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温泉旅館Aパート
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同性愛と異性愛の違いとは、継続内容である。
同性愛は、かつて兵士たちの間で世代の差を埋める役割を担い、次の世代を育てるための社会的な継続機能として存在していた。これは西洋・東洋を問わず多くの文化に見られた活動だ。対して異性愛は、経済の継続と言える。子孫を残し、まず基盤を確保する。異民族との和解にも通じるこの継続は、経済圏と文化圏を接続する動力であった。
・・・そして、人はつながり、続く。
その二つ――社会的継続と経済的継続――を時代によって切り替えることで、ヒトはヒトらしくあろうとしてきた。
イエスは、そこに苦悩を抱えていた。
古代ギリシャの時代。軍事的侵攻と都市間の争いが絶えず、貴族階級が兵士として戦場に立つのが当たり前だった。兵站は脆弱で、戦力の質と意識を高める必要があり、同性愛はそのための“教育”でもあった。戦友であり、師であり、恋人であるという形が、継続性と忠誠心の保証となったのだ。
だが、時代はローマへと移る。軍事的脅威が減少し、国家としての平和が訪れる。征服よりも統治が求められ、多様な民族を束ねる必要があった。
イエスはそのとき、同性愛から異性愛への移行を選ぶ。異性愛はフラットであり、異質を受け入れる構造を持つ。だからこそ、国境を越えた婚姻、文化の交雑が可能になり、ローマの経済は繁栄を迎えた。
実際のところ、同性愛でも異性愛でも社会的な安定は実現可能だった。しかし、異性愛には「子供を産む」という機能があり、その機能が宗教的に正統化されたとき、大きな経済的・社会的パワーとなった。ヨーロッパの統一性が今なお機能しているのは、イエスが経済構造の中に宗教を溶かし込み、再構成した結果だった。
だが――だからこそ、彼は苦悩した。
経済的正しさと、人としての選択との間で。
イエスは経済学者だった。宗教という言語を使って、人類の構造を設計しようとした。だがそれは同時に、自らの内にあったもの――かつての戦場の“情動”を捨てることでもあった。
同性愛を切り捨てれば、都市反乱や外敵への免疫は薄くなる。家族単位の社会構造では、教育や忠誠のラインが希薄になり、老人の排除、すなわち寿命と文化の継続に限界が出る。
けれど、彼はそうした副作用を知りながらも、「これが正しい」と意地を張った。もはやそれは、確信ではなく、曖昧な自衛でしかなかった。
だから、恋人のような関係になった。
宗教ではない。国家でもない。
ただ、寄り添い合う人間として。
宿に着いたのは、夕暮れが始まる少し前だった。
平日の空気がまだどこかに残っている。なのに館内には、妙に若い声が多かった。制服ではない、だが学生っぽい服装。きっと同じように、都心から少し離れたここまで足を延ばしてきたのだろう。どこかで放課後の延長をしているような空気に、彼の横顔が少しだけ緩む。
受付前の列に並びながら、鞄の中をそっと確認する。取り出したのは、小さな袋──テーマパークのロゴが入った、ふわふわの耳飾りだった。
他のお土産は、送った。重かったし、持って歩くには目立ちすぎる。それでもこれだけは、なぜか手元から離せなかった。
手にした瞬間、彼が言った。
「ここ、混浴あるらしいよ?」
目を合わせると、彼は冗談のような顔をしていたが──すぐに、眉が寄る。
「・・・いや、最初から同性だろ。」
たしかに。
けれど、それだけでは終わらなかった。
「・・・じゃあなんで女装させるんだよ。」
そう言いながら、こちらの足元に視線を落とす。髪は地毛だ。あの日のために伸ばした。カツラは規則で禁止だった。自然なロングヘアに見せるため、入念に整えてもらった。
彼は一瞬言葉に詰まり──それでも、言った。
「・・・俺だって、意地を張りたい。こんな可愛い“女”がいるんだ、って。」
「俺をステータスにすんなよな・・・仕方ないやつ。」
「でも、お前だって地毛頑張ったじゃん。見せたくてやったわけじゃないのに、見られすぎると恥ずかしいんだろ?」
「・・・お見通し・・・じゃないんだよ。見られすぎると、狙われてるんじゃないかって、不安になる。」
「それは俺も同じ。お前が見られすぎると、ムカつく。取られるんじゃないかって。」
列は少しずつ進んでいる。
隣に並ぶ距離が、妙に近いのを感じながら、何も言えなくなった。
周囲の騒がしさとは無関係に、二人の間にあるものは、なぜか静かだった。
和室の引き戸を開けた瞬間、拍子抜けするほど味気ない空間が広がった。
白い壁紙に無機質な障子、木目調のフローリングはどこか安っぽい。温泉宿と聞いていたが、まるでビジネスホテルの和風アレンジのようだった。
「・・・雰囲気、無いね。」
キャリーバッグを部屋の隅へ転がすと、もう一人も黙って中へ入る。座卓と座布団だけが置かれた部屋に布団の姿はなく、クローゼットに畳まれているのが見えた。セルフ敷き布団らしい。
床に腰を下ろして荷物を開ける。財布に手をかけたところで、ふと指が止まる。
「そういえば、ロッカーキー式だったよな。リストバンドの。」
「うん。フロントで渡された番号で全部まとめて精算されるって。」
「じゃあ財布、いらないか。」
財布と予備バッテリーをまとめてバッグの底へ戻す。金庫の必要すら感じない。手荷物はなるべく軽くしておきたい。
「何持ってく?一通り回るつもりだし。」
「タオルと、あと水。館内に自販機あったろ。」
「浴衣、着てく?寒くない?」
「羽織あるし、平気じゃね?」
「・・・じゃ、軽装でいくか。」
視線を交わし、無言のまま立ち上がる。ドアの造りには趣がなくても、外には風呂もゲームもある。肩にタオルを掛け、ロッカーキーを確認して、最初の目的地へと向かった。
食事処に入ると、宿の和風な内装と釜飯の香りに、疲れの層が一枚剥がれた気がした。奥の席に通され、二人並んで座布団に腰を下ろす。遥香はさりげなく背筋を正し、膝を揃えて座る。食事中でも姿勢の崩れには敏感だった。視線の圧があるわけではないが、どこかで誰かに見られている感覚が抜けない。
メニューを開いた瞬間、空腹を自覚したのか、遥香はじっと文字を追いながらも表情が少し和らいだ。
「・・・唐揚げと味噌カツ、どっちにする?」
「どっちも頼めばいいだろ。」
声を抑えつつも即答する彼に、わざと小さく肩をすくめる。
「食べきれないって言われたらどうするの。」
「俺が食う。」
その一言で、口元にかかった髪を指先で押さえながら微笑みを漏らす。声を立てて笑うのは控えたが、こういうやりとりは慣れている。外では、特に旅先では、やや控えめな遥香でいることが多い。けれど、すべてを隠すほど従順な性格でもない。
「でもさ、あの店員さんに昨日言われたよ、『そちらはよく召し上がりますね』って。」
「褒め言葉じゃん、それ。」
「いや、それ遠回しに『また来たな』って言われた気がして・・・」
「お前が可愛いから目立つだけだよ。」
「・・・それで通じると思うなよ。」
注文を終えると、二人は湯呑みに手を伸ばし、静かに喉を潤した。土瓶の茶は薄く、少しだけ渋みが心地よい。食事を待つ間、互いに言葉少なになっても不安にならない時間が流れる。
やがて料理が届く。湯気を立てる味噌カツに唐揚げ、煮物、小鉢の類が並ぶと、二人の視線は同時にテーブルへ落ちた。遥香が小さく「いただきます」と呟くと、彼はもう箸を動かしている。
「・・・早い。」
「るかが遅いだけ。」
「そうかも。でも、ちょっと緊張してんの。まだ、目が慣れてない。」
「俺の隣にいれば、それだけで目立たなくなるって。」
「自分で言う?」
「事実。」
食べるときは真剣だが、会話の手も緩めない。遥香も一口運び、すぐさま小鉢の中身を彼の皿に差し出す。
「これ食べて。さっぱりするよ。」
「お前が先に食えって。」
「私は唐揚げ担当だから。」
どちらが多く食べているのか分からないほど、互いに差し出し合い、そして素直に食べる。そのくせ、どこか照れくささもあって、視線が交差するたびに笑いを噛み殺すような沈黙が挟まる。
味も雰囲気も、期待以上ではなかったけれど。そんなことはどうでもいいように思えた。食べる速度もタイミングも、黙っていても乱れないのが不思議だった。
食後、館内の案内板を眺めながら一度部屋に戻ると、混浴の温泉に向かう流れになった。館内放送のアナウンスでも繰り返されていた「水着着用可」の文言に、遥香は少し表情を曇らせた。
「・・・海パンだけって、無理がある。」
呟くような口調でキャリーバッグのジッパーを開ける。中から取り出したのは、白地にパステルブルーの縁取りがついたワンピース型の水着と、それに合わせるジップパーカーだった。袖口に小さく付いたリボンが控えめな装飾になっている。
「見たくて女装させたなら、もう少し守れよな・・・俺の羞恥心。」
「るかが勝手に可愛くなるから悪い。」
「・・・それ、言っときゃ許されると思ってるだろ。」
そう言いながら、遥香は上着を羽織る。水着のラインがくっきり出るのを抑え、パーカーの裾を引き下ろす仕草が慎重だ。チャックは胸元まで閉じ、手元で何度か形を直してから小さく溜息を吐いた。
「・・・下だけならともかく、上も見られるの嫌なんだよ。バレるかどうかって話じゃなくて・・・感情の問題。」
「分かってる。だから一緒に着てく?」
桜汰もまた、落ち着いた色味のラッシュガードを手に取っていた。柄はないが、肩のラインにだけ細く白が入っている。言葉よりも行動で寄り添おうとするような選び方だった。
「・・・そういうとこ、ずるいよな。」
「ずるくしてんのはお前の見た目だろ。」
「・・・じゃあ、今日は許す。俺が混浴って言い出したんだし。」
「うん。責任、取ってくれ。」
少しだけ微笑みがこぼれ、ふたり並んでタオルを掴む。館内を歩くうちに、温泉へ向かう客とすれ違う回数が増えたが、パーカーのフードを被った遥香の表情は揺るがなかった。
水着姿のまま暖簾をくぐる頃には、互いに言葉少なになっていた。けれど、背中に感じる視線の分だけ、自然と歩幅が揃っていく。混浴という響きに負けない程度の自尊心と、守られているという認識の間で、微妙な緊張が保たれていた。
湯の温もりに包まれて、ルカは露天風呂の浅い場所でぷかぷかと仰向けに浮いていた。肌を撫でる夜風と、揺れる水面。水音以外に聞こえるのは、遠くで風に揺れる暖簾の音くらいだ。
「気持ちよさそうだな。」
不意に背後から声がして、桜汰が近づいてくる。すぐ隣に膝をついて腰を下ろし、ルカの濡れた髪にそっと手を添えた。
「な、なに?」
「ちょっと髪の毛まとめてやる。バラけてんぞ。」
「・・・え、今?ここで?」
「湯に浸かってると絡みやすいだろ。そっとやるから。」
ルカの反応を待たずに、指先がゆっくり髪に触れる。お湯の中で重たくなった髪を、丁寧に手櫛でほどいていく。頭皮に指が触れるたびに、ルカの体が僅かに反応する。
「・・・んっ。」
「・・・?」
「だ、だから・・・そこ、弱い・・・っ。」
桜汰の手が一瞬止まる。
「撫でられるの、無理なの。」
「・・・それ、もっと早く言えよ。」
「だから今、言ってる・・・っ。」
ぬるくてやわらかな湯に浮かぶ身体は、逃げ場がない。後頭部に沿って優しく指が通るだけで、腰のあたりがびくびくと跳ねた。額にかかった髪を後ろに流そうとした瞬間──
「っ・・・わ、やば、浮き崩れ・・・っ!」
ざば、と小さな水しぶき。バランスを崩したルカの顎が沈み、鼻から湯を飲みかける。
「ぶっ・・・!ごほっ・・・!」
「お、おい、大丈夫か!」
「ダメ・・・!頭、やめてって言ったのに・・・!」
湯から上がって肩を震わせるルカ。肩から胸元まで紅潮していて、耳の先まで真っ赤だ。
「ごめん・・・でも、すげー反応するから・・・。」
「お前のせいで溺れかけたんだからな・・・っ。」
その怒気もどこか弱く、照れの混ざった声。桜汰は笑いをこらえつつ、そっとタオルを差し出した。
湯上がりの身体を一度タオルで拭って、ルカと桜汰は次の湯へと足を運ぶ。内風呂の一角にある電気風呂は、見た目こそ普通の浴槽だが、入った瞬間にぴりぴりとした刺激が足元から這い上がってくる。
「ん、これ・・・意外と平気かも・・・。」
「お前、変なとこで強いよな。」
ルカは肩まで沈めたまま、目を細めてうっとりとしている。身体が慣れてくると、筋肉の奥にまで電気が届いているような感覚に変わり、重たかった肩がじんわりとほぐれていく。
一方で桜汰はというと──
「わ、ぴりっ・・・無理っ!俺、これ無理っ!」
わずかに触れただけで即退避。軽く跳ねるように飛び出してきて、ルカの隣にしゃがみ込んだ。
「なにそのビビり具合。」
「いや、あれは罠だろ・・・ぴりってレベルじゃなかった・・・。」
「ははっ・・・やっぱり、おーくん可愛い。」
次に向かったのはジェットバス。腰まで沈むと、勢いよく噴き出す水流が背中や脇腹を叩きはじめた。
「おぉ・・・これは・・・効くな・・・。」
桜汰は両手を広げて背中をほぐしながら、満足げに頷いた。対してルカは、細い肩にあたる水流に耐えきれず、思わずのけぞる。
「わ、ちょっと強すぎ・・・背中、押されるって・・・!」
「だいぶ細くなったな、るか。昔はもうちょい筋肉ついてた気が。」
「うるさい、今は華奢でいくって決めたの!」
噴流の合間に小競り合いをしつつ、次は炭酸浴へ。ぬるめの湯温の中、肌に小さな泡がまとわりつく。
「・・・なんか、炭酸って感じじゃないけど・・・。」
「じっとしてると、血流良くなるらしいぞ。」
身体を静かに沈めていくと、じんわりと肌の表面が温まりはじめた。桜汰は無言で目を閉じ、ルカは隣で足をぷらぷらと動かしている。
「これ・・・眠くなる・・・。」
「寝るな。寝たら沈むぞ。」
炭酸の泡に包まれながら、しばしの静寂。心拍が落ち着くと、外の騒がしさが嘘のようだった。
最後に向かったのはサウナだった。木材の匂いと熱気が立ち込める室内に、二人並んで腰を下ろす。板張りの壁に背を預けると、全身がふわりと包まれたような錯覚に陥る。
「・・・思ったより暑い・・・。」
「無理だったら出ていいよ?」
ルカは軽く首を傾けてそう言ったが、桜汰は首を横に振った。
「いや・・・入るって決めたんだから、最後まで付き合う。」
言葉の強さと裏腹に、顔の端ににじんだ汗がどんどん大粒になっていく。呼吸も浅くなり、視線が少し泳いでいた。
ルカはちらと横目でそれを見て、膝を寄せた。
「我慢しなくてもいいのに。」
「るかが先に音を上げたら、俺のほうが長くいられるじゃん・・・。」
「競争してたの?」
「・・・いや、なんとなく。」
その言葉を聞いて、ルカはふっと笑った。桜汰の手がじわりと震えているのを感じて、そっと自分の指先を触れさせる。
「ありがと。でも、無理すると倒れるよ?」
「・・・ほんと、弱ってるとこ見せらんねぇな・・・。」
その直後、桜汰はようやく観念したように席を立った。足元が少しふらついたのを、ルカが慌てて手で支える。
「やっぱ無理してるじゃん!」
「違う・・・ちょっと目が・・・くらっとしただけ・・・。」
タオルを巻いた桜汰がよろよろと外に出ていくのを見送りながら、ルカはしばらくその場所に残った。額の汗をぬぐい、胸の奥に広がるじんわりとした温かさを噛み締める。
──負けず嫌いで、素直じゃなくて、でも。
「ほんと、仕方ないやつ・・・。」
小さくつぶやいてから立ち上がると、同じようにふらりと扉を開けて、外の冷気へと踏み出していった。
おやすみ中の二人
同性愛は、かつて兵士たちの間で世代の差を埋める役割を担い、次の世代を育てるための社会的な継続機能として存在していた。これは西洋・東洋を問わず多くの文化に見られた活動だ。対して異性愛は、経済の継続と言える。子孫を残し、まず基盤を確保する。異民族との和解にも通じるこの継続は、経済圏と文化圏を接続する動力であった。
・・・そして、人はつながり、続く。
その二つ――社会的継続と経済的継続――を時代によって切り替えることで、ヒトはヒトらしくあろうとしてきた。
イエスは、そこに苦悩を抱えていた。
古代ギリシャの時代。軍事的侵攻と都市間の争いが絶えず、貴族階級が兵士として戦場に立つのが当たり前だった。兵站は脆弱で、戦力の質と意識を高める必要があり、同性愛はそのための“教育”でもあった。戦友であり、師であり、恋人であるという形が、継続性と忠誠心の保証となったのだ。
だが、時代はローマへと移る。軍事的脅威が減少し、国家としての平和が訪れる。征服よりも統治が求められ、多様な民族を束ねる必要があった。
イエスはそのとき、同性愛から異性愛への移行を選ぶ。異性愛はフラットであり、異質を受け入れる構造を持つ。だからこそ、国境を越えた婚姻、文化の交雑が可能になり、ローマの経済は繁栄を迎えた。
実際のところ、同性愛でも異性愛でも社会的な安定は実現可能だった。しかし、異性愛には「子供を産む」という機能があり、その機能が宗教的に正統化されたとき、大きな経済的・社会的パワーとなった。ヨーロッパの統一性が今なお機能しているのは、イエスが経済構造の中に宗教を溶かし込み、再構成した結果だった。
だが――だからこそ、彼は苦悩した。
経済的正しさと、人としての選択との間で。
イエスは経済学者だった。宗教という言語を使って、人類の構造を設計しようとした。だがそれは同時に、自らの内にあったもの――かつての戦場の“情動”を捨てることでもあった。
同性愛を切り捨てれば、都市反乱や外敵への免疫は薄くなる。家族単位の社会構造では、教育や忠誠のラインが希薄になり、老人の排除、すなわち寿命と文化の継続に限界が出る。
けれど、彼はそうした副作用を知りながらも、「これが正しい」と意地を張った。もはやそれは、確信ではなく、曖昧な自衛でしかなかった。
だから、恋人のような関係になった。
宗教ではない。国家でもない。
ただ、寄り添い合う人間として。
宿に着いたのは、夕暮れが始まる少し前だった。
平日の空気がまだどこかに残っている。なのに館内には、妙に若い声が多かった。制服ではない、だが学生っぽい服装。きっと同じように、都心から少し離れたここまで足を延ばしてきたのだろう。どこかで放課後の延長をしているような空気に、彼の横顔が少しだけ緩む。
受付前の列に並びながら、鞄の中をそっと確認する。取り出したのは、小さな袋──テーマパークのロゴが入った、ふわふわの耳飾りだった。
他のお土産は、送った。重かったし、持って歩くには目立ちすぎる。それでもこれだけは、なぜか手元から離せなかった。
手にした瞬間、彼が言った。
「ここ、混浴あるらしいよ?」
目を合わせると、彼は冗談のような顔をしていたが──すぐに、眉が寄る。
「・・・いや、最初から同性だろ。」
たしかに。
けれど、それだけでは終わらなかった。
「・・・じゃあなんで女装させるんだよ。」
そう言いながら、こちらの足元に視線を落とす。髪は地毛だ。あの日のために伸ばした。カツラは規則で禁止だった。自然なロングヘアに見せるため、入念に整えてもらった。
彼は一瞬言葉に詰まり──それでも、言った。
「・・・俺だって、意地を張りたい。こんな可愛い“女”がいるんだ、って。」
「俺をステータスにすんなよな・・・仕方ないやつ。」
「でも、お前だって地毛頑張ったじゃん。見せたくてやったわけじゃないのに、見られすぎると恥ずかしいんだろ?」
「・・・お見通し・・・じゃないんだよ。見られすぎると、狙われてるんじゃないかって、不安になる。」
「それは俺も同じ。お前が見られすぎると、ムカつく。取られるんじゃないかって。」
列は少しずつ進んでいる。
隣に並ぶ距離が、妙に近いのを感じながら、何も言えなくなった。
周囲の騒がしさとは無関係に、二人の間にあるものは、なぜか静かだった。
和室の引き戸を開けた瞬間、拍子抜けするほど味気ない空間が広がった。
白い壁紙に無機質な障子、木目調のフローリングはどこか安っぽい。温泉宿と聞いていたが、まるでビジネスホテルの和風アレンジのようだった。
「・・・雰囲気、無いね。」
キャリーバッグを部屋の隅へ転がすと、もう一人も黙って中へ入る。座卓と座布団だけが置かれた部屋に布団の姿はなく、クローゼットに畳まれているのが見えた。セルフ敷き布団らしい。
床に腰を下ろして荷物を開ける。財布に手をかけたところで、ふと指が止まる。
「そういえば、ロッカーキー式だったよな。リストバンドの。」
「うん。フロントで渡された番号で全部まとめて精算されるって。」
「じゃあ財布、いらないか。」
財布と予備バッテリーをまとめてバッグの底へ戻す。金庫の必要すら感じない。手荷物はなるべく軽くしておきたい。
「何持ってく?一通り回るつもりだし。」
「タオルと、あと水。館内に自販機あったろ。」
「浴衣、着てく?寒くない?」
「羽織あるし、平気じゃね?」
「・・・じゃ、軽装でいくか。」
視線を交わし、無言のまま立ち上がる。ドアの造りには趣がなくても、外には風呂もゲームもある。肩にタオルを掛け、ロッカーキーを確認して、最初の目的地へと向かった。
食事処に入ると、宿の和風な内装と釜飯の香りに、疲れの層が一枚剥がれた気がした。奥の席に通され、二人並んで座布団に腰を下ろす。遥香はさりげなく背筋を正し、膝を揃えて座る。食事中でも姿勢の崩れには敏感だった。視線の圧があるわけではないが、どこかで誰かに見られている感覚が抜けない。
メニューを開いた瞬間、空腹を自覚したのか、遥香はじっと文字を追いながらも表情が少し和らいだ。
「・・・唐揚げと味噌カツ、どっちにする?」
「どっちも頼めばいいだろ。」
声を抑えつつも即答する彼に、わざと小さく肩をすくめる。
「食べきれないって言われたらどうするの。」
「俺が食う。」
その一言で、口元にかかった髪を指先で押さえながら微笑みを漏らす。声を立てて笑うのは控えたが、こういうやりとりは慣れている。外では、特に旅先では、やや控えめな遥香でいることが多い。けれど、すべてを隠すほど従順な性格でもない。
「でもさ、あの店員さんに昨日言われたよ、『そちらはよく召し上がりますね』って。」
「褒め言葉じゃん、それ。」
「いや、それ遠回しに『また来たな』って言われた気がして・・・」
「お前が可愛いから目立つだけだよ。」
「・・・それで通じると思うなよ。」
注文を終えると、二人は湯呑みに手を伸ばし、静かに喉を潤した。土瓶の茶は薄く、少しだけ渋みが心地よい。食事を待つ間、互いに言葉少なになっても不安にならない時間が流れる。
やがて料理が届く。湯気を立てる味噌カツに唐揚げ、煮物、小鉢の類が並ぶと、二人の視線は同時にテーブルへ落ちた。遥香が小さく「いただきます」と呟くと、彼はもう箸を動かしている。
「・・・早い。」
「るかが遅いだけ。」
「そうかも。でも、ちょっと緊張してんの。まだ、目が慣れてない。」
「俺の隣にいれば、それだけで目立たなくなるって。」
「自分で言う?」
「事実。」
食べるときは真剣だが、会話の手も緩めない。遥香も一口運び、すぐさま小鉢の中身を彼の皿に差し出す。
「これ食べて。さっぱりするよ。」
「お前が先に食えって。」
「私は唐揚げ担当だから。」
どちらが多く食べているのか分からないほど、互いに差し出し合い、そして素直に食べる。そのくせ、どこか照れくささもあって、視線が交差するたびに笑いを噛み殺すような沈黙が挟まる。
味も雰囲気も、期待以上ではなかったけれど。そんなことはどうでもいいように思えた。食べる速度もタイミングも、黙っていても乱れないのが不思議だった。
食後、館内の案内板を眺めながら一度部屋に戻ると、混浴の温泉に向かう流れになった。館内放送のアナウンスでも繰り返されていた「水着着用可」の文言に、遥香は少し表情を曇らせた。
「・・・海パンだけって、無理がある。」
呟くような口調でキャリーバッグのジッパーを開ける。中から取り出したのは、白地にパステルブルーの縁取りがついたワンピース型の水着と、それに合わせるジップパーカーだった。袖口に小さく付いたリボンが控えめな装飾になっている。
「見たくて女装させたなら、もう少し守れよな・・・俺の羞恥心。」
「るかが勝手に可愛くなるから悪い。」
「・・・それ、言っときゃ許されると思ってるだろ。」
そう言いながら、遥香は上着を羽織る。水着のラインがくっきり出るのを抑え、パーカーの裾を引き下ろす仕草が慎重だ。チャックは胸元まで閉じ、手元で何度か形を直してから小さく溜息を吐いた。
「・・・下だけならともかく、上も見られるの嫌なんだよ。バレるかどうかって話じゃなくて・・・感情の問題。」
「分かってる。だから一緒に着てく?」
桜汰もまた、落ち着いた色味のラッシュガードを手に取っていた。柄はないが、肩のラインにだけ細く白が入っている。言葉よりも行動で寄り添おうとするような選び方だった。
「・・・そういうとこ、ずるいよな。」
「ずるくしてんのはお前の見た目だろ。」
「・・・じゃあ、今日は許す。俺が混浴って言い出したんだし。」
「うん。責任、取ってくれ。」
少しだけ微笑みがこぼれ、ふたり並んでタオルを掴む。館内を歩くうちに、温泉へ向かう客とすれ違う回数が増えたが、パーカーのフードを被った遥香の表情は揺るがなかった。
水着姿のまま暖簾をくぐる頃には、互いに言葉少なになっていた。けれど、背中に感じる視線の分だけ、自然と歩幅が揃っていく。混浴という響きに負けない程度の自尊心と、守られているという認識の間で、微妙な緊張が保たれていた。
湯の温もりに包まれて、ルカは露天風呂の浅い場所でぷかぷかと仰向けに浮いていた。肌を撫でる夜風と、揺れる水面。水音以外に聞こえるのは、遠くで風に揺れる暖簾の音くらいだ。
「気持ちよさそうだな。」
不意に背後から声がして、桜汰が近づいてくる。すぐ隣に膝をついて腰を下ろし、ルカの濡れた髪にそっと手を添えた。
「な、なに?」
「ちょっと髪の毛まとめてやる。バラけてんぞ。」
「・・・え、今?ここで?」
「湯に浸かってると絡みやすいだろ。そっとやるから。」
ルカの反応を待たずに、指先がゆっくり髪に触れる。お湯の中で重たくなった髪を、丁寧に手櫛でほどいていく。頭皮に指が触れるたびに、ルカの体が僅かに反応する。
「・・・んっ。」
「・・・?」
「だ、だから・・・そこ、弱い・・・っ。」
桜汰の手が一瞬止まる。
「撫でられるの、無理なの。」
「・・・それ、もっと早く言えよ。」
「だから今、言ってる・・・っ。」
ぬるくてやわらかな湯に浮かぶ身体は、逃げ場がない。後頭部に沿って優しく指が通るだけで、腰のあたりがびくびくと跳ねた。額にかかった髪を後ろに流そうとした瞬間──
「っ・・・わ、やば、浮き崩れ・・・っ!」
ざば、と小さな水しぶき。バランスを崩したルカの顎が沈み、鼻から湯を飲みかける。
「ぶっ・・・!ごほっ・・・!」
「お、おい、大丈夫か!」
「ダメ・・・!頭、やめてって言ったのに・・・!」
湯から上がって肩を震わせるルカ。肩から胸元まで紅潮していて、耳の先まで真っ赤だ。
「ごめん・・・でも、すげー反応するから・・・。」
「お前のせいで溺れかけたんだからな・・・っ。」
その怒気もどこか弱く、照れの混ざった声。桜汰は笑いをこらえつつ、そっとタオルを差し出した。
湯上がりの身体を一度タオルで拭って、ルカと桜汰は次の湯へと足を運ぶ。内風呂の一角にある電気風呂は、見た目こそ普通の浴槽だが、入った瞬間にぴりぴりとした刺激が足元から這い上がってくる。
「ん、これ・・・意外と平気かも・・・。」
「お前、変なとこで強いよな。」
ルカは肩まで沈めたまま、目を細めてうっとりとしている。身体が慣れてくると、筋肉の奥にまで電気が届いているような感覚に変わり、重たかった肩がじんわりとほぐれていく。
一方で桜汰はというと──
「わ、ぴりっ・・・無理っ!俺、これ無理っ!」
わずかに触れただけで即退避。軽く跳ねるように飛び出してきて、ルカの隣にしゃがみ込んだ。
「なにそのビビり具合。」
「いや、あれは罠だろ・・・ぴりってレベルじゃなかった・・・。」
「ははっ・・・やっぱり、おーくん可愛い。」
次に向かったのはジェットバス。腰まで沈むと、勢いよく噴き出す水流が背中や脇腹を叩きはじめた。
「おぉ・・・これは・・・効くな・・・。」
桜汰は両手を広げて背中をほぐしながら、満足げに頷いた。対してルカは、細い肩にあたる水流に耐えきれず、思わずのけぞる。
「わ、ちょっと強すぎ・・・背中、押されるって・・・!」
「だいぶ細くなったな、るか。昔はもうちょい筋肉ついてた気が。」
「うるさい、今は華奢でいくって決めたの!」
噴流の合間に小競り合いをしつつ、次は炭酸浴へ。ぬるめの湯温の中、肌に小さな泡がまとわりつく。
「・・・なんか、炭酸って感じじゃないけど・・・。」
「じっとしてると、血流良くなるらしいぞ。」
身体を静かに沈めていくと、じんわりと肌の表面が温まりはじめた。桜汰は無言で目を閉じ、ルカは隣で足をぷらぷらと動かしている。
「これ・・・眠くなる・・・。」
「寝るな。寝たら沈むぞ。」
炭酸の泡に包まれながら、しばしの静寂。心拍が落ち着くと、外の騒がしさが嘘のようだった。
最後に向かったのはサウナだった。木材の匂いと熱気が立ち込める室内に、二人並んで腰を下ろす。板張りの壁に背を預けると、全身がふわりと包まれたような錯覚に陥る。
「・・・思ったより暑い・・・。」
「無理だったら出ていいよ?」
ルカは軽く首を傾けてそう言ったが、桜汰は首を横に振った。
「いや・・・入るって決めたんだから、最後まで付き合う。」
言葉の強さと裏腹に、顔の端ににじんだ汗がどんどん大粒になっていく。呼吸も浅くなり、視線が少し泳いでいた。
ルカはちらと横目でそれを見て、膝を寄せた。
「我慢しなくてもいいのに。」
「るかが先に音を上げたら、俺のほうが長くいられるじゃん・・・。」
「競争してたの?」
「・・・いや、なんとなく。」
その言葉を聞いて、ルカはふっと笑った。桜汰の手がじわりと震えているのを感じて、そっと自分の指先を触れさせる。
「ありがと。でも、無理すると倒れるよ?」
「・・・ほんと、弱ってるとこ見せらんねぇな・・・。」
その直後、桜汰はようやく観念したように席を立った。足元が少しふらついたのを、ルカが慌てて手で支える。
「やっぱ無理してるじゃん!」
「違う・・・ちょっと目が・・・くらっとしただけ・・・。」
タオルを巻いた桜汰がよろよろと外に出ていくのを見送りながら、ルカはしばらくその場所に残った。額の汗をぬぐい、胸の奥に広がるじんわりとした温かさを噛み締める。
──負けず嫌いで、素直じゃなくて、でも。
「ほんと、仕方ないやつ・・・。」
小さくつぶやいてから立ち上がると、同じようにふらりと扉を開けて、外の冷気へと踏み出していった。
おやすみ中の二人
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