Lovely Baddy~皆性別不明の学園ライフ~

伊阪証

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月下、陽光の昇りようを知る

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真夏の太陽は天乃宮学園のガラス壁をくっきりと縁取っていたが、僕の視界は薄い膜を一枚挟んだようにぼんやりしていた。
整える文化はここで完成品のように息づいていて、服に性別の名札はない。誰もが自分の似合う姿を追い込み、身だしなみは挨拶より先に届く。
そんな街の中心で、僕は職員棟の影に立ち、許嫁――雨白澪――のことだけを考えていた。
まずは調べる。焦って近づく前に、道筋を確かめる。それがこの学園のルールでもあり、僕自身の逃げ道でもあった。
資料室の端末にログインすると、「清潔区画の取り扱い」と「遠隔面談の標準手順」が閲覧できた。消毒ユニット――通称パスボックス――は徹底していて、紙も布も、生体も、許容されるのは無菌状態に確実に落とせる“わずかなもの”だけ。規則の文面は冷たくないのに、どの行も最後は「安全のため」で閉じていて、結果として僕の希望は丁寧に折り畳まれていく。直接は、通らない。
じゃあ、間接は? 画面越しは? 資料の隣に並ぶ別資料に、答えはあった。遠隔面談――拡張表示(VR)による擬似同室の手順。相手の空気を乱さぬよう、こちら側の匂いも湿度も排する、きめ細かいガイドライン。これなら彼女に負担をかけず、僕は彼女の視線の高さに立てる。立てる、はずだ。
準備は速かった。空き時間を縫って、僕は許可申請を出し、面談用の小教室を押さえ、先輩たちの力を借りた。
三人の上級生――いろはの舞仲間の子と、報道班の子と、メイク研究会の子――が「場を整える係」として引き受けてくれた。彼らは照明の色温度、音声のコンプレッション、僕の座り方まで微調整していく。緊張の汗がにおわないように、拡散型の消臭フィルムを空調に仕込むことまでやってくれた。僕は言葉を失い、代わりに手のひらを重ねて頭を下げた。
「雨野君。やれることは全部やる。君はただ、君の言葉を出せばいい」
報道班の彼が、緊張を広げないよう抑えめに笑った。こういう人たちがいる世界で、僕はずっとやっていくのだと思い知る。
ヘッドセットを装着すると、視界の端がふっと黒くなり、やがて白に溶けた。無機質な壁、余白の多い室内。彼女の部屋と同寸に設計された“空間のコピー”が、僕の周囲に立ち上がる。同じ高さに窓、同じ位置に卓上モニター。匂いも温度もない、それでも確かに誰かの生活の形だけが置いてある。
接続のステータスバーが走り、細い音がひとつ鳴る。視線の先、モニターが灯る。文字入力のカーソルが点滅する。心臓が一度跳ねる。
〈接続を確認しました〉
システムの定型文。そのあと、ほんの短い間があった。僕は喉の奥の乾きをどうにか押し込めて、口を開いた。
「はじめまして。雨野照といいます。突然でごめんなさい。今日この時間、少しだけ――」
打鍵音。テンキーを弾く速さに迷いはない。画面の文字列が一行、増えた。
〈画面越しのあなたに興味はない〉
短く、まっすぐな線が一本、胸の真ん中に引かれた気がした。拒絶を婉曲にする文化はここにもあるのに、彼女は婉曲を選ばない。多分、それが彼女の礼儀だ。僕はそこで、二度目の呼吸をした。
「……了解しました。時間を使ってくれて、ありがとう」
これが、いま出せる最小の礼だった。接続はそこで切れ、仮想の白い部屋は薄れて、一枚の壁に戻った。
ヘッドセットを外すと、現実の教室に光が戻る。整え係の三人が、同じ姿勢で座っていた。誰も笑わない。笑わないのに、責める視線もない。三人とも、肩が少し落ちている。疲労の落ち方が、それぞれ違う。報道班の彼は目の下を指で押さえ、舞の子はいったん立ち上がって背中を伸ばし、メイクの子は鏡を見ずにポーチを閉じた。
「……ありがとう。三人とも、本当に。僕のために、ここまで整えてくれて」
僕が言うと、舞の子が両手を広げて「やれることはした」と肩をすくめた。報道班の彼は「次は角度を変えよう」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。メイクの子は、目を合わせずに「彼女、悪い人じゃないよ」とだけ言った。
悪い人、なんて一言も言ってないのに、なぜか胸の奥があたたかくなる。彼女が悪い人じゃないと知っている人が、ここにはいる。それが救いだった。
休憩を挟んで、二回目の接続に挑んだ。今度は僕が前に出ず、整え係の一人がファシリテーターとして前に立つ。“君の大切な人の友人”として名乗ることに決めた。最初に相手の負担を減らす短文、相手のペースを最優先にするテンポ、こちらの存在を薄くする呼吸法。教科書のようなやりとりは成立して、そして、やはり同じ結果で締めくくられた。
〈画面越しのあなたに興味はない〉
三回目も、同じだった。言い回しも、言葉の長さも、句読点の位置も。澪は、ぶれない。拒絶の固さではなく、態度の筋で、ぶれない。
三回目の接続が切れると同時に、ファシリテーター役をした報道班の彼が、机に額をつけた。舞の子は壁にもたれて目を閉じ、メイクの子は黙って水を飲んだ。三人ともダウン、という言葉が軽すぎるのはわかっているが、それでも僕の頭にはその四文字しか浮かばなかった。
僕は、立って彼らの前に回り込んだ。順番に、目線の高さを合わせて頭を下げる。
「ありがとう。本当にありがとう。僕は、君たちの“整え”に守られてる。今日、それを知れただけでも、来た意味があった」
報道班の彼が、額を机から離してこちらを見た。目尻に、笑いのしわが戻っていた。「礼を言うの、早いね」と彼は言い、「まだ何も届けられてないのに」と続けて笑った。
舞の子は目を開け、指で天井を指し示した。「でも、空気は変わった。君がいると、空気が変わる。舞台もそう。そういう人、いるんだよ」
メイクの子は、ゆっくりとバッグのファスナーを上げた。「次はね、違う色を混ぜよう。色で言えることも、あるから」
会話はそこまでで切った。切ったのは僕だ。三人に、余計な消耗をさせたくなかった。教室の窓を開けて、外の音を少し入れる。校庭の向こうで、誰かが笑っている。遠い場所で、ちゃんと生活が回っている音。
片付けにかかろうとした時、メイクの子が手を止めた。視線が宙をさ迷い、何かの端緒を探すように指先がポーチの端をなぞる。やがて彼女は小さく息を吸い、ぽつりと言った。
「……ねえ。人は、無理だとしてもさ。物品なら、どうにかできるんじゃない?」
教室の空気が、そこで一度だけ止まった。
報道班の彼が「規則、きついよ」と即座に返す。舞の子は腕を組み、窓の外を見た。僕は、声を出さなかった。出せなかった。喉の奥に、小さな光が差し込む音がした気がした。
物品。人ではない何か。届けるのではなく、通すのでもなく、別の仕方で“行き着く”方法。禁止の羅列の裏側に、まだ読み切れていない行間があるかのように思えた。
答えは当然、まだ出ない。出さない。出せない。僕は三人にもう一度礼を言い、教室の灯りを落とした。廊下に出ると、ガラスの向こうで太陽が反射し、床の白い線がまぶしく伸びていた。遠く、消毒区画のほうに向かう誰かの足音がする。静かな、急かない足取り。ここでは、慌てることは無作法なのだ。
階段を降りる途中、窓の外に眼をやる。四階の、左から三つ目の窓。その向こうにある生活に、僕はまだ一歩も触れていない。触れていないからこそ、まだ壊していない。そう思った瞬間、胸のところで小さな鈴が鳴った。あれは希望と呼んでいいのか分からない。けれど、次の手を考え始める音であることは、間違いなかった。
人が無理なら、物。物が無理でも、方法。方法が閉じても、角度。角度が尽きたら、世界の側を少しだけ動かす。
僕は息を整え、職員棟の影から一歩出た。まだ眩しく、まだ暑い。けれど、さっきよりも、少しだけ見えるものが増えている気がした。次にやるべきことは、もう目の前に浮かんでいる。僕はそれを掴む言葉を探しながら、まぶたの裏に残っている白い部屋の輪郭を、そっとたどった。
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