悪役令嬢-犬

伊阪証

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令嬢の牧羊犬ライフ

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翌朝、屋敷の空気は少しだけ違った。
霧の匂いは同じ。冷たさも同じ。けれど、床板の軋みが昨日より確かに「生活」に寄っていた。沈黙が薄れたというより、沈黙の中に“作業音”が混じった。沈黙は死ではなく、準備になった。

私は夜明け前に書斎へ入り、机の上を空にした。余計な装飾も、余計な紙束も置かない。置けば散らかる。散らかれば倒れる。倒れればインクがこぼれる。犬は犬としての体で動くのだから、人間の机に合わせれば必ず事故る。事故が笑いになるのはいい。だが、笑いに紛れて壊れるものが増えるのは困る。私たちは今、壊れる余裕がない。

机の高さを変える代わりに、床に厚い敷物を敷いた。ペンが転がりにくい織り。紙が滑りにくい繊維。インク壺を置くための小さな盆。盆の縁を少し高くして、倒れても流れ出しにくくする。
カトリーヌが横で見ていて言った。

「……本気で“工房”作るつもりね」

「ええ。主が言葉を持つなら、ここは工房です」

ノエルは布を抱えたまま頷き、布の端をちぎって小さな紐を作っていた。紐は、ペンを固定するためだ。口で咥える位置がずれると線が暴れる。暴れると文字にならない。文字にならないと外へ出ない。外へ出ないと、私たちは次の段へ上がれない。

「……これ、噛みやすいように巻くんです。痛くならないように」

ノエルの声はまだ震える。だが震え方が違う。昨日までの震えは恐怖だった。今の震えは集中だ。
守りたい。だから手が動く。動く手が彼女を守る。

爪の音がして、犬が現れた。
とと、とと。
昨日より足取りが軽い。気のせいではない。犬の体は、決断が明確になると動きが軽くなる。クラリッサが犬になってから気づいたことの一つだ。人間の頃より、感情を隠せない。隠せないのに、外にはバレない。矛盾が増えていく。

犬は敷物の上へ座り、ペンを見た。
ノエルが巻いた紐を咥える。
噛む位置を調整するために、口を小さく動かす。
それから、紙へ向けて首を下ろした。

線が走る。
昨日の線より安定している。
真っすぐではないが、目的が見える線だ。
一画、二画。
途中でペン先が引っかかり、犬の頭がびくりと跳ねる。インクが点になる。点が紙を汚す。犬は一瞬固まり、次の瞬間――舌を出し、鼻先についたインクを舐めて、さらに黒くする。
ノエルが小さく「だめ……」と呻き、カトリーヌが肩を震わせ、私も目元だけを緩めた。

笑ってはいけない。
けれど、笑わないと折れる。
私たちは折れないために、少しだけ笑った。

犬はそれを見て、耳を伏せた。
恥ずかしいのだ。
恥ずかしいのに、止めない。
止めないのが、クラリッサだ。

しばらくして、紙の上に形ができた。
形はまだ歪だが、私は息を呑んだ。
文字だ。
短い文字。
それも、命令ではなく、意思表示。

――「行」

一文字だけ。
だが一文字で十分だった。
“前へ”の具体化。
屋敷の外へ出る。働く。隠れる。探す。
動く合図。

カトリーヌが言った。

「……で、どこへ?」

私が答える前に、犬が床を叩いた。
とん、とん。
二回。

合図は決まっていた。
二回は「今」。
今、行け。迷うな。
迷えば外が先に動く。

私は頷き、袋を用意した。中身は最小限だ。紙、インク、赤鉛筆、そして今日書けるようになった“署名の癖”を残すための練習紙。それから――銀の計量札。
犬はそれを見て、鼻を鳴らした。
肯定。
“必要だ”と言っている。

屋敷の裏から出る準備を整えると、ノエルが前へ出た。

「私、ついていきたい」

カトリーヌが即座に言う。

「だめ。屋敷を空けるな。あなたは“屋敷が動いてる証拠”になる」

ノエルが唇を噛む。
私は柔らかく言った。

「ノエル。あなたが残ることが、今は一番強い」

ノエルの目に涙が溜まる。
犬がノエルの足元へ行き、短く尻尾を振った。
褒美。
褒美が可愛い。
可愛いが、ここでは“命令の代わり”だ。ノエルは泣きながら頷き、犬の頭を一度だけ撫でた。甘やかしではない。送り出しの撫で方だった。

私は犬の首に細い革紐を結び、袋を咥えさせた。
カトリーヌが外套を羽織り、私に目配せをする。

「私も行く。あなた一人じゃ、外の舌に勝てない」

それは正しい。
私は頷いた。
外では、言葉が刃になる。刃を受けるには、刃を知る者が必要だ。没落を経験したカトリーヌは、刃の振る舞いを知っている。

私たちは垣を越え、裏道へ出た。
舗装されていない土の道。王都の華やかな石畳とは別世界だ。ここには馬糞の匂いがあり、羊の鳴き声があり、働く者の汗がある。クラリッサが守ろうとしてきたのは、この匂いだ。
犬は少しだけ立ち止まり、鼻を鳴らした。
懐かしいのかもしれない。
あるいは、これが自分の戦場だと確認したのかもしれない。

目的地は、領地の端にある牧草地。
地主の娘――エレオノールの家だ。
クラリッサの古い友人。
貴族でも庶民でもない。土地と数字に忠実な女。王都の噂から距離がある分だけ、現実に強い。

道中、村の入口で二人の男に呼び止められた。
粗末な服。けれど目が鋭い。
ただの農夫ではない。噂を嗅ぐ者の目だ。

「……メイド長さんじゃねぇか。どこ行く」

私は足を止め、顔を上げた。
嘘は盾。嘘は刃。
今の私たちは、嘘を“先に出す”。

「薬草を求めております。御令嬢の病は長い。領内の薬師では足りないので」

男が犬へ視線を落とした。
「犬も連れて? 犬は治療に効くのか」

カトリーヌが口を開いた。

「効くわよ。人が黙るから」

男が笑いかけた。
犬が目を細め、低く唸る。

……きゅぅ。

男の笑いが途中で止まり、咳払いに変わった。
犬の“可愛い”が、ここでも刃になった。
可愛いのに、こちらが優位に立つ。
相手の言葉を奪う。
それは犬の力ではない。クラリッサの沈黙の力だ。

男は不満そうに唇を歪めながらも、道を空けた。
私たちは進む。
進みながら、私は思う。
犬になったことが、主を弱くしたわけではない。
むしろ、“言葉の届かない世界”で戦うための武器を与えた。
言葉が届かない世界――それは、噂の世界だ。群衆の世界だ。政治の世界だ。

昼過ぎ、牧草地が見えた。
羊の群れが白い点のように散らばり、柵の向こうで草を噛んでいる。
風が強く、草が波のように揺れていた。
その中で、一人の女が立っていた。

背は高くない。
けれど姿勢がまっすぐだ。
手には杖。服は実用的で、袖口が擦り切れている。
目がこちらを捉えた瞬間、女の顔が強張った。

「……ミレーユ?」

私が礼をすると、彼女は視線を犬へ落とし、眉をひそめた。

「冗談でしょう。あなたが、犬を連れてここまで来るなんて」

カトリーヌが口元だけで笑う。

「冗談だったら良かったわね」

エレオノールが一歩近づき、犬の灰金の瞳を覗き込む。
犬は逃げない。
ただ、じっと見返す。
その視線の圧に、エレオノールの呼吸が一瞬止まった。

「……その目。……まさか」

彼女は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
賢い。言葉にした瞬間、現実になる。現実になった瞬間、責任が生まれる。
責任を背負う覚悟がいる。
エレオノールは覚悟の前で、足を止めた。

私はその止まった時間の中で、低く言った。

「お願いがございます。犬を――牧羊犬として雇ってください」

エレオノールの目が大きく開いた。
「雇う? 犬を?」

私は頷き、続けた。

「ええ。犬は働けます。働きます。……そして、ここなら噂が届きにくい。屋敷より、ずっと安全です」

“安全”。
その言葉を言った瞬間、胸が痛んだ。
屋敷が安全でないと認めたことになる。
けれど認めなければ、守れない。
守るためには、主を屋敷から切り離す必要がある。主が屋敷に縛られている限り、屋敷が燃えれば主も燃える。

犬が前へ出て、柵の手前で座った。
背筋が伸びる。
尻尾が揺れない。
まるで「面接」を受けるように、エレオノールを見上げた。

エレオノールが喉を鳴らし、ゆっくりと笑った。

「……分かった。分かったわよ。変な犬ね。変すぎて、逆に信用できる」

カトリーヌが囁く。

「信用の基準が雑ね」

「雑じゃない。……あの目は、嘘を嫌う目だ」

エレオノールがそう言い、杖で地面を軽く叩いた。
羊が一斉に顔を上げる。
風が強くなる。
草が波打つ。

「じゃあ試す。あんた――羊をまとめてみなさい」

犬が立ち上がった。
短い脚が草を踏み、すぐに走り出す。
速い。意外なほど速い。
そして動きが“賢い”。
羊の後ろへ回り込むのではない。横へ回り、角度を切り、羊が自分で群れに戻るように誘導する。
吠えない。吠えないのに、羊が動く。
沈黙で動かす。
まるで人間社会の扱い方だ。

エレオノールが息を呑む。

「……何よ、その動き。牧羊犬の教育なんて受けてないでしょう」

私は答えなかった。
答える必要はない。
彼女が見たものが答えだ。

羊の群れがまとまり、柵の内側へ誘導される。
犬が最後に自分の位置を調整し、ピタリと止まった。
完了。
完璧。
そして――犬が少しだけ舌を出し、息を切らした。
その瞬間だけ、普通の犬だった。
普通の犬になった瞬間、ノエルがここに居たら泣いただろうと思った。

エレオノールが笑い、私を見た。

「雇う。……雇うけど、条件がある」

私は身構えた。
条件は刃になる。

「この犬のこと、私は“犬”として扱う。
 でも――あなたたちが嘘を吐くなら、私も嘘を吐く。
 守るための嘘なら、協力する。
 けれど、私の土地で血の匂いがしたら、追い出す」

合理的だ。
彼女は土地を守る者だ。
守る者は、守るために切る。

私は頭を下げた。

「感謝いたします。……必ず守ります」

犬がエレオノールを見上げ、尻尾を一度だけ小さく振った。
褒美。
契約成立。
犬の可愛さが、ここでは“契約印”になった。

その夕方、私たちは屋敷へ戻る準備をした。
カトリーヌは帰路の途中で、私の耳元に囁いた。

「これで主は外に出られる。働ける。隠れられる。……そして探せる」

私は頷いた。
探すべきものがある。
屋敷が燃えた時に奪われたもの。
王位継承に関わる書状。公爵家の印鑑。公爵家の宝剣。
それを探すには、屋敷の中で沈んでいては駄目だ。
犬が外を歩く必要がある。
犬が犬として可愛がられる必要がある。
そして、犬が犬の口でペンを持てる必要がある。

屋敷へ戻る途中、私は一度だけ振り返った。
牧草地の向こうで、犬が羊の群れを見張っている。
風が吹き、草が波打つ。
犬の小さな影が、その波の上で揺れない。

あの姿は、少しだけ“自由”に見えた。
自由は救いだ。
しかし自由は同時に、孤独でもある。

私は胸の奥で、静かに誓う。
主を外へ出した。
次は、外が主へ牙を剥く。
その前に――主は必ず“見つける”。
奪われたものを。
奪われた未来を。

屋敷へ戻る道は、来た時より短く感じた。
短いのではない。私の中で時間の尺度が変わった。主を牧草地へ置いてきたことで、屋敷はもはや“中心”ではなくなった。中心がずれると、人は怖くなる。中心がずれると、守るべきものが増える。守るべきものが増えると、急ぐ。私は急ぎたくなかった。けれど足は勝手に速くなった。

門が見えた時、空気の匂いが違った。
焦げ臭い。
湿った土に混ざる、甘く不快な匂い。火の匂いだ。火は消えても匂いは残る。匂いは残っているのに、煙が見えない。つまり火は“今”ではなく“さっき”だ。
私は息を止め、門前の影を数えた。人がいる。役人ではない。騎士でもない。――近所の者だ。野次馬だ。野次馬がいるということは、何かが起きたということだ。

私が門へ駆け寄るより早く、カトリーヌが私の腕を掴んだ。

「走るな。……走ったら“当たり”になる」

正しい。走る者は、心の中に“確信”がある。確信は噂の餌になる。
私は歯を食いしばり、歩調を落として門へ向かった。門番はいない。門が半分開いている。嫌な開き方だ。丁寧に開けたのではなく、乱暴にこじ開けた開き方。誰かが“入った”。

「ミレーユさん……!」

ノエルが門の内側から飛び出してきた。顔が真っ青だ。目が腫れている。泣いたのだろう。泣いた上で、泣き止んだ顔だ。泣き止んだ顔は危険だ。人は泣き止むと、現実を飲み込んでしまう。

「……火が」

ノエルはそれしか言えなかった。
私は頷き、門をくぐった。

庭の白薔薇は無事だった。
無事なのが、逆に不気味だった。
火が庭を舐めていない。つまり狙いは庭ではない。屋敷の“中”だ。
屋敷の外壁は黒ずんでいない。つまり大火ではない。局所的な火。局所的な火は、事故より“意図”が多い。
私は階段を上がり、廊下へ入った。
そこから先の光景で、喉の奥が冷たくなった。

書斎の扉が、壊れていた。
壊すほど急いだのだ。
急いで探した。
急いで――奪った。

床には焦げた紙片。封筒の破片。割れた硝子。インクが黒い海のように広がり、乾きかけている。
昨日整えた“工房”は、踏み荒らされていた。敷物はめくれ、盆はひっくり返り、インク壺は粉々だ。
だが火は、ここにない。
火はもっと奥。主寝室側の廊下に、焦げた匂いが濃くなる。

私は走りそうになった。
カトリーヌが、また腕を掴んだ。

「走るな。……走るなら、最後まで走れ。途中で止まるな」

私は頷き、今度は意図して走った。
止まらないために走る。
止まらなければ、崩れない。

公爵の執務室の前で、足が止まった。
扉が焼けている。
燃えたのは扉だけだ。中は黒い。煙の跡が天井に筋を引いている。
そして、床に水が溜まっている。消火したのだ。誰かが。間に合った。間に合ったが、間に合わなかった。

ノエルが後ろで震える声を出した。

「……火は、夜明け前でした。誰かが裏から入って……ここだけ、燃やして……」

「誰が消した」

私の声は、知らない音になっていた。
ノエルが言う。

「……近所の人が。煙を見て。……でも、消す前に、誰かが出ていく影を見たって」

影。
影は、盗人の影だ。
政治的な暗殺者なら、影を見せない。
影を見せる者は、手が荒い。荒い者は、目的が単純だ。
単純――金。宝。派手なもの。
だが、ここで燃やすのは派手すぎる。火は目立つ。目立つのにやる。やる理由がある。
理由は一つ。
早く見つけたいものがあった。
見つけられなかったから、燃やして隠す。
燃やせば、証拠が消える。燃やせば、誰が何を見たか分からなくなる。

私は部屋に入った。
家具が倒れ、書類棚が崩れ、床に灰が積もっている。
灰の中に、溶けた封蝋がある。
封蝋は焼けると甘い匂いを出す。あの匂いだ。
私は膝をつき、灰を指先で押し分けた。
紙の端が残っている。
文字は読めない。
読めないが、封の形で分かる。王家の封だ。
王家からの何かが、ここにあった。
そして、狙われた。

「……何が、あったの」

カトリーヌが低く言った。
私は答える代わりに、ノエルを見た。ノエルは震えながら、懐から小さな布包みを出した。
布包みの中には、焦げていない紙が一枚。
端が折れている。インクの匂いが残っている。

「……これだけ、隠しました。燃える前に。私、何が大事か分からないけど……お嬢さまの字っぽいのがあって……」

私は紙を受け取り、目を走らせた。
短いメモ。
しかし内容が重い。

――王位継承に関して、監督官より。
――アルノー家の承認の鍵は、二つ。
――王(前か現、いずれか)の書状と、公爵家の契約の証。
――印鑑と、宝剣。
――宝剣の宝石部に契約書がある。

私は息を止めた。
これは、主の“設計図”だ。
そして、この設計図が残っているということは、設計図そのものを狙われたということだ。

カトリーヌが紙を覗き込み、目を細める。

「……つまり、盗まれたのは“金”じゃない」

私は頷いた。

「金はついで。狙いは“鍵”。……王位継承の鍵」

その言葉を口にした瞬間、屋敷の空気が変わった。
火事は火事ではなくなる。
盗難は盗難ではなくなる。
これは、ただの家の被害ではない。国の骨格に触れる。
触れた瞬間、もっと大きな手が動き出す。
王宮。貴族。民衆。革命の芽。全部が、今の火事を“理由”にできる。

ノエルが泣きそうな声で言った。

「じゃあ……お嬢さまが居ない今、これ……誰が……」

私は答えかけて、止めた。
答えは一つしかないからだ。

――犬。
外にいる犬。
牧草地の犬。
口でペンを持つ犬。
沈黙で人を動かす犬。
クラリッサ・アルノー。

私は立ち上がり、背筋を正した。
悲しみは後だ。怒りも後だ。
今は順番がある。順番を間違えると死ぬ。
順番はこうだ。
①被害の確定
②外への情報統制
③主への報告
④探索の開始

私はカトリーヌに言った。

「今すぐ、屋敷の出入りを閉める。近所へは“火事場泥棒”で統一。政治の匂いは出すな。王位継承なんて一言も漏らすな」

カトリーヌが即座に頷く。

「分かった。噂の舵を握る」

私はノエルに言った。

「あなたは屋敷に残る。泣くなとは言わない。でも、泣きながらでも手を動かして。今日からあなたは“屋敷が生きてる証拠”そのものになる」

ノエルが唇を噛み、頷いた。
その頷きが、昨日より強い。

最後に私は、焦げた部屋を見回した。
ここは公爵の部屋だ。
公爵が残したものが、また燃えた。
燃えたのに、まだ匂いが残っている。
匂いは、まだ終わっていないと言う。
終わらせないといけない。終わらせるには、取り戻すしかない。

私は外套の襟を立て、裏口へ向かった。
外へ出ると、冷たい風が頬を叩いた。
空は曇っている。
曇りは、火を隠す。
火を隠す日は、盗人が動く。

「……お嬢さまのところへ」

私が呟くと、カトリーヌが短く答えた。

「走るわよ」

私は頷いた。
今度は、途中で止まらないために走るのではない。
間に合うために走る。

主が外で働いている間に、屋敷が燃えた。
大事なものが奪われた。
そして、奪われたものは“国の鍵”だ。

この瞬間から、主題ははっきりした。
牧羊犬としての平穏は、仮の幕だった。
幕が落ちた。
ここからが本番――探索だ。

走ると、世界は単純になる。
息を吸って、吐いて、足を前へ出す。
それだけで、頭の中の余計なものが削れていく。悲しみも、怒りも、後回しにできる。後回しにしなければ、足が止まる。足が止まれば、終わる。私は終わらせたくなかった。終わらせるのはまだ早い。公爵が残したものは燃えた。燃えたなら、取り戻すしかない。

牧草地へ続く道は、昨日より風が強かった。
風は草を倒し、草はまた起き上がる。起き上がる草を見ていると、妙に腹が立つ。草は何度でも起き上がるのに、人は一度倒れると二度と戻れないことがある。公爵は戻らない。主は――今、犬として戻っている。戻っているのに、戻っていない。

柵が見えた。
羊の群れが白い点ではなく、白い塊になっている。まとまっている。まとまっているのは良いことだ。だが良いまとまり方ではない。まとまり方が“守り”だ。羊が守りに入るとき、そこに必ず外の気配がある。

私は息を止め、柵の内側を探した。
犬の影を。
灰金の瞳を。

いた。
柵の高い位置、わずかな土の盛り上がりの上。
クラリッサお嬢さまはそこに座り、風上を見ていた。
尻尾は動かない。
耳は立っている。
その姿は、可愛いの形をしていながら、完全に“警戒”だった。

エレオノールが家から出てきた。顔色が悪い。
彼女は私を見るなり、短く言った。

「……今朝、王都から変な連中が来た。犬を見せろって」

胸が冷たくなる。
早すぎる。
早すぎるが、筋は通る。
屋敷が燃えた。噂が動く。貴族が嗅ぎ回る。王宮が沈黙する。沈黙の隙間を埋めるのは、いつだって“勝手な正義”だ。

「追い返したの?」

「追い返した。――でも、完全には追い返せてない。何人かは“村に残った”。見張ってる」

私は頷いた。
外はもう主を追い始めている。
主が犬として働けば、働くほど、犬が“普通の犬じゃない”ことが匂いになる。匂いがすぎれば、嗅ぎつけられる。嗅ぎつけられた時に必要なのは、弁明ではない。先手だ。

私は柵を開けて中へ入った。
犬がこちらを見た。
灰金の瞳が、一瞬で私の顔を読み取る。
“起きたな”。
“悪いことが”。
それが分かる目だ。

私は膝をつき、犬の視界の高さに自分の顔を合わせた。
言葉を選ぶ時間がない。だが、順番は守る。順番を守らなければ、主は誤る。誤れば、私たちは死ぬ。

「お嬢さま。屋敷が燃えました」

犬の耳が一度だけ動いた。
それだけ。
驚きはない。怒りも見えない。
ただ、呼吸が少しだけ深くなった。

「局所火災です。消火は間に合った。……しかし、入られました。書斎と、公爵の執務室に」

犬の前脚が、地面を軽く掻いた。
苛立ちだ。
苛立ちが可愛い。可愛いが、ここでは刃だ。
草が削れる音がする。
その音が“許さない”と言っている。

私は続ける。
ここからが本題だ。

「奪われました。三つです」

私は指を折らずに言う。指は犬には見えない。言葉で数える。

「王位継承に関する書状。公爵家の印鑑。公爵家の宝剣」

その瞬間、犬の目が細くなった。
人間の頃の癖。
考える時の顔。
一瞬で、盤面が組み替わる。

犬が地面を叩いた。
とん。
一回。

――“誰が”。

私は答える。
答えは確定していない。確定していないことは、確定していないと伝える。曖昧にすると主は余計な仮定で動く。余計な仮定は死を呼ぶ。

「分かりません。政治の者とは限らない。火事場泥棒の可能性が高い。――価値を知らずに奪った可能性もある。けれど、狙いは執務室でした。だから“何か”は嗅いでいる」

犬の前脚が、二回、地面を叩いた。
とん、とん。

――“探す”。
短い。
短いが、結論はそれしかない。

私は頷き、袋を開けた。
中から焦げずに残った紙――ノエルが命を張って隠したメモを出す。
私は犬の前に置き、指で示した。犬は紙を見た。読む。理解する。
読めるのが救いであり、残酷だ。読めるから、分かってしまう。

犬は紙を見終えると、立ち上がり、羊の群れの方を一度だけ見た。
それは“契約”を確認する目だった。
働き犬としての立場。
隠れ家としての牧草地。
ここを捨てるべきか、使い続けるべきか。
犬はエレオノールを見た。
エレオノールも、犬を見た。

「……行くのね」

エレオノールが言う。
その声には恐怖より、諦めが混じっていた。
土地の女は、嵐が来ると分かると早い。早いから生き残る。

私は頭を下げた。

「ご迷惑を――」

「言うな。迷惑は嫌い。でも、貸しは嫌いじゃない。……返せる形で返しなさい」

彼女は杖で地面を叩き、続けた。

「それと、村の見張りは私が散らす。犬は“仕事があるから”って言って、堂々と連れていけ。隠すな。隠すと怪しい。堂々とすると、ただの犬に見える」

合理的だ。
嘘の使い方が上手い。
私は深く頷いた。

犬は最後にもう一度、羊を見た。
羊たちは不安げに鳴く。
犬は鳴かない。
鳴かずに、羊の群れの周りを半周し、柵の内側へ押し込む。
“ここに残る者”の安全を確保する。
主は主だ。犬の姿でも、順番を守る。

準備が整った。
私たちは村の道へ出た。
エレオノールは犬の首に、粗い麻縄の首輪をつけた。上品ではない。だが上品である必要はない。上品だと目立つ。目立てば奪われる。
首輪の麻縄は、犬を「働き犬」に見せる。
見せるために付ける。
見せる嘘だ。

村の入口で、昨日の男たちとは別の者がいた。
外套が上等で、靴が泥を嫌っている。貴族の使いだ。
彼は私を見るなり、口角を上げた。

「おや。公爵家のメイド長殿。今日は随分と“軽装”ですな」

私は笑わない。
礼だけをする。

「領内の用事です」

男の視線が犬へ落ちる。
興味の目。
値踏みの目。

「ほう。犬まで? 珍しい。……噂では、公爵家は火事に遭ったとか。物騒ですな。犬が居れば安心ですか」

カトリーヌが一歩前へ出た。
彼女の笑みは柔らかい。柔らかいが、刃がある。

「犬が居れば、黙る人が増えるでしょうね。――例えば、余計な噂を口にする人とか」

男が笑った。
笑いながら、犬を見下ろす。
その瞬間、犬が目を細め、低く唸る。

……きゅぅ。

男の笑いが、喉で詰まった。
彼は咳払いをし、体面を保つように肩を正す。

「……失礼。では、ご武運を」

去っていく背中が、こちらを探る背中だった。
見ている。
嗅いでいる。
もう始まっている。

村を抜けると、風が強くなった。
草原の風は遮るものがない。
遮るものがない風は、噂と同じだ。
一度吹けば、止められない。

私は犬の横で歩きながら、喉の奥に溜まった言葉を吐き出した。

「お嬢さま。私たちは、これから“取り戻す旅”に出ます」

犬は前を見たまま、短く鼻を鳴らした。
肯定。

「取り戻すのは、物だけではありません。……公爵の名誉。あなたの未来。民の明日。全部があの三つに繋がっている」

犬の尻尾が、ほんの少しだけ動いた。
自嘲でもない。慰めでもない。
ただ、理解の合図。

私は続ける。
ここで逃げ道を作らないために。

「そして、見つければ終わりではありません。宝剣は壊れやすい。輸送で砕ける。契約書が宝石の奥にあるなら、扱いが雑な者ほど危険です。……時間がありません」

犬が地面を叩いた。
歩きながら、前脚で軽く。
とん。
一回。

――“急げ”。

私は頷く。
急ぐ。
だが急ぎ方にも筋がある。闇雲に走れば、犬は“犬”として捕まる。捕まれば終わる。
だから私たちは、堂々と進む。働き犬として。領内の仕事として。嘘を纏って、本物を探す。

夕暮れが近づく。
西の空が赤くなり、雲が紫に沈む。
その色を見て、私は思い出した。
あの朝に赤い封蝋が滴り落ちた音。
あの音から始まった崩れが、今ここで“旅”になった。

犬は歩く。
短い脚で。
だが足取りは迷わない。
迷わないのが怖い。
迷わないのが頼もしい。

私たちは、愛され、憎まれ、その両方を踏んで人へ戻るための道へ入った。
その道の最初の標は、明確だ。

――王位継承の書状。
――公爵家の印鑑。
――公爵家の宝剣。

取り戻す。
取り戻すために、私たちは明日から、領内を歩き回る。
犬のように。
犬として。
そして、主として。
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