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貧(しい)血
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足をかける場所はもうなかった。
この高さでは岩肌に生物が棲みつく余地すらなく、雪も凍って張りつく前に風に削られ、空気は音を反射する前に消えていた。
指先の感覚は消え、靴底はもう十層ほど前の氷層で滑り落ちてから削れたままだった。残っているのは、左右に一本ずつ突き刺したナイフと、腰に挿してある三本だけ。
高所という概念では説明できない標高だった。
酸素は口腔内で粉のように割れ、視界の端は凍ったまま戻らない。
ナイフの柄を握る手は、三本前に突き立てた時点で裂けていたが、力の抜きどころを誤れば落下する。そのまま雲の下へ、もはや地形ではなく気流によって掻き消される。
コウキは一切喋らない。口を開く理由がない。
彼にとって、ここを登るのは任務ではない。観測でもない。誰かに命じられたわけでも、誰かに誇示するためでもない。ただの“朝”でしかなかった。
突き刺したナイフの右側が軋んだ。柄の部分で受けていた岩が、僅かに剥離する。風圧と体重が一点に集中し、削られた縁が崩れる。
動きは一瞬だった。
彼は手を放さない。
だが、右足の靴裏を岩の内側に滑り込ませ、同時に左拳を振り抜いた。
岩は砕けた。拳は沈んだ。
流血はせず、衝撃の余波も一切出さなかった。
ただ石が割れた音だけが、ここでは唯一の対話だった。
岩壁にめり込んだ拳が支点となり、重心が戻る。右側のナイフを引き抜き、再び上へ。左の拳はまだ突き刺さったままだが、登る動作に何の支障もなかった。
背後にあるのは雲と空と、大陸の端。
空に近いのではない。ここは、空より高い。
2000mを越えてから、空気の質が変わった。呼吸は収縮し、喉の奥で凍る。吸った途端に肺が拒絶し、鼻腔の水分が氷柱のように突き刺さった。
指の動きは遅くなり、関節の感覚が順に抜けていく。皮膚の色はすでに失せており、掌の内側が石のように硬直している。
ナイフは刺さらなくなっていた。岩の密度が増しているのではない。冷えすぎて金属の刃が結晶を砕けず、滑るのだ。
一本を捨てた。握っていた左手のナイフが氷塊に弾かれ、遠くに吸い込まれていった。
「またかよ・・・。」
柄を打ち込んだ音が乾いた。圧が広がり、崖の内側に割れが走った。もう一本を抜いて重ねる。層の縁がずれ、雪の表面が波打つ。呼吸は止めた。風が吸い込まれ、落ちる音が逆に登ってくる。足を浮かせる。崩れ始めた雪の中に、先に入った。腕をたたみ、肩をねじり、胴をひねって重心を投げる。白い流れの先端に身を滑らせ、内側に入る。雪が持ち上がる。外へ逃がす。全身を反転させ、空気の少ない層を選んで頭を出す。片腕を構え、拳を凍結面に叩きつける。岩が砕ける。そのまま沈め、崩れる速度より一歩先に出る。地形を押し戻すように上へ進み、雪の層が潰れるより早く、上から崖の肩を掴んだ。腕で支え、足を探さず、重さだけで這い上がる。縁に手をかけ、滑らせ、這い出る。音は止まっていた。背後で崩れが流れを変え、谷を一つ削っていく。氷層が剥がれ、陽が届いた。
立ち上がる。風の向きが変わった。崩れた雪はすでに尾根の向こうへ流れ、光の粒が後から届く。熱ではない、ただの存在としての証。冷気は抜けきらず、喉にまだ凍りが残っていた。岩肌に立ったまま、目を細めて空を仰ぐ。
「太陽よ!お前の熱は分かった・・・この高度に至ってなお俺の肉を焼くか、せいぜい律儀なことだ。しかし忘れるな、この山を越えるのに必要だったのは炎でも祝福でもない・・・この両足と、剣すら不要な握力だ。お前の燃焼は確かに強い、だが速さにおいて俺を超えたとは決して言わせない!俺が遅れた理由はひとつだけ、お前の位置が高かったこと、それだけだ!」
腕を下ろす。風が止み、寒気だけが衣を抜けて皮膚をかすめた。前方には一望が広がる。鉄と石が組まれた城塞の構造、その内側で蠢くものの影、塔の点滅、門の僅かな開閉、すべてが見渡せた。あの中央に立つのは副王の塔、左に折れた地形は浄化区画の排水口、奥に見えるのは兵站車の通路、いずれも五年前には存在しなかった。すべては彼が配置し、統合し、敵の侵入経路を潰した成果だった。
元は貴族の書記官の子だ。王族の名は持たない。政務官として登用され、軍務に下され、前線で死者を埋めるために派遣されたのが最初の任務だった。二年後には戦術師団を率い、五年目には隣国の王を殺し、七年目に自国の王を黙殺した。以後、王の座は空席となった。
彼がそこに座ったのは、誰も反論しなかったからであり、誰も否定しなかったからであり、王が誰であるべきかを口にした瞬間、首を斬られたからだった。
・・・しかし、それは彼のしたことではない。彼にはあまりにも金が動き過ぎるが故に、全員が彼に同調し、彼で稼ぐ。つまり政治的に腐敗していたのだ。
戦争王と呼ばれたのはそのあとだ。誰もがそう呼んだが、彼は一度も名乗っていない。
脚を揃え、背を伸ばし、頂から目を細める。日が昇る。風が再び、逆に吹いた。
・・・彼には、兄弟も姉妹もおらず、血縁は悪い。
しかし、王としての実力だけはある・・・そう、実力だけは・・・。
観測線に引っかかるものがあった。空にかかるはずの白点が、予定より五秒早く点滅する。塔の南端にある識別灯、学園の警戒層に連動している光が、発令前の挙動を示した。続けて別の光が点く。本来、感知区域が被らないはずの東棟監視窓、そこに光線が交差する。風の角度が変わった。観測塔の外縁が震え、地面の構造が内部から跳ねた。学園の内側で、何かが動いた。・・・防衛層の連動許可は、誰も出していないはずだった。
観測塔の床板を踏む。金属の接合部が跳ね、砂利のような音を出して剥がれた。風はすでに尾根を巻いていた。光の向きが変わる。学園の外周、北壁側の一部が僅かに展開している。配置上、その位置から防衛層に入り込むには地形を越える必要がある。誰もそこを使うはずがない。使った者がいるということだ。
走った。足音は岩盤に残らず、衣の端だけが遅れて翻る。崖の縁で一度だけ姿勢を低くし、速度を溜める。浮いた。
そのまま跳んだ。
尾根の風が背を押す。高度が一瞬で落ちたが、体勢は崩れない。重力に対して軌道が傾き、速度は減速せず方向だけが変わる。山の斜面をなぞるようにして下降し、空の中に入る。衣は風で貼り付き、金具が軋んだ。
地面が迫る。学園の都市部が射程に入った。距離を測る必要はない。上空から、崩れかけた扉と、それを蹴って滑り込んだ影が見えた。
音がした。空気が跳ねた。何かが開いたかと思えば、壁が膨らみ、床が沈み、通路の向きが変わった。足元に仕込まれた金属板が傾き、視界の左右で構造がずれた。
ディアーナは後ろを振り返らず、反射で左へ飛び込む。衣が扉の縁に引っかかり、背を引かれたが、肩を抜いて外した。手をついて転がる。音が追ってきていた。何の音か分からなかった。壁の中で動いている何かが、金属を押し、開閉するたびに空気が焼けているような音をしていた。
「何何何!?」
狭い。低い。構造があきらかに子供向けではなかった。
左、右、段差。反転、躱し、開いた穴に踏み込まず、縁を蹴って跳ねる。息は乱れていない。だが汗は出ていた。足音が反響し、後ろから壁が押し寄せる気配がある。通路ではない。装置そのものが防衛区画ごと動いている。
このままでは潰される。思考より先に身体が選び、ディアーナは最奥の扉の縁に指をかけた。次の瞬間、その下から爆風が立ち上がった。
「・・・殺意マシマシの城って大体の確率で城主アレなのよね・・・。」
次の瞬間、その下から爆風が立ち上がった。「・・・殺意マシマシの城って大体の確率で城主アレなのよね・・・。」
と言いながら既に背を丸め、膝を曲げ、反動を潰す姿勢を取っていた。火薬のにおいが混じる前に熱が先に来る。衝撃が壁を撫で、床の結晶を溶かしていた。天井の格子が閉まり、横から押し出された石板に跳ね飛ばされるようにして背を打つ。喉の奥に鉄の味が残った。右耳が潰れ、音が抜けた。周囲の空間が歪み、白く、次いで黒く反転する。反響音が消え、代わりに自分の呼吸音が内側から響く。
何秒かが不明になる。時計はない。光もない。重力の向きも変わっていた。傾いた感覚で右に転がる。肩が冷たく、頬が濡れ、口の中に粉塵の層が重なった。崩れかけた通路の下層か、あるいは装置の裏か。狭い。息が吸える。壁はまだ熱い。動ける。骨は折れていない。左腕が痺れているが指は動く。そこまで確認してから、一度だけ呻いた。音は控えめで、反響しなかった。
ようやく目が慣れてくる。周囲の壁は焼けておらず、むしろ風の通り道になっている。機構の作動範囲外。空調の影か、退避区画に当たる。元々は誰かが逃げ込むための設計だったのか、通路の奥に非常用の蓋が見える。さっきまでの通路とは違う。静かだった。誰もいなかった。呼吸を整える。何かを思い出す余裕が生まれる。
そして、ようやく逃げてきたことを思い出した。
水が出るのは朝だけだった。昼に捻っても空気しか出ないし、夜は泥が混じる。飲むのは朝の一回、それで足りないなら買うしかない。ディアーナはいつも、その朝に合わせて起きていた。部屋の壁にはひびがあり、床は一段傾いていて、窓の外は隣の建物の壁しか見えなかった。
朝はまず水を受けて、そのまま顔を洗い、髪を適当に束ねる。誰も見ていないのは分かっていたが、そうしておかないと気分が悪かった。次に扉の鍵を開け、裏路地に出て、パンと引き換えに昨日拾った紙や金属を渡す。量は重視されない。形や成分が重要で、それを分かっているかどうかで貰える量が違った。ディアーナはそこを外さない。手は汚れていても、袋の中身は常に整頓されていた。
食べる時は立ったままだ。座ると背中が冷える。歩きながら食べると体温が戻る。唇を拭く布は持っていないが、食べ終わった頃には風が顔を乾かしていた。服は古いが体に合っていた。靴は片方だけ底が削れていたが、歩き方で誤魔化せた。
他人と話すことは少なかった。誰も何も話しかけてこないし、話しかけてきた相手はだいたい売るか奪うかの二択だったからだ。だが、だからといって彼女が無口というわけではなかった。ただ、自分が口を開く時は、喉を使うのではなく、構えのように息を出してからにしていた。
今日も似たような朝だった。違ったのは、パンを受け取った直後、後ろに立っていた男がこう言ったことだ。「王族の姫君が逃げた。代わりになってくれないか」と。
視界は無かった。車輪の振動は鈍く、空気の抜けもなかった。外がどうなっているかは分からない。ただ揺れている。一定ではなく、不意に跳ね、重心がぶれ、戻る。内壁は硬く、鉄の匂いと革の感触が混じっていた。目の前には何もなく、誰も話さない。口を開く者がいなかったのではなく、全員が同じ答えを知っていたからだ。自分は今、運ばれている。理由は聞いていないが、全員が知っている。
扉の向こうで音がした。誰かが喋っている。
「姫が逃げたらしい。」
「年が近ければいいらしい。」
「通ればいいんだよ、似てさえいれば。」
言葉は軽い。冗談のようで、本気だった。確信のない音程で、だが否定はなかった。説明は無いが、拒絶も無い。そういう場で、そういう流れで、そういう順番で、たまたま選ばれた。選ばれたという言葉が使われていたが、それは誤りだった。選んだのではなく、拾ったのだ。偶然で、都合がよくて、面倒がなかった。だから自分がここにいる。それだけだった。
何も言えなかった。理解するしかなかった。笑うには遅すぎて、泣くには温度が足りなかった。
揺れが止まった。外から音がした。最初は何かを蹴ったような鈍い衝撃、続いて短く金属の軋み、次に動物の叫び声、それから焼ける音がした。皮が焦げる臭いが風の隙間から入ってきた。火薬の臭いも混じっていた。熱はまだ届いていないが、空気の流れが一つだけだったものから三つになった。扉の向こうが裂けている。馬車がやられた。
ディアーナは動いた。手足を締める縄が焼けているわけではなかった。体をよじり、肩をひねり、足を蹴り出す。視界は塞がれている。紐は動かない。暴れても抜けない。切れない。噛み切れない。無理だと判断するまでに七秒。
焼ける音が近づいていた。重心を崩さないまま転がる。進路を探す。隙間から風が入ってくる。空気が動いているなら、火も動く。紐が燃えれば切れる。動きを止めて体勢を戻す。向きを合わせる。熱が来る。
顔を避ける。背中を落とす。火の位置を肩で測る。視界を使わず、布越しの熱の変化で角度を掴む。左膝を持ち上げて縛りをずらし、足先を下げて結び目を引っ張る。煙が鼻を刺した。咳を我慢し、足を捻って火に向かって突き出す。
爪先が焼けた。焦げた音がした。次の瞬間、左足首の紐が跳ねた。
左足が抜けた。膝を畳んで体を引き起こし、焼け焦げた縄を踏み潰すようにして右足を引き抜く。火はまだ近いが布の燃え方は浅く、熱を肌で受けながら体をずらし、顎を引いて顔に巻かれた布を肩と頬で擦る。結び目が後ろに回っていた。首をねじって鼻先で布の縁を押し上げ、ずらした端を肩甲骨の動きで引き戻し、緩みを誘う。息を止めて一気に頭を振る。視界が開け、熱と煙が同時に襲ってきた。
「・・・生きてるし・・・燃えてるし・・・なんでこんなに臭いの・・・。」
声に咳は混じっていない。喉が痛む感覚はあるが、息が通ったことのほうが強かった。手首の縛りは残っていたが、足が動けばいくらでも姿勢は変えられる。腰を引いて足場を探し、火元から遠い位置で膝を立て、体を起こす。布が焼けた匂いに焦げた皮の臭いが混じっていた。目は痛むが、意識は鮮明だった。立って見回すと錆びかけた金具が混じっていた。残った手首の縄に刃先をこすりつけ、引くようにして裂いた。
・・・それで、さっきの様に巻き込まれた訳だ。
煙の匂いはもうしなかった。足元の感覚が戻っていた。崩れた通路の先、誰もいない搬入口のような構造の隙間に入ってから、追手も装置も動いていなかった。息を殺す必要もない。光も音も無かった。奥の金属片に腰をかけ、火傷した足首を引き寄せ、焼け残った布を剥がす。肌はまだ熱かったが、感覚はある。歩ける。誰もいない。そう思って、ようやく力を抜いた。
縄が飛んできた。首にかかった。引かれた。足が浮き、背中から地面に叩きつけられる。咳き込む暇もなく、次の瞬間には腕が捻られ、背中に押し込まれていた。視界の上に人影がある。踏まれている。足の甲が喉元に沈んでいた。
「侵入者。即時拘束。」
声は冷たく、抑揚がなかった。女だった。だが体重は重い。力の抜けた手足を縄が巻いていく。口が動いた。何か言おうとしたが、喉が押さえられて出なかった。誰だ、とも言えなかった。
「首が締まっていないなら、まだ喋れるはずよ。」
それが何を意味しているかは、言わなくても分かった。
喉に縄が食い込んでいた。抵抗しようと足を蹴り出すと、その動きに合わせて腕の締め付けが増す。引かれるたびに頸椎が軋んで首が締まり、呼吸の穴が一段ずつ細くなる。痛みよりも先に空気の細さに意識が奪われる。暴れても無駄だと分かっていた。だが止めれば止めるほど、相手の圧が強くなる。肩が沈み、膝が崩れ、顔が床に近付く。見えるのは片目だけだった。
「動かないで、死にたいの?」
「死にたくないから暴れてんだよ!」
足の甲が押しているのは重心ではなかった。あくまで喉を潰すための角度で置かれているだけで、力は腕に集中している。拘束されている腕の後ろ、掴まれている部分に違和感があった。布ではない。硬い。金属の感触。滑らかではなく、構造が層になっている。普通の篭手ではない。肘の近くで何かが連結している。衣に隠されていたが、そこから関節を巻き込むような異物の重みが伝わってきていた。
「・・・あっ・・・。」
喉が狭い。呼吸が一段短くなる。目が滲む。だが見ていた。片目を潰さずに、相手の力の動きと重さの位置を測っていた。
油断したな、会話は得意なんだ。
喉にかかった縄を、逆に引いた。緩めるのではなく、締める方向に力を入れた。頸椎が鳴り、吐き出した息が戻らなくなるのと同時に、相手の重心が足元から浮いた。脚が崩れる。腕の圧が一瞬抜け、篭手の位置がずれた。その隙を作るための暴力だった。重さの傾きは正しかった。動きは予想通りだった。手を戻せれば、腕を抜くこともできた。ほんの一秒、それで良かった。
その瞬間、壁の奥から金属の音がした。構造が跳ねた。今いる場所とは別の層、上階の一点が裂け、視界の右上から光と風が同時に落ちてきた。崩れるのは天井だった。装置の再起動。篭手の破損。相手の腕から金属の音とともに破片が跳ね、次いで緑色の液体が噴き出した。装甲のように手首を覆っていた外郭を自ら外し、女は床を転がって離脱した。
追うより先に崩れた。落下した鉄板が視界を遮り、煙と埃が舞った。一歩も動けなかった。足場が不安定で、呼吸が浅い。女の姿はもう見えなかった。
緑色の液体が床に広がっていた。篭手の破損箇所から流れたもので、すぐに色が変わっていた。黄色に近い。温度が上がっている。表面に泡が浮かび、揺れが逆流している。引くような動きのあと、膨らみが爆ぜた。破裂音が一つ。液体が飛び、隣の装置にかかった瞬間、次の破裂が起きた。
「・・・またかぁ。」
匂いは薬品、音は火薬、動きは連鎖。逃げなければと思う前に、床が熱を持ち始めた。これは一つでは終わらない。緑から始まった爆発は、まだ増える。
「・・・逃げる!それしかない!!」
連鎖的な爆発、しかも徐々に拡大する上に温度だけで背中から迫ってくるのが分かる。
声が出た時には、すでに背中が熱を持っていた。視界の端に破裂音が走る。金属が膨らみ、油膜のような煙が重く広がっていた。緑だったものが黄色に、次に橙に変わり、光を持たない熱が床を抜けて追ってきていた。音ではない。温度だけが先に届く。背中の皮膚が張っていた。肌に触れる前に焼くような圧が風の層を割ってくる。踏み出した瞬間、足が空を蹴った。床が傾いたわけではない。動作が崩れた。右膝が外れ、体勢が崩れる。
転んだはずだった。だが、止まった。何かに当たったのではない。受け止められた。音が消えていた。衝撃が来ないまま、体が引かれる。見上げると黒い衣と金属の腕があった。振動ではなく、反響が体を伝っていた。
「下がっていろ。」
声は低く、呼吸の奥から出ていた。彼がいた。後ろに立っていた。見えていなかったのに、いた。彼の足元に金属が鳴り、次の瞬間、地面が凍った。空気が裂け、薄い霧が巻き上がる。出現したのは剣だった。背丈を超える長さ、根元に鋲が走り、刃の中に歪んだ影が浮いている。名前は聞いたことがあった。ジュデッカ。それは、地獄のある箇所を示す名だ。
氷解の遺構から引き抜かれた遺物。金属ではない。内部には骨のようなものが埋まっていて、その表面を液膜が這っていた。人が持つには大きすぎる。だが彼は持っていた。迷いもなく、体重を乗せ、右腕で引いた。
私はこの名を、この人間を聞いた事がある。
私はこの人間を聞いたことがある。名前ではなく、状況で。顔は知らなかったし、剣の名も知らない。だが、その立ち方と視線の先にあるものを見た瞬間、思い出した。
「この王にだけは絶対に近付くな。あれは血ではなく、行動で王をやっている。」
かつて、とある貴族が明確に言った言葉だった。関われば削られる。逆らえば正しく処理される。そうやって、何年もかけて周囲を黙らせた人間だと。戦争で功を立てたわけではない。戦争を終わらせたわけでもない。ただ、戦争の途中で空気を変えてしまう男だと聞かされていた。誰も反論しないように立ち、誰も納得しないまま座る。そんな人間がひとりだけ、王族の中にいた。
「どの王族だ?・・・いや、そんな気配すらしないな。侵入者か?」
彼は一歩前に出た。動きに無駄がなかった。背を向けず、ディアーナに言葉を投げる余裕すら残していた。
剣を振った。持ち上げるのではなく、引いた重心のまま、左足で半歩踏み込みながら前方を薙いだ。その瞬間、空気の層がずれた。金属の音ではなかった。風でもなかった。温度の壁が走った。ジュデッカの刃が通過した範囲すべてに、霜が舞い、視界が一瞬で白く塗り潰された。地面が鳴った。石も鉄も、まだ爆発を続けていた液体も、すべてが凍った。液体の広がっていた通路の奥まで、凍結が連鎖して進んでいた。
「もう少し、俺の近くだ。凍らない様にしろ。」
霧の奥、残った泡が最後に一度だけ膨らみ、凍りついたまま崩れた。連鎖は止まった。熱が消えたのではない。完全に封じられたのだと、肌が教えてくる。
「んで?侵入者なんだろ?」
「パンで抱き込まれ・・・じゃなくて誘拐されたの。」
「罠につられるのはダメだ、俺もよく引っ掛かる。」
言葉の調子に重さはなかった。だが、構えは解いていなかった。ジュデッカが背に戻されたからといって、状況が好転したわけではない。音は止まっている。装置も動いていない。だが視線があった。どこからともなく感じる、明らかな気配。
「逃げるか?」
一言だけだった。
「それとも、ここで暴れるか。」
選ばせるように言いながら、視線は周囲に向いていた。
「どっちにしても、脱出は難しい。ここはもう監視されてる。」
本当に何も見えていないのか、それとも全部把握しているのか分からない声音だった。
彼の言葉に返答する前に、ディアーナは立ち上がった。焦げた布を踏み締め、肩を伸ばす。体を起こしただけで、視界の角度が変わった。目の前にいた男の頭が、少し下に見える。騎兵として動く体だ。重さよりも反応を重視した構え。無駄がない。つまり、彼は小柄だった。
自分の体格が大きいのは分かっていた。他の王族と並ぶと、どこか浮いてしまう。何も言われなくても、目線が違った。風格がある、成熟している、大人びていると何度も言われた。だがそれは賞賛ではなく、誤解だった。まだ婚姻適齢にすら達していない時期に、大人と見なされた。そのまま年を重ねても周囲の目は変わらず、あっという間に行き遅れと囁かれた。誰も中身を見ていなかった。勝手に判断し、勝手に敬遠した。
だがこの男は違った。
そして、それ以上に自分は違ったのだ。
「・・・あのさ。結婚しない?」
唐突だった。だが嘘ではなかった。目の前の相手は、自分の大きさを見ても逃げず、力でも気配でも勝っていた。何より器があった。それだけで、もう充分だった。
この高さでは岩肌に生物が棲みつく余地すらなく、雪も凍って張りつく前に風に削られ、空気は音を反射する前に消えていた。
指先の感覚は消え、靴底はもう十層ほど前の氷層で滑り落ちてから削れたままだった。残っているのは、左右に一本ずつ突き刺したナイフと、腰に挿してある三本だけ。
高所という概念では説明できない標高だった。
酸素は口腔内で粉のように割れ、視界の端は凍ったまま戻らない。
ナイフの柄を握る手は、三本前に突き立てた時点で裂けていたが、力の抜きどころを誤れば落下する。そのまま雲の下へ、もはや地形ではなく気流によって掻き消される。
コウキは一切喋らない。口を開く理由がない。
彼にとって、ここを登るのは任務ではない。観測でもない。誰かに命じられたわけでも、誰かに誇示するためでもない。ただの“朝”でしかなかった。
突き刺したナイフの右側が軋んだ。柄の部分で受けていた岩が、僅かに剥離する。風圧と体重が一点に集中し、削られた縁が崩れる。
動きは一瞬だった。
彼は手を放さない。
だが、右足の靴裏を岩の内側に滑り込ませ、同時に左拳を振り抜いた。
岩は砕けた。拳は沈んだ。
流血はせず、衝撃の余波も一切出さなかった。
ただ石が割れた音だけが、ここでは唯一の対話だった。
岩壁にめり込んだ拳が支点となり、重心が戻る。右側のナイフを引き抜き、再び上へ。左の拳はまだ突き刺さったままだが、登る動作に何の支障もなかった。
背後にあるのは雲と空と、大陸の端。
空に近いのではない。ここは、空より高い。
2000mを越えてから、空気の質が変わった。呼吸は収縮し、喉の奥で凍る。吸った途端に肺が拒絶し、鼻腔の水分が氷柱のように突き刺さった。
指の動きは遅くなり、関節の感覚が順に抜けていく。皮膚の色はすでに失せており、掌の内側が石のように硬直している。
ナイフは刺さらなくなっていた。岩の密度が増しているのではない。冷えすぎて金属の刃が結晶を砕けず、滑るのだ。
一本を捨てた。握っていた左手のナイフが氷塊に弾かれ、遠くに吸い込まれていった。
「またかよ・・・。」
柄を打ち込んだ音が乾いた。圧が広がり、崖の内側に割れが走った。もう一本を抜いて重ねる。層の縁がずれ、雪の表面が波打つ。呼吸は止めた。風が吸い込まれ、落ちる音が逆に登ってくる。足を浮かせる。崩れ始めた雪の中に、先に入った。腕をたたみ、肩をねじり、胴をひねって重心を投げる。白い流れの先端に身を滑らせ、内側に入る。雪が持ち上がる。外へ逃がす。全身を反転させ、空気の少ない層を選んで頭を出す。片腕を構え、拳を凍結面に叩きつける。岩が砕ける。そのまま沈め、崩れる速度より一歩先に出る。地形を押し戻すように上へ進み、雪の層が潰れるより早く、上から崖の肩を掴んだ。腕で支え、足を探さず、重さだけで這い上がる。縁に手をかけ、滑らせ、這い出る。音は止まっていた。背後で崩れが流れを変え、谷を一つ削っていく。氷層が剥がれ、陽が届いた。
立ち上がる。風の向きが変わった。崩れた雪はすでに尾根の向こうへ流れ、光の粒が後から届く。熱ではない、ただの存在としての証。冷気は抜けきらず、喉にまだ凍りが残っていた。岩肌に立ったまま、目を細めて空を仰ぐ。
「太陽よ!お前の熱は分かった・・・この高度に至ってなお俺の肉を焼くか、せいぜい律儀なことだ。しかし忘れるな、この山を越えるのに必要だったのは炎でも祝福でもない・・・この両足と、剣すら不要な握力だ。お前の燃焼は確かに強い、だが速さにおいて俺を超えたとは決して言わせない!俺が遅れた理由はひとつだけ、お前の位置が高かったこと、それだけだ!」
腕を下ろす。風が止み、寒気だけが衣を抜けて皮膚をかすめた。前方には一望が広がる。鉄と石が組まれた城塞の構造、その内側で蠢くものの影、塔の点滅、門の僅かな開閉、すべてが見渡せた。あの中央に立つのは副王の塔、左に折れた地形は浄化区画の排水口、奥に見えるのは兵站車の通路、いずれも五年前には存在しなかった。すべては彼が配置し、統合し、敵の侵入経路を潰した成果だった。
元は貴族の書記官の子だ。王族の名は持たない。政務官として登用され、軍務に下され、前線で死者を埋めるために派遣されたのが最初の任務だった。二年後には戦術師団を率い、五年目には隣国の王を殺し、七年目に自国の王を黙殺した。以後、王の座は空席となった。
彼がそこに座ったのは、誰も反論しなかったからであり、誰も否定しなかったからであり、王が誰であるべきかを口にした瞬間、首を斬られたからだった。
・・・しかし、それは彼のしたことではない。彼にはあまりにも金が動き過ぎるが故に、全員が彼に同調し、彼で稼ぐ。つまり政治的に腐敗していたのだ。
戦争王と呼ばれたのはそのあとだ。誰もがそう呼んだが、彼は一度も名乗っていない。
脚を揃え、背を伸ばし、頂から目を細める。日が昇る。風が再び、逆に吹いた。
・・・彼には、兄弟も姉妹もおらず、血縁は悪い。
しかし、王としての実力だけはある・・・そう、実力だけは・・・。
観測線に引っかかるものがあった。空にかかるはずの白点が、予定より五秒早く点滅する。塔の南端にある識別灯、学園の警戒層に連動している光が、発令前の挙動を示した。続けて別の光が点く。本来、感知区域が被らないはずの東棟監視窓、そこに光線が交差する。風の角度が変わった。観測塔の外縁が震え、地面の構造が内部から跳ねた。学園の内側で、何かが動いた。・・・防衛層の連動許可は、誰も出していないはずだった。
観測塔の床板を踏む。金属の接合部が跳ね、砂利のような音を出して剥がれた。風はすでに尾根を巻いていた。光の向きが変わる。学園の外周、北壁側の一部が僅かに展開している。配置上、その位置から防衛層に入り込むには地形を越える必要がある。誰もそこを使うはずがない。使った者がいるということだ。
走った。足音は岩盤に残らず、衣の端だけが遅れて翻る。崖の縁で一度だけ姿勢を低くし、速度を溜める。浮いた。
そのまま跳んだ。
尾根の風が背を押す。高度が一瞬で落ちたが、体勢は崩れない。重力に対して軌道が傾き、速度は減速せず方向だけが変わる。山の斜面をなぞるようにして下降し、空の中に入る。衣は風で貼り付き、金具が軋んだ。
地面が迫る。学園の都市部が射程に入った。距離を測る必要はない。上空から、崩れかけた扉と、それを蹴って滑り込んだ影が見えた。
音がした。空気が跳ねた。何かが開いたかと思えば、壁が膨らみ、床が沈み、通路の向きが変わった。足元に仕込まれた金属板が傾き、視界の左右で構造がずれた。
ディアーナは後ろを振り返らず、反射で左へ飛び込む。衣が扉の縁に引っかかり、背を引かれたが、肩を抜いて外した。手をついて転がる。音が追ってきていた。何の音か分からなかった。壁の中で動いている何かが、金属を押し、開閉するたびに空気が焼けているような音をしていた。
「何何何!?」
狭い。低い。構造があきらかに子供向けではなかった。
左、右、段差。反転、躱し、開いた穴に踏み込まず、縁を蹴って跳ねる。息は乱れていない。だが汗は出ていた。足音が反響し、後ろから壁が押し寄せる気配がある。通路ではない。装置そのものが防衛区画ごと動いている。
このままでは潰される。思考より先に身体が選び、ディアーナは最奥の扉の縁に指をかけた。次の瞬間、その下から爆風が立ち上がった。
「・・・殺意マシマシの城って大体の確率で城主アレなのよね・・・。」
次の瞬間、その下から爆風が立ち上がった。「・・・殺意マシマシの城って大体の確率で城主アレなのよね・・・。」
と言いながら既に背を丸め、膝を曲げ、反動を潰す姿勢を取っていた。火薬のにおいが混じる前に熱が先に来る。衝撃が壁を撫で、床の結晶を溶かしていた。天井の格子が閉まり、横から押し出された石板に跳ね飛ばされるようにして背を打つ。喉の奥に鉄の味が残った。右耳が潰れ、音が抜けた。周囲の空間が歪み、白く、次いで黒く反転する。反響音が消え、代わりに自分の呼吸音が内側から響く。
何秒かが不明になる。時計はない。光もない。重力の向きも変わっていた。傾いた感覚で右に転がる。肩が冷たく、頬が濡れ、口の中に粉塵の層が重なった。崩れかけた通路の下層か、あるいは装置の裏か。狭い。息が吸える。壁はまだ熱い。動ける。骨は折れていない。左腕が痺れているが指は動く。そこまで確認してから、一度だけ呻いた。音は控えめで、反響しなかった。
ようやく目が慣れてくる。周囲の壁は焼けておらず、むしろ風の通り道になっている。機構の作動範囲外。空調の影か、退避区画に当たる。元々は誰かが逃げ込むための設計だったのか、通路の奥に非常用の蓋が見える。さっきまでの通路とは違う。静かだった。誰もいなかった。呼吸を整える。何かを思い出す余裕が生まれる。
そして、ようやく逃げてきたことを思い出した。
水が出るのは朝だけだった。昼に捻っても空気しか出ないし、夜は泥が混じる。飲むのは朝の一回、それで足りないなら買うしかない。ディアーナはいつも、その朝に合わせて起きていた。部屋の壁にはひびがあり、床は一段傾いていて、窓の外は隣の建物の壁しか見えなかった。
朝はまず水を受けて、そのまま顔を洗い、髪を適当に束ねる。誰も見ていないのは分かっていたが、そうしておかないと気分が悪かった。次に扉の鍵を開け、裏路地に出て、パンと引き換えに昨日拾った紙や金属を渡す。量は重視されない。形や成分が重要で、それを分かっているかどうかで貰える量が違った。ディアーナはそこを外さない。手は汚れていても、袋の中身は常に整頓されていた。
食べる時は立ったままだ。座ると背中が冷える。歩きながら食べると体温が戻る。唇を拭く布は持っていないが、食べ終わった頃には風が顔を乾かしていた。服は古いが体に合っていた。靴は片方だけ底が削れていたが、歩き方で誤魔化せた。
他人と話すことは少なかった。誰も何も話しかけてこないし、話しかけてきた相手はだいたい売るか奪うかの二択だったからだ。だが、だからといって彼女が無口というわけではなかった。ただ、自分が口を開く時は、喉を使うのではなく、構えのように息を出してからにしていた。
今日も似たような朝だった。違ったのは、パンを受け取った直後、後ろに立っていた男がこう言ったことだ。「王族の姫君が逃げた。代わりになってくれないか」と。
視界は無かった。車輪の振動は鈍く、空気の抜けもなかった。外がどうなっているかは分からない。ただ揺れている。一定ではなく、不意に跳ね、重心がぶれ、戻る。内壁は硬く、鉄の匂いと革の感触が混じっていた。目の前には何もなく、誰も話さない。口を開く者がいなかったのではなく、全員が同じ答えを知っていたからだ。自分は今、運ばれている。理由は聞いていないが、全員が知っている。
扉の向こうで音がした。誰かが喋っている。
「姫が逃げたらしい。」
「年が近ければいいらしい。」
「通ればいいんだよ、似てさえいれば。」
言葉は軽い。冗談のようで、本気だった。確信のない音程で、だが否定はなかった。説明は無いが、拒絶も無い。そういう場で、そういう流れで、そういう順番で、たまたま選ばれた。選ばれたという言葉が使われていたが、それは誤りだった。選んだのではなく、拾ったのだ。偶然で、都合がよくて、面倒がなかった。だから自分がここにいる。それだけだった。
何も言えなかった。理解するしかなかった。笑うには遅すぎて、泣くには温度が足りなかった。
揺れが止まった。外から音がした。最初は何かを蹴ったような鈍い衝撃、続いて短く金属の軋み、次に動物の叫び声、それから焼ける音がした。皮が焦げる臭いが風の隙間から入ってきた。火薬の臭いも混じっていた。熱はまだ届いていないが、空気の流れが一つだけだったものから三つになった。扉の向こうが裂けている。馬車がやられた。
ディアーナは動いた。手足を締める縄が焼けているわけではなかった。体をよじり、肩をひねり、足を蹴り出す。視界は塞がれている。紐は動かない。暴れても抜けない。切れない。噛み切れない。無理だと判断するまでに七秒。
焼ける音が近づいていた。重心を崩さないまま転がる。進路を探す。隙間から風が入ってくる。空気が動いているなら、火も動く。紐が燃えれば切れる。動きを止めて体勢を戻す。向きを合わせる。熱が来る。
顔を避ける。背中を落とす。火の位置を肩で測る。視界を使わず、布越しの熱の変化で角度を掴む。左膝を持ち上げて縛りをずらし、足先を下げて結び目を引っ張る。煙が鼻を刺した。咳を我慢し、足を捻って火に向かって突き出す。
爪先が焼けた。焦げた音がした。次の瞬間、左足首の紐が跳ねた。
左足が抜けた。膝を畳んで体を引き起こし、焼け焦げた縄を踏み潰すようにして右足を引き抜く。火はまだ近いが布の燃え方は浅く、熱を肌で受けながら体をずらし、顎を引いて顔に巻かれた布を肩と頬で擦る。結び目が後ろに回っていた。首をねじって鼻先で布の縁を押し上げ、ずらした端を肩甲骨の動きで引き戻し、緩みを誘う。息を止めて一気に頭を振る。視界が開け、熱と煙が同時に襲ってきた。
「・・・生きてるし・・・燃えてるし・・・なんでこんなに臭いの・・・。」
声に咳は混じっていない。喉が痛む感覚はあるが、息が通ったことのほうが強かった。手首の縛りは残っていたが、足が動けばいくらでも姿勢は変えられる。腰を引いて足場を探し、火元から遠い位置で膝を立て、体を起こす。布が焼けた匂いに焦げた皮の臭いが混じっていた。目は痛むが、意識は鮮明だった。立って見回すと錆びかけた金具が混じっていた。残った手首の縄に刃先をこすりつけ、引くようにして裂いた。
・・・それで、さっきの様に巻き込まれた訳だ。
煙の匂いはもうしなかった。足元の感覚が戻っていた。崩れた通路の先、誰もいない搬入口のような構造の隙間に入ってから、追手も装置も動いていなかった。息を殺す必要もない。光も音も無かった。奥の金属片に腰をかけ、火傷した足首を引き寄せ、焼け残った布を剥がす。肌はまだ熱かったが、感覚はある。歩ける。誰もいない。そう思って、ようやく力を抜いた。
縄が飛んできた。首にかかった。引かれた。足が浮き、背中から地面に叩きつけられる。咳き込む暇もなく、次の瞬間には腕が捻られ、背中に押し込まれていた。視界の上に人影がある。踏まれている。足の甲が喉元に沈んでいた。
「侵入者。即時拘束。」
声は冷たく、抑揚がなかった。女だった。だが体重は重い。力の抜けた手足を縄が巻いていく。口が動いた。何か言おうとしたが、喉が押さえられて出なかった。誰だ、とも言えなかった。
「首が締まっていないなら、まだ喋れるはずよ。」
それが何を意味しているかは、言わなくても分かった。
喉に縄が食い込んでいた。抵抗しようと足を蹴り出すと、その動きに合わせて腕の締め付けが増す。引かれるたびに頸椎が軋んで首が締まり、呼吸の穴が一段ずつ細くなる。痛みよりも先に空気の細さに意識が奪われる。暴れても無駄だと分かっていた。だが止めれば止めるほど、相手の圧が強くなる。肩が沈み、膝が崩れ、顔が床に近付く。見えるのは片目だけだった。
「動かないで、死にたいの?」
「死にたくないから暴れてんだよ!」
足の甲が押しているのは重心ではなかった。あくまで喉を潰すための角度で置かれているだけで、力は腕に集中している。拘束されている腕の後ろ、掴まれている部分に違和感があった。布ではない。硬い。金属の感触。滑らかではなく、構造が層になっている。普通の篭手ではない。肘の近くで何かが連結している。衣に隠されていたが、そこから関節を巻き込むような異物の重みが伝わってきていた。
「・・・あっ・・・。」
喉が狭い。呼吸が一段短くなる。目が滲む。だが見ていた。片目を潰さずに、相手の力の動きと重さの位置を測っていた。
油断したな、会話は得意なんだ。
喉にかかった縄を、逆に引いた。緩めるのではなく、締める方向に力を入れた。頸椎が鳴り、吐き出した息が戻らなくなるのと同時に、相手の重心が足元から浮いた。脚が崩れる。腕の圧が一瞬抜け、篭手の位置がずれた。その隙を作るための暴力だった。重さの傾きは正しかった。動きは予想通りだった。手を戻せれば、腕を抜くこともできた。ほんの一秒、それで良かった。
その瞬間、壁の奥から金属の音がした。構造が跳ねた。今いる場所とは別の層、上階の一点が裂け、視界の右上から光と風が同時に落ちてきた。崩れるのは天井だった。装置の再起動。篭手の破損。相手の腕から金属の音とともに破片が跳ね、次いで緑色の液体が噴き出した。装甲のように手首を覆っていた外郭を自ら外し、女は床を転がって離脱した。
追うより先に崩れた。落下した鉄板が視界を遮り、煙と埃が舞った。一歩も動けなかった。足場が不安定で、呼吸が浅い。女の姿はもう見えなかった。
緑色の液体が床に広がっていた。篭手の破損箇所から流れたもので、すぐに色が変わっていた。黄色に近い。温度が上がっている。表面に泡が浮かび、揺れが逆流している。引くような動きのあと、膨らみが爆ぜた。破裂音が一つ。液体が飛び、隣の装置にかかった瞬間、次の破裂が起きた。
「・・・またかぁ。」
匂いは薬品、音は火薬、動きは連鎖。逃げなければと思う前に、床が熱を持ち始めた。これは一つでは終わらない。緑から始まった爆発は、まだ増える。
「・・・逃げる!それしかない!!」
連鎖的な爆発、しかも徐々に拡大する上に温度だけで背中から迫ってくるのが分かる。
声が出た時には、すでに背中が熱を持っていた。視界の端に破裂音が走る。金属が膨らみ、油膜のような煙が重く広がっていた。緑だったものが黄色に、次に橙に変わり、光を持たない熱が床を抜けて追ってきていた。音ではない。温度だけが先に届く。背中の皮膚が張っていた。肌に触れる前に焼くような圧が風の層を割ってくる。踏み出した瞬間、足が空を蹴った。床が傾いたわけではない。動作が崩れた。右膝が外れ、体勢が崩れる。
転んだはずだった。だが、止まった。何かに当たったのではない。受け止められた。音が消えていた。衝撃が来ないまま、体が引かれる。見上げると黒い衣と金属の腕があった。振動ではなく、反響が体を伝っていた。
「下がっていろ。」
声は低く、呼吸の奥から出ていた。彼がいた。後ろに立っていた。見えていなかったのに、いた。彼の足元に金属が鳴り、次の瞬間、地面が凍った。空気が裂け、薄い霧が巻き上がる。出現したのは剣だった。背丈を超える長さ、根元に鋲が走り、刃の中に歪んだ影が浮いている。名前は聞いたことがあった。ジュデッカ。それは、地獄のある箇所を示す名だ。
氷解の遺構から引き抜かれた遺物。金属ではない。内部には骨のようなものが埋まっていて、その表面を液膜が這っていた。人が持つには大きすぎる。だが彼は持っていた。迷いもなく、体重を乗せ、右腕で引いた。
私はこの名を、この人間を聞いた事がある。
私はこの人間を聞いたことがある。名前ではなく、状況で。顔は知らなかったし、剣の名も知らない。だが、その立ち方と視線の先にあるものを見た瞬間、思い出した。
「この王にだけは絶対に近付くな。あれは血ではなく、行動で王をやっている。」
かつて、とある貴族が明確に言った言葉だった。関われば削られる。逆らえば正しく処理される。そうやって、何年もかけて周囲を黙らせた人間だと。戦争で功を立てたわけではない。戦争を終わらせたわけでもない。ただ、戦争の途中で空気を変えてしまう男だと聞かされていた。誰も反論しないように立ち、誰も納得しないまま座る。そんな人間がひとりだけ、王族の中にいた。
「どの王族だ?・・・いや、そんな気配すらしないな。侵入者か?」
彼は一歩前に出た。動きに無駄がなかった。背を向けず、ディアーナに言葉を投げる余裕すら残していた。
剣を振った。持ち上げるのではなく、引いた重心のまま、左足で半歩踏み込みながら前方を薙いだ。その瞬間、空気の層がずれた。金属の音ではなかった。風でもなかった。温度の壁が走った。ジュデッカの刃が通過した範囲すべてに、霜が舞い、視界が一瞬で白く塗り潰された。地面が鳴った。石も鉄も、まだ爆発を続けていた液体も、すべてが凍った。液体の広がっていた通路の奥まで、凍結が連鎖して進んでいた。
「もう少し、俺の近くだ。凍らない様にしろ。」
霧の奥、残った泡が最後に一度だけ膨らみ、凍りついたまま崩れた。連鎖は止まった。熱が消えたのではない。完全に封じられたのだと、肌が教えてくる。
「んで?侵入者なんだろ?」
「パンで抱き込まれ・・・じゃなくて誘拐されたの。」
「罠につられるのはダメだ、俺もよく引っ掛かる。」
言葉の調子に重さはなかった。だが、構えは解いていなかった。ジュデッカが背に戻されたからといって、状況が好転したわけではない。音は止まっている。装置も動いていない。だが視線があった。どこからともなく感じる、明らかな気配。
「逃げるか?」
一言だけだった。
「それとも、ここで暴れるか。」
選ばせるように言いながら、視線は周囲に向いていた。
「どっちにしても、脱出は難しい。ここはもう監視されてる。」
本当に何も見えていないのか、それとも全部把握しているのか分からない声音だった。
彼の言葉に返答する前に、ディアーナは立ち上がった。焦げた布を踏み締め、肩を伸ばす。体を起こしただけで、視界の角度が変わった。目の前にいた男の頭が、少し下に見える。騎兵として動く体だ。重さよりも反応を重視した構え。無駄がない。つまり、彼は小柄だった。
自分の体格が大きいのは分かっていた。他の王族と並ぶと、どこか浮いてしまう。何も言われなくても、目線が違った。風格がある、成熟している、大人びていると何度も言われた。だがそれは賞賛ではなく、誤解だった。まだ婚姻適齢にすら達していない時期に、大人と見なされた。そのまま年を重ねても周囲の目は変わらず、あっという間に行き遅れと囁かれた。誰も中身を見ていなかった。勝手に判断し、勝手に敬遠した。
だがこの男は違った。
そして、それ以上に自分は違ったのだ。
「・・・あのさ。結婚しない?」
唐突だった。だが嘘ではなかった。目の前の相手は、自分の大きさを見ても逃げず、力でも気配でも勝っていた。何より器があった。それだけで、もう充分だった。
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