悪役令嬢-犬

伊阪証

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宝と犬

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旅の二日目、朝の空気はやけに澄んでいた。澄んでいるのに、喉の奥がざらつく。焦げの匂いが抜けないせいだ。屋敷はもう視界の外にあるのに、焼けた木と封蝋の甘さが、まだ鼻の奥に貼り付いている。私は外套の襟を立て、手綱の代わりに革紐を握った。紐の先では、短い脚が黙って前へ出る。クラリッサお嬢様――いまは犬の姿の主が、働き犬の顔で歩いていた。働き犬の顔、というのも妙な言い方だが、実際そうなのだ。尻尾は無駄に振らず、耳は必要な方向へだけ向け、道の端の匂いを拾い、危険の気配がすれば足を止める。可愛い。どう見ても可愛い。なのに、その動きは軍人のそれに近い。

カトリーヌは私の半歩後ろを歩き、周囲の視線の角度を読んでいた。没落した家の娘は、人の目を「好意」と「敵意」と「欲」で分解できる。欲の目が混じる場所は危ない。欲は必ず、盗みに繋がる。盗みは必ず、売りに繋がる。売りの先に、私たちの探すものがある。

奪われた三つのうち、順番を決める必要があった。書状は紙だ。燃えやすい。濡れやすい。破れやすい。印鑑は小さい。溶かしてしまえば終わる。宝剣は大きい。目立つ。目立つくせに、扱いが雑だと壊れる。つまり、どれを先に追うべきかは理屈だけでは決められない。盗人の頭の中と、盗品の「売れ方」で決まる。

だから私たちはまず、売れるものから潰す。

市場のある町へ着く頃には、日が上っていた。石畳は粗く、泥が溝に溜まり、馬車の轍が刻まれている。王都ほど整っていないが、その分、流通の匂いが濃い。荷車が入ってくる。農具が積まれている。羊毛が束ねられている。塩と麦と皮革の匂いが混じる。人が多い場所は噂が多い。噂が多い場所は、盗品が動く。

私は宿屋の前で足を止め、革紐を短く持った。クラリッサは勝手に走り出さない。だが走り出せる状況に置くのは、私の油断だ。油断は敵だ。今日は「探し当てる日」ではない。今日は「匂いを掴む日」だ。掴んだ匂いを、逃がさない日。

宿屋の中は、昼前から酒の匂いがした。労働者の朝酒は珍しくない。むしろ、労働者ほど情報が早い。彼らは市場で見たものをそのまま口にする。口にしたものが噂になる前に、私たちは拾う必要がある。

「控えめに、ね」カトリーヌが小さく言う。
「ええ。控えめに、正確に」私は頷き、腰袋の中の小銭の重さを確かめた。脅しでは動かない。正義でも動かない。ここでは、金と酒と、言葉の間合いが動力だ。

私は給仕に声をかけ、湯と薄いパン粥を頼んだ。犬を連れていることに、誰も驚かない。ここは働き犬が当たり前の町だ。驚かれないのが助かる。驚かれない分だけ、こちらも“普通”の顔ができる。

席に着くと、クラリッサが床に伏せた。伏せ方が妙に綺麗で、尻尾が椅子の脚に当たらない位置に収まっている。私は目を逸らす。可愛い。可愛いが、可愛いを見つめ続けると判断が鈍る。判断が鈍ったら死ぬ。

隣の席で、二人の男が話していた。革の前掛け。指の節が太い。鍛冶屋か、車輪職人だ。金属の匂いがする。金属の匂いがする男は、宝剣の話題に触れる可能性がある。私は耳を立てた。耳を立てると言っても、顔に出せば終わりだ。だから私は湯を飲み、視線を外へ流しながら、言葉だけを拾う。

「……冗談だろ、あんな柄。玩具みてぇにキラキラしてやがって」
「玩具? お前、目が腐ってんじゃねぇの。宝石だぞ」
「宝石にしたってだ。あんなに派手なら、どっかの家の印だろ。持ち主が黙ってねぇ」
「黙ってねぇって言うなら、余計に売りにくい。だから、あいつは削ろうとしてた」
「削る? 馬鹿か。ああいうのは削ったら割れる」

私は湯を飲む手を止めないまま、背筋だけを固くした。割れる。削る。派手で、キラキラして、玩具っぽい柄。宝剣だ。契約の証が埋め込まれた、あの致命的なほど脆い宝石部。輸送で壊れる可能性が高い、と主が書き残したもの。まさにそれだ。

カトリーヌが、私の視線の端の動きだけで察した。声を出さずに口の形で「当たり?」と問う。私は湯気の向こうで小さく頷いた。

その時、床の犬が動いた。
伏せていた体が、ぴたりと起き上がる。耳が立つ。鼻先がわずかに震え、空気を吸う。匂いを拾った時の動きだ。私は革紐をさらに短く持ち、彼女が立ち上がるのに合わせて体の角度を変えた。犬は急に走ったりしない。だが、走る前の“筋肉の溜め”が見える。溜めが見えたら止める。止めるのではなく、先回りする。

「……カトリーヌ」私は囁いた。
「分かってる」彼女も囁き返す。

男たちの会話は続く。

「昨日の夕方、荷車の横で見たんだよ。あいつ、布に包んで隠してた」
「布に包んで隠してる時点で、まともじゃねぇ」
「で、今朝はもう見ねぇ。代わりに、妙に上等な外套の男が二人、路地に立ってた」
「貴族の使いか?」
「さぁな。貴族の臭いはした。だが目がな……兵隊の目だ」

兵隊の目。厄介だ。盗人だけなら、金で動く。兵隊の目が混じるなら、金だけで動かない。誰かの指示がある。指示があるなら、こちらが動くと向こうも動く。動き合いになれば、犬は捕まる。捕まれば、笑い話では終わらない。

私は粥を口に運び、何でもない顔で給仕を呼んだ。小銭を一枚指で弾き、湯のおかわりを頼むふりをして、さりげなく言った。

「今朝から路地に立っているお方がいるとか。物騒ですね」

給仕は肩を竦めた。
「この町はいつも物騒ですよ。火事も盗みも、貴族の喧嘩も」
「……喧嘩」
「ええ、喧嘩。派手な喧嘩じゃない。言葉の喧嘩。値段の喧嘩。奪い合いの喧嘩」

私は頷き、湯を飲み、視線を窓へ流した。窓の外、確かに路地の入口に男が立っている。外套が上等。足元が綺麗。泥を嫌っている。町の人間ではない。町の人間ではない者が、町の路地を見張っている。ここで何かが動いている。

床の犬が、私の足首に鼻先を当てた。ぴと、と。短い。だが強い合図だ。視線を上げるな、と言っている。私は上げない。代わりに、足首の感触だけを受け取る。犬は犬のまま、主として命令している。

私は席を立つ準備をした。立つ前に、クラリッサの方を見る。犬は私を見返し、口を開けずに床を叩いた。

とん。

一回。
――「行く」。

分かっている。分かっているが、私の中で一つだけ引っかかりがあった。宝剣を最初に追うのは合理的だ。目立つ。壊れやすい。時間がない。だが、話を聞けば聞くほど、その宝剣は「玩具みたいにキラキラ」しているらしい。私は不意に思う。もし盗人が宝剣を“価値の分からない物”として扱っているなら、最初に壊されるのは宝剣だ。なら最初に追うのは正しい。正しいが――。

犬が、窓の外の光を見て首を傾げた。宝石店の飾り窓、ガラスの向こうで光る硝子玉。そこへ視線が吸い寄せられている。私は息を止める。まさか、とは思う。まさかとは思うが、思ってしまう。

「……お嬢様」私は小さく呟き、すぐに口を閉じた。
カトリーヌが横目で私を見る。
私は首を振る。今は言わない。今言えば、空気が崩れる。崩れた空気は、犬の可愛さに飲まれて判断を鈍らせる。判断を鈍らせるのは禁物だ。

私たちは宿を出た。外の風は冷たい。路地の男がこちらを一瞬だけ見た。見て、視線を外した。外したのが怖い。こちらを見続ける者より、見た上で興味がないふりをする者の方が怖い。興味がないふりは、準備ができている証拠だ。

私は革紐を短く持ち、犬を“普通の犬”として歩かせた。普通の犬は、道端の匂いを嗅ぐ。普通の犬は、石畳の隙間を覗く。普通の犬は、時々立ち止まる。だからクラリッサも立ち止まっていい。立ち止まるたびに、私の心臓が嫌な跳ね方をする。だが跳ねた音は外に出さない。出せば終わりだ。

路地の入口を曲がると、魚と油の匂いが混じる。小さな露店が並び、古道具が積まれている。貧しいが活気はある。活気がある場所は、物が動く。物が動く場所は、盗品が混ざる。

犬が、ふいに足を止めた。鼻先が地面に落ちる。匂いを追っている。私は止まる。止まったまま、犬の首の筋肉が引く方向を読む。読むだけ。引かれるままにはならない。引かれるままになると、こちらの意図が外に漏れる。

犬は右へ、短く首を引いた。
私は右の露店を見た。錆びたナイフ、割れた銀食器、古い飾り紐。――その奥に、布で包んだ細長い形がある。長い。細い。妙に丁寧に巻かれている。丁寧に巻かれているものは、売り手が「中身を見せたくない」ものだ。見せたくないのは、価値があるからか、問題があるからか。だいたい両方だ。

私は露店の男に声をかけた。
「その布包み、何ですか」
男は肩を竦めた。「さぁね。拾いもんだ。中身は木片かもしれねぇし、金かもしれねぇ」
「開けて見せても?」
「見るだけならな。買うなら、先に銅貨二枚」

私は銅貨を出した。見せ金だ。彼は布を少しだけ緩めた。布の隙間から、光が覗いた。わずかな光。だが、光の質が違う。硝子玉の軽い光ではない。硬く、冷たく、腹の底に落ちる光。

その瞬間、犬が小さく唸った。
低く、鋭く――それなのに。

……きゅぅ。

男が噴き出しそうになり、咳払いで誤魔化した。私は眉ひとつ動かさない。動かさないまま、布の隙間を覗く。キラキラしている。長くて、ジャラジャラした飾りが柄に絡んでいる。玩具みたいだ。玩具みたいだが、玩具ではない。これが宝剣の柄なら、持ち主が黙っていない。持ち主――つまり私たちだ。

私は布包みを見つめ、喉の奥で静かに笑いそうになった。笑ってはいけない。だが笑いそうになる。理由は一つだ。

“これを最初に追う”と決めた理屈は正しい。正しいが、もし主が犬になってから、この光に引っ張られているのだとしたら。もし「玩具みたいにキラキラ」しているからこそ、最初の標的になっているのだとしたら。

私は一瞬だけ、カトリーヌを見る。彼女も同じことを考えた顔をしている。言葉にすると全部が崩れる。崩れるが、今は崩す必要がない。今は取る。取ってから考える。

私は露店の男へ、平坦に言った。
「それ、買います。値段は?」

男の目が光った。欲の目だ。欲の目は扱いやすい。扱いやすいが、欲の目の背後に“別の目”が混じっていないかが問題だ。私は布包みの奥、路地の影を見ないまま見た。見ないまま見て、息を整えた。ここから先は交渉になる。交渉は言葉の戦。言葉の戦では、沈黙の犬が一番強い。

犬が私の足首に、もう一度ぴと、と鼻先を当てた。
短く、強く。
――「取れ」。

玩具みたいな光の中に、国の骨格が埋まっている。脆い宝石の奥に、契約の紙が眠っている。雑に扱われれば砕ける。砕ければ終わる。終われば、王位継承の鍵が半分死ぬ。

私は銅貨の袋を握りしめ、露店の男の目を真っ直ぐに受け止めた。
可愛い犬を連れた、ただのメイド長として。
そのふりをしたまま、国の頂きへ続く刃を取り返すために。

露店の男は、布包みを半分だけ開いたまま、こちらの顔色を窺っていた。
値段を吊り上げる前の目。自分が握っているものの正体を確かめる前の目。欲の目は分かりやすい。だが分かりやすい分、裏で誰かが糸を引いている時ほど危ない。私は声の高さも表情も変えずに、ただ一段だけ“慣れた買い手”の顔を作った。買い慣れた顔は相手を安心させる。安心した相手は口が軽くなる。口が軽くなれば、どこから来たものかが出る。

「値段は?」

男は咳払いをして、指で布包みの端をつまんだまま言う。

「……銀貨で三枚」

高い。相場より高い。
だが“高い”のは、物の価値ではなく、私の反応を試しているからだ。私は即答しない。即答したら、もっと上がる。渋っても、時間がかかるだけだ。時間がかかると、影の男が動く。動かれたら詰む。
だから私は、交渉の形だけ作って、結論は短く出す。

「二枚」

男が鼻で笑う。
「二枚? 冗談だろ。宝石が見えたんだぞ?」

私は肩を竦めた。
「宝石に見えるだけです。硝子かもしれない」

ここで、床の犬が動いた。
布包みの匂いを嗅ぎ、鼻先で布の端をほんの少しだけ押し上げる。
押し上げた瞬間、柄の飾りが光を拾って“じゃらり”と鳴った。
音が悪い。金属の薄い音。装飾が玩具みたいに軽い。
露店の男が一瞬だけ目を細めた。軽い音は、価値がないと判断させる。
私はその一瞬を逃さず、畳みかける。

「音が軽い。刃も見せない。――玩具ですよ」

男は唇を歪めた。
「玩具がこんなに重いかよ」

重い? 私は内心で舌を噛んだ。
重いなら、中身がある。中身があるなら危険だ。宝石部に契約書が入っている可能性が高い。扱い方を間違えれば砕ける。砕ければ終わる。
だが私は顔に出さない。
代わりに、“持て余している売り手”を演じる。

「重い玩具もあります。子どもを黙らせるために」

男が笑いかける。笑いかけて、途中で止まる。
犬が男を見上げ、目を細めていた。
灰金の瞳の沈黙は、笑いを殺すのが上手い。

「……二枚でいいから、さっさと持ってけ」

男が吐き捨てるように言う。
私は銀貨二枚を出し、布包みを受け取った。
受け取る瞬間、布包みの奥が妙に硬いのが分かった。硬いくせに、脆い気配がある。陶器に似た感触。
宝石の奥に紙が入っている。紙が入っているなら、宝石部は構造が複雑だ。複雑な構造は衝撃に弱い。
私は腕の中で布包みを“抱く”ように支えた。抱くのが一番揺れない。人目には滑稽でも、今は滑稽を選ぶ。

カトリーヌが、露店の背後の影を読んでいた。
口を動かさずに言う。

「……右。二人。こっち見てる」

私は頷かない。頷いたら合図になる。
私はただ、布包みを抱えたまま犬の革紐を引き、普通の買い物を終えた顔で路地を抜けた。犬も合わせて歩く。歩き方が“普通の犬”のそれになる。石畳の隙間を嗅ぎ、足を止め、尻尾を一度だけ軽く振る。
可愛い。
可愛いが、ここで可愛いのは盾だ。盾で時間を稼ぐ。

路地を出る直前、背後で足音が一つ増えた。
増え方が嫌だ。軽い足音。慣れた足音。
カトリーヌが私の半歩後ろから、さらに半歩下がった。背後を見ない。背後を見ると負ける。背後を見ると相手が“当たってる”と確信する。

私は町の雑踏へ入る。
人が多い場所へ。
人が多い場所は動きにくいが、追跡もしにくい。
雑踏は壁になる。壁があれば一息つける。
だが壁は味方も敵も同じように隠す。油断はできない。

「……どこへ向かう?」

カトリーヌが囁く。
私は視線を前に置いたまま答えた。

「鍛冶屋」

「何で」

「宝剣なら刃がある。刃があるなら、錆びや欠けの相談に行く。――自然な導線になる」

嘘だ。
自然な導線などどうでもいい。
私が鍛冶屋へ行く理由は、もっと現実的だ。
宝剣の構造を“触らずに”確かめたい。
重いと言った。重いなら、内部に何かがある。なら、柄の宝石部を不用意に動かすな。今すぐ持ち主である私たちが確認しなければならない。確認すれば、守り方が決まる。守り方が決まれば、運び方が決まる。

鍛冶屋の前は熱かった。
鉄の匂い。炭の匂い。汗の匂い。
熱は嘘を剥ぐ。熱い場所では人は本音を吐く。吐かない者は、余計に怪しく見える。
私は布包みを抱え、入口へ立った。

「すまない。少し、見てほしいものがある」

鍛冶屋の親方は、腕を組んだまま私を見る。
メイド長の服。犬連れ。布包み。
怪しい。怪しいが、町ではそれくらい普通だ。普通に見せることが目的だ。

「刃物か?」

「刃物……のようなものです」

私はわざと曖昧に言った。
曖昧に言うと、人は勝手に補完する。補完した内容が相手の本音だ。
親方が鼻を鳴らす。

「盗品じゃねぇだろうな」

ここで否定すると怪しい。
ここで肯定すると終わる。
私は第三の道を選ぶ。

「拾い物です。……ただ、壊れやすい気配がする。壊したくない」

親方が一瞬だけ目を細め、布包みを見る。
壊れやすい。壊したくない。
その言葉は、盗品の匂いを消す。盗品は売りたい。売りたい者は“壊したくない”とは言わない。
私は意図してそう言った。

親方が顎で示す。

「開けろ。だがここで抜くな。人が来る。裏で見てやる」

裏へ通される。
雑踏の音が薄れ、炉の音だけが響く。
犬が足元で座り、じっと私の動きを見ている。
私は布包みを机に置き、ゆっくりと布をほどいた。
光が漏れる。
キラキラ。
じゃらじゃら。
玩具みたいに派手。
派手なのに、どこか古い。古いのに、嘘っぽい。嘘っぽいのに、重い。
矛盾の塊。

親方が鼻を鳴らした。

「……なんだこりゃ。柄だけ豪華で、刃は……」

刃がない?
私は喉が冷たくなる。
刃がないなら宝剣ではない。
宝剣でないなら、これは囮かもしれない。
だが親方は続けた。

「いや、ある。刃が“収まってる”。鞘の内側に固定されてる」

固定。
つまり分解式。輸送のため。
――王家が契約の証として“壊れやすい”形を選んだ理由が、ここにある。派手なのは目印。分解式なのは運搬。硬いのに砕けやすい宝石部は、契約書を守るための箱。
守るための箱が、今は最大の弱点になっている。

親方が柄の宝石部に指を近づけた。
私は反射で手を出し、止めた。

「触らないで」

声が強く出た。
親方が眉を上げる。
私は息を整え、言い訳の形に戻す。

「……そこが壊れそうで。割れたら困る」

親方が口を尖らせた。

「じゃあどうしろってんだ」

「音と重さだけでいい。中身があるかどうかだけ」

親方は舌打ちして、柄を布の上からそっと持ち上げる。布越し。衝撃が少ない。
彼は耳を近づけ、軽く揺らした。揺らし方が上手い。熟練の手だ。

――かす、……かす。

紙の擦れる音がした。
私は目を閉じた。
中にある。
紙がある。
宝石部の奥に、契約書がある。
つまりこれは本物だ。
本物が、露店に転がっていた。
露店に転がっていたということは、盗人は価値を知らないか、価値を知っていて“急いで換金したい”か。
どちらにせよ、時間がない。

親方が言う。

「中に何か入ってるな。固い殻の中で、薄いもんが擦れてる。……割れたら終わりだ。運ぶなら、揺らすな。落とすな。温度差も避けろ」

温度差。
熱で膨張して割れる可能性がある。
最悪だ。
最悪だが、助かる。助かるのは情報だ。情報があれば守れる。

私は頭を下げ、銀貨を一枚置いた。
親方は受け取らず、顎で出口を示した。

「礼はいらねぇ。……それ、命に関わるもんだろ。余計な騒ぎは起こすな」

私は頷いた。
外へ出る。
雑踏に戻る。
戻った瞬間、背中が冷える。
追跡の気配が、消えていない。
むしろ濃くなっている。

カトリーヌが囁いた。

「……付いてきてる。さっきの二人じゃない。増えた」

増えた。
増えたということは、情報が回った。
露店の男が売った。
売った先が喋った。
あるいは、最初から糸が繋がっていた。
ここから先は、“逃げ”ではなく“持ち逃げ”になる。持っているのは宝剣。壊れやすい契約の箱。走ってはいけない。走れば揺れる。揺れれば割れる。割れれば終わる。

私は布包みを胸に抱き、歩調を変えずに言った。

「……犬を使う」

カトリーヌが即座に理解する。

「わざと可愛く暴れさせて、人の目を集める?」

「違う。……犬は犬であるふりをして、相手の足を止める。沈黙で言葉を奪う。――そして、私たちは角を曲がる」

犬が私の足首に鼻先を当てた。
ぴと。
合図。
“やれ”。

私たちは市場の中央へ向かった。人が多い。視線が多い。視線が多い場所は、追跡者にとってやりにくい。
そこで私は、わざと布包みを抱えたまま、露店の果物籠に肩をぶつけた。籠が揺れ、林檎が転がる。
私はわざと声を上げた。

「あっ……! すみません!」

人が振り向く。
その瞬間、犬が林檎を追って走り出した。
走り方が“完璧な犬”だ。
短い脚で、無駄に可愛い速度で、しかし確実に林檎を咥えて戻る。
周囲が笑う。笑いが広がる。
笑いが広がると、追跡者の視線が分散する。分散した視線の中で、追跡者は“今、手を出すと目立つ”状況になる。
目立つのを嫌う者は、仕掛けがある者だ。仕掛けがある者は、正体を隠したい。
隠したい者は、足が止まる。

犬が戻ってきて、林檎を私の足元に置いた。
置き方が妙に丁寧で、周囲から可愛い歓声が上がる。
私は笑顔を作り、林檎を籠に戻し、布包みを抱えたまま一歩下がる。
カトリーヌが私の腕を軽く引き、角を曲がる。
角の向こうは細い路地。
路地の先は荷車の集まる裏通り。
裏通りなら、人の流れを切れる。

走らない。
揺らさない。
息を切らさない。
ただ、角を増やす。角を増やせば、追跡は遅れる。遅れた分だけ、私たちは町を出られる。

そして、町の端へ出る直前――
背後から、声が飛んだ。

「おい! そこの女!」

私は止まらない。止まったら終わる。
だが足取りを変えずに、耳だけで拾う。
声は荒いが、官の声ではない。兵の声でもない。
“雇われた声”だ。
雇われた声は、金で動く。金で動く者は、道理では止まらない。

カトリーヌが低く言った。

「……来る」

私も低く返す。

「……割らせない」

犬が、今度は唸らなかった。
唸らず、ただ、立ち止まり、振り返った。
尻尾を振らない。
目を細める。
灰金の沈黙が、相手の足を一瞬止める。

その一瞬で十分だった。

私たちは町の境を抜ける。
抜けた瞬間、風が強く吹いた。
布包みを胸に抱え直す。
中の紙が擦れる音がしないように、呼吸まで浅くする。

宝剣を得た。
得たが、まだ安心できない。
宝剣は“鍵”の半分だ。
鍵のもう半分――書状と印鑑がまだない。
それに、宝剣を取り返した瞬間から、こちらの存在は濃くなる。
追われる。
追われながら探す。
犬の旅は、ここで「可愛いお仕事」ではなく「国の骨格を抱えて走る地獄」になる。

私は布包みを抱えたまま、犬を見た。
犬は一度だけ瞬きをして、前脚で地面を叩いた。

とん。

一回。
――「次へ」。


町を抜けた瞬間、風が露骨に冷たくなった。
石畳の音が消え、土の道の音に変わる。土の道は吸う。吸うから足音が軽くなる。足音が軽くなると、追う者の足音もまた聞き取りにくくなる。つまり“見えない追跡”が始まる。私は布包み――宝剣を胸に抱え直し、呼吸を浅くした。胸で抱くと揺れが減る。揺れが減れば宝石部の衝撃が減る。衝撃が減れば、契約書が生きる。

カトリーヌは横を歩きながら、背後を見ないまま背後を読んでいた。
「まだいる」
声は小さい。小さいが断定だ。
「……距離は?」
「近すぎない。遠すぎもしない。慣れてる。嫌な慣れ方」

慣れている者は、焦らない。焦らない者は、こちらを壊す方法を知っている。
宝剣を奪うなら、奪う必要はない。割ればいい。
割れてしまえば契約書は濡れる。濡れればインクが滲む。滲めば“承認”が死ぬ。承認が死ねば、公爵家はただの「金持ちの家」に落ちる。
それを狙っているのなら――追跡者は“買い取り屋”ではない。破壊屋だ。

私は布包みの端を少しだけ締め、あえて腕をだらりとさせた。抱えている姿は目立つ。目立つと狙われる。だから“重い布切れを運んでるだけ”に見せる。
その代わり、落とせない。落とした瞬間に終わる。終わるのが先か、割られるのが先かの勝負になる。

足元で、とと、とと、と短い足音がする。
コーギーの主が、道端の匂いを嗅ぎ、普通の犬のふりをして歩いている。
普通の犬のふりが、上手すぎて腹が立つ。腹が立つほど可愛い。
可愛いのに、今の可愛さは“武器”だ。可愛いが武器になる世界は、たいてい地獄だ。

道が分かれた。
左は橋へ向かう近道。右は畑の間を通る遠回り。
橋は人が通る。人が通る道は安全に見える。だが人が通る道は、待ち伏せもしやすい。
私は右へ行きたかった。だが右へ行けば時間がかかる。時間がかかれば追跡者は距離を詰める。
迷いが生まれた瞬間、犬が足を止めた。

尻尾は振らない。
耳が少しだけ立つ。
そして、地面を叩いた。

とん。

一回。
――「右」。

私の迷いが、切れた。迷いは敵だ。主が決めたなら従う。従うことが今は最も合理的だ。
私たちは右へ進んだ。畑の間の道は狭く、ぬかるみもある。ぬかるみは滑る。滑れば揺れる。揺れれば割れる。最悪だ。
だから私は歩幅を小さくし、膝を柔らかくして衝撃を吸った。馬車の御者の歩き方だ。主を運ぶときの歩き方。今運んでいるのは刃ではなく“国の骨格”だと思えば、歩き方も変わる。

畑道の先で、荷車の音がした。
ガタガタと木が鳴る。
私は立ち止まり、道の端へ寄る。荷車を避けるためだが、理由はそれだけではない。荷車は“隠れ場所”になる。
荷車の荷が何かで、今日の生死が決まる。

荷車が近づき、積荷が見えた。
羊毛だ。
束ねられた羊毛が布で覆われ、ふわふわの山になっている。
私は喉の奥で、神に感謝しそうになった。羊毛は衝撃を吸う。温度差も緩和する。宝剣にとって理想の棺だ。

荷車を引く男は、日焼けした農夫だった。目は疲れているが、悪意はない。
私はすぐに声をかけた。悪意のない者には、悪意のない言葉が効く。

「すみません。王都へ行く途中で、足を痛めた者がいて。少しだけ荷車に乗せていただけませんか。……犬もいます」

農夫は犬を見た。
犬が農夫を見上げた。
灰金の瞳が、言葉の代わりに礼をした。
農夫が一瞬だけ固まり、次に肩を落とす。

「……変な犬だな。いいよ。だが羊毛は売り物だ。汚すなよ」

「汚しません。命にかけて」

冗談の形で言ったが、内容は冗談ではない。

荷車に近づき、私は羊毛の山の端に手を入れた。ふわりと沈む。沈むのに、底がある。ここに宝剣を入れれば揺れは減る。
ただし問題は――布包みの中身を見られることだ。見られたら追跡者は確信する。確信した追跡者は、次に“壊しにくる”。
私は布包みを抱えたまま、背中で荷車の影を塞ぐように体を動かし、羊毛の中へ滑り込ませた。羊毛が宝剣を飲む。飲む瞬間、内部の紙が擦れる音がした気がして、私は心臓が止まりそうになった。
だが音はすぐに消えた。羊毛が吸った。吸ってくれた。ありがとう、羊。

カトリーヌが農夫に軽く会釈し、荷車の横に歩いた。
私は荷台の端に腰を下ろし、犬を膝に乗せた。乗せた瞬間、犬が少しだけ不満そうな顔をした。働き犬は“抱かれる犬”ではない。だが今は抱く必要がある。犬が歩くと目立つ。目立つと追跡者が読みやすい。読まれたら、犬は捕まる。捕まれば終わる。

犬が私の腕の中で、こっそり首を伸ばした。
羊毛の山の方へ。
キラキラした柄の方へ。

「……お嬢様」

私は小声で釘を刺した。
犬は耳だけ動かして知らん顔をし、次の瞬間――羊毛の端から覗く飾り紐に鼻先を近づけた。
じゃらり。
ほんの小さな金属音。

私は固まった。
農夫は前を見ている。カトリーヌは外側を見ている。追跡者は――。

背後の畑道の向こうに、影が二つあった。
歩いている。歩き方が軽い。農夫の歩き方ではない。
町の兵の歩き方でもない。
雇われた歩き方だ。

影の片方が、こちらを一瞬見た。
見て、視線を外した。
外したのが怖い。
見た上で「確認が取れた」顔だからだ。

私は息を吸い、顔を崩さず、犬の口元をそっと押さえた。
押さえながら、囁く。

「今は玩具じゃありません」

犬が私を見上げる。
灰金の瞳が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ“きょとん”とした。
その“きょとん”が、純粋な犬の表情で――私は内心で頭を抱えた。

――あれ?
――最初に宝剣を選んだ理由……まさか。

私はその考えが口から漏れそうになり、喉を噛んで止めた。
カトリーヌが横目で私を見る。
私は首を振った。
今は確認しない。今は追跡を切る。
そして、その小さな疑問は――後で笑えばいい。今笑うと死ぬ。

荷車は橋へ向かわず、畑道を抜けて小さな集落へ入った。
集落には納屋があり、農夫が荷車を止める。

「ここで一息だ。犬も水飲め」

私たちは礼を言い、荷車から降りた。
私は羊毛の山に手を入れ、宝剣を“抜かずに”位置を直した。抜くと光る。光ると目立つ。目立つと刃が飛ぶ。
犬が私の足首に鼻先を当てた。ぴと。
――「早く」。

納屋の影が深い。影が深い場所は隠れやすい。隠れやすい場所は、襲われやすい。
案の定、影が動いた。納屋の入口で、上等な外套の男が二人、さりげない顔で立っていた。さりげない顔が逆に不自然だ。
片方が笑う。

「いい犬ですね。……その荷は?」

私は笑わない。
「羊毛です」
「へぇ。羊毛にしては大事そうに抱えてましたが」

大事そうに抱えたのは剣だが、今は羊毛の話だ。
私は肩を竦めた。

「売り物ですから。汚したら怒られます」

男が一歩近づく。
泥を踏まない足取り。
踏まない足取りは、暴力に向いている。暴力は汚れるからだ。
男の視線が、膝元の犬へ落ちた。

「……犬、吠えないんですか」

犬が男を見上げ、目を細めた。
そして、唸った。

……きゅぅ。

可愛い。
可愛いのに、空気が凍った。
男の笑いが止まる。喉が鳴る。
犬の沈黙は、男の言葉を奪う。

その一瞬で十分だった。
カトリーヌが農夫の横へ回り、普通の調子で言う。

「この犬、変に勘が良くて。怖い人が近づくとこうなるんです」

男の眉が動く。
“怖い人”と言われた。
だが怒れない。怒ると正体を晒す。晒したくないからさりげない顔をしている。
さりげない顔を維持するために、男は笑うしかない。

「はは……犬に嫌われるのは心外だ。失礼しました」

男は引く。
引きながら、納屋の中を覗こうとする。覗こうとする視線の角度が、羊毛の山へ向いている。
私は即座に、納屋の隅に置かれた水桶へ歩き、桶の前で“わざと”つまずいた。

ガタン。
水桶が揺れる。水が跳ねる。泥が混じる。
農夫が「おい!」と声を上げる。
男たちの視線が、水桶へ逸れる。逸れた瞬間、カトリーヌが羊毛の山の前へ立ち、体で隠す。

私は顔を上げ、申し訳なさそうに言った。

「すみません、手が滑って……」

謝罪は盾になる。盾は時間を稼ぐ。時間を稼げば、こちらの勝ち筋が増える。
男たちは「気にするな」と言い、場の空気を保ったまま去っていく。去り際に、片方が小さく呟いた。

「……“割れ物”だな」

私は背中が冷たくなった。
割れ物。
知っている。
知っているから、ここにいる。
つまり、相手は偶然の追跡者ではない。宝剣の脆さを知っている。契約書の存在を知っている可能性が高い。

カトリーヌが農夫に礼を言い、男たちが見えなくなった瞬間、私の耳元で囁いた。

「……組織。雇い主がいる。しかも“壊す狙い”」

私は頷く。
農夫に余計な不安を与えないよう、声は出さない。
出さないが、決断は固まる。
宝剣を回収した瞬間に、こちらが“見えた”。
見えた以上、次は追われながら探す段に入る。

夜、農夫の納屋を借りて、私たちは羊毛の山の中で宝剣の位置だけを確認した。抜かない。開けない。触らない。
その代わり、犬の工房の“道具”を出す。紙と赤鉛筆。
犬は床に伏せたまま、口で鉛筆を咥え、ゆっくり線を引いた。

最初は歪む。
次は少し整う。
そして、短い文字が出る。

――「印」

一文字。
それだけで十分だった。
次の目標は印鑑だ。
印鑑は小さい。小さいほど隠せる。隠せるほど、見つけにくい。
だが犬は、続けてもう一文字を書こうとして止まった。鉛筆が転がる。舌が出る。焦りが可愛い。
私は鉛筆を立て直し、犬の口元を支えた。

犬が、ようやく二文字目を押し付けるように引いた。

――「紙」

書状。
印鑑。
宝剣は確保した。確保したが、確保したせいで追われ始めた。
追われる中で、次の二つを奪い返す。

私は鉛筆の線を見つめ、ふとまた思った。
宝剣を最初に選んだのは、合理だから。壊れやすいから。目立つから。
全部、筋が通る。
筋が通るのに、さっきの犬の“キラキラへの吸い寄せ”が頭から離れない。

――あれ?
――選んだ理由……まさか犬が好きなものの……。

私は喉まで出かけた笑いを飲み込み、隣のカトリーヌを見る。
カトリーヌも同じ顔をして、眉だけ上げた。
そして二人同時に、何も言わずに目を逸らした。

……まぁいいや。

今は笑う段ではない。
笑うのは、主が人に戻ってからでいい。
その時に、宝剣の初動が「国の鍵」でもあり「犬の趣味」でもあったと分かったら――たぶん私は、泣きながら笑う。

納屋の外で、風が鳴った。
遠くで犬の遠吠えが聞こえる。うちの主は遠吠えしない。遠吠えしないのに、世界を動かす。
私は羊毛の匂いの中で目を閉じ、次の段を組み立てた。

印鑑はどこへ動く。
書状は誰が握る。
宝剣を割らずに運びながら、追跡を切るには何が要る。

そして明日――私たちは“普通の働き犬”の顔で、次の町へ入る。
犬の可愛さを盾にして。
犬の沈黙を刃にして。
追われる地獄の中で、残り二つの鍵を奪い返すために。

ここで完全に形を変えてしまった。
回収が成功したからこそ、失敗が始まる。
成功が見えたからこそ、敵が見えた。
敵が見えたからこそ、次が“戦い”になる。

夜明け前の納屋は、息をするたびに羊毛の匂いが肺に絡んだ。
暖かい匂いだ。暖かいのに落ち着かない。暖かい毛の山の中に「国の鍵」を隠しているからだ。私は眠っていない。眠れないのではない。眠るべき順番が来ていない。追われる時は眠らない。眠らない代わりに、手順を磨く。

羊毛の山の奥、布包みの位置を最後にもう一度確かめる。
手を入れると、ふわりと沈み、底に硬さがある。硬い。重い。硬いのに脆い。矛盾が腹立たしい。
私は指先で布の端を押さえ、揺れないように固定した。固定は力ではない。角度だ。角度を間違えると、力が必要になる。力が必要になった瞬間、物は壊れる。壊れたら終わる。

外がうっすら明るくなった頃、カトリーヌが目を開けた。彼女は私のように眠っていない。眠ったふりをして、耳だけ働かせていた。没落の経験がある者は、寝るのが上手い。寝るのが上手いのに、起きている。羨ましい能力だ。

「……動く?」

「動く」

私は短く答えた。
短く答えないと、言葉の端に不安が滲む。不安が滲めば犬が拾う。犬が拾えば、主が余計な盤面を描く。盤面が増えると時間が増える。時間が増えると追跡者が寄る。
今、時間は敵だ。

納屋の入口へ行き、隙間から外を見る。
薄い霧。畑の上に白い膜。人影は――ない。
だが“ない”が安全ではない。雇われた者は、目に見える位置に立たない。目に見えない位置で、道の分かれ目を押さえる。
私は戻り、声を出さずに手で合図した。カトリーヌが頷く。犬も起き上がる。犬は伸びをした。伸びが可愛い。可愛いが、可愛いを眺める時間はない。

私は羊毛の山から宝剣を“抜かずに”取り出す。
抜くと光る。光ると目立つ。目立つと割られる。
だから私は布を二重に巻き、布の外側にさらに粗い麻布を巻いた。麻布は目立たない。麻布は貧しい。貧しいものは盗む価値がないように見える。
見える、だけだ。中身は国の骨格だ。

「……お嬢様」

私は犬を見下ろし、声を落とした。
「今日から、あなたは“もっと犬”でいてください」

犬が瞬きをする。
理解している。
理解しているが、不満そうだ。
不満が可愛い。可愛いが、ここで可愛いのは盾だ。

犬は床を叩いた。

とん、とん。

二回。
――「今」。
“今、行け。言い訳は後”。
主の合図はいつも正しい。正しいから腹が立つ。腹が立つほど頼もしい。

農夫に礼を言い、私たちは納屋を出た。
農夫は眠そうな目でこちらを見て、言った。

「……昨日の外套の連中、朝も見たぞ。橋の方にいた」

橋。
分かれ道の左。
つまり、私たちが右へ行ったのは正解だった。主が一回叩いて決めた右が、命を繋いだ。
私は笑わず、頭を下げた。

「教えてくださってありがとうございます」

農夫は犬を見た。
犬が農夫を見上げた。
農夫が鼻の下を掻く。

「……変な犬だ。だが、悪い犬じゃねぇ」

その一言で、胸が少しだけ軽くなる。
民の言葉は、重い。
貴族の言葉より、ずっと重い。
主が守ろうとしてきたのは、この重さだ。

集落を抜けると、道は丘へ向かって緩やかに登った。
丘の上には、古い小さな祠がある。石でできた、誰のものでもない祠。
私はそこで足を止めた。理由は単純だ。ここなら見通しが利く。見通しが利けば、追跡の影が見える。
見えた影は、対処できる。

カトリーヌが祠の陰に立ち、耳を澄ませる。
私は犬を祠の石段に座らせ、麻布の包みを足元に置いた。置くときはゆっくり。ゆっくりは命だ。

犬は、包みを見た。
見て、首を傾げた。
そして――鼻先を包みに近づけた。

私は反射で手を伸ばし、止めかけた。
止めかけて、やめた。
止めると主は不満を溜める。溜めた不満は、どこかで爆発する。爆発が可愛くても困る。
だから私は、代わりに“許可された範囲”を作る。

「……嗅ぐだけ。噛まない。引っ張らない」

犬がじっと私を見る。
灰金の瞳が、子どもみたいにまっすぐで――胸が痛い。
気高い主が、犬になった途端にこういう目をするのが、呪いの嫌なところだ。
犬はゆっくり鼻を近づけ、包みを嗅いだ。
そして、満足そうに――小さく息を吐いた。

私はその仕草で、確信する。
宝剣を最初に追った理由。
合理。脆さ。目立ち。時間。
全部正しい。全部筋が通っている。
それでも“もう一つ”あった。

――キラキラしてて、長くて、じゃらじゃらで。
――犬が好きなやつだ。

私は喉の奥で笑いを噛み潰した。
カトリーヌが視線だけで「気づいた?」と聞いてくる。
私は視線だけで「気づいた」と返した。
そして二人して、何も言わない。
言えば主にバレる。バレたら主は恥ずかしがる。恥ずかしがる主は可愛い。可愛い主は――追跡者を招く。
だから今は黙る。

祠の向こう、丘の下の道に人影が二つ現れた。
外套の男たちだ。
遠い。だが近づいている。
歩調が一定。焦りがない。焦りがないのが怖い。
怖いが、こちらも焦らない。焦らないために、手順を持つ。

私は麻布の包みを抱え直し、犬の革紐を握った。
カトリーヌが囁く。

「追跡は切れてない。……でも、切る必要はないかもね」

「ええ。――追跡者がいるなら、追跡者を使う」

「使う?」

「印鑑と書状へ繋がっている可能性がある。宝剣を壊すために来ているなら、残り二つも“どこかに動かした者”がいる。……その線を引き出す」

カトリーヌが口元だけで笑った。
没落家門の娘の笑み。
滅びの音を知っている者の笑みは、切れ味がある。

「じゃあ、次の町では“わざと”見せる?」

「見せる。ただし――壊させない距離で」

私は言った。
そして、犬を見下ろした。
犬は私を見上げ、地面を叩いた。

とん。

一回。
――「行け」。
主の合図で、また世界が単純になる。

丘を下り、私たちは次の町へ向かった。
町は小さい。だが役所がある。役所があるなら印鑑の匂いがある。印鑑は、行政の匂いを好む。盗人は印鑑の価値を知らなくても、「紙に押すと偉そうに見える」くらいは知っている。偉そうに見えるものは、役所で売れると思う。役所で売れないなら、偉そうな誰かが買うと思う。
つまり印鑑は、権威へ寄る。
権威へ寄るなら――町の役所、教会、地主の屋敷。
そして、そのどこかに、追跡者の雇い主がいる。

私たちは町の入口で立ち止まり、呼吸を整えた。
ここから先は、また言葉の戦になる。
私は心の中で手順を思い出そう。

まずは「働き犬」として自然に入る
印鑑の噂を拾う
追跡者を視界に置きつつ、彼らが誰に報告するかを見極める
報告先=次の標的
宝剣は割らせないことが最優先目標。

私は革紐を短く持った。
犬が私の足元で、小さく尻尾を振った。
ほんの一度だけ。
可愛い。
そしてその可愛さが、今日の盾になる。

「……これで終わり」

私は心の中でそう結んだ。
宝剣は確保した。
確保したが、敵が見えた。
敵が見えたから、次は敵を使って残りを奪い返す。

そして最後に、私はもう一度だけ、麻布の包みに目を落とした。
玩具みたいなキラキラが、その中で眠っている。
主は犬になっても、やっぱり主だ。
合理で動く。冷徹で動く。
……その上で、ちょっとだけ犬だ。

私は唇の端をほんの少しだけ上げ、すぐに戻した。
笑うのは後。
今は前へ。
“前へ”の先に、印鑑と書状が待っている。

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