ガチャ=デウス

伊阪証

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第五話

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妹は、朝がとても早い子だった。目覚ましが鳴る前に、眠たげなまま起きてくる。カーテンを開けて、寝ぼけた自分の顔をのぞきこむ。
「また寝ている。もう七時だよ。」
とあきれた声。起き上がれない自分の布団を、容赦なくはがしていく。自分より小さな手なのに、いつも力が強いと感じていた。顔をしかめながらも、妹はすぐに口角を上げて笑う。不思議と、それだけで眠気が少しだけ和らいだ。
そんなに真面目な癖して、妹の髪は毎日寝癖がついていた。後頭部がいつもぴょんと跳ねて、本人は気にしていない。母が櫛を持って追いかけてくると、逃げて押し入れに隠れる。
小さな声で「今日は結ばなくていいってば」と反抗する。でも、結局は櫛を入れられて、膝の上でおとなしくなっていた。
妹の食べる朝ごはんは、白ご飯と味噌汁が定番だった。たまにパンだと、バターを塗りすぎて叱られていた。食べるのが遅くて、よく学校に遅刻しかけた。ランドセルのポケットには、よく小さなお菓子を入れていた。怒られるのに、こっそり分けてくれる時もあった。
妹は、学校ではいつも笑顔だったらしい。友達と一緒にふざけて、廊下を走って先生に叱られる。
帰ってきてから、その出来事を楽しそうに報告してきた。自分は、その話を半分しか聞いていなかった気がする。ゲームをしながら「ふーん」と答えると、拗ねて部屋を出ていく。
しばらくして、お菓子を持って戻ってくる。自分のそばに座って、静かにテレビを見ていた。
妹は、テストでよく失敗していた。隠れて泣いたあと、開き直って「次は絶対満点だから。」と宣言する。落ち込んでも、次の日にはけろっとしている。そんな妹の強さを、羨ましいと思ったこともあった。
妹の部屋は、少しだけ散らかっていた。机の上には、手紙や折り紙や、使いかけのノートが山になっている。鉛筆が短くなるまで使い込まれていて、キャップだけ新品だった。窓際のぬいぐるみには毎日話しかけていたらしい。「この子がいないと眠れない。」と言って、何度も洗ってほしがった。
妹の笑い声は、家の中で一番大きかった。母に怒られても、父に注意されても、最後は自分で笑いに変える。自分がどんなに無愛想にしても、妹だけはめげなかった。「お兄ちゃん、なんでそんな顔なの?」と、よくのぞき込まれた。自分は何度も「本を静かに読みたい。」と返した。それでも、妹は気にしなかった。
妹は、普通の子だった。どこにでもいるような、明るくて、わがままで、泣き虫で、優しい子だった。でも、今となっては、その“普通”がどれほど大切だったのか分かる。あの時間、あの光、あの温度が、二度と戻らないと知ったのは、ずっと後になってからだった。
あの日も、何も特別じゃなかった。妹は朝から普通に振る舞っていた。朝食はろくに用意されていなかった。母は寝室で寝ていて、父はもういなかった。妹が台所で冷たいご飯をよそい、自分にも分けてくれた。「お兄ちゃん、早く食べなよ。」と、静かに言う声。
自分は眠そうにそれを食べ、妹は洗濯物を回していた。親がしてくれないことを、小さな手で黙々と片付けていた。ランドセルを自分で用意し、制服のほころびも自分で縫っていた。
家の中は、朝からどこか冷えていた。妹の姿だけが、少しだけあたたかかった。妹は母の部屋の扉を見て、何も言わずに靴を履いた。
父の靴は既にない。プライベートの靴もだ。
「じゃあ、いってきます。」
あの言葉だけが、家の中に残った。
昼過ぎ、家に誰もいなくなった。自分は家でぼんやりと漫画を読んでいた。妹はまだ帰ってこない。
夕方になっても妹は帰らなかった。近所の大人がドアを叩き、「大丈夫か。」と声をかけてきた。「急に倒れて・・・。」という説明が、うまく耳に入らなかった。
知らされていたのは、「突然死」という言葉だけ。倒れた場所も理由も、誰にも分からなかった。救急車が呼ばれていたが、何もできなかったという。即死だった、原因不明の即死。
母は、何かを叫びながら家を飛び出していった。父は母親に痺れを切らし、ずっと連絡を絶っていた。自分はただ家の奥で、部屋の壁をじっと見つめていた。
妹の部屋に入った。ぬいぐるみが落ちていた。ベッドのシーツに小さく丸められた制服。置きっぱなしの水筒と、折り紙で作った花。
誰も妹のことを見ていなかった。家族の誰も、本当に妹のことを考えていなかった。自分も、結局、何も守れなかった。
愛も心血も、何も。ただ、その夜だけは、二度と明けなければいいと思った。
それからの日々は、何も感じないまま過ぎていった。妹がいなくなった部屋の扉は、誰も開けなかった。家族は妹の死骸以外なく、心も冷え切っていた。
朝、妹の声がしない。リビングも、廊下も、静かすぎて息苦しかった。妹のノートや持ち物は、誰も片付けようとしなかった。ぬいぐるみが埃をかぶっていくのを、ただ見ていた。
自分だけが、家のどこにいても「独りぼっち」だった。妹が残した物を手に取ることもできなかった。声を出そうとしても、喉が詰まるだけだった。
あの日から、夜になるのが怖くなった。暗い部屋の中で、何も見えない天井をじっと見ていた。眠れなくなった。眠ったとしても、何度も妹の名前を呼びながら目を覚ました。
誰も、自分のことを気にかけてくれなかった。家族が「家族」ではなくなった。自分の居場所は、どこにもなかった。
ただ、妹の声や笑顔を思い出すだけだった。思い出せば思い出すほど、苦しくなった。自分が、何のために生きているのか分からなくなった。そして、誰にも「ただいま」と言えないまま、帰る家だけが残った。
腐る前にと、妹の死骸は回収された。
そして、次の日に・・・自分は彼女に出会った。
ロミーはスマートフォンを持ったまま、部屋の隅で足を組んだ。画面の通話表示は、企業ロゴとシステム担当者の名前。
「配信補助の件だけど、前の動画のあの子さ、ちょっとね。」
受話器の向こうで、年上の女性がため息をつく。「また誰か誑かしたのね、ロミー。」
「まあ、そうなんだけど。あいつ、普通の無気力とは違う気がしてさ。妹を亡くしているって話、聞いた?」
「経歴には載っていなかったけれど・・・親も、ちょっと問題ある家みたいね。あの母親、結構有名な学校を出ているわ。」
「ああ、聞いたことある。有名大学への推薦枠があるところね。」
「そういうところ、隔絶されるせいで危険思想がたまりやすいのよ。ネットと違って制限されることなく、しかもより影響されやすく。」
「音楽家としては優秀だけど・・・って感じ?」
「それは後の話。当時は才能だけはある普通の子だったけれど、蹴落とされちゃったのよ。オーストリアもモスクワも、切符逃しちゃってね。そこで危険思想に染まって、成功して自信を持って、最終的に業界追放。音楽以外に取り柄がないどころか、音楽以外はマイナスよ。」
「詳しいですね。」
「私が切符取った側だからね。」
ロミーは壁に背を預ける。
「家であんまり話もできてなかったみたい。自分で何とかしなきゃいけない状況が長かったんだと思う・・・。」
「自立と孤立は違うのよ。」
女性は事務的な声で言う。
「“突発的な喪失体験”の後って、感情が止まるケースも多い。子供の頃から家庭で疎外されていた子は、特に。」
「やっぱり、愛着障害みたいな・・・。」
「それもあるし、“複雑性PTSD”なんて診断も増えているわ。普通の無気力じゃなくて、“喪失から何も始められない”って感覚。心理的安全がなかった子の特徴ね。」
ロミーは、静かに同意した。
「人と距離があって、自分から“お願い”とか“助けて”とか絶対言えない。逆に自分を責めて、全部引き受けようとする癖もある。」
心当たりはあった。しかし、彼は克服しようとしているのか、それ以前に苦しんでいるのか・・・分からない。女装を嫌がる癖に、何度も続ける。この時だけは、傷つけられないと。アムのそんな心の声が、ロミーには聞こえるかのようだった。
「正直、今の配信界隈じゃ、そういう子はどんどん増えている。SNSも“居場所”になるどころか、余計に孤立感を増幅させる場合もあるし。」
ロミーは天井を見上げる。
「これからどうすればいいんだろうな・・・。」
マネージャーは「大人が手を差し伸べても、簡単には回復しない。けれど、“一緒にいるよ”って伝え続けることしかできないのよ。」と淡々と語る。
ロミーは、画面越しの自分の映り込みをぼんやり眺めた。
「なるほどね。まあ、やれることをやるしかないか。」
「それが一番よ。」女性の声は少しだけ優しくなった。
「話を聞く限り推定なら他にも可能よ。今も虐待が続いているなら薬剤性胃腸障害、長期間でしょうからジェネコマスティア、これは訳さない方が良いわよ、彼が気になっているなら。」
「ジェネコマスティアって何?」
ロミーはすぐに問い返した。
「他にも性腺機能低下症、肝障害、血栓症・・・薬剤性精神症状とかね。この辺は自殺するとか突然死の要因にもなるから予兆を確認しなさい。」
「ジェネコマスティアって何?」
ロミーは再び、食い下がるように尋ねる。
ジェネコマスティアというのは、女性化乳房という症状である。乳腺の発達によるもので、女性ホルモンを促進させなくても起きる場合はある。マネージャーは、それを答えることはない。
「貴女の視聴者に聞きなさい。」
「変態達は一掃されちゃったからいないよ。」
ロミーは、いたずらっぽく返す。
「道理でスパチャの金額が落ちていると思った。・・・分かってて聞いているわね?」
「・・・いや・・・はい。」
ロミーはまだスマートフォンを耳に当てたままだった。
「神関係での喪失ではない?神から与えられた恋人を失うと、よりダメージが大きい・・・というのもあるけれど。」
「金だけみたい。」
マネージャーが続ける。通称・・・神引き症候群。ギャンブル依存症の亜種で、祈りに傾倒し、労働を放棄することだ。心的外傷にはこれが上乗せされ、合併症として知られている。
「リスクやレバレッジも必要ないからと傾倒する・・・動画サイトとかで見るロード画面ね。本当は必要ないけれど、ロードをさせることで面白いものが来るか期待するというのと同じ仕組みよ。」
「SNSや配信で“神引きした”って報告が溢れているけど、あれ本当にみんな幸せになっているのかな・・・。成功体験ばかりが拡散して、失敗や虚無は消されているから・・・。」
「表面上は“夢を見て努力している”ように見せる。でも、実際は“何もしていないのに救われたい”って希望ばかり肥大する。本当に満たされている子なんてごく一部。大半は現実逃避や諦めのサイクルにはまっていく。努力の見せ方を変えたり、逆に才能一つでやった風に見せたり・・・他人により優れるために手段を選ばない輩の集まりよ。」
ロミーは眉をしかめた。
「昔みたいに“努力すれば報われる”って感覚が薄れている。今の子供たち、何も得られなかった時に本当に絶望しそうで怖い。アムも正直、同じ。刹那主義に染まりすぎている。」
「“逆転できるかも”という期待だけが残って、実際には何も変わらない。自己責任論が蔓延して、社会や周囲が手を差し伸べなくなる。逆に“神引きできなかった人”を笑いものにする空気すら出てくる。祈りに確実性がないとしても、信じる者は絶えないでしょうね。良くも悪くも。」
「もし今後、この傾向が社会全体に広がったら・・・?」
ロミーは窓の外の夜景を見つめる。何が一番危ないと思うか、そう問うまでもない。
女性は一拍置く。
「“無力感”の蔓延よ。みんな自分では何も変えられないと思い込む。“他人の運”や“神の気まぐれ”ばかりが話題になって、自分自身や社会への関心がどんどん薄れる。最終的には、“誰かを救う”とか“誰かと一緒に立ち直る”って発想そのものが消えてしまうかもしれない。」
ロミーは無意識に息を飲んだ。
「それって、本当に“救い”なのかな・・・。」
「形だけの救いが広がって、本当の孤立や絶望が見えなくなる。“みんな幸せそうに見えて自分だけが違う”って錯覚が、一番の危機よ。」
「分かった。今できることは、小さいかもしれないけれど、目の前の子供の話をちゃんと聞いてやること、かな。」
「それができる人が、本当に少なくなっている。でも、ロミーならできると思うよ。」
女性の声は、少しだけ温度があった。
ロミーは「ありがとう。」と静かに返し、通話を切ってそのまま画面を見つめていた。
「あの子ならできるわ。」
女性が話す。彼女は昔有名な配信者だったが、会社の不祥事でトラブルになり失踪、その影響から裏方として勤しみつつ、別アカウントでメンバー限定だけは現在も続けている。その立場として、彼女に願いを託す。それは、自分の届かなかった数字だ。
アムは薄暗い自室の窓辺で、外の景色をぼんやり眺めていた。一日が終わっても、心の中はいつまでも重たかった。妹の声や仕草が、ふとした瞬間に頭をよぎる。時々、涙が浮かびそうになるのを必死で堪えた。スマートフォンにロミーからのメッセージが届く。
「今日も配信手伝ってくれてありがとう。疲れてない?」
アムはすぐに返信しようとするが、なかなか言葉が浮かばない。金のおかげで許してはいるが、納得はしていない。
「うん、大丈夫。」とだけ返す。
その短い言葉に、自分でも何かがすり減っていくのを感じた。ロミーは電話越しに明るい声で話そうとする。けれど、アムの声はどこか遠く、上の空のようだった。
「また来週、企画の打ち合わせできる?」
「たぶん、平気。」
アムの返事はいつもより淡白で、少しだけ間が空いていた。電話を切った後、ロミーはしばらく画面を見つめていた。アムの疲れた様子、心ここにあらずの返事がどうしても引っかかった。二人の間に、ゆっくりと沈黙が広がる。以前はすぐに埋められた間が、今はどんどん長くなっていく。まだ会って一週間ではあるが、親密だった。アムは、自分の苦しみをロミーに伝えきれないままだった。ロミーも、どうやって寄り添えばいいのか分からなくなっていた。
日々のやりとりは続いているのに、
心は少しずつ、離れていく。
互いに相手のためを思って動いているつもりだった。だけど、本当の孤独は、誰にも説明できないものだと二人とも気づき始めていた。
夜、ベッドに横になったアムは、天井を見上げたまま眠れずにいた。ロミーもまた、画面越しのアムの沈黙に不安を覚えながら、静かな夜の中に溶けていった。
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