やさしいキスの見つけ方

神室さち

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君は僕に似ている

2-1

 
 
 
 聞こえるのは、流れる水の音。
 ざあざあと耳障りな濁音。
 濡れた口元をパジャマ代わりの長袖シャツの袖口でぐいと拭って、非常灯のみに浮かぶ、鏡の中の自分を見る。
 薄暗い非常灯が差し込むだけの洗面所の鏡越しに向けられるのは、引きつったように片方の口の端を上げた冷たい笑み。
 口を拭う為に上げていた右手をさらに振り上げて、振り下ろす。その拳は、鏡に当たる数ミリ前で止まった。ぐっとさらに、握る力を込めて、静かに鏡に拳を当てる。
 周期的に、何もかもが大嫌いになる時がある。この世の全てが。
 何もかもが。
 己よりも浅い、知識は進化するものだという意識を持たない、古臭い知識を偉そうに垂れる教師も、下らないことばかりに明け暮れているクラスメイト達も、形ばかりの会話はあっても情が垣間見えることのない父親も、その周りにいるしたり顔で取り入ろうとする大人たちも、すでに言葉を交わすことも顔を合わせることもなくなった兄も。
 みんなみんな、いなくなればいい。
 でも一番嫌いなのは。


 他でもない自分自身だ。


 鏡の中の自分ではない。
 今ここに立ち、息を吸って吐く、嫌悪してもなお消すことのできない井名里礼良という存在。
「大嫌いだ……」
 胃液に焼けた喉からこぼれた声は、ひどく掠れていた。



 春休みは、引っ越しのシーズンだ。
 それはこの寮においても例外ではない。
 寮室が毎年変わるのだ。
 関東でも有数の中高一貫教育の有名男子校の唯一学校が指定する寮は、通称第一寮と呼ばれている。非公認の第二、第三がもう少し離れたところにあるためだ。
 第一寮に入る条件に、実家の遠近は関係ない。
 まず中学一年次は、入学試験の成績上位三十名に入寮案内が送付される。これを辞退する者はまずいない。寮に入れば成績が上がると言われているからだ。
 そして二年次。ここからが本当のサバイバルだ。第一寮にいても、一年次に行われたテストの総合点及び十段階評価の成績で上位三十名に入っていなければ退寮を促される。学年が上がるにつれて階が上がるので、誰もが寮内で引っ越さなくてはならない。どの階も成績順で割り振られるのでめでたく残ることが許された者も、順位の上下で部屋の位置が変わる。一年過ごした二階から、二年生の寮室がある三階へと引っ越す。
 十年ほど前までは三年間同じ階で過ごしていたらしいのだが、三年同じ部屋に同じ人間が居座り続けると、特定の場所が早く老朽化するという統計をとある寮生が取り、以来、このとても面倒な一年ごとの家移りが決まったとか何とか、まことしやかに噂されている。
 在寮生は、三月いっぱいで部屋を移ることになっている。三月の上旬に高校三年生が卒業し、空になった東棟の四階に現高校二年生が移り、空になった三階に……と言った具合に順繰りに心太(ところてん)のように人間が送り出されていく。
 そして最後が、現中学一年生の家移りなのだが、四月二日から新寮生が入寮してくるので、早く移りたいが、上が空かないと儘(まま)ならない。結局三月三十一日にどたばたとなんとか荷物を運び上げるのが通例だ。
 そんな引っ越しが済んで年度が明ければ、新入生がバタバタと入寮してくる。こちらは四月二日から五日までの間に入寮を済まさなくてはならないが、大抵は二日にほぼ全員が入寮を完了している。
 そして、六日に入学式と進級式が行われてその当日から授業が始まる。
 制服に着られている一年生がちらほら見受けられる通学路。寮から学校までの道のりは歩いて五分ほどだ。
 すでに若葉が芽吹きだした桜並木。その歩道をいつも通り、ルームメイトの真吾や、同じ一組のメンバーと歩き、あと二十メートルほどで校門をくぐると言うあたりで、背後から腹の底に響くような、低い排気音が近づいてきた。
 振り向いた真吾達がうわぁと感嘆の声を上げる。
 その声とほぼ同時に、車道を物凄い勢いで赤い車が突き抜ける。
 暴走車に、歩道にいた生徒たちのほとんどが唖然としながらも目が離せず追うと、タイヤが摩耗する甲高い摩擦音を響かせ、とんでもない速度のまま、見事に後輪を滑らせてほぼ直角に向きを変え、その赤い車は校門を突き抜けていった。
「なに、アレ……」
「新任……なのかな? あんなフザケタ車に乗ってくるなんて超派手なキザ男が来るのかー? 中学の方だったらサイアク」
 ぽかんとしたままの真吾。車に詳しいのか一瞬で去って行った赤いスポーツカーのメーカーや種類を相変わらず無表情なまま、それでも付き合って足を止めている哉にべらべら説明している速人。サイアクと言いながら、そんな教師ならどう料理してやろうかと笑っている小笠原藤司(おがさわらとうじ)。
 更にその他数名。いつもと変わらないメンバーで再びがやがやと喋りながら足を進める。
 校門を抜け、昇降口へ歩を進めていると、あの赤い車が中学の教職員用スペースに止まっているのが見えた。
「おおっ 中学の方みたいだぞ」
「もう降りちゃったのかなー」
 車を見て声を上げた藤司と、無意味に背伸びをして見ようとしている真吾。その後もワイワイとまだ見ぬスポーツカーの運転手を話題に歩く。
「入学式後の進級式で紹介されるんだから」


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