対岸町のサーカステント

あきさき

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██の話 【10】

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 瞼の向こうから蛍光灯の明かりを感じる。深く沈み込んだ意識がゆっくりと浮上し、感覚を取り戻していった僕の耳に、必死に呼びかける舌足らずな声が届いた。

『けちゃ! けちゃ! おきて おきないと やばだよ! けちゃ! しんだ? しんだ……』
「死んでねえよ! 勝手に殺すな!」

 飛び起きる。僕の腹の上に乗ってぽすんぽすんと跳ねていた司は、僕が起きたのを確かめると嬉しそうに体当たりをかましてきた。

『けちゃ いきてた びくりした つかさ ぜんぶ もらちゃた こわい』
「ああ、僕も怖かった。……でも、そのおかげで思い出したよ」

 ぶるぶると震えていた司が、動きを止めた。僕を見上げる表情豊かなアルカイックスマイルを、優しく撫でる。司となった地蔵は完全に喋り始めていたが、今はそんなことはどうでもよかった。
 夢の中で見た光景は、確かに僕の胸に残っている。優しく、切なげに微笑む少女のことも。少女っていうか、少女ではないけど。それもどうでもいい。
 ソファに横たわる前条さんに視線を向ける。触れるだけで泣いてしまいそうだった。鼻を啜りながらソファの脇に膝をつく。前条さん。アンタ、なんであんなアホ好きになったんですか。どっから見ても好きになる要素ないでしょ。なんで、あんなアホを、こんなアホを、十年も待って、好きで居続けたんですか。馬鹿なんじゃないですか。畜生。馬鹿。
 何か言ってやりたい、と思ったのに、何も出てこなかった。そもそも、甦った記憶の消化すら済んでいない。嗚咽も、記憶も、上手く飲み込めない。
 溢れ出る涙を拭って、眠り続ける前条さんの頬を撫でた瞬間――――視線がかち合った。

 黒い瞳が、真っ直ぐに僕を見つめている。びくりと肩を強張らせた僕の耳に、冷えた声が響いた。

「来る」

 昏睡状態から目覚めたばかりだとは思えないほど明確に発声した前条さんは、片手で僕を庇うようにして胸の中へと抱え込んだ。コートの胸元に鼻先がぶつかるのと同時に、ばつん、と何かが千切れたような音がする。
 部屋の温度が、一気に下がった。
 地獄のように暑い室温が、外気温を飛び越して凍えるような温度へと変わる。頭上で舌打ちが響いた。

『わあ やば やばば やば こわ こわひ』
「あ? お前、いつ喋れるようになったの? 新機能?」

 転げるようにして足元に纏わりついてきた地蔵を見下ろして、前条さんが不思議そうに首を傾げた。リフティングの要領で蹴り上げた地蔵が、僕の腕の中に押し付けられる。慌てて抱え込んだ。

「けーちゃん、今日何日?」
「えっ、三十日――いえ、十月一日です!」

 スマホの日付を見て、慌てて訂正した。僕の記憶では三十日だった筈だが、どうやら地蔵に名を与えて記憶の波に溺れている間に一日経っていたらしい。よく脱水症状にならなかったな。
 喉が乾いた、などと言っている余裕もない程冷えた空気の中で必死に前条さんにしがみつく。何故かそうしていなければならない気がした。

「ふーん、とりあえずしおんちゃん状態は免れたか。けーちゃんも無事みたいだしね」

 よしよし、と頭を撫でてくる黒手袋に、きつく唇を噛みしめる。堪えていないと勝手に涙が出てきそうだった。思い出したって、早く言いたい。そんな場合じゃないんだけど。
 氷点下を割っているんじゃないかと思うような室温の事務所の扉を、何者かがこじ開けようとしていた。金属を掻く音。殴打音。ドアノブが喧しく騒ぎ立て、数秒もしない内にへし折られる。
 丸く空いた穴から入り込んできた腕が、瞬く間に扉をひしゃげた鉄板へと変えた。

 凄まじい物音を立てて外された扉に、つい目を向けてしまう。そこに立っていたのは、異形の化け物だった。
 人の頭部を携えた胴体から、八本の長い腕が伸びている。人間の腕を間延びさせたような白い腕。人体を使って蜘蛛を作ったら、丁度こんな形をとるのではないだろうか。
 ぺたり、ぺたりと、八つの手のひらが床を踏みしめる。八本足の付け根、ぶら下がった胴体の上で穏やかに微笑む顔が、素直に気持ち悪かった。見ているだけで吐き気を催す、そういう生き物だ。

「――――昴さん、迎えに来たよ」

 一回転した首が狙いを定めるように前条さんへと視線を向けた。ひ、と息を呑んだ僕の頭を前条さんの手が再度撫でる。撫でてる場合じゃないでしょう。嬉しいけど、嬉しいですけど! 撫でてる場合じゃないから!

「昴さん、帰ろう。どこを探しても居ないから、心配してたんだよ、僕と一緒に行こう、今度こそ、二人で、永遠に」

 錆びれた機械音に似た声で紡がれた言葉に、前条さんは酷薄な笑みを浮かべた。くつくつと喉が鳴る。はっきりとした嘲りを含んだ笑い声を響かせた前条さんは、べろりと舌を出して笑った。

「やなこった」

 ブーツの底が床を蹴る。鉄板入りの踵を叩きつけるように蹴りをねじ込んだ前条さんに、異形の蜘蛛は事務所の外へと弾き飛ばされた。
 放られた僕がソファに座り込むより早く、前条さんが二撃目を叩き込む。廊下へ飛ばされた蜘蛛が宙へと浮いた。地蔵を抱えたまま、慌てて後を追う。
 唸り声に、昴さん、と泣き声じみた悲鳴が混じって響いた。白い腕が、前条さんの足を捕まえようと伸びる。コートの裾から伸びた黒い鉤爪が、それを払うのを見た。笑い声。
 振り払われた蜘蛛はバランスを崩し、手すりの外へと落下する。前条さんは迷うこと無くそれを追った。無論、手すりを飛び越えて。

「ちょっ、待ッ、ここ四階ですけど!?」
『ぽんぽい!!』

 司も驚いたのか素っ頓狂な声を上げる。手すりから階下を見下ろした僕の目には、血にへばりついた蜘蛛の胴体目掛けて着地する前条さんが見えた。見たところ無傷だ。ほっとするような、ぞっとするような、何とも言えない気持ちになる。
 地蔵と共に階段を駆け下りる。この前もこんな感じだったな、と思いつつ幾つか段を飛ばして降り切った。

「まさか、本気で昴が残ってるだなんて思ってないよな? いい加減認めろよ、アンタは失敗したんだ。愛する妻をカミサマなんかと潰し合わせて、生き返らせた気になって、結局あの世ですら会えなくなったんだろ? だから残骸の俺にわざわざ泣きつきに来た。全く、馬鹿らしい話だよな」

 足を千切られた虫が転がっていた。為す術もない。何もさせてもらえず、ただ死を待つだけの虫がそこに居た。
 昴さん、と泣き声を上げるそれを、前条さんは歪んだ笑みを浮かべて見下ろしていた。黒いブーツの踵が、蜘蛛の頭を繰り返し踏みつけていた。拮抗どころの話じゃない。完全に圧倒している。
 胃が締め付けられるような恐怖を覚える対象を、いともたやすく屠る存在。恐ろしくない、と言えば嘘になるが、それでも、僕は、この人を好きになってしまった。
 震える足を叱咤して、歩み寄る。

「アンタ、まさか人間が死ぬってことを忘れてたんじゃないか? 馬鹿だよなあ、その点俺はちゃーんと準備したぜ。けーちゃんは死んでも一緒だ、ずっと一緒。きちんとアンタの失敗から学んだんだよ、偉いだろ?」

 嘲笑い、罵声を浴びせながら、前条さんは『父親』を踏み躙り続けた。やめさせなければ、と思った。二度も父親を殺す必要なんて無い。
 こんなやつ、前条さんがわざわざ手を下すような相手じゃないんだ。微塵も存在を認めてくれない人間を相手に心を砕く必要なんて無い。

「前条さん」

 足は止まらない。

「今更のこのこ現れやがって、素直に死んどきゃいいものをさ。残念だけどお前は絶対に昴には会えない。昴はお前のことなんてもう愛してない、ただ俺を生かすためだけに存在してるんだよ、ああ、可哀想に、アンタがあんな真似したせいで、」

 踏みつける。

「前条さん!」

 踏みつける。

「何、けーちゃん。俺いま忙しいんだけど」

 言葉こそ返ってきたものの、蜘蛛の頭を踏みつける足は止まらなかった。顔の上半分が消えて尚、すばるさん、と呻く存在を、黒い瞳が忌々しげに睨みつけている。

「僕、思い出しました。全部」

 顎を砕こうと動いた足は、その場に力無く降りた。言葉もなく僕を見つめた前条さんが、ふらりと引き寄せられるように此方へ足を向ける。
 赤黒く染まった靴の跡が地面に並び、僕の前で止まった。呆然と見開かれた瞳が、僕を見下ろしている。
 十秒の沈黙。

「…………本当?」

 頼りない、迷子の子供のような声音だった。
 なんと返したらいいか迷い、ふと、ポケットに突っ込んだままのキーホルダーを取り出した。プテラノドン。前条さんの手を取り、その手にキーホルダーを乗せる。
 初めてこれを渡した時、僕はまだ『お嫁さん』がどういうものかすらよく分かっていなかった。好きな人が出来たらお嫁さんになってもらって、家族になって、そうすれば幸せになれるのだと教えられて、そういうものなんだと思っていた。
 本当に好きだったけれど、幸せにしたいと思ったけれど、それでもまだ、プロポーズはお遊びみたいなものだった。
 でも今は違う。今は、本気だ。本気で、僕がこの人を幸せにしたいと思う。もしも人じゃ無くなったって、幸せにしたい。それが僕の、本心からの気持ちだった。

「……僕のお嫁さんになって下さい」

 多分、いや、かなり、プロポーズの場としては最悪の状況だとは思った。崩折れた蜘蛛の屍骸、血塗れの道路、風呂に入ってない僕、ボロボロのキーホルダー、どれを取っても速攻でフラれておかしくない状況だ。
 だが、僕の言葉を受けた前条さんは手のひらのプテラノドンを見下ろすと、何とも嬉しそうに微笑んで言った。

「幸せにしてくれるなら、いいよ」




 その後、蜘蛛の屍骸は砂上の時と同じように溶け消えるようにして無くなった。殺した父親の前でプロポーズ。状況的にはかなり最悪の部類だが、まあ、バージンロードだって父親と歩くし、と納得した。することにした。
 さて。そういう訳で、僕――櫛宮慧一と前条昂はめでたく恋人になった。恋人を通り越して夫婦になった。新婚夫婦である。
 『は? 謙一と一文字違いじゃん……』とめちゃくちゃに萎えた顔をされたが、ラブラブ新婚夫婦である。となれば、やることは一つしか無い。
 そう、初夜だ。初夜しかあるまい。なんとしても初夜を迎えたい。たい、ということは、迎えられていない、ということだ。
「けーちゃん、今日は頑張れそう?」
「が、がん、がんばります……が、がんばれ! がんばれ僕の息子!」
 購入したベッドの上で正座で息子を励ます僕に、前条さんは一緒になってがんばれ♡をしてくれた。でも勃たなかった。なんていうか、感極まっていて勃たない。
 僕と前条さんが初夜を迎えるのは、まだもう少し先の話になりそうである。



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