対岸町のサーカステント

あきさき

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人形の話 【11】

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「前条さん、ついでに風呂沸かしておくんで入ってくださいね」
「え、やだ」
「やだじゃないです、最後に入ったのいつですか」
「三日前とか」
「無いです、入ってください」

 水に触るだけでこの世の終わりみたいな顔をする前条さんは、言うまでもなく風呂も嫌いだ。
 必要がなければ入りたくない、と言い放った前条さんにドン引きしたのは記憶に新しい。拗ねた調子で説明した前条さん曰く、身体的理由で代謝の過程が違うんだから同じ基準で風呂に入る必要はないとのことだが、それでも僕としては入って欲しいと思ってしまう。
 理由は洗濯機と一緒だ。この人風呂入ってないんだな、と思いながら過ごすのが嫌だ。

 実際は、前条さんは近づくと臭いどころか何だか妙に甘い良い匂いがするし、髪だって癖こそあれどいつまでも指通りの良い質感だし、肌だって氷のように冷たいものの滑らかなので僕だって無理に入ってもらう必要はないかなあと思わなくもないのだが、そこはそれ、いつも怖い目に遭わされる仕返し的な面もある。
 ついでに言うと、前条さんはトイレに行かない。僕が居る間に行っていないだけかもしれないが、それでも三週間一度も見たことが無い。此処まで来ると本当に人間なのか?と本格的に疑ってしまうのだが、本人が人間だと言い張る以上は人間として扱っておくつもりだ。深く触れるのが怖いというのもある。

「嫌だ、風呂に入るメリットが無い」
「風呂ってのは入ることそのものがメリットなんですよ、馬鹿なこと言ってないで……メリットがあれば入るんですか?」

 前条さんにとってはメリットどころかデメリットしかないのだろう。完全に駄々を捏ねる子供のような声で入浴を拒否した前条さんを呆れつつ諭そうとした僕は、ふとそこで思いついてしまった馬鹿な案に口を滑らせてしまった。
 一瞬で何かを悟ったらしい前条さんがぴたりと動きを止める。前髪の隙間から覗く瞳が浴室を確かめた。正確に言えば、浴室の広さを確認した。男二人で入っても問題ないかを正確に読み取っていた。
 や、やばい。察しが良すぎる! 気の迷いだったのに!

「ぼ、僕はぬいぐるみ洗ってますから、前条さんはその間に風呂入っててください」
「それは俺にとってどういうメリットがあるの?」
「いや、無いですけど、普通はメリットなんてなくても風呂には入りますから」
「ああ、ごめんな。俺普通でも真っ当でもまともでもないからさあ」

 何だか妙に冷えた響きだった。気づけば壁際に追い詰められている。頭一つ分差がある上に筋力差まであるので、追い詰められると逃げる方法が無い。
 瞳の奥に微かな苛立ちを滲ませた前条さんは、それでも僕と目が合うと蕩けるような笑みを浮かべた。心拍数が上がる。駄目だ、僕にはぬいぐるみを洗うという使命がある。僕はぬいぐるみを洗わなければならない。職務である。ケーキ食ってぬいぐるみ洗って日給二万である。そこに雇い主と風呂に入るなどという項目が追加されてはならない。

「けーちゃんは俺にどういうメリットを提示して風呂に入らせようと思ったの? 教えてよ」
「…………そっ、うですねえ……えっと…………好きな入浴剤とか買ってきます、けど?」

 畜生、良い匂いがする。真面目に風呂入っている僕よりも格段に良い匂いがする。混乱し始める脳味噌を何とか動かし良案を探そうともがく僕に、前条さんは面白そうに笑みを深めた。

「けーちゃんが選んでいいよ。何なら他のも全部選んでいい。そしたら俺からはけーちゃんの好きな匂いがするわけだ。ふーん。ちょっと良いかもな、苦し紛れにしてはポイント高いぜ」
「……………………………………」

 揶揄うように告げられた台詞に、僕の脳内は一気に『僕の好きな匂いがする前条さん』に振り切った。やめろ、帰ってこい。頼むから帰ってきてくれ。僕にはぬいぐるみを洗うという使命が。でも別にぬいぐるみを洗うのはいつでもできるし。おい待て。
 僕の顔色は顔面にでかでかと『僕の好きな匂いがする前条さんについて考えてます』と書いていたのだろう、楽しげに僕を見下ろしていた前条さんが肩を震わせて笑い始めた。
 笑いすぎて力が抜けてきたのか、右肩に寄りかかるようにして顔が埋められる。触れた瞬間に思い切り跳ねてしまった。ひしゃげた笑い声が聞こえる。
 そのまま暫く喉を鳴らして笑った前条さんは、笑いすぎて涙の滲んだ瞳を軽く拭うと、ごく優しい声で囁いた。

「心配しなくても一緒に入るだけで何もしないよ?」
「なっ、何もッ、とは!? 何を!?」
「逆に聞くけどけーちゃんは何をされると思ってたの?」

 悪戯めいた笑みに、握り締めたゴム手袋が苦しそうな悲鳴をあげた。
 何をされるか? さ、さあ。何をされると思っていたんでしょうか僕は。あっ、駄目だこれ、多分僕の顔には『なんかえっちなことをされると思っています』とでかでかと書いてあるに違いない。間違いない。絶対に書いてある。顔を隠すものが欲しいがゴム手袋は汚れているし何もない。距離が近いので隠したところで意味もない。

「けーちゃん、前より反応が過剰だけど、何かあった?」

 明らかに、絶対、確実に、分かっているだろう笑みが目の前にあった。腹が立つほど楽しげな笑みだった。実際に腹は立ったが、なんか違うもんもたっちゃいそうだったので落ち着くことに尽力した。

「ああ、違うな。聞き方が悪かった」

 壁際に追い詰められたまま細く深呼吸する僕の前で、前条さんは上機嫌に首を傾げた。

「何か聞いた?」

 舌が答えるまでもなく、『聞きました』と顔面が答えていた。馬鹿正直ここに極まれり。下手したら『月下部さんから聞きました』まで答えている可能性すらあった。
 これ以上口を滑らせる訳にはいかない、と下唇を噛む僕を喜色を滲ませた瞳が見下ろしている。細められた目がなぞるように視線を向けてくるたび、見透かされているかのような感覚に体が強張った。

「しおんちゃんが余計なこと言ったんだろ。俺が誰彼構わず股開いてるとか、一応相手は選んでんだけどな」
「い、いやそんな言い方はしてなかったですけど」
「じゃあどんな言い方?」
「……えっと、前条さんと、その、した人は、大体死んじゃう、とか」

 しどろもどろに答えた僕に、前条さんは一瞬面食らったような顔で言葉に詰まった。何度か瞬きした黒い瞳が興味深そうに僕を見下ろす。

「…………けーちゃんそれ聞いてその反応なの?」
「え?」

 その反応、とはどの反応でしょう。もしかして僕は既に反応していたのでしょうか。心配になってバレないように股間を見下ろした僕の耳は、ふーん、と何だか気の抜けた様子の呟きを聞いた。

「まあいいや。とりあえず誤解だけ解いておくと、俺としたから死んでるんじゃなくて俺が死にそうな相手を選んでるだけだからな。死ぬ奴は死ぬし、死なないやつは死なない。今にも死にそうな気分だった時に変な男に連れ込まれて精液搾取された記憶が何となく残るだけ」
「ど、どうしてそんなことを……?」
「そりゃ、普段はしないけど長期出張とか謙一に呼び出された時なんかは必要になってくるから。一応、此処も理由があってこんだけ暑いんだよ。対岸町の外に出ると殆ど無意味だし、下手すりゃ寒くて動けなくなるから致し方なく?」

 説明を求める箇所をどこに定めればいいのか分からなくなってしまった。放られた情報を唸りながら繋ぎ合わせる。
 前条さんは不特定の男の人から精液を搾取してる。精液を搾取。すごい文言だ。やめろ今はそこを考える時じゃない。とにかくそういうことをしている。何故かと言えば、遠出するときに寒くて動けなくなると困るから。つまり?

「……えーっと、前条さんは寒さを軽減するために……あー、えー、えっちなことをしている?」
「何その言い方、かわいいね」
「馬鹿にしないでください」
「してないよお」

 してるじゃないですか。今思いきり馬鹿にしたじゃないですか。畜生。ちくしょう!

「そうそう、前条さんは寒くてしょうがないからそれを誤魔化す為にえっちなことしてんの」

 細められた瞳が揶揄うように僕を見下ろしている。僕だって別に好きでこんな童貞みたいな反応してる訳じゃないんですよ、童貞じゃないですし。そうです、僕は童貞ではない。だからこんなことはどうってこと――、

「けーちゃんも俺とえっちなことしてくれる?」

 ――ない、と言えなかった。

 黒手袋の指先が僕のズボンのチャックを撫でていた。下から撫で上げ、チャックを弄ぶように指先で掻いている。
 もしかして今、地球の時間は止まっているのでは?と真剣に思った。真剣に思うほどの威力だった。少なくとも僕の時間は数秒止まっていた。
 ご丁寧にもぬいぐるみに触れていない方の手袋だった。それを判別するだけの冷静さは残っていたし、逆を言えばそんなことを判別している場合ではないと指摘してくれる冷静さは残っていなかった。

「ぜんっ、ぜっ、ぜぜぜぜぜっ、前条さん!? 何をなさっておられるので!?」
「うん? えっちなこと」
「耳元で囁かないでください!!」
「耳元で叫ばないでくださーい」

 けらけらと楽しそうに笑う声が耳を通って脳を侵食し思考を錆び付かせる。股間を撫でる指先が錆び付いた思考をそのまま砕きそうな勢いの威力を伝えてくる。駄目です、直接攻撃は卑怯すぎません!?
 どうしようどうしようどうしよう、どうすればいいんだろうか。別にこのままやっちゃってもよくないか、と思う僕もいないこともなくもなかったこともないような気がしなくもないが、よくなくないだったのでやっちゃってもいいということにはならなかった。何故なら。何故ならば。

「待って下さい前条さん!」
「なんだよ、焦らしプレイが好きなタイプ?」
「されるよりする方が好きです! そうではなく! あのですね! 聞いてください!」
「はいはい聞くよ」

 半泣きで主張した僕に、前条さんは手を止めることなく優しく答えた。声よりも手を優しくしてください。いや優しくてもしないでください。今すぐ手を止めろ。止めろっつってんだよ! 止まんなくなっちゃうだろ!

「僕は!! 今!! 職務中です!!」
「んー、まあ、そうとも言えるな」
「つまりこのまますると格安のデリヘルみたくなります!! なんかダメです!!」
「格安のデリヘル」
「あるいはハウスキーパーの業務内容に性行為が含まれるようなもんです。どちらにせよ僕の中ではアウトです。なんかダメです」

 呆けたように復唱した前条さんの指が止まった。これ幸いと若干押し退けるようにして距離を取った僕が真っ直ぐな目で主張すると前条さんは少し困ったように頬を掻いた。

「うーん、俺としてはなんもダメじゃないけど……けーちゃんがダメっていうなら、まあダメってことにしてもいいよ」

 あれっ、なんだろう。結構あっさり諦めてもらえた。
 何故だか若干残念な気持ちを抱えてしまって変な顔になった僕に、前条さんはにんまりと笑みを深めて言った。

「それなら、けーちゃんが遊びに来た時には『えっちなこと』してもいいんだな? 業務外なら、『なんかダメ』じゃないもんな?」
「…………………………………………まあ、そう、なります、ね」

 そうなっちゃいますね。僕が言いましたもんね。
 上手いこと反論することが出来ずに頷いてしまった僕に、前条さんはご満悦な様子で笑った。

「いつでも遊びに来てもいいよ、けーちゃんなら24時間大歓迎だから」
「遠ッ慮、して…………」

 おきます、と言えなかった僕の弱さを、僕は心底恨んだ。恨み倒した。どうしてそこで止まってしまうんだ。前条さんが爆笑してるじゃないか。悪かったですね馬鹿正直で。悪かったですね!
 コートが汚れるのも構わずにゴム手袋で殴りにかかった僕を軽くいなした前条さんは、丁度そこで風呂が沸いたと告げた機械音声に返事をしながらマフラーを取った。

 一緒に入りませんよ!?と脱衣所から逃げ出して主張する僕に、「今日は良いよ」と返ってくる。今日はって何だ。今日以外でも入らないですからね!?
 楽しかったから我慢してやる、次来るときは好きな香りのシャンプーでも買って来いよ、とほざいた前条さんはコートを脱ぎ捨て、セーターに手をかけたところで「服着たまま入るのってセーフ?」などと舐めたことを抜かした。アウトだよ。

 扉を閉めた僕の耳に、風呂場の暖房って実質ただの風だから何もあったかくない、と泣きごとが聞こえてくる。扉を閉めた音がすると同時に別の家事でもやろうかと思い立ったのだが、話し相手になってくれとねだられたのでぬいぐるみを洗いがてら前条さんの気晴らしに付き合うことにした。
 人形をつけておいた水が抜かれている。薄っすらと黒く染まっている洗面台を見ながら、終わったら台も洗わないとな、と溜息を吐いた。
 勿論、前条さんが僕に求める『話し相手』がただの話し相手でないのは明白だった。「俺ねえ、舐めるの上手いって言われるんだよ」などと言い始めた辺りで逃げ出せばよかったのだが、何故かそのまま最後まで付き合ってしまったのは、偏に僕が馬鹿だからである。
 ひたすらぬいぐるみを洗い倒すことで鉄の精神を保った。ぬいぐるみに頼っている時点で鉄の精神ではないし、洗いすぎたのかぺちゃんこになった人形に必死こいて綿を詰め、何度も頭を下げながら兎束さんに返却する羽目になったので軽く泣いた。




    了


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