地面を見つめていた視線を、再び新星の顔に戻し、見たままの感覚を短く並べた。
「スタートの二歩目までが重くて、地面に食い込んでた。その先で、急に地面が軽くなったみたいに見えたこと。」
新星の表情が、微かに動いた。その「重さ」と「軽さ」の切り替えは、彼自身が意識して行っている重心移動の技術だった。
部長は、新星の小さな反応に励まされるように、さらに続けた。
「あと、肩が上がらないまま、腕だけ振れてた。たぶん、あれが、誰かに見られても手加減しないで普段から叩き込んでる基本のフォームなんだろうって思ったこと。」
「最後まで、前を見てたこと。」
部長は、新星の視線が、ゴールのテープや、その向こうに置かれたストップウォッチではなく、さらに遠くの空間を捉えていたことを思い出した。
「時計じゃなくて、ゴールの向こうを見てた。目標が数字じゃなくて、もっと遠いところにあるように見えた。」
新星は、部長の答えを聞きながら、次第にそのからかい半分の表情を完全に消し去った。彼の目には、部長の言葉が、単なる感想ではなく、正確な描写として映っていた。特に、「二歩目までが重く、その先で軽くなった」という表現は、彼が理想とする力の使い方そのものだった。
新星は、自分の走りの核心を、この美術部の部外者に、わずか数十秒の観察で見抜かれたという事実に、驚きと、そして奇妙な納得感を覚えた。
「観察されてるのは自分の方か」新星の心の声が静かに響いた。彼は、今、この美術部の部長が、自分のトップスピードの裏側にある意志を見ようとしていることを理解した。この人は、数字ではなく、自分の形を見ようとしている。それは、彼がずっと求めていた「本気で自分を見ている目」だった。
新星の口角が、僅かに上がった。それは、諦念や軽口ではなく、闘志を帯びた笑みだった。二人の間には、ここから始まる勝負に対する初めての信頼の芽が生まれた瞬間だった。
日が地平線に沈みかけ、グラウンドは濃い夕暮れに包まれていた。トラックに残る部員は数人、顧問が時計をチェックしながら片付けを急かす声が、遠くに聞こえる。
新星は、部長の「ゴールの向こうを見ていた」という言葉を、何度も反芻していた。彼は、自分を数字や速さだけで評価する外界の目から、自分の本気の意志を隠すことに慣れていた。だが、目の前のこの美術部の部長は、その殻の奥にあるものを、わずかな残像から見抜こうとした。その事実に、新星の胸の奥で、少し怖くて、少し嬉しい、複雑な感情が混ざり合っていた。その感情を素直に言語化するのは照れくさい。だからこそ、彼はそれを条件として部長に突きつけることにした。
新星は、タオルを外し、部長と改めて向き合った。彼の顔には、もう迷いはなかった。
「じゃあさ。描きたいって言うなら、今度、本気で走るから。」
新星の言葉は、まるで宣戦布告のように静かに響いた。
「俺は、スピードは落とさない。スタートからゴールまで、全部いつものタイム狙いでいく。途中で止まれとか、ゆっくり走れとか、描かれやすいように走れなどは一切言わないでよ。」
彼の瞳は、強い意志の光を帯びていた。「スピードを落として“描かれやすい自分”を見せるのは嫌」という、彼のスプリンターとしての固いプライドが、そのまま条件として提示された瞬間だった。
部長は、新星の条件を予想していたかのように、静かに頷いた。彼の心の中には、「どんな条件でも受ける覚悟」がすでにできていた。この挑戦は、彼が昨日、夜の美術室で立てた「動いたままを描く」という意地そのものだ。
「それを、一枚に描く。あなたが走ってるあいだに。」部長は、自分の言葉を、確認するように口にした。
「うん。それでいい。」新星は答えた。「それが、俺の条件だ。」
その時、近くで片付けをしていた顧問が、二人の間の張り詰めた空気を察して、声を上げて割り込んできた。
「何の話だ、お前たち?美術部か?うちの奴に変な勧誘してないだろうな?」顧問はそう言いながら、部長の脇に抱えられたスケッチブックをちらっと見た。
新星は、顧問に軽く説明するふりをして、その実態を部長に向けて再度宣言した。
「この人が、俺の走りを描きたいって。だから、明日の最後の一本、記録狙いで本気で走ります。それを、この人が描くってさ。」
顧問は、その無茶な企画に呆れたように笑った。
「なんだそりゃ。変わったファンだな。まぁ、勝手に怪我すんなよ。タイムなら測ってやるが。」顧問はそう言って、ストップウォッチを軽く振ってみせた。顧問の役割は、あくまで数字側の基準(タイム計測)を残す象徴でしかない。
部長の頭のどこかで、「トップスピードの100メートルで、一枚の絵を完成させる」という行為が狂気じみていると冷静に理解していた。だが、その狂気が、彼の心の中では「面白い」という純粋な感情に変換されていた。彼はもう、引き返す気は一切なかった。
「お願いします。」部長は、顔は落ち着かせたまま、深く頭を下げ、新星の目を見た。その表情には、「今さら引き返せない」という覚悟と、挑戦への歓喜が滲んでいた。
二人の間には、これで一ミリも妥協のない、明確な勝負条件が確定した。新星の「スピードを落とさない」というプライドと、部長の「動いたままを描く」というプライドが、一本の線で美しく噛み合った瞬間だった。
部長のスケッチブックの表紙には、既にグラウンドの土の粉がわずかに付着していた。それは、彼がもはや静止した美術室の住人ではないという、逃げない印のように夕闇の中で見て取れた。
翌日、夕方前のグラウンドは、勝負を前にした独特の静けさに包まれていた。いつもの練習メニューはほぼ終わり、陸上部員たちの疲れた息遣いと、片付けの音が混ざり合っていた。
新星は、普段通りのルーティンを崩さなかった。入念なアップ、短い流し、そして最後にトラックの縁で呼吸を整える休憩。彼の行動一つ一つが、今日が「ただの一本」ではないことを、周囲の部員たちに理解させまいとする、彼のプロ意識の表れだった。
部長は、昨日よりもさらにトラックに近い位置にいた。スタートライン側の、内側レーンの外側。勝負の瞬間、新星の最も近くにいられる場所だった。
部長の足元には、クロッキー帳が一冊と、木炭、鉛筆、消しゴム、そして昨夜用意した針金が、まるで武器のように並べられていた。クロッキー帳は開かれ、まっさらな紙がたった一枚だけ固定されている。その白い余白は、これから生まれるであろう線の空白のキャンバスであり、部長の緊張を静かに高めていた。
部長の全身は、既に極度の緊張に達していたが、不思議と焦りはなかった。これは、昨日までの「止まってくれたら楽」という誘惑が完全に消え去り、「ここまで来たらやるしかない」と腹が据わった状態だった。
彼の頭の中は、もはや感情ではなく、戦略で埋め尽くされている。
輪郭を追うか:それでは昨日と同じく、線が破片になる。
動きを追うか:その動きをどう線にすれば、新星の「本質」を捉えられるのか。
部長は、目の前の白い紙を睨みつける。
「100メートル全部をこの一枚に収めるなんて無茶だ。」彼は心の内でそう認めた。だが、「あいつの速さを、たった二歩分の“切り抜き”で済ませたくない」という意地がそれを許さない。
「一枚で足りるんじゃなくて、一枚に詰めるんだ。」
その結論が、彼の狂気とプロ意識の最終的な着地点だった。
顧問が部員たちに声をかけた。
「ラスト一本。記録狙うやつは前に出ろ。今日はこれで終わりにしてもいいぞ。」
部員たちのざわめきの中で、新星は無言でスタート地点へと歩き出した。彼の表情は、普段と変わらない集中を見せているが、内心は全く異なっていた。彼は、今日の一本が「特別条件付き」であることを誰よりも理解していた。
新星は、スタート位置に向かう途中、一度だけ横目で部長の位置を確認した。
部長は、道具を並べたまま、微動だにせずにそこに立っている。逃げずにそこにいる。その事実だけで、新星の口元は、誰にも気づかれないように、ごくわずかに緩んだ。
「本当に来たな、この人。美術部のガリ勉が、こんな砂場で。」
彼は、昨日、部長の目が曖昧な称賛ではなく、本気の観察だったことを知っている。「適当にほめて帰るタイプじゃないのは、昨日で分かった」。その認識が、新星の闘志に火をつけた。
「じゃあ、こっちも手加減したら失礼だ。」
新星は、自分のレーンに入り、スターティングブロックをセットする。金属がトラックの地面に触れる冷たい音が、静寂の中で響いた。彼は、スパイクのピンが地面に軽く食い込む感触を確かめ、その冷たさを全身で受け入れた。
その時、風が少し強くなり、部長の足元に置かれた紙の端が、ふわっと揺れた。部長は、動かずに、その紙を手のひらで押さえた。
新星は、ブロックに足をかけ、構えに入る。
部長は、その新星の背中に向かって、誰にも聞こえないように、だが新星だけに届くトーンで、低く声をかけた。
「お願いします。」
それは、勝負の開始を告げる、たった一言の宣誓だった。
新星は、今、トラック上で最も速い存在だった。
部長の視界の中で、新星の身体は徐々に起き上がり、完全にトップスピードに移行した。その動きは、まるでトラックの地面を低く滑っていく彫刻のようだ。加速によって生まれた風が、スタート地点に残された部長の髪を静かに揺らし、砂利を微かに巻き上げる。
部長の手は、木炭の太い影を勢いよく走らせた後、一度止まっていた。彼は、輪郭のない一本の線の勢いが、新星の加速の勢いと同期していることを確認した。
そして、中盤の30メートルから60メートルの区間へ入った瞬間、部長は、新星の走りの「質」が変わったのを知覚した。
新星のフォームが「軽く」なった。腕振りの弧は最大になり、肩の上下幅がわずかに大きくなる。昨日、部長が観察で見抜いた「二歩目までの重さ」が、ここで完全に「軽さ」に転じたのだ。
部長は、新星の動きから目を離さず、無意識のうちに、脇に置いていた針金を手に取った。木炭とは異なり、針金には色も、影もない。ただの「硬質な線」だ。
部長は、クロッキー帳に針金の細い先端を強く押し当てた。紙の表面が破れる寸前の強い力で、新星のストライドのリズムに合わせて、紙に一本の「傷」を刻み始める。
輪郭や影を完全に無視し、新星の足が地面を叩き、身体が前進する「力の軌道」だけを、針金による硬い線で追っていく。彼の手の動きは、新星のストライド(一歩の長さ)と完全に同期し、「描く」という行為が、彼の内心で「走る」という感覚にひっくり返った。
新星は、今、ゾーンに入っていた。周囲の音は消え、地面を蹴る感触だけが鋭く研ぎ澄まされている。彼は、自分の最高速度だけが本音だと知っている。その本音を、全力でトラックに叩きつけている。
その時、彼は、視界の端で、一瞬、部長のいた場所を捉えた。彼の視界の極めて端、意識が届くかどうかの境界線で、白い紙の上に黒い線が走っているのをかすかに捉えた。
その線は、ブレておらず、彼の速度に追従しているように見えた。
「まだ見てる」
「ついて来ようとしてる」
数字だけを追う外野の目ではない。自分の速度を線にしようとしている目が、この極限の集中の中でも、自分を捉えている。その事実が、新星の身体の奥深くに、昨日味わった奇妙な納得感とともに、新たな活力を与えた。
新星は、ゴールラインに向けて、さらにギアを上げる。全身の力を、最後の数十メートルで爆発させようと、ラストスパートの姿勢へと切り替えた。
部長は、新星の最後の爆発的な加速を感じ取り、彼が針金で刻んでいた線の上に、再び木炭を重ねた。
木炭は、針金で刻まれた「硬い軌道」をなぞり、それを「太い影の存在感」として確定させる。それは、新星が地面を蹴り、空気と衝突しながら、一気にゴールへ向かっていく、「力の集約」を表現していた。
勝負は、残り数メートル。
________________


新星が、ゴールテープへと身体を投げ込むように走り込む瞬間、部長の木炭の線も、クロッキー帳の紙の端で静かに止まった。
その直後、顧問が握るストップウォッチが、硬い金属音を立てて止まった。
顧問が、トラックの向こう側から、大きな声でタイムを読み上げた。
「10秒98!自己ベスト更新!」
周囲の陸上部員たちが、一斉に歓声を上げ、新星に駆け寄っていく。誰もが、その数字に興奮していた。
しかし、新星も、そして部長も、そのタイムや歓声の音は、まるで遠くで鳴っているBGMのように、意識の外へと押しやられていた。彼らの間には、一本の勝負が成立した後の、特有の静寂が広がっていた。
部長は、息を整えながら、胸の高さに固定したクロッキー帳を、ゆっくりと下ろした。
紙の上には、顔や四肢の細部は一切ない。ただ、スタートからゴールまで、新星の力の軌跡を追った、一本の、太く勢いのある走る線。その線は、鉛筆の線ではなく、木炭の太い影と、その下に針金で深く刻まれた硬質な傷で構成されていた。
新星は、荒い息を整えながら、部員たちの歓声の中を通り抜け、部長の元へと歩いてきた。彼のスパイクには、土が深く食い込み、身体からは汗が滴っている。
陸上部員の何人かは、遠巻きに部長の絵をちらりと見た。
「なんだ、あれ。線だけじゃん。」
「でも……なんか、あいつの走りっぽい、気がする。」
その言葉は、描かれた線に、新星の走りの本質が宿っていることを、第三者が直感的に認めた瞬間だった。
部長は、新星の接近を感じ取りながら、その絵を見つめた。
「描けたのか?」「本当にこれで、いいのか?」
彼の内心には、線が新星のプライドに耐えうるものなのか、という最後の余白が残されていた。この問いの答えは、新星自身にしか出すことはできない。
二人の視線が、紙の上の一本の線の上で交差し、終わるのだ。
新星は、スタート直後の重い一歩目を終え、30メートルを超えた地点でフォームが完全に解き放たれた。地面との接地音が「ドン・ドン」という力のぶつかり合いから、「トン・トン」という軽く、そして高いリズムへと変わる。彼の身体は、空気抵抗を切り裂きながら、トップスピードに向けて加速していく。この区間が、彼の最も彼らしい形、最も効率的で美しいフォームを保てるゾーンだった。
部長は、手に持った木炭の先端を、紙の上に寝かせた。もはや彼は、「頭」「腕」「脚」といった身体のパーツで、新星の輪郭を追うのをやめていた。そんなことをすれば、視覚はすぐに混乱する。
彼の意識が捉えていたのは、ベクトルとリズムだけだ。
新星の重心の進行方向、身体の周りを通り抜ける風の抜け道、そして一歩ごとの接地の位置。それらはすべて、一つの力強いストロークとして部長の脳内で統合された。
彼は、もはや手を動かしている感覚がなかった。彼の右腕は、新星の走る速度に、ただ乗せられていた。新星の右足が地面を蹴る瞬間、部長の木炭は紙の上で太い線(帯)となり、新星の腕が後ろに引かれる瞬間、その帯はわずかに細くなった。
それは、線の記録ではない。それは、共振だ。
部長の視界からは、新星の身体だけでなく、周囲の景色もすべてが流れを持ったストロークとして見え始めていた。遠くのベンチ、空の青、すべてが速度の線に変換され、その中心を新星の純粋な推進力が貫いている。
部長の心のモノローグが、静かに、しかし確信をもって響いた。
「線を引いてるんじゃない。あいつの進む方向を、紙の上に折り返してるだけだ。」
木炭が紙を擦るザラザラという乾いた音と、新星のスパイクがトラックを蹴る高い音が、まるで二つの楽器のように、同じリズムでシンクロし始める。部長の指には、木炭の黒い粉がべったりと付き、線は細部の描写を放棄し、力の流れを表現する黒い軌跡と化していた。
新星は、トップスピードに達した後の維持と我慢のゾーンにいた。全身のエネルギーを一定の出力で保ち続ける、集中力の高い領域だ。
その時、視界の端。スタートライン付近に立っているはずの美術部の影の横で、「黒い何かが走っている」のをかすかに捉えた。それは、彼自身の走りの影のようでありながら、紙の上を走る線だった。
毎ストライドごとに、その線を描く部長の手が、微妙にタイミングを合わせて動いていることを、新星は直感的に認識した。
「まだ見てる。ここまでついて来ようとしている。」
新星は、誰にも見抜かせなかったはずのトップスピードを、誰かがそのまま受け止めようとしているという実感を、生まれて初めて味わった。それは、彼がタイムや順位を超えて求めていた、「本気で自分を見ている目」の証拠だった。
彼の内に秘められた闘志が、一気に燃料として機能した。
「タイムだけじゃない。この速度を、そのまま受け止めようとしてる手がある。」
その事実が、彼を解放した。彼は、ラストスパートに向けて、まるでギアが一段上がったかのように、さらに数センチ、ストライドを伸ばし始めた。周囲から、遠いざわめきのような声が聞こえる。「いいフォーム!」「そのまま!」しかし、その声は二人の共振の中では、背景音でしかなかった。
新星は、紙の上で黒い軌跡を描き続ける部長の存在を、今や敵ではなく、自分の速度を保証してくれる存在として認識していた。
新星は、80メートルを過ぎた地点で、さらに微妙に前傾を深くした。彼の瞳が、遠くのゴールの向こうを見据える。腕の振りは、限界を超えてさらに強く、一歩ごとの地面との接続時間は、もはや意識の範囲を超えた最短へと収束していく。彼は、ゴールテープに向けて、全エネルギーを傾け、突っ込んでいった。
新星の胸が、テープを切る。
ビッとビニールが裂ける、乾いた音が、静寂を取り戻しつつあったグラウンドに、鋭く響き渡った。
その瞬間。
部長の手に持たれた木炭も、新星の動きに同期し、紙の端、ギリギリの場所でピタリと止まった。木炭が紙を擦る「ザリ」という最後の感触だけが、部長の指先に残った。
顧問がストップウォッチを見て、興奮した声を上げた。
「一〇秒九四! 上出来だ! 狙い通りじゃねぇか!」
周囲の陸上部員たちからも、「また出たな、ヤバ」「すげぇな、あいつ」といった、驚きと称賛のざわめきが波紋のように広がる。数字としての結果は、完璧に上出来だった。
走っている間、部長の頭は空っぽだった。考えるより先に、走りのベクトルに手が動いていた。しかし、全てが終わって、静寂が訪れた瞬間、彼の頭が急激に追いついてきた。
彼は、自分が描いた一枚の紙を、恐る恐る見下ろした。
そこには、顔も体もなく、一本の流れる線と、消しゴムで抜かれた細い白い筋だけ。ところどころ強く黒くなっている部分が、スタートからの加速と、ラストでの力の入りどころを暗示している。
「これ、本当に“あいつ”に見えるのか?」
「やりきった」という、全力を出し尽くした充足感と、「本当にこの線が、新星の走りの本質に届いたか」という、極度の不安が、部長の胸で激しく同居した。彼のプライドは、一度も「止まってくれ」とは思わなかった。その事実に後悔はなかったが、この線が新星にとって「偽物」であれば、全てが無意味になる。
彼は、誰にも聞こえない、ごく小さな声で呟いた。
「……ここまで、かな。」
彼の描いたその線は、近くで見ればただの黒い軌跡だった。しかし、部長が少し離れて、新星の走りの残像を思い出しながら見つめると、その一本線が、不思議なことに「走っている人」の躍動感を持って、彼の視界に立ち上がってきた。
新星は、ゴールラインを超えた後、数歩で速度を緩め、膝に手をついて、荒い呼吸を整えていた。ゴール直後は、呼吸と脚の張りが全てで、絵のことなど意識の外だった。
数秒後、呼吸が落ち着きを取り戻し始めた時、彼の意識が遅れて戻ってきた。
この一本は、「記録」と同じくらい、「絵のための一本」でもあった。彼にとって、今日の走りは、ただのタイムトライアルではなく、「本気で自分を見ている目」に応えるための、約束の走りだったのだ。
彼は、タイムを叫ぶ顧問の声を背に、立ち上がり、部長の方へと顔を向けた。
部長は、線が走る紙を抱えたまま、新星をまっすぐ見つめ返している。
一本線だけという、結果の曖昧さと、二人の間に流れる極度の緊張を残したまま、物語はこの緊迫した一瞬で区切られる。
ゴールテープが切られた直後、グラウンドには勝利の数字と、激しい呼吸の音だけが響いていた。
新星は、膝に手をつき、荒い呼吸を整えていた。肺が酸素を激しく求め、胸が大きく上下する。全身の筋肉は、トップスピードの余韻で熱を持ち、小さな震えを伴っていた。
顧問は、ストップウォッチを片手に、興奮気味に新星に話しかける。
「一〇秒九四! いいぞ、いいぞ。今日イチだ。追い風だったけど、ここから詰めていけるタイムだ!」顧問の顔は満足げで、時計をカチカチと鳴らしながら記録をメモしていく。
周囲の陸上部員たちからも、「また更新かよ」「えぐいな」程度の感嘆が漏れる。数字としての結果は出た。
新星は、顧問から伝えられたタイムを、耳では聞いているものの、その数字は半分くらいしか頭に入っていなかった。タイム自体にはそれなりに満足や不満があるものの、今日の彼は、それよりも「描かれているかどうか」の方が圧倒的に気になっている自覚があった。
記録のための走りではなく、誰かの観察に応えるための走り。こんな経験は、彼にとって初めてだった。
呼吸が少し落ち着いてくるにつれ、彼の意識は、タイムを読み上げる顧問や、感嘆する部員たちから離れ、部長が立つ場所の方へ、自然と引き戻されていった。
部長は、数メートル離れた、トラックの内側、砂場との境目付近に立っていた。手は木炭だらけで、指先まで黒く汚れている。彼は、クロッキー帳を胸に抱え、描き上げた一本の線を、ただ見下ろして立っていた。その姿は、まるで試験の結果を待つ受験生のように、動かない。
走っている最中は、考える暇もなく、手が反射的に動いていた。彼の内側で、理屈と感覚が完全に同期していた。しかし、勝負が終わった今、「考え」だけが濁流のように一気に彼の頭に押し寄せてきた。
「本当に、あの速度を、この線は捉えられたのか?」
「あれが、新星の走りの本質に見えるのか?」
彼は自らに問いかける。新星から「ちゃんと見てたか?」と聞かれた時、胸を張って「はい」と言えるかどうかを自問自答していた。
「これを見せて、笑われたら?」「ただの汚れた線だと分からないって顔をされたら?」
微かな恐怖も押し寄せる。しかし、その恐怖を打ち消す、一つの揺るぎない事実があった。
「止まってくれ」と、一度も思わなかった。
その誇りだけは、彼の胸の中で、熱い塊となって残っていた。
顧問と部員たちは、まだタイムの話題で盛り上がっている。そのざわめきをBGMに、新星は、ゆっくりと立ち上がった。彼の呼吸音は、もう安定している。
新星の視線が、タイムから、紙を抱える部長の姿へと完全に移った。
二人の間には、まだ数十メートルほどの距離がある。評価の場に入る前の、この「間」が、次の対決(承認)への緊張感を高めている。
新星は、水を喉に流し込み、タオルで首筋の汗を拭いながら、ゆっくりと部長のいる場所へ向かった。顧問や他の部員たちがタイムの話題で盛り上がるざわめきを、彼は意識的に遠ざけている。彼の意識は、ただ一つ、白い紙とそれを抱える黒く汚れた指先を持つ部長に向けられていた。
途中で何度も、「この行動は馬鹿げているのではないか」という迷いが頭をよぎった。タイムより先に、美術部の人間が描いた「線」を見に行くという行動自体が、彼が部長を評価者として認め始めている動かぬ証拠だった。だが、もう引き返せない。彼はまっすぐ歩き続け、部長が立つ位置の正面に立った。
部長は、新星が近づいてきた気配で、抱えていたクロッキー帳を新星に見やすい角度に持ち上げ、姿勢をわずかに正した。緊張で、彼の心臓が嫌な音で鳴っているのを自覚する。
新星は、部長の手元に顔を近づけ、紙を覗き込んだ。彼の影が、紙の上に一本だけ走る黒い線の上に濃く重なる。
紙の上にあるのは、やはり奇妙な絵だった。顔もなければ、筋肉の隆起もない。一本の太い線が、強い勢いを持ち、紙の端へ向かって流れている。細い白い筋(消しゴムの抜き)が、わずかなハイライトとしてその線の流れの速さを暗示していた。
新星は、ひと目見た瞬間、「人間の絵」ではないことに、わずかな驚きを感じた。そして、すぐに沈黙が訪れる。
新星が、紙から目を離さずに静かに呟いた。
「……顔も体も、無いんだな。」
彼の喉が、小さく「ゴクリ」と鳴る音が、部長には聞こえた。
それは非難ではなく、事実の確認だった。新星は、数秒の間、その線と自分の走りの感覚を照合している。そして、すぐに感覚が理屈を上回った。「でも、これなんか分かるぞ」。その線は、自分の体勢や、加速のリズム、そしてゴールへ向かう意志そのものと、同化しているように感じられた。
部長は、新星の沈黙が、まるで永遠のように長く感じられた。この沈黙こそが、彼の「描けたかどうか分からない」という不安を最大化させる。
「描いてる時間がなかったから。」
部長は、開き直りではなく、事実の報告として静かに答えた。彼の声は、緊張でわずかに乾いている。
「そのかわり、止まっているところは、一回も描いてない。」
これが、部長の唯一の誇りだった。彼は、新星を裏切らなかった。彼が描いたのは、動いたままの新星の力の流れだけだ。「これは『速すぎて描けません』という白旗ではない」と、彼はその一言に全てを込めた。
新星は、紙から目を離さず、部長が差し出したそのプライドを真正面から受け止めた。そして、自分の最も根本的な欲求を、言葉にして部長に突きつけた。
「じゃあさ、この線が、ここまで速く走った俺を、ちゃんと見てたってことでいい?」
それは、数字や記録ではなく、彼がずっと求めてきた「評価の軸」の口頭化だった。部長がここで「はい」と答えられるかどうかが、この物語の真の分水嶺だった。
周囲は、顧問と数人の部員が片付けを終え、グラウンドから人が減り始めている時間帯だった。夕暮れはさらに濃くなり、トラック脇の静けさが、新星と部長の間の緊張感を一層際立たせていた。
新星から投げかけられた「ここまで速く走った俺を、ちゃんと見てたってことでいい?」という問いは、部長の胸の奥深くに響いたが、部長は即答しなかった。
彼は、一度、自分の目の前にある一本の線と、その線を走らせた自分の汚れた指先を見比べた。
「見てたか?」という問いに対し、彼の頭の中には、ネガティブな要素が次々と浮かぶ。「輪郭は追えなかった」「フォームの細部も正確には描けていない」。しかし、それらを言い訳にする必要はないと彼は知っていた。
彼のプライドが、一つの揺るぎない事実を突きつける。「止まらない走りを、止めずに追い続けた」自覚がある。それは、静止した筋肉の構造を完璧に描くこととは別の新しい矜持だった。
部長は、紙から目を上げ、新星の強い瞳をまっすぐに見つめ返した。そして、すべての言い訳や理屈を削ぎ落とした、シンプルな答えを選んだ。
「うん。」
その一言の後に、彼の誇りが乗せられた。
「“止まらないまま”のあんたしか描いてない。」
新星は、部長のその答えを聞いた瞬間、呼吸が止まったかのように静止した。
「止まらないままのあんた」――それは、彼が誰にも見せてこなかった本質だった。この部長は、線という形で、彼のプライドそのものを描き切ったのだ。線自体の形が自分に似ているかどうかではなく、その線が持つ「走りのリズム」と「加速のポイント」、そして「最後の伸び」の感覚が、確かに視覚としてそこにあると新星は確信した。
その実感を、彼は素直な感情として返した。新星の口元に、少しだけ、安堵と満足が混じった笑みが浮かんだ。
「じゃあ、この線は――“俺”ってことでいいか。」
新星が最終的な承認を求めた。
部長は、彼の問いに迷いなく答える。
「いいよ。私はそう描いたから。」
その瞬間、二人の間に交わされた目には見えない合意が、物理的な行為によって可視化された。
新星は、部長が持つクロッキー帳から目を離さずに、地面の土と汗でわずかに泥のついた自分の指先を、紙の端へそっと持っていった。
指先が紙の端をそっとなぞる。
「サッ」という、ごく小さな擦れる音が響き、紙の白い表面に、ぼんやりとした泥の跡、そして薄い指紋が残された。
それは、「この線=自分」という、本人からの了承サインだった。同時に、新星が見られることを、誰かに自分の本質を共有することを、自分から受け入れた行為でもあった。
部長は、その指紋を見た瞬間、全身の力が抜けるような、強い安堵に包まれた。
「あ、今のでやっと“本人の作品”になった。」
彼の内心で、結論が出た。この絵は、自分が技術と意地だけで描いたものではない。新星の走りの熱と、彼の指紋という当事者の合意が加わって初めて、完成したのだ。
二人の間を、夕暮れの風が一度だけ通り抜けた。その風に、紙の中央がふわっと持ち上がるショットを残して、二人の間のプライドの衝突は、静かな合意へと収束した。
新星の指紋が、一本の黒い線が走る紙の端に泥の跡として残された後、二人の間の張り詰めた緊張は、穏やかな満足感へと変わっていった。
新星は、部長から受け取ったクロッキー帳を畳むことなく、そのまま部長に返した。その行為は、「これはあなたの作品であり、その中に俺の走りが映っている」という、彼なりの最高の評価だった。
「サンキュー。」新星はそう短く告げた。その声は、練習後の疲労を含んでいながらも、どこか充足感に満ちていた。
周囲の片付けは終わり、顧問もトラックを去り、グラウンドに残っているのは、もはや二人だけだ。夕闇が急速に濃くなっていた。
新星は、トラックの外側へ向かって歩き出した。その背中を見送りながら、部長は返されたばかりのクロッキー帳を、両手でしっかりと抱え直した。その紙には、新星の力の流れと、彼の指紋という、二つのプライドの痕跡が刻まれている。
そして、新星は、トラックを出る直前、顔はそっぽを向いたまま、声だけを部長に届くトーンで残した。
「……今度さ、二百でも走ってくれるか?」
部長の思考は、一瞬停止した。100メートルで狂気じみた集中が必要だったのに、さらに距離を倍にするという提案。それは、新星が部長の観察力を真のライバルとして認め、より長く、より深い領域で勝負を挑んでいることの証明だった。
部長は、数秒の絶句の後、声を上げて笑った。その笑い声には、諦念も恐怖も含まれていなかった。ただ、新たな挑戦への純粋な歓喜だけが満ちていた。
部長は、返事の代わりに、足元の道具袋にちらっと視線を落とした。そこには、木炭や鉛筆に混ざって、昨日用意した針金が一本、確かに多く入っているのが見えた。
「道具、増やしとくよ。」
彼の言葉は、無言の宣言だった。「次も受けて立つ」という、芸術家としての新たな目標への確固たる意志。新星は、その短い返答だけで部長の決意を理解し、満足したようにグラウンドを後にした。
数日後の放課後、美術室の壁の一角に、その一本線の絵が貼られていた。その隣には、部長がこれまで描いてきたダビデ像のデッサンや、ムキムキの腕の彫刻試作品が並んでいる。
美術部員Aが、その簡素すぎる絵を見て、首を傾げた。
「これ、何の絵ですか、部長?顔どころか、体すら無いじゃないですか。」
部員Bは、冗談交じりに笑う。「また筋肉ですか?今度は抽象表現ですか?」
部長は、美術部員たちの問いに、何も言わず、ただ笑った。彼は、誰にも理解されなくて構わないと知っていた。この線が、新星の走りの本質と、彼の指紋によって、完成したことを知っているからだ。
彼自身、この絵が、今までの自分の絵とは決定的に違うことを実感していた。静止した筋肉の構造ではなく、「速度」と「リズム」、そして「力のベクトル」を追った、初めての作品。彼の“人体の見え方”が、この一本の線によって、ひとつ新しい次元へと増えたのだ。
窓の外からは、グラウンドで練習をする新星の気配だけが感じられる。スタートの号砲と、スパイクが地面を蹴る微かな音。
部長の視線が、一本線の絵から、窓の外へ、そしてまた絵へと戻る。彼の胸の中には、「これからも、止まらない美しさを追い続けよう」という、静かな余韻と、未来への予感が満ちていた。
窓の外、夕焼けに染まる空のレーンを、風だけが勢いよく走る描写で、物語は締めくくられた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

包帯妻の素顔は。

サイコちゃん
恋愛
顔を包帯でぐるぐる巻きにした妻アデラインは夫ベイジルから離縁を突きつける手紙を受け取る。手柄を立てた夫は戦地で出会った聖女見習いのミアと結婚したいらしく、妻の悪評をでっち上げて離縁を突きつけたのだ。一方、アデラインは離縁を受け入れて、包帯を取って見せた。

黒騎士団の娼婦

イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。 異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。 頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。 煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。 誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。 「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」 ※本作はAIとの共同制作作品です。 ※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。

偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜

紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。 しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。 私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。 近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。 泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。 私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

側近女性は迷わない

中田カナ
恋愛
第二王子殿下の側近の中でただ1人の女性である私は、思いがけず自分の陰口を耳にしてしまった。 ※ 小説家になろう、カクヨムでも掲載しています

答えられません、国家機密ですから

ととせ
恋愛
フェルディ男爵は「国家機密」を継承する特別な家だ。その後継であるジェシカは、伯爵邸のガゼボで令息セイルと向き合っていた。彼はジェシカを愛してると言うが、本当に欲しているのは「国家機密」であるのは明白。全てに疲れ果てていたジェシカは、一つの決断を彼に迫る。

処理中です...