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外交的もつれ現象
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ハンマーが落ちる。
その瞬間だけ、空気が“音”を忘れたみたいに静かになった。
金属の頭がランプの光を鈍く反射し、一直線にラブへ向かう。逃げられる距離なのに、ラブは逃げない。逃げないというより――“そこに立つ”ことが、最初から決められているみたいだった。
「ラブ――!」
ヘンリーの叫びより早く、ラブの腕が上がる。
掌で受けた。受けてしまった。
ガン、と乾いた衝撃がアトリエの壁を叩き、次いでギィ……と、骨が軋むような嫌な音が鳴った。
ラブの白い外装が、細い蜘蛛の巣みたいにひび割れ、内側から火花が散った。血は出ない。それでも、“傷”の匂いがした。
グリックの顔が歪む。怒りの歪みではない。驚きと、怯えと、理解できないものを見たときの歪みだ。
「……っ、なんだよ……これ……!」
ヘンリーは床を蹴って飛び込み、グリックの手首を両腕で抱えてねじ上げた。力の差は大きい。だが、驚きで握力が落ちた隙がある。ハンマーが床に落ち、鈍い音を立てて転がった。
オージーが震える声で叫ぶ。
「父さん、やめて! お願いだから!」
グリックは息を荒くし、視線をラブの腕へ戻す。ラブは受け止めたまま、微笑みを崩さない。崩せないのかもしれない。受け止めた腕は、わずかに震えていた。
「……侵害行為を確認。これ以上の攻撃は――」
ラブの声の底に、別の層が混じった。
メイドの優しい音の下に、警備装置の冷たい音がある。
ヘンリーはそれを聞いて、背中が冷えた。
ラブが“本気”になれば、人間は簡単に壊れる。
壊してしまったら、もう戻れない。ラブは「守る装置」から、「人を壊せる装置」へ名前を変えられてしまう。
ヘンリーはラブの肩に手を当て、小さく首を振った。
「やらなくていい。……俺が止める」
グリックは唇を噛み、乱暴に息を吐いた。
「……気色悪い。気色悪いんだよ……!」
怒鳴ったまま、男はアトリエを飛び出していった。扉が壁を叩き、外の冷たい夜気が流れ込む。
残ったのは、ランプの揺れと、火花が消えたあとの焦げ臭さと、オージーの震えだけだった。
ヘンリーはしゃがみ込み、ラブのひび割れた外装に指を伸ばしかけて止めた。触れたら壊れそうで、怖かった。
「……ラブ。痛むか」
「痛覚はありません。ですが、損傷は確認できます」
ラブはいつもの微笑みで言い、そしてほんの少しだけ、目の焦点が揺れた。人間で言うなら、“痛いのに痛いと言わない”揺れだった。
オージーが涙を堪えるように言った。
「……ごめん。僕が、余計なことをしたから……外装、付け替えたとき……余計な部品、外したから……」
「責めてない」
ヘンリーは短く言って、立ち上がる。胸の奥が熱い。怒りはグリックに向かっても意味がない。怒りの矛先がない世界だから、怒りはいつも“手近なもの”を壊す。
ヘンリーは、オージーの机の上に散らばる紙片を見た。絵の下書きと、古い記録の写し。そこに紋章のスケッチが混じっている。
「あれ……それ、どこで?」
オージーは視線を逸らし、観念したように答えた。
「僕の首の後ろにある痣と、ペンダントの紋章。……王家の印らしい。僕は、そういう血筋だって」
言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
ヘンリーの中で、別の問題が立ち上がる。
王家。血筋。
この世界で一番、面倒を呼ぶ単語。
「父さんがあんなだったのも……それが理由?」
オージーは頷いた。
「隠せって。目立つなって。僕がいると、王都の残党が来るって。……でも隠してたら、結局みんなに嫌われるだけで、何も変わらないって思って……」
ヘンリーは息を吐いた。
理解はできる。けれど――それは“外交”の始まりだ。人と人のあいだに、勝手に旗が立つ。
「……明日、村の長に話す。先にこちらから筋を通す。噂が先に走ったら、もう止められない」
ラブが穏やかに頷いた。
「混乱が生じる前に、誤解をほどくのがよろしいかと存じます」
その“正しさ”が、逆に怖い。
正しいことをしても、事態が悪くなるのが、この世界だ。
ヘンリーはランプを見つめ、静かに決めた。
「王国なんて作らない。王なんて要らない。……必要なのは、灯りと水と、眠れる夜だけだ」
オージーは唇を噛み、かすかに頷いた。
ラブは微笑んだ。ひび割れた外装のまま。
---
数日後、丘の上から村を見下ろす夕暮れが来た。
空は赤く、地平線が燃えている。焼けた光が、木造の家々をオレンジ色に染め、素朴な村の輪郭を絵画みたいに浮かび上がらせる。
ヘンリーは見張り台の端に腰掛け、膝を抱えた。
隣にラブが立つ。新しい外装は柔らかい線を得たが、その右腕のひびはまだ消えていない。オージーのアトリエで応急処置はできても、“元通り”には遠い。
「綺麗ですね、ヘンリー様。まるで絵画のようです」
ラブが言う。
いつもと同じ言い方。けれど、ヘンリーはその言葉の中に、別の意味を感じた。
ラブは“景色”を褒めているのではなく、景色を褒めることで――ヘンリーの心を撫でている。
「ああ……綺麗だな」
ヘンリーは頷き、村の中心を見る。
少しだけ立派な建物。急いで建てられた仮の住居。そこにオージーがしばらく滞在することになった。
王家の血筋の話は、あっという間に広がった。
歓迎する者もいる。期待する者もいる。
そして、恐れる者がいる。
恐れは、最初は小さな声で始まる。
「王都が来るぞ」
「残党が嗅ぎつける」
「巻き込まれる」
その小さな声が、ある日突然“正義”になる。
正義になった瞬間、誰も止められなくなる。
背後から足音がして、オージーが現れた。普段の軽口はなく、どこか気まずそうにヘンリーの隣へ来る。
「……ヘンリー。みんな、変だ。僕を見る目が」
「そりゃそうなる」
ヘンリーは言い、強くならないように声を抑えた。
「でも、勘違いさせない。王だの王国だの、そういう話に乗らない。俺たちは“村”を作る。生きる場所を作る。それだけだ」
オージーは小さく笑った。笑うしかない、みたいな笑いだった。
「……僕、向いてないよ。王なんて。守るって言ったって、剣も持てない」
「王じゃなくていい。守るってのは、偉くなることじゃない。……逃げないことだ」
ラブが二人を見つめ、静かに口を開く。
「オージー様がここにいることで起きる混乱は、避けられません。ただ――混乱の火種を、恨みへ変えない方法はあります」
「方法?」
「“目的”を明確に示すことです。王国の再興ではなく、生活の再建。恐れではなく、利益。奪うのではなく、分け合う」
ラブの声は優しいのに、言っていることは容赦がない。
この世界で人が動くのは、理想よりも利益だ。利益を見せれば恐れは薄れる。恐れが薄れれば憎しみは減る。
ヘンリーは頷いた。
「……村長に話す。こちらから条件を出す。俺たちは権力を欲しがらない。その代わり、最低限の物資と、人手と、地図を借りたい」
オージーは息を吞み、頷いた。
「……分かった。僕も、ちゃんと話す」
夕焼けがさらに濃くなる。
その時、ヘンリーの耳に、かすかな音が引っかかった。
キィ……キィ……。
金属が擦れるような、不気味な音。
風の音とは、リズムが違う。生き物の呼吸とは、もっと違う。
ヘンリーが立ち上がろうとした瞬間、ラブの手が袖を掴んだ。
強くはない。けれど、迷いのない力。
「……今は戻りましょう、ヘンリー様」
「気のせいか?」
「気のせいであってほしい、です」
ラブは笑わない。
その一言で、答えは十分だった。
---
村長ブルックの小屋は薄暗かった。
天井の隙間から差す光が、机の上の古い地図を照らしている。地図の縁は擦り切れ、ところどころが黒く焼けていた。戦乱の時代に持ち運ばれた地図だ。
ブルックは腕を組み、ヘンリーとオージーを交互に見た。
最後にラブへ視線をやり、わずかに眉をひそめる。ロボットを信用しない古い世代の目だ。
「……つまり、オージーは王家の血を引く、と」
オージーは小さく頷いた。
「はい。証拠は、痣と……この紋章です」
ペンダントを握りしめる指が震えていた。
ブルックは溜息をつく。
「厄介な札を持ち込んだもんだ。王都の残党が動けば、この村は焼ける」
「だからこそ、先に言いに来た」
ヘンリーは姿勢を正し、言葉を選ぶ。
「俺たちは、ここで王国を作る気はない。オージーを“王”にする気もない。……ただ、俺たちが拠点にできる場所が必要だ。安全に水を確保できて、工房を置けて、探索の帰りに戻れる場所」
ブルックはじっとヘンリーを見る。測る目だ。
そして、ぽつりと言う。
「欲しいものは?」
「地図。周辺の水脈。資材の出どころ。あと、余っている工具。見張りの交代要員を数人……いや、無理ならいい。俺たちでやる」
「で、見返りは」
ヘンリーは息を吸い、迷わず言った。
「設計図の知識を渡す。井戸、簡易浄水、風車、乾燥室。……それと、金属の獣への対処法。殺すんじゃなく、止める方向で」
ブルックの眉が動いた。
それは、驚きと興味が混ざった動き。
「止める……?」
「止められる可能性がある。俺たちはそのために動いてる。……だから、時間が欲しい」
小屋の空気が沈黙で満ちる。
ブルックはしばらく考え、机の端を指で叩いた。
「……いいだろう。条件付きだ。まず、オージーは“王”を名乗らない。村の上に立つ言動をしない。次に、問題が起きたらこの村を巻き込まない。最後に――」
ブルックはラブを見る。
「そのロボットが暴走したら、責任を取れるのか」
ヘンリーの喉が鳴った。
ラブの笑顔は、微動だにしない。けれど、この問いは刃だ。
ヘンリーは迷わず答えた。
「取る。……俺が止める」
ラブが静かに言った。
「村長様、ご不安は理解できます。私は暴走しません。ですが、万が一その兆候が見られる場合、私は自ら停止します。ヘンリー様の安全と、この村の安全を、優先いたします」
“自ら停止”。
その言葉が、ヘンリーの胸を締めつけた。
ラブは自分を道具として扱う発想から、まだ抜けられていない。抜けさせたいのに、抜けさせる時間がない。
ブルックは目を細め、最後に頷いた。
「……分かった。地図は渡す。資材も少し回す。ただし、出発は早めろ。噂は風より早い。残党が来る前に、ここから距離を取れ」
ヘンリーは深く頭を下げた。
「ありがとう。……必ず返す。返すってのは、物だけじゃない。……この世界に、灯りを返す」
ブルックは鼻で笑った。
「でかいこと言いやがる」
---
小屋を出ると、夜が村を包み始めていた。
ヘンリーは地図を握りしめ、オージーとラブを連れて歩く。
村の灯りは少ない。それでも、灯りがあるだけで、世界は少しだけ優しい顔をする。
優しい顔をしたまま、牙を隠すのがこの世界の嫌なところだ。
丘の麓を通ったとき、またあの音がした。
キィ……キィ……。
近い。
今度は気のせいじゃない。
ヘンリーが立ち止まると、ラブが半歩前に出る。盾の位置。
その癖を見て、ヘンリーは即座にラブの肩を掴み、前に出させない。
「俺が見る」
「危険です」
「危険でも、同じことを繰り返したくない。……守られてばかりは嫌だ」
ラブの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
理解の揺れか、プログラムの揺れか。
それでもヘンリーは、その揺れを“心の揺れ”として受け取りたかった。
闇の向こうに赤い光がちらりと見えた気がして、ヘンリーは背筋が凍った。
ただし、次の瞬間には消えていた。獣なのか、ただの反射なのか、判別できない。
オージーが囁く。
「……来てる。やっぱり、僕のせいで」
「違う」
ヘンリーは即答した。
「“せい”じゃない。“現象”だ。人が旗を見つけたら、奪い合う。王家の血筋は旗だ。……旗を折るんじゃなく、旗を持ったまま、別の場所へ移る」
ラブが静かに頷く。
「外交的もつれ、というべき状況です。解決は、距離と速度が最善です」
距離と速度。
ラブの言葉は冷たいくらい合理的で、だけど今はそれが救いだった。
ヘンリーは地図を胸に押し当て、夜の闇へ視線を据える。
「……明け方に出る。準備は最小限でいい。必要なのは、命と、設計図と、君たちだけだ」
オージーが息を吸い、震えながら頷く。
「うん。逃げるんじゃない。……作りに行く」
ラブが微笑む。
外装のひびは消えない。けれど、その微笑みは、ひびの向こうから出てくる光みたいに見えた。
三人は歩き出した。
村の灯りを背に、まだ地図にも載らない未来へ。
王冠ではなく、井戸と風車と、眠れる夜のために。
その瞬間だけ、空気が“音”を忘れたみたいに静かになった。
金属の頭がランプの光を鈍く反射し、一直線にラブへ向かう。逃げられる距離なのに、ラブは逃げない。逃げないというより――“そこに立つ”ことが、最初から決められているみたいだった。
「ラブ――!」
ヘンリーの叫びより早く、ラブの腕が上がる。
掌で受けた。受けてしまった。
ガン、と乾いた衝撃がアトリエの壁を叩き、次いでギィ……と、骨が軋むような嫌な音が鳴った。
ラブの白い外装が、細い蜘蛛の巣みたいにひび割れ、内側から火花が散った。血は出ない。それでも、“傷”の匂いがした。
グリックの顔が歪む。怒りの歪みではない。驚きと、怯えと、理解できないものを見たときの歪みだ。
「……っ、なんだよ……これ……!」
ヘンリーは床を蹴って飛び込み、グリックの手首を両腕で抱えてねじ上げた。力の差は大きい。だが、驚きで握力が落ちた隙がある。ハンマーが床に落ち、鈍い音を立てて転がった。
オージーが震える声で叫ぶ。
「父さん、やめて! お願いだから!」
グリックは息を荒くし、視線をラブの腕へ戻す。ラブは受け止めたまま、微笑みを崩さない。崩せないのかもしれない。受け止めた腕は、わずかに震えていた。
「……侵害行為を確認。これ以上の攻撃は――」
ラブの声の底に、別の層が混じった。
メイドの優しい音の下に、警備装置の冷たい音がある。
ヘンリーはそれを聞いて、背中が冷えた。
ラブが“本気”になれば、人間は簡単に壊れる。
壊してしまったら、もう戻れない。ラブは「守る装置」から、「人を壊せる装置」へ名前を変えられてしまう。
ヘンリーはラブの肩に手を当て、小さく首を振った。
「やらなくていい。……俺が止める」
グリックは唇を噛み、乱暴に息を吐いた。
「……気色悪い。気色悪いんだよ……!」
怒鳴ったまま、男はアトリエを飛び出していった。扉が壁を叩き、外の冷たい夜気が流れ込む。
残ったのは、ランプの揺れと、火花が消えたあとの焦げ臭さと、オージーの震えだけだった。
ヘンリーはしゃがみ込み、ラブのひび割れた外装に指を伸ばしかけて止めた。触れたら壊れそうで、怖かった。
「……ラブ。痛むか」
「痛覚はありません。ですが、損傷は確認できます」
ラブはいつもの微笑みで言い、そしてほんの少しだけ、目の焦点が揺れた。人間で言うなら、“痛いのに痛いと言わない”揺れだった。
オージーが涙を堪えるように言った。
「……ごめん。僕が、余計なことをしたから……外装、付け替えたとき……余計な部品、外したから……」
「責めてない」
ヘンリーは短く言って、立ち上がる。胸の奥が熱い。怒りはグリックに向かっても意味がない。怒りの矛先がない世界だから、怒りはいつも“手近なもの”を壊す。
ヘンリーは、オージーの机の上に散らばる紙片を見た。絵の下書きと、古い記録の写し。そこに紋章のスケッチが混じっている。
「あれ……それ、どこで?」
オージーは視線を逸らし、観念したように答えた。
「僕の首の後ろにある痣と、ペンダントの紋章。……王家の印らしい。僕は、そういう血筋だって」
言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
ヘンリーの中で、別の問題が立ち上がる。
王家。血筋。
この世界で一番、面倒を呼ぶ単語。
「父さんがあんなだったのも……それが理由?」
オージーは頷いた。
「隠せって。目立つなって。僕がいると、王都の残党が来るって。……でも隠してたら、結局みんなに嫌われるだけで、何も変わらないって思って……」
ヘンリーは息を吐いた。
理解はできる。けれど――それは“外交”の始まりだ。人と人のあいだに、勝手に旗が立つ。
「……明日、村の長に話す。先にこちらから筋を通す。噂が先に走ったら、もう止められない」
ラブが穏やかに頷いた。
「混乱が生じる前に、誤解をほどくのがよろしいかと存じます」
その“正しさ”が、逆に怖い。
正しいことをしても、事態が悪くなるのが、この世界だ。
ヘンリーはランプを見つめ、静かに決めた。
「王国なんて作らない。王なんて要らない。……必要なのは、灯りと水と、眠れる夜だけだ」
オージーは唇を噛み、かすかに頷いた。
ラブは微笑んだ。ひび割れた外装のまま。
---
数日後、丘の上から村を見下ろす夕暮れが来た。
空は赤く、地平線が燃えている。焼けた光が、木造の家々をオレンジ色に染め、素朴な村の輪郭を絵画みたいに浮かび上がらせる。
ヘンリーは見張り台の端に腰掛け、膝を抱えた。
隣にラブが立つ。新しい外装は柔らかい線を得たが、その右腕のひびはまだ消えていない。オージーのアトリエで応急処置はできても、“元通り”には遠い。
「綺麗ですね、ヘンリー様。まるで絵画のようです」
ラブが言う。
いつもと同じ言い方。けれど、ヘンリーはその言葉の中に、別の意味を感じた。
ラブは“景色”を褒めているのではなく、景色を褒めることで――ヘンリーの心を撫でている。
「ああ……綺麗だな」
ヘンリーは頷き、村の中心を見る。
少しだけ立派な建物。急いで建てられた仮の住居。そこにオージーがしばらく滞在することになった。
王家の血筋の話は、あっという間に広がった。
歓迎する者もいる。期待する者もいる。
そして、恐れる者がいる。
恐れは、最初は小さな声で始まる。
「王都が来るぞ」
「残党が嗅ぎつける」
「巻き込まれる」
その小さな声が、ある日突然“正義”になる。
正義になった瞬間、誰も止められなくなる。
背後から足音がして、オージーが現れた。普段の軽口はなく、どこか気まずそうにヘンリーの隣へ来る。
「……ヘンリー。みんな、変だ。僕を見る目が」
「そりゃそうなる」
ヘンリーは言い、強くならないように声を抑えた。
「でも、勘違いさせない。王だの王国だの、そういう話に乗らない。俺たちは“村”を作る。生きる場所を作る。それだけだ」
オージーは小さく笑った。笑うしかない、みたいな笑いだった。
「……僕、向いてないよ。王なんて。守るって言ったって、剣も持てない」
「王じゃなくていい。守るってのは、偉くなることじゃない。……逃げないことだ」
ラブが二人を見つめ、静かに口を開く。
「オージー様がここにいることで起きる混乱は、避けられません。ただ――混乱の火種を、恨みへ変えない方法はあります」
「方法?」
「“目的”を明確に示すことです。王国の再興ではなく、生活の再建。恐れではなく、利益。奪うのではなく、分け合う」
ラブの声は優しいのに、言っていることは容赦がない。
この世界で人が動くのは、理想よりも利益だ。利益を見せれば恐れは薄れる。恐れが薄れれば憎しみは減る。
ヘンリーは頷いた。
「……村長に話す。こちらから条件を出す。俺たちは権力を欲しがらない。その代わり、最低限の物資と、人手と、地図を借りたい」
オージーは息を吞み、頷いた。
「……分かった。僕も、ちゃんと話す」
夕焼けがさらに濃くなる。
その時、ヘンリーの耳に、かすかな音が引っかかった。
キィ……キィ……。
金属が擦れるような、不気味な音。
風の音とは、リズムが違う。生き物の呼吸とは、もっと違う。
ヘンリーが立ち上がろうとした瞬間、ラブの手が袖を掴んだ。
強くはない。けれど、迷いのない力。
「……今は戻りましょう、ヘンリー様」
「気のせいか?」
「気のせいであってほしい、です」
ラブは笑わない。
その一言で、答えは十分だった。
---
村長ブルックの小屋は薄暗かった。
天井の隙間から差す光が、机の上の古い地図を照らしている。地図の縁は擦り切れ、ところどころが黒く焼けていた。戦乱の時代に持ち運ばれた地図だ。
ブルックは腕を組み、ヘンリーとオージーを交互に見た。
最後にラブへ視線をやり、わずかに眉をひそめる。ロボットを信用しない古い世代の目だ。
「……つまり、オージーは王家の血を引く、と」
オージーは小さく頷いた。
「はい。証拠は、痣と……この紋章です」
ペンダントを握りしめる指が震えていた。
ブルックは溜息をつく。
「厄介な札を持ち込んだもんだ。王都の残党が動けば、この村は焼ける」
「だからこそ、先に言いに来た」
ヘンリーは姿勢を正し、言葉を選ぶ。
「俺たちは、ここで王国を作る気はない。オージーを“王”にする気もない。……ただ、俺たちが拠点にできる場所が必要だ。安全に水を確保できて、工房を置けて、探索の帰りに戻れる場所」
ブルックはじっとヘンリーを見る。測る目だ。
そして、ぽつりと言う。
「欲しいものは?」
「地図。周辺の水脈。資材の出どころ。あと、余っている工具。見張りの交代要員を数人……いや、無理ならいい。俺たちでやる」
「で、見返りは」
ヘンリーは息を吸い、迷わず言った。
「設計図の知識を渡す。井戸、簡易浄水、風車、乾燥室。……それと、金属の獣への対処法。殺すんじゃなく、止める方向で」
ブルックの眉が動いた。
それは、驚きと興味が混ざった動き。
「止める……?」
「止められる可能性がある。俺たちはそのために動いてる。……だから、時間が欲しい」
小屋の空気が沈黙で満ちる。
ブルックはしばらく考え、机の端を指で叩いた。
「……いいだろう。条件付きだ。まず、オージーは“王”を名乗らない。村の上に立つ言動をしない。次に、問題が起きたらこの村を巻き込まない。最後に――」
ブルックはラブを見る。
「そのロボットが暴走したら、責任を取れるのか」
ヘンリーの喉が鳴った。
ラブの笑顔は、微動だにしない。けれど、この問いは刃だ。
ヘンリーは迷わず答えた。
「取る。……俺が止める」
ラブが静かに言った。
「村長様、ご不安は理解できます。私は暴走しません。ですが、万が一その兆候が見られる場合、私は自ら停止します。ヘンリー様の安全と、この村の安全を、優先いたします」
“自ら停止”。
その言葉が、ヘンリーの胸を締めつけた。
ラブは自分を道具として扱う発想から、まだ抜けられていない。抜けさせたいのに、抜けさせる時間がない。
ブルックは目を細め、最後に頷いた。
「……分かった。地図は渡す。資材も少し回す。ただし、出発は早めろ。噂は風より早い。残党が来る前に、ここから距離を取れ」
ヘンリーは深く頭を下げた。
「ありがとう。……必ず返す。返すってのは、物だけじゃない。……この世界に、灯りを返す」
ブルックは鼻で笑った。
「でかいこと言いやがる」
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小屋を出ると、夜が村を包み始めていた。
ヘンリーは地図を握りしめ、オージーとラブを連れて歩く。
村の灯りは少ない。それでも、灯りがあるだけで、世界は少しだけ優しい顔をする。
優しい顔をしたまま、牙を隠すのがこの世界の嫌なところだ。
丘の麓を通ったとき、またあの音がした。
キィ……キィ……。
近い。
今度は気のせいじゃない。
ヘンリーが立ち止まると、ラブが半歩前に出る。盾の位置。
その癖を見て、ヘンリーは即座にラブの肩を掴み、前に出させない。
「俺が見る」
「危険です」
「危険でも、同じことを繰り返したくない。……守られてばかりは嫌だ」
ラブの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
理解の揺れか、プログラムの揺れか。
それでもヘンリーは、その揺れを“心の揺れ”として受け取りたかった。
闇の向こうに赤い光がちらりと見えた気がして、ヘンリーは背筋が凍った。
ただし、次の瞬間には消えていた。獣なのか、ただの反射なのか、判別できない。
オージーが囁く。
「……来てる。やっぱり、僕のせいで」
「違う」
ヘンリーは即答した。
「“せい”じゃない。“現象”だ。人が旗を見つけたら、奪い合う。王家の血筋は旗だ。……旗を折るんじゃなく、旗を持ったまま、別の場所へ移る」
ラブが静かに頷く。
「外交的もつれ、というべき状況です。解決は、距離と速度が最善です」
距離と速度。
ラブの言葉は冷たいくらい合理的で、だけど今はそれが救いだった。
ヘンリーは地図を胸に押し当て、夜の闇へ視線を据える。
「……明け方に出る。準備は最小限でいい。必要なのは、命と、設計図と、君たちだけだ」
オージーが息を吸い、震えながら頷く。
「うん。逃げるんじゃない。……作りに行く」
ラブが微笑む。
外装のひびは消えない。けれど、その微笑みは、ひびの向こうから出てくる光みたいに見えた。
三人は歩き出した。
村の灯りを背に、まだ地図にも載らない未来へ。
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菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
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