対岸町のサーカステント

あきさき

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██の話 【6】

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 目が覚めた時には、浴槽は空になっていた。先程まで確かに黒い液体で満杯だったことを示すかのように、薄い汚れが残っている。だが、栓は抜けていなかった。
 あれがどこに行ったのか、私には分からなかった。分からなかったけれど、目覚めた私を覗き込む統二さんに何を言わなければならないのかは理解していた。私は昴であり昂だった。両者を繋ぐ『わたし』が何者か、その時の私には見当もつかなかった。
 横たわる身体を、統二さんが見下ろしている。バレる訳にはいかない。私は、昴でなければならない。彼はそのためにこんなことをしたのだから。

「おはよう、統二さん。ちょっと寒いわ」
「うん、ごめんね昴さん。もう一度お風呂に入ろうか」

 微笑んだ統二さんは、何の疑いもなく私を昴として受け入れた。相も変わらず、身体の方には目もくれなかったが。
 私の記憶を得た私の身体はしかし、変わることなく昂のままだった。上手くやらなければならない。統二さんの機嫌を損ねず、身体の違いなど些事だと思わせなければならない。完璧な前条昴を演じなければならない。生き延びるために。
 役目は無かったと言わんばかりに浴室に放られた鋸を視界の端に収めながら、私は自身の首をひっそりと指でなぞった。

 生活は一変した。寄生は同棲になった。温かい食事と清潔な衣類、安眠できる寝具。天国のようだった。私は天国に監禁されている。
 それを幸せだと思えるほどに自我が消えていればよかったのに、私の中にははっきりと昂が居た。昂がいる、というより、昴がいない、という方が正しい。私は昴を演じているのだ。その時点で、私は昴でない。昴にはならなかった。
 この生活は長くは続かないだろう。漠然とした不安は、五年が経ち、十二歳になって声変わりという形で姿を表し始めた。成長は致命的だった。生来の癖毛はまだ何とか誤魔化せた。でも、男性として成長していく身体はどうしようもない。いずれは違和感が勝る。そうなった時、私がどうなるかなんて、少し考えればすぐに分かった。

 鏡の前に、青ざめた少女が立っている。少女にしか見えない十二歳。では十四歳は? 十六は? その先は?
 身体はしばらく保つだろう。だが、声だけはどうにも出来ない。筆談はもっとダメだ。母はその身にそぐう美しい字を書くが、私の悪筆ぶりと来たら酷いものだった。どれだけ矯正しても治らない。母の字に似せるなんて、百年かかってもできそうにない。
 気づいたら泣いていた。字が下手で泣くなんて馬鹿みたいだった。でもそれだけ絶望的な事実だった。

 歯を食いしばる。幸いにも、顔だけは依然恐ろしいほど母に似ていた。記憶には母の笑顔がある。模倣は完璧だった。

 毎日を恐怖の中で過ごした。薄氷を踏むように日々を重ね、『理想的な夫婦』を続けた。
 十三歳、十四歳、十五歳。美貌は損なわれるどころか、凄絶さを増した。
 十五を迎えた頃、統二さんは照れくさそうに紙袋を差し出してきた。中には、黒いセーラー服が入っていた。黒字に赤。記憶があるので分かる。神楽坂高校。二人の出身校の制服だった。

「ごめん、捨ててって言われたのに取っておいたんだ」

 曖昧に笑う。受け取り、袖を通すと、統二さんは満足そうな息を零した。
 スカーフの位置を調節し、振り返って微笑む。声は確実に低くなっていたが、その違和すら相貌の前に掻き消された。

「また、向日葵畑に行きたいわ」
「うん、必ず」

 頬を染めた統二さんの口づけを受け入れる。彼はもう、ここにいるのが前条昴だと信じて疑いもしなかった。もう少し。もう少しで、外に出られる。
 身体の変化は止めようもなかったが、私には『前条昴』として積み上げてきたこれまでの生活は、その変化を踏まえても尚、信頼に足る年数だった。

 そして、十六歳。私に運命の日がやってくる。


    ◇




 前条さんから聞かされたと言う話を、淡々と淀みなく語っていた謙一さんの口が、ゆっくりと閉じた。茶に口をつけた謙一さんが、気遣うような視線を僕に向けてくる。

「……顔色が悪いな。一旦、此処までにしようか」

 もう昼時だ、と壁にかかった時計に目をやった謙一さんに、僕はゆるゆると首を振った。

「少し休んだ方がいい。食事の用意をさせるよ」
「…………すみません。多分、休んだ後でも、その話の続きを聞くことは出来ないと思います」

 謙一さんの瞳に冷めた色が浮かぶのを見て、僕は慌てて言葉を付け足した。
 客観的な立場から語り直されたものだったが、それでも充分、前条さんが何をされて、どれだけ恐怖して、苦しんだかは伝わった。これ以上聞きたくない、という気持ちすら浮かんだが、僕が聞けないのはそれが理由ではない。

「あの、僕、入場料に何を持っていかれたのかわからないんですけど、サーカスに行った時のことを人から聞くと忘れちゃうんです。多分……その話の続き、前条さんはサーカスに行くんですよね? だったら、もしかしたら、今の話も忘れてしまうかもしれません、どこまで忘れるのかも分からなくて、だから……その、忘れたくないので、聞けません」

 僕の言葉に、謙一さんはゆっくりと一度瞬いた。

「……成る程。君は思い出さなければならないんだな」
「多分、そうです。そもそも、思い出せるのか、分かんないんですけど」

 頬を掻く僕に、謙一さんは白い糸の束を一つ引きながら、力が抜けたように吐息を零した。

「恐らく可能だろう。それは昂の身体が証明している。サーカスによる欠損を外部の物で補うことは不可能――大抵、故障や拒絶反応が起こるが、あの子の体は心臓を失くして尚生きている。それは、サーカスが昂の身体に巡る異形を昂自身だと判別しているからだ。サーカスは、入場料を自力で補完する分には文句は言わないつもりのようだな」

 僕に聞かせる、というより一人納得するために紡がれたような言葉だった。何度か頷いた謙一さんは、一旦話を切り上げるつもりなのか現れた使用人さんに食事の用意を頼んだ。

「……謙一さんは、あのサーカスが何なのか、知ってるんですか?」
「いや? 私が知っているのはアレがどういう働きをしてきたか、ということだけだ。アレそのものが何かなど、私程度には理解できない。だが、強いて言うのなら、『隠しきれないもの』だろうな」
「隠しきれないもの?」

 聞き慣れない言い回しに首を傾げる僕を見て、謙一さんは説明に悩むのか暫しの間を置いた。

「君は、オカルトの語源を知っているか? 『隠された』という意味のラテン語のoccultusが由来とされている。人目に触れぬように隠された禁忌、目には見えない超常の物を指してオカルトなどと呼ぶが、何も隠しているのは人の手ばかりではない」

 滔々と述べられた言葉を飲み込もうと、脳内で謙一さんの声を反芻する。

「世界が、超常を隠そうとする。人目につき、力を蓄えようと動く物を抑えつけるんだ。免疫反応に近いとも言える。『超常』という異常を、世界は出来る限り治そうと試みる。衆人監視の前では働かない超能力、痕跡だけを残すUFO、万人には見えない霊現象、目撃証言だけのUMA……その全てが、この世に顕れようと藻掻き、世界に抑圧されてきた物だ。無論、私達のような存在も、それらと何ら変わらない。人目につきすぎた超常の存在は、世界に目をつけられて消えるんだ。十年ほど前にも、居ただろう。一世を風靡し、急死した超能力者が」
「謙一さん、こいつ十ニ年前の話とか分かんないっすよ。七歳とかなんで」

 ひらりと片手を振った月下部さんが口を挟む。指摘どおり、その頃テレビで何が流行っていたかなんて覚えていなかったので控えめに頷いておいた。好きだった仮面ライダーしか覚えていない。

「…………ふむ、そうか。神楽坂神之介という超能力者が居てな。あれは正真正銘本物だったんだが、頑なにメディアの前では自身を超能力者とは自称しなかった。だが、手元を完全に映し出す状態で能力を使い、成功したひと月後に急死した。要するに、世界は目立ちすぎた異能は全て排除にかかる訳だ。
 サーカスの話に戻ろうか。あの、街中に堂々と居座り続ける超常の話だ。あれだけ人目につき、数多くの人間の意識に存在するにも関わらず世界から隠されることもない――隠しきれない、現象。アレは完全に世界と拮抗している。埒外の存在だよ」

 対岸町の人々を思い出した。街中にサーカスのテントが在ることを認識していながら、疑問には思わない人々。ああ、あるねえ、と世間話で終わらせ、ふっと意識の外に置いてしまう。
 それは恐らく、サーカスを隠そうとする世界の働きなのだろう。存在し続けるテントを消すのが叶わないのなら、認識を歪めるしかない。そして、サーカスに深く関わった者はその歪みの外に出る。

「五十年間見てきたが、結局アレの目的も存在意義も分からなかった。客を招いてサーカスを開き、入場料を徴収して閉じる。その繰り返しだ。もしかすると、それそのものが目的なのかもしれない。だから、アレが何かと聞かれれば、私には『隠しきれないもの』としか答えられない」

 謙一さんはそこで一度口を噤み、そっと、微かに震える唇を開いた。

「……だが、私は一度だけ、彼奴がアレの中から出てきたのを見たことがある」
「アイツ?」

 怒りとも怯えともつかない声で呟かれたそれに首を傾げると、謙一さんは小さく苦笑した。

「この話は、食事の後にしようか」

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